2006年 2月 7日

さようなら「ストップフロン滋賀」

フロンガスによる環境破壊を防ごうと誕生した「ストップフロン滋賀」のさようならパーティが大津で開催さrれた。
1994年2月6日に生まれて12年の活動に一応の成果を達成したということで発展的解散ということである。全国に先駆けて廃棄された冷蔵庫からガス回収から始まり、オゾン層を守ろう全国大会の開催にはじまり温暖化防止、環境保全運動を展開してこられた。

この間事務局を担当されていた野口陽さんは、電器店を経営され、自らの職業を通じて自らができることから着手されてきたことに敬意を表する。

10年以上も前、地域づくりの会合でであったときにその熱い思いをお聞きし、この会にはいったものの、頻繁に送付されてきた情報を読むだけのメンバーであったが、2003年の冬に突然のご依頼で
オゾン層ってなんだろう」という絵本の版元を引き受けることとなった。

その時のチーフの竺さんが、サンライズに白羽の矢を当てたらしいのであったが、メンバーはすでにサンライズの存在をご存知で、初めて知ったのが竺さんだけだったということで、すんなりと話が決まった。

このオゾン本は、萩由美子さんという素晴らしい能力の持ち主のパワーで、たちまちに増刷となり、滋賀県、静岡県、兵庫県の各小学校や中学校に贈呈され、英語を併記したことで海外のも広まっている。
国際人の萩さんならではの展開であるが、製作の段階でのメンバーの協力体制が堅いことに驚嘆されながらも楽しく仕事が進んだ。

ストップフロン滋賀の活動は全国の「ストップフロン」の中でも注目される目覚しい活動を展開し、フロン排出禁止の滋賀県条例を制定しているが滋賀での活動は一応の成果を見たことが今回の解散の理由で今後は全国の仲間とともに歩んでいこうという。

この日はオゾン層保護啓発の紙芝居が完成し披露され、先駆けて広中和歌子さんの地球宣言の講演もあった。

難しい問題ではあるがそれを楽しみながら考えよう、わかりやすく伝え、啓発するみなさんの姿勢が好ましい。顔をそろえた面々もみな楽しんだ。

講演いただいた広中先生には、鈴木靖将さんが、得意の美人画を贈呈。
紙芝居づくりに奔走したのが『ぼくたちの地蔵盆』など児童文学書でお世話になった西本育子さん。

初代会長を努めた宮川琴江さんは、12年の歩みのスライドを解説しながら感慨深げに歴史を語る。彼女は、かつて『スープはどこへ』でご支援いただいた。

今日も一人で走り回る萩さんの、本業のバイオリンの調べが静かに幕を閉じた。
少人数の催しにも係らず、参加された政治界の方が多かったことの驚いたと同時に、この人たち、次にはなにをするのか目が離せそうにないなと感じた。

今日の琵琶湖はひときわ美しく、対岸の様子が手にとるように見えていた。
みなさんの心も達成感が一杯で晴れ晴れしていたことであろう。

2006年 2月 1日

幻の「現代に生きる三方よし」

三方よし研究所の前身は滋賀県AKINDO委員会の実行組織であったAKINDO会議という若手経営者の組織であった。

いまから10数年前、当時の知事が、「近江商人の経営理念を滋賀県の産業おこし、まちづくりにいかそう」と設立された。
公が作る団体は、お歴々の名前を連ねた組織が作られるが、実際は事務局が事業の遂行を行い、資金の流れや決算に関する決議機関として全く形骸化していることが多い。このAKINDO委員会も設立当初はかなり熱意があり、時代も良かったこともあって、大きな予算で大きな事業の展開もあった。

しかしながら残念なことにようやく世間が近江商人の理念を見直す機運が生まれる頃には、「スクラップ&ビルド」という役所の意向が優先され、発展的解散という美名の下で終焉した。

当時、血気盛んに解散への異議を唱えた仲間とともに設立したのが、NPO法人三方よし研究所である。

行政の都合で終焉したものの、世間は近江商人の窓口として滋賀県庁に問い合わせがある。
電話交換嬢は事情が良く理解できないながらも、それでも的確に事業を引き継ぐ部署につなぐ。

ところが担当者は、おおむね3年ぐらいで転任するので、多少の引継ぎはあるものの、詳細な状況は知りえることはない。こうした状況の影響で、本日滋賀県商工観光政策課から、ある問い合わせがあった。

『現代に生きる三方よし』という書籍がほしいという問い合わせがあったのですが・・・・。

同様の内容の電話は,これまでにもなんどもあった。
この書籍のタイトル、われながら、時代を感じると自信があった書籍である。企業の社会的責任 CSRが注目される中、300年も前に「三方よし」といわれる企業の責任を感じていた近江商人の理念が今見直されているのでこうした引き合いがあるのは当然である。

しかし、この書籍は、市販されなかった。

AKINDO委員会の終焉記念として発行が企画されたが、私は、当然市販するべきだと思い、少し勇み足で、記念本の印刷と同時に市販本を制作した。

ところが滋賀県の合意を得ることが出来ず、印刷した書籍は全て廃棄処分したのであった。
確かに私の勇み足はあったが、設立当時の心意気がすっかりなくなっていた担当者の気持ちを転向させることはできなかったのであった。

公的な機関の事業は、多くが社会的に評価されるものであるが、いつしか当初の設立の思いが薄れることは残念である。担当者がかわっても、事業遂行が順調にすすむことに行政のシステムの優秀さを痛感しているが、情熱や熱意が継続して伝わっていないことが多い。

近江商人が最も懸念したのが創業の志を末代に伝えることであったと思っているだけにこの幻の書籍、未だに残念である。

三方よし研究所は小さな組織ではあるが、歯をくいしばっても初心を貫きたいと思う。

2006年 1月 8日

功名が辻本日より放映

長浜城歴史博物館は、休日が非常に少ない博物館である。
本年も1月3日より、大河ドラマ「功名が辻」特別企画展が開催。

本年は長浜を中心に北近江がドラマの舞台になることから11月28日まで展示内容を入れ替えながら、「一豊と秀吉が駆けた時代-夫人が支えた戦国史-」がテーマの大型企画となっている。

恒例となった図録がようやく暮の12月29日に完成。先ずは安堵。

本日は、北近江一豊・千代博覧会が開幕。長浜市とその周辺市町でも本格的なイベントが始まった。

「一豊・千代歴史館」の会場となる長浜城歴史博物館には、雪が降りしきる生憎の天気にも係らず、大勢の来館者があり熱気あふれていた。特設ミュージアムショップも設置され準備は万全である。

今回の図録は、企画・編集・執筆とまさに八面六臂の活躍で大半の原稿を館長補佐の太田浩司さんが執筆。それだけにできばえは上々、太田さんいわく「どこにもない大河関連本となった。」と自身満々。

ではあるが、ここにいたるまでは、いつにない焦りがあった。大河ドラマに功名が辻が決定と同時に、主役の太田さんは取材・講演・史料の問い合わせ等等、年末に近づくにつれ、その多忙はきわまり、本当に原稿を書く時間などない状態となっていた。さらには市町村合併に伴う事務作業のオマケまであり、

「もう瀕死の状況だ」と嘆く太田さんに
「いいですよ、まだ」と表面は、追い詰めないようにと笑みをたたえながらも、内心は引きつり、次第に焦ってきていた。原稿なしではなんともての打ちようがなかった。

ようやく原稿が揃ったのが12月19日。大特急で版を組み、校正、印刷、製本。
そして12月29日何とか完成。その間の関係者にはただただ感謝感謝である。

最後に登場した、この本、他の大河関連本とは一味もふた味も異なった内容となった。
太田さんのがんばりの成果といえる。

一般発売は今月中旬になるが、早くご覧になりたい向きには、どうぞ雪景色の長浜城歴史博物館までお運びいただければ入手いただける。

ドラマの総合監修者、小和田哲夫氏の「一豊・千代が生きた時代」の寄稿や、新進作家、畑裕子さんの「戦国三夫人物語」が本書を彩っている。豊富な史料と地元ならではの密度の高い内容の大河本である。ドラマの展開とは別に、主人公の真実に迫っていただきたい。

2005年 12月 18日

近江戦国の女たち

広告のおかげか北海道から「近江戦国の女たち」をご注文いただいた。
直接電話を受けたこともあり喜びもひとしお

今回の発行には著者の畑裕子さんには散々無理難題をお願いしたが、
畑さんは、そのたびに常に意欲的に取り組んでいただき、いい出来上がりと自負している。

畑さんとは『近江百人を歩く』の出版以降、親しくお付き合いさせていただくが、作品ごとに新鮮な作風がすばらしい。
今回はまた新たな境地をひらかれ、語り口調がとてもいい。
過日の発刊記念会でも、内容と寸分違わずの語りが好評であり、
お友達も立ちからから「女優デビュー」と冷やかされていたが、遺憾なく聡明ぶりを発揮されていた。

当然、中には一豊夫人「千代」さんも登場、来年の大河ドラマの裏話的な書籍となった。

ところが、本命の「秀吉と一豊が欠けた時代―夫人が支えた戦国史―」の制作が遅れている。
気ばかり焦る毎日である。放映までに間に合うだろうかどうかが気がかりである。

2005年 9月 21日

琵琶湖疏水よもやまばなし

琵琶湖に注ぐ河川は主なものだけでも124本、小さな川を加えるとどれだけあるかわからないが、周囲を山に囲まれた滋賀ではほとんどの川が琵琶湖に注ぐ。そして琵琶湖からそとに向かって流れるのが、瀬田川と琵琶湖疏水である。
瀬田川はともかくも、琵琶湖疏水は人工的につくられたもので、近代日本初の土木工事として疏水をテーマにした作品は多い。『野洲川物語』の著者、田村喜子さん『「インクライン物語』で土木工学文学賞を受賞、『隣地まちづくり学』の著者、織田直文さんも若い時代に『琵琶湖疏水』を著している。
当社で、はじめて疏水をテーマとした作品を発行することになった。

琵琶湖疏水の周辺の歴史や文化を学び楽しむ「びわ湖疏水とさざなみの会」が創立20周年を記念して『びわ湖疏水よもやまばなし』を発行することを企画された。
とはいうものの、底本は、かつての会の代表を務めた浅見素石さんの連載があった。

浅見素石さんは、幼稚園の頃、あめだまを食べた後、手にした棒を疏水に放り込んだとき、琵琶湖と反対の方向に流された棒の行方を不思議に感じておられたという。小さな頃からの疑問が今回に著作に結びついたのである。現在80歳を超えておられるので、半世紀以上も前の疑問から誕生したのである。浅見さんは、「疏水の歴史や工事については多くの作品があるので、疏水のまつわる周辺のことを書いてみました」とお話されている。
そのとおり、多岐にわたる周辺の四方山話が詰め込まれた楽しい原稿に仕上がった。ぎっくり腰に悩まされながらのご苦労がしのばれる筆跡である。創立のお祝いが10月23日に決まっていることから、大特急の仕事になる。それでも出来上がりが楽しみである。
多彩な浅見さんは一昨年には『近江の玩具』を発行、篆刻は玄人はだし、ご専門の衛生学のほか、いつぞや河童の研究もされていることをお聞きした。
今回の出版は、元会長の日本画家鈴木靖将さんも少しはお手伝いいただくことになろうが、装丁までもお引き受け頂いた浅見さんの博識、多彩ぶりが発揮される書籍になりそうである。

2005年 9月 19日

近江戦国の道リニューアル

朝から空模様が怪しかったが、思い切って湖北へ取材に出かけた。近江歴史回廊ガイドブックシリーズの第1作『近江戦国の道』の再取材のためである。
10年前、知識が乏しい中、かなり大変な思いで発行にこぎつけたことを思い出していた。しかし今日は、長浜城歴史博物館が発行した『北国街道と脇往還』という頼もしい相棒が同行するので、心強い限りである。本書は、旧街道を克明にたどる地図が満載、さらには親切な道標の案内があり、初めて訪問するところが多かったのも関わらず大変重宝し、スムーズな取材ができた。
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小谷城黒門跡付近

近江戦国の道は、シリーズ本の中でもダントツに人気があるが、発行後、10年を経過すると、周辺状況が変化し、また発掘調査によって新しい発見があるなどの理由で今回は、大幅に修正を加えることとした。今秋は、戦国の道に続いて『近江戦国の女性』『(仮題)功名が辻の舞台を歩く』が控える。

『近江戦国の女性』はいま、まさに旬の畑裕子さんが、連載作品に大幅にて筆を入れておられる。当社では2作目になるが、格段にさえた筆致が、彼女の新しい境地が生まれそうな気がして、大いに期待している。11月中旬、発行予定となっている。

畑裕子さんの『近江百人一首を歩く』は現在品切れになっています。
もうしわけありませんが、次回作をお楽しみください。

2005年 8月 27日

秀吉を支えた武将 田中吉政

田中.jpg 田中吉政画像

「功名が辻」放映関連本の第1作『秀吉を支えた武将 田中吉政』がようやく校了に近づいてきた。
一般にはあまり知られていないが、田中吉政は、秀吉の日本改造計画を推進し、『功名が辻』の主役「山内一豊」と同輩で、近世の扉を開いた一人といえる。

長浜城歴史博物館から始まり、愛知県岡崎市立美術博物館、福岡県柳川古文書館へと「田中吉政とその時代」と題する企画展が巡回する。

サブタイトルが「近畿・東海・九州をつなぐ戦国史」と名づけ、企画・編集には各館の学芸員のみなさんの熱い思いが詰め込まれた。さらに、この時代を語る第一人者の小和田哲男氏の寄稿が花を添える。

400年以上前に吉政がおこなった数々の土木事業は、それぞれの任地でいまや観光資源や暮らしの根幹を支えてい施設として今に生きている。
吉政は、秀吉が天下を掌握後、直ちに秀次の重臣として八幡の城下町の建設に着手し、いまや近江八幡の最大の観光スポットである八幡堀を開削している。地元にいながらまったくその業績を知らなかっただけに、この出版を機会に吉政に光が当たることを願う。

八幡での城下町建設が終わると、岡崎城主として矢作川の堤防や橋梁工事を行い、関が原合戦後には柳川32万余石の大名になった。ここでは、北原白秋のメロディーが流れる水郷や有明海の築堤工事を行った。とくに土木工事にその行政手腕を発揮した吉政であった。

戦国歴史ファンには、関が原合戦後、敗走する三成を捕らえた人物としてよく知られているという。戦国武将らしく、その面構えには、数々の勇壮な戦いの歴史を伝える傷が残る。まさに吉政らあっての秀吉と思えてきている。企画展は9月10日から長浜城歴史博物館で始まる。

かつて、吉政は、滋賀県高島市田中の出身とされてきたが、出身地はどうやら北近江らしい。詳細は読後のお楽しみとしよう。

『秀吉を支えた武将 田中吉政―近畿・東海・九州をつなぐ戦国史』は9月12日発売

2005年 8月 22日

ふるさとからの教育論

滋賀大学名誉教授の村田昇さんの『ふるさとからの教育論』出版記念講演会が行われた。

数年前に大病を患われ、80歳の高齢にもかかわらず、矍鑠とした講演は、2時間余にわたった。
多くの教え子に囲まれ、本当に満足そうな村田さんは幸せそのものであった。

研究の成果をまとめて上梓することは、並大抵の苦労ではないが、それだけに、出来上がったときの感動は執筆者にだけに与えられる喜びである。

主催者の予想を覆すぐらいに大勢の参加者をえた講演会場には、滋賀県教育界を支えていただいている先生方の熱気が渦巻いていた。

歴史教科書の選定にもかかわっておられる村田さんは、最後に教育の将来への危惧を話された。本日ご参集の先生方には果たしてどのように受け止めていただいていたことであろうか。

2005年 8月 8日

近江商人の末裔

江戸時代初頭、現在の彦根市と能登川町一帯から北海道に渡った近江の商人が多数いた。

彼らは、両浜商人と呼ばれ、松前藩の特権商人として藩の保護のもと、内地と当時の蝦夷地の経済発展に大きく寄与した。
宝暦8年(1758)には松前に31件、近江商人が特権商人に名を連ねていたが、天明6年(1786)には11件になり次第にその勢力は他国からの商人に委譲することとなっていった。

本日来社された大橋さんは、もっとも勢力を持っていた時代に松前で商いを行った大橋久右衛門(井筒屋)さんの末裔の方らしい。

夏休みを利用して神奈川から調査に来県されたのであった。

運よく、能登川ではなんらかの消息がつかめたらしく、誇らしげに一部始終を話される。
暑い中、歩きとおされたことを証明するかのように陽に焼けた顔がほころんでいた。

『近江商人と北前船』を購入いただき、その際のお問い合わせに、私がわかる範囲のご連絡を送付したことが契機で、大橋さんは、仕事の合間に自らのルーツ探しをはじめられたのであった。

「詳しい情報が大きな手がかりになりました」とお喜びいただき、恐縮したが、お役に立てたことは嬉しい。
退職後は本格的に調査を進めるとのこと、これからのご報告を楽しみに待ちたい。

近江商人の足跡は北海道に多く残り、特権商人の勢力が衰退した後に、積極的に漁場開拓を行った藤野喜兵衛や西川貞二郎がいる。

さらに北方領土探検家の近藤重蔵は、滋賀県高島で晩年を暮らした。
近藤重蔵の波乱の人生は『波濤―近藤重蔵と息子富蔵―』に詳しい

滋賀県と北方領土

2005年 8月 2日

12歳から学ぶ滋賀県の歴史

事務所のKさんの弾んだ声を聞くと、大量注文が舞い込んだことがわかる。いつも元気なkさんだが、電話の声のボリュームがことと次第でぐんと変わる。

「すごい、前の注文分がほとんど完売のようです。夏休みですから」
という声を残して発送の準備を始めた。

そうなんです。3月末に発売した『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』おかげさまで好調です。
当社としてはかなり無理をして単価を下げ、初版部数もいつになく大量となったので、売れなくては大変なのだが、販売状況は上昇機運。嬉しいことである。

編集を担当したK君。いい仕事をすることは皆が認めるが、何せ納得いくまでとことん調査する。
せっかちな私にとってはこの上もなく精神的につらい日々が続くが、出来上がってゆっくりと読むと、いつも納得できる内容に仕上がっている。

出版を始めた当初、やはり大きな迷いがあった。そして2足のわらじを脱ぎ捨てる勇気がなかった。
しかし、ようやくサンライズの本が目指す方向がはっきりしてきた。

『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』が誕生するまでには、多くの問題をかかえながらすすめてきたが、販売が堅調なことは、苦労も吹き飛んでしまう

Kさんの元気とK君のこだわりが次第に社内に広がりつつある。誠に頼もしことである。

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