2016年 7月 4日

武将といえば石田三成

発信力に乏しい、素材を生かし切れていないなどと、これまで滋賀県は情報発信力がうまくないといわれてきた。ところが本年3月から県がユーチューブで配信している武将コマーシャル「石田三成」には100万回ビューという驚異的な人気が集まっている。意を強くした滋賀県は、たちまち第2弾を制作し、これもさらなる人気を集めているという。

これまで、石田三成ゆかりの長浜・米原・彦根の3市が三成の魅力を全国に発信しようと、情報誌「MEET三成」やFB「三成会議」で全国の三成ゆかりの地に参加を呼び掛けてきた。そして昨年春には、地元観光業者の協力で三成のイラストをラッピングした「三成タクシー」の運行も始まっている。
このタクシー乗務員は特別な講義を受け、一定水準の基礎知識を持ったことが条件という厳しい資格試験があり、向学心いっぱいの利用者の満足を売ることに腐心していると聞く。
 
世界初の武将の宣伝という触れ込みで始まった第1弾のCMは昭和の雰囲気が漂いながら「武将といえば石田三成」の連呼に終始していたのだが、第2弾では、三成の実績についても詳しく紹介している。これまで、石田三成について論じた著作は実に多いが、ほとんどが、江戸時代、徳川によって作られた三成の悪人説を払拭するべくものであり、三成を「忠義の臣」としてとらえている。

ところが、こうした三成論に異を唱えるのが長浜城歴史博物館館長の太田浩司(ひろし)さんで、著書『近江が生んだ知将 石田三成』には「私は彼を『忠義の臣』として捉えるるのは、正しくないと思っている。(中略)三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確な方針をもっていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が『忠義』という二文字だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない」とし、「三成は戦国という世が持っていた社会構造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい」と述べられる。そして著書では、とくに三成が目指した改革とその精神に言及されている。

武将CMの制作者が本書を参考にしたかどうかは承知していないが、東軍メガネをはずして三成を見ようではないかと訴えているのは、大変うれしい。CMでは、江戸時代に作られた「ずるい、つめたい かたい」イメージではなく「やさしい かしこい あったかい」が見えるでしょうと迫る。構成は現代的な訴え方であるが、戦国武将のイメージ戦略を追求している。判官びいきではなく、三成の実績を真正面に取り組んでいるのは特別なファンならずとも痛快である。

三成人気は圧倒的に女性が支えており、関連イベントも女性の来場者が多い。地元佐和山城研究会の田附(たづけ)清子(すがこ)さんは、三成命というべき信奉者で、永年三成を追い続け、多くの関連著作を持つが、大河ドラマ「真田丸」に三成が登場してくると「私だけの三成がいよいよみんなの三成になる」とつぶやく。

一方、作家の松本匡代さんは三成と大谷吉継の友情を『石田三成の青春』として上梓。カバーイラストは漫画家もとむらえりさんが描いた。三成タクシーの利用者の多くが女性だとも聞く。一過性のブームに終わることなく、三成が求め続けてきた社会構造改革の意思を、現代に即した手法で引き継ぎたいものである。
(2016年4月19日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2016年 6月 30日

鳥居本のさんあか

京都の人にとっては鳥居本と聞くと嵯峨鳥居本を連想されるかと思うが、今回は旧中山道の鳥居本宿の話題である。

桜の花が散り始めたある日、突然テレビ編集プロダクションの方が来社された。「あのう、『鳥居本のさんあか』ってご存知ですか?」と訊ねられた。東京から来られたとのこと、かなり地域限定の言葉だけに、「どうしてそんなこと知っているの」と不思議になって問い返したところ、中山道に関する企画を考えている中で、鳥居本お宝発見隊のブログに掲載されていた「鳥居本のさんあか」が引っ掛かったとのことだった。

取材もかねて鳥居本に来たのだが、詳細がつかめなく、出会う人もなく困惑していたところに出版社があったので、ヒントをつかもうと飛び込んで来られたのだ。幸いにも私がその発信元である「鳥居本お宝発見隊」に所属していたのが彼女にとっては幸運であり、企画の全容をつかむことができた。そして、ついでながら私が案内役として番組に出演することになった。打ち合わせが進み、収録当日、落語家の林家三平さんと女優の村井美樹さんが鳥居本宿にやってきた。

目指すは「さんあか」の正体。まずは「近江名所図会」にも登場する赤玉神教丸を製造する有川家を訪問。有川智子さんが登場し、「赤玉神教丸は元治元年(1658)に多賀大社の神様の教えで調製したと伝わる整腸薬で、今も大変な人気があるのですよ」と、重要文化財の指定を受け、明治天皇が北国巡幸の際に休憩された玉座が残る建物の中で紹介されると当然、筆頭のあかの謎が解決する。

そして、合羽屋だった我が家に来られた。なぜ合羽が赤いのかということの説明をする。その昔、大阪で修業を積んだ馬場弥五郎という人が、防水、防湿に効果のある柿渋を塗布した合羽製造をこの地域で推奨したことから鳥居本で赤い合羽の製造が広まり、雨の多い木曽路に向かう旅人が鳥居本宿で買い求めたと話した。さらに、関東や東北に向かった近江商人が旅の途中に買い求めたのであろうか、北関東や東北の商家で鳥居本産の合羽を見たことがある。と続けた。残念ながら、ビニールなどの化学資材の登場で戦後まもなく鳥居合羽は役目を終えたが、街道沿いに残る看板が往時の面影を残している。

三平さんと村井さんは、保存してある合羽を身にまとい、すっかり旅人気分になったところで、ふたつの赤は見つかった。いよいよ3つ目の赤は何だということになった。
残念ながらこれも今となってはほとんど痕跡がない。この地域は中世以来の古道がとおり、街道と山に挟まれ農地が少ない中山間地である。こうした条件の中で栽培に適したものを模索している中で浮上したのが、スイカであったという。旧鳥居本村の資料にこの経緯は残り、さらにスイカ栽培の副産物として「スイカ糖」が作られ販売していた印刷物が存在する。まさに幻だが、さんあかの一つに加えたのであった。

地域のお宝を探していた「鳥居本お宝発見隊」が見つけ出した地域ブランドは、予想以上に人気が集まり、地元中学生が「さんあかレンジャー」というキャラクターを作成し、今ではすっかり、まちの元気発信のシンボルとなっている。ブログの情報が、マスメディアに登場し、大きな効果ではないかもしれないが、まちの皆が輝くことはうれしい。小さな情報発信の波紋の広がりを身にしみて感じたできごとであった。(2016年6月29日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2016年 3月 5日

おうみ学術出版会

 2015年の暮れも押し詰まった12月25日、彦根市の滋賀大学本部で、おうみ学術出版会の調印式が行われた。
滋賀大学と滋賀県立大学とサンライズ出版が「おうみの地ならではの学術研究の成果を、わかりやすい表現の学術書として世に広め、大学と地域内外との対話を深め、近江の知の拠点形成に資する」ことを目的に、おうみ学術出版会を設立した。
全国に大学出版会は50ぐらいがあるようだが、滋賀県内にはこれまで、大学独自の出版会はなかった。
とはいえ、学外の人々の購読を目的とする書籍の出版が皆無ではなく、成安造形大学附属近江学研究所の『近江学』や、滋賀県立大学の「環境ブックレットシリーズ」は、根強いファンがあり健闘している。

『近江学』は成安造形大学の研究紀要として創刊されたが、今では毎年テーマを決めて、学外の研究者や写真家、学生も参加して、ビジュアル中心の上品な刊行物になっている。やがて近江の様々な事象に焦点をあてた美術図鑑になるのではないかと期待している。

一方、滋賀県立大学のブックレットは、開学の精神である、環境教育や環境研究におけるフィールドワークの重要性を教員と学生が現場での経験を共有しつつ対話を通して学ぶという形式がブックレットにも反映されている。いずれも教員や学生だけを対象にせず、広く一般市民に向けた刊行物である。

このような動きの中で、滋賀大学からは、市民に向けた刊行物は少なかった。こうした事態解消のためでもあろうが、出版会設立は滋賀大学中期計画に組み入れられ、創設にいたるまでの4年の年月を費やし準備を進めてこられた。
書籍の販売高はここ20年間、ずっと右肩下がりで、状況は非常に厳しいが、大学の存亡もまた同様の厳しさがあり、自らが有する研究の成果を広く発信する事に腐心されているのである。

おうみ学術出版会は、滋賀大学と滋賀県立大学がともに手を携え、専門分野に閉じこもりがちな従来の学術出版とは異なる新たな領域を拓いて若い才能も支援したい、との熱き志にあふれている。そして、本出版会の創刊冊として『江戸時代 近江の商いと暮らし―湖国の歴史資料を読む―』が、3月内に刊行予定となっている。
本書は、滋賀大学経済学部附属史料館館長の宇佐美英機氏の指導を受けた研究者それぞれが、本史料館をはじめとする県内の歴史資料を読み解く。
17万余点の古文書を収蔵する本史料館は、歴史資料の散逸を防ぎ、研究・教育に活用することを目的に1935年、近江商人研究室として設置されたことに始まり、ここには、いずれもが重要文化財の菅浦文書、今堀日吉神社文書、大島・奥津嶋神社文書をはじめ、多くの近江商人関連文書や区有文書、第百三十三国立銀行(現滋賀銀行)帳簿など、中世から近現代にいたる重要史料の宝庫である。
史料館の存在が彦根の大学への赴任の動機となったと話されていた研究者もあったぐらいその存在は大きい。こうした史資料を基により広く研究成果を世に問い、滋賀には滋賀大学あり、滋賀県立大学ありとその存在を高らかに知らしめ、一層光り輝く地域文化発信のお手伝いができることを願う。
(2016年3月4日京都新聞夕刊「現代のことばより」

2016年 1月 10日

ガリ版と孔版画

元旦の朝、各戸に届く年賀状は新年の大きな楽しみの一つである。年々正月らしさが少なくなった中、良き風習だと思っている。近年は、メール配信で年始の挨拶をすます人も多く、お年玉つき年賀はがきの発行数はこのところ減少し、さらに年賀状印刷を取り巻く環境も刻々と変化している。一昨年頃までは、コンビニの店頭に「年賀状印刷承ります」のポップが賑やかだったが、昨年は、年末の商材はおでんに代わっている。かつて、写真入り年賀状や、自分で作る「プリントゴッコ」の隆盛期があり、その時期のテレビコマーシャルは年賀状印刷のオンパレードという状況でもあったが、今や業者も個人もほとんどの年賀状印刷はデジタルプリントが主流となった。
わが社の創業は1930年、当時から干支を配したデザインを考案し、デザイン集の販売や年賀状印刷を受注し、積極的に年賀状に取り組んでいた。50年代、印刷を受注する業者の多くが活版印刷所であったが、全国的には謄写印刷で色刷りの年賀状づくりに意欲を持つ人は多く、印刷機材業の昭和謄写堂(現ショーワ)の主導で年賀状交換会が10年余継続開催され技術を競ったものである。参加した作品は、木版画ではなく独特の風合いがあり、すべて謄写印刷で作られた「孔版画(こうはんが)」に限定していた。
謄写印刷は、紙に蝋を引いて加工した原紙に文字や絵を鉄筆で蝋をこそげ取り、その穴からインキがにじみ出て用紙に転写する印刷で、一般的には「ガリ版」といい、年配の人なら、学校や事業所などで一度は経験のある手動式の印刷方式である。この原理から誕生した「プリントゴッコ」が、一時、年賀状作りに威力を発揮していた。
少しややこしいが、謄写印刷で作品をつくる人は「ガリ版」という言葉を好まない。しかし一般には「ガリ版」が通じやすい。謄写印刷は、1895年に滋賀県蒲生町岡本(現東近江市)出身の堀井新治郎親子が発明し、大量に同じ文章が複製できる印刷機を「謄写版」と命名し、明治期の事務作業効率化の躍如した一大革命であった。 
堀井親子の旧宅は、現在「ガリ版伝承館」として公開され、毎年11月に限って各地の孔版作家の作品展が開催される。見学に訪れた人々は、一様に独特な温かみを感じる多色刷りの孔版画に驚く。謄写印刷を取りまく環境は今や風前の灯で、すでに機材や資材の供給もままならない状況になっている。
ところが、今になってこれらの作品が注目されてきている。版画作品を収集する和歌山県立近代美術館ではガリ版をアートととらまえ、2013年に開催された「謄写版の冒険」展では、おそらくこれまでになかった規模での謄写版、孔版画の企画展が開催され大きな波紋が広がった。コピー機の登場、パソコン全盛期になって改めて手作りの孔版画が注目されてきたのである。
謄写印刷で作られた手作りパンの包装紙に人気が集り、京都精華大学では学生が孔版画の作品作りを進めていると聞く。昨年、『ガリ版ものがたり』著者、志村章子さんの講演会が東近江市で開催され、全国から孔版画に興味のある人が相当数集まった。この時、資材供給を検討するような機運が出てきたことは喜ばしい。発祥地で「ガリ版伝承館」を守る「ガリ版ネットワーク」の運営は厳しいが、消えゆきそうな文化に何か明るい兆しを感じたのである。(2016年1月7日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2015年 12月 26日

近江と淡梅

 2015年2月、滋賀県議会で、滋賀県を「近江県」に変更すればいかがかという提案があった。そしてこの提案に対して、三日月大造知事が「議論を深めるのは、県のアイデンティティを見つめなおすきっかけになり、対外的な発信につながる」と理解を示したことから、県名変更への関心が高まってきた。
「地域ブランド戦略サーベイ2013」によると、全国的に滋賀県の認知度は37位だったが、37番目には、岩手県、秋田県、千葉県、栃木県などが並んでいて結果、最下位だというのである。
県議会では「近江商人」「近江牛」「近江米」などと世間的に知られる「近江」を冠した県名変更の提案であったが、「若い人は近江を『ちかえ』と読むかもしれない、やっぱ象徴的な『琵琶湖県』でしょう」という意見も浮上している。一方では、変更必要なしとする声も少なくはない。そして提案を受けてかどうかは知らないが、本年度の県民意識調査では、「県名変更」に関する設問があると聞く。そのアンケート結果はまもなく公表されるので結果が楽しみだ。
県名変更の議論は、平成22年の県民アンケートでも問われたが78%が「変更必要なし」と回答しており、平成2年には「琵琶県」への変更提案もあった。この時、当時の稲葉稔知事は「『滋賀』が環境先進県の代名詞として認められるようにしたい」と変更する考えがないと応えた。
ところがこの稲葉知事は、施策の中心に「新しい淡海文化の創造」を据えられた。近江という国名は、大宝令制定の頃から使われ、「古事記」では「近淡海(ちかつあわうみ)」と記されている。大和の朝廷から近い湖としての琵琶湖の存在があり、「近江」が琵琶湖を取り巻く国名とされた。対して、大和から離れた遠い湖として浜名湖の存在があり、「遠淡海(とおつあわうみ)(遠江国)」となる。
この呼び名に対し、私たちの土地の文化を語るとき「近江」ではなく「淡海」の文化を考えようと提唱したのが稲葉知事だった。滋賀は、自ら輝く琵琶湖を有していると同時に、現在の人々の暮らしや文化活動こそが滋賀の輝きであることから「新しい淡海文化を創造」を推進された。
この時期、滋賀の歴史や文化を伝えるシリーズ本の創刊を準備していたので、すぐさまこの名称を拝借し、1994年4月に淡海文庫を創刊した。それから20年余、豊かな自然の中での生活、先人たちが築いてきた質の高い伝統や文化を、今に生きるわたしたちの言葉で語り、新たな感動を作り上げていくことを目的に、75冊の淡海文庫を発行してきた。
近江を冠した言葉は多く、人々によくしられているが、淡海は一向に浸透せず、なかなか「おうみ」とは読んでもらえない。それでも、いつかはあの淡海文庫といってもらえることを夢見ている。県名変更の議論も表面的に言葉遊びに終始するのではなく、知事がいう、滋賀県のアイデンティティを真剣に見つめなおすことができ、しかもど真剣に取り組むことが重要だと思う。(2015年12月25日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2015年 11月 5日

三方よし

先日、産経新聞に「『三方よし』にも批判あり⁉」という見出しが躍っていた。首をかしげながら読み進めると、滋賀県庁で開催されている企画展「滋賀の商業と近江商人」の案内であった。
江戸時代中期以降、全国を商圏に活躍した近江商人は、江戸で「近江泥棒 伊勢乞食」といわれ、その商い上手を揶揄されたこともあった。しかし、近年は情報武装が巧みで、「諸国産物回し」の商法は、各地の経済発展に貢献したことなどが評価されている。同時に彼らの商いの共通理念である「三方よし」が広く知られるようになってきた。
「三方よし」は、自らの利益を優先する以上に、顧客のためを思い、さらには社会全体に益することを念頭に、社会貢献に寄与したものであるとされ、同志社大学名誉教授の末永圀紀さんは「CSR(企業の社会的責任)の源流『三方よし』」とおっしゃる。
近江商人の経営理念であるからさぞやこの言葉は古くから使われていたと思われる向きが多いと思うが、30年ほど前に登場したとされる。近江商人の理念とは別にモラロジー研究所でも、それより少し前より「三方よしの経営」が説かれていたらしいが、少なくとも江戸時代には使われなかったようである。では一体、どのように拡散したのであろうか?その最大の要因は1990年代に滋賀県による近江商人の顕彰事業の展開であったと思う。
『近江商人』の著者、邦光史郎さんの提言を受けて近江商人顕彰事業がはじまり、1991年には「国際AKINDOフォーラム」が盛大に開催された。この時、故小倉榮一郎さん(当時滋賀大学教授)の基調講演が大きく報道され、その後、近江商人の経営「三方よし」が経済界を中心に広まった。小倉さんはすでに『近江商人の経営』(1988)で「利は余沢という理念は近江商人の間で広く通用しているが、ややむずかしい。もっと平易で『三方よし』というのがある。」とされ「売り手よし 買い手よし 世間よしという商売でなければ商人は成り立たないという考えである」と著されている。
この内容からは、すでに「三方よし」という言葉が存在したと思うのは当然なのであるが、近江商人の商家に残る家訓のいずれにも記載がなく、この書が初出ではないかといわれている。その後、三方よしの原典とされる中村治兵衛家の書置きが発見されたが、「三方よし」の記述はない。しかし、他国で商いするときの心得を詳細に説いていた。
滋賀県の近江商人顕彰事業展開の中から広がった「三方よし」は、時には曲解されていることもあるが、近江商人の本質が社会的に認められ、さらには滋賀県人の自信や誇りの醸成につながっていったのではないだろうか。残念ながら2002年に滋賀県AKINDO委員会は発展的に解散したが、その後、私たち事業にかかわった有志でNPO法人三方よし研究所を設立し、近江商人の理念顕彰事業を展開している。ここでは自ら学びながら、事績の探訪や、研修事業を行い、出前講座での普及にも余念がない。本年は、近代から現代にいたる近江系企業人に焦点を当てた事業を予定している。前述の企画展では、滋賀県と摩擦を生じながらも県内の商業発展に尽くしてきた近江商人の素顔を見ることができるという。楽しみな企画展である。(2015年11月4日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2015年 9月 5日

日本自費出版文化賞

出版不況といわれて久しい。本年は芥川賞受賞の『火花』が230万部を突破する勢いという明るい話題もあるものの、書籍の出荷高は下降線をたどり、とりわけ町の本屋さんの閉店はさびしい。情報発信の多様化の中、印刷物としての書籍の需要が減少するのは時代の趨勢で仕方ないとは思うが、紙媒体の資料保存が減少することは、将来的には大きな禍根を残すのでのではないかと危惧する。
書籍は発行点数では増加しているが、雑誌の廃刊は歯止めがかからない。一方、自身の創作や研究成果をまとめて書籍として出版することを願う人は少なくはない。同人誌は往年の勢いは減少したものの、文学学校や文章づくり講座はにぎわっているという。
サンライズ出版は、謄写印刷業として創業後、官公庁や学校の資料印刷を主として歩んできたが、1976年ごろから自費出版の仕事を行ってきた。当初は著者や発行主体が必要費用を準備して書籍を作成し、関係者に配布する形態で進めていたのであるが、中には、市販したほうがより多くの反響があるのではないかと思われる著作があり、1993年には図書コードを取得し、市販できる書籍作りを進め、その後出版が本業になった。
わが社と同様に印刷会社が自費出版を請け負うことは少なくなく、1997年には(一社)日本グラフィックサービス工業会加盟社の有志で日本自費出版ネットワークを結成し、翌年には自費出版物に光をあてようと「日本自費出版文化賞」が創設された。この文化賞は、「自分史」命名者の色川大吉氏を委員長に、中山千夏、鎌田慧らが審査員として協力いただいており、中山さんには2004年にNPO法人化した日本自費出版ネットワークの代表理事をお願いしている。彼女は『自費出版年鑑2014』で「商業主義、マスコミでの表現の自由の先行きが危ぶまれる。そんな時代にあって、自費出版文化に期待を持っている」と記される。それは「個々人の発意による自費出版をサポートし、もりあげることによって、個々人の表現の自由を守り、ひいては個々人の幸せを守るのではないか」と刊行の言葉をよせている。まさしく、自費出版の本領を言いえた発言である。
文化賞への応募数は1000点を越えたこともあるが、概ね700点の作品が集まる。年間7万から8万点の書籍が発行されている中で、わずかではあるが、決して営利を目的としたものではなく、人々の思いや情熱が満載され、世に訴えたいこと、残しておかねばならないという崇高な意識が詰まった書籍となっている。残念ながら、独りよがりの内容や製作者の力量不足などで、十分その効果が現れていないものも少なくはないが、目を見張る成果や、社会的に大きな反響を及ぼすこともある。
記憶に残る大賞受賞作としては、視力障害者の歴史と伝承をまとめた『日本盲人史考』大部な『対馬国史』、4万6300人のシベリア抑留死亡者名簿『シベリアに逝きし人々を刻す』、日本の手品350種を絵入りにした『日本奇術演目事典』があり、京滋からも『北近江 農の歳時記』や『城州古札見聞録』が大賞を受けている。第18回日本自費出版文化賞の最終選考会は、9月2日に行われる。応募総数680点の中からどんな作品が選ばれるのか楽しみである。(2015年9月2日京都新聞夕刊「現代のことば」より

2014年 5月 8日

花幻文裕大姉

『花々の系譜』などの著作で知られる畑裕子さんが、5月3日、遠くに旅立たれました。2年前から闘病生活が続き、一旦は元気になられたとお聞きしていただけに残念です。同年代のかたに可愛らしいというのも大変失礼ですが、やさしいお声、眼差し、可愛い笑顔が素敵で、多くのファンがおいでになった作家です。とりわけ畑さんには、滋賀県の女性の生き方に深く思い入れがあり、綿密な調査と彼女独特の表現や洞察力がどの作品にも浮かんできています。
 表記の「花幻文裕」という法名は、葬儀を執り行われた鈴木導師が命名されたとのこと、鈴木さんは畑さんの大ファンであったらしく、通夜で、作品の数々をご紹介されながら故人の足跡を熱ぽく語られていたのが印象的でした。「花」は彼女のヒット作『花々の系譜』から、「幻」は、作家へのきっかけとなった朝日新人文学賞受賞作『面・変幻』からおとりになったとのことでした。
『花々の系譜』発行に至る経緯は、滋賀を題材にした大河ドラマ誘致作戦をご提案されていたNHK大津放送局三原局長の提唱で、畑さんに「はつ」を主人公に書き下ろしていただいた作品です。この本が出来上がったその日、平成二十三年の大河ドラマが浅井三姉妹「江」に決まったとの知らせを受けたのでした。既に滋賀を離れておられた三原局長と電話で大喜びしたものでした。大河ドラマの主人公は三女の「江」でしたが、『花々の系譜』では畑さんは三姉妹の異母弟、浅井喜八郎を登場させて、いきいきした歴史小説が仕上がったのです。そして、続けて放映直前には『浅井三姉妹を歩く』を完成させていただいきました。
 最初の『近江百人一首を歩く』以来、『近江戦国の女たち』『源氏物語の近江を歩く』のような近江歴史ガイドが中心でしたが、「少しご無理を言いますが」とのお申し出は滋賀県文学賞受賞作『天上の鼓』でした。最期の著書となった『百歳ものがたり』よんでみたいような、それでいてなにか吹っ切れてしますのではないかと思案しつつ、未だ閉じたまま机上に置かれています。あのやさしいお声が聞けない寂しさと共に、ご無理をお願いできない悔しさをも感じています。畑裕子さんありがとうございました。

2014年 1月 7日

淡海文庫創刊20年を迎えて

新年あけましておめでとうございます。
大変遅まきのご挨拶で恐縮です。
年賀状でもご案内しておりましたが、本年は淡海文庫を創刊して20年の節目を迎えます。
創刊当初、1年に3冊づつ刊行し、当面100冊が目標と考えていました。ところがその間、当方の怠慢があり、昨年末でようやく52冊目が発行でき、本年内に予定の60冊に到達はできそうにもありませんが、なんとか頑張って見たいと思っています。昨年発行の51号『湖面の光 湖水の命』からは装丁も一新しましたが、いかがでしたでしょうか。
 本シリーズは、創刊当時、滋賀県が「新しい淡海文化の創造」をスローガンに、古代より受け継がれてきた近江の豊かな歴史や文化を新しい視点で、現代に合致する文化を醸成しようとしていた時代でした。
 こうしたときに、小社にご縁のあったみなさまからの熱いエールとご支援を受けて誕生したのが、「淡海文化を育てる会」という組織でした。最も熱い思いを語っておられた民俗学者の橋本鉄男先生に世話人代表をお願いし、淡海文化を育てる会が企画したシリーズとして「淡海文庫」が誕生しました。内容的には読者が少ないだろうと考えられるテーマについては別冊淡海文庫という形で発行し、こちらはこれまでに20冊を刊行できました。
 現在、小社がキャッチフレーズとして使わせていただいている「滋賀の素敵を発信」はまさに淡海文庫創刊の志でした。ご承知のとおり、「近江」という言葉の誕生の背景には、ヤマトの国から見た近い湖が「近江」、同様に遠い湖のあるところを「遠江」と呼ばれるようになったと言われています。しかしながら新しい淡海文化の創造というスローガンには、自らが輝く湖でありたいとの心意気があったのです。
 そして、淡海文庫は、自らの言葉で地域の歴史文化を語り継ぎ、まさに滋賀県の百科事典と言えるシリーズにしたいとの意気込みで出発しました。果たしてその理想が貫かれているかどうか皆様のご判断を委ねるところですが、初心忘れず、確実に歴史・文化の伝承者となるべく努力を続けていきたいと念じております。
 どうぞ本年も変わらぬご愛顧のほどよろしくお願い申しあげます。

2013年 10月 9日

元滋賀県知事武村正義さんの講演会

10月7日に彦根商工会議所で、翌日は大津ピアザ淡海にて、『武村正義の知事力』出版記念講演会を開催しました。
政界から引退されて久しい武村さんですが、知事当時の県職員の皆様をはじめ、多くのかたのご出席がありました。
書籍では十分言い得なかったことを、率直に話そうということで計画した講演会でしたが、話題はやはり現在の政局にもおよび、会場の若い人たちから
「将来的に夢が持てるような政治を望見たいのだが」
「原子力発電はどのようにお考えか」
など、現在の社会に関する質疑が多く出ました。
農業県、工業後進県だった滋賀県が、武村さん曰く「第3次産業の創出」が進んだ滋賀県は、30年間で、経済的にも、全国的な知名度も大きく飛躍しました。社会全体が上向きで進んでいた時代でもあったのでしたが、今私たちは、将来への不安が要素が少なくはありません。
革新知事と呼ばれることを好まれなかった武村さんでしたが、今、当時のような大改革を行ってくれる人を待ち望んでいるのは、至極当然なことかもしれません。
知事時代、後ろ向きの仕事と前向きの仕事があったとのことです。本書にもそのことは詳細に記されています。講演をお聞き逃しの方には、『武村正義の知事力』をお勧めいたします。これからも天下のご意見番としてのご活躍を期待したいものです。

1 / 121234510...最後 »

最近の記事

カテゴリー

ページの上部へ