2010年 4月 1日

第22回大近江展にご来場ありがとうございました

24日から東京日本橋で始まった第22回大近江展は、開花宣言後にやってきた真冬並みの気候が連日続き、主催者は気が気ではありませんでした。ところが、熱烈な近江ファンの多くのご来場をいただき、無事29日に閉幕しました。

お足もとの悪い中、ご来場いただきました皆様には、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

例年より1カ月遅れの会期、しかも年度末、さらには寒い毎日という悪条件でありましたが、会場は熱気ムンムン。近江の工芸品、名産品が多く出店されて、好評を博しました。

そして27日には、今や全国的なビッグタレント「ひこにゃん」がお出ましいただき、熱気は最高潮。
初日、前日にご来場いただいた文部科学大臣や知事以上の護衛がつき、追いかけるカメラを遮るようにすごいダッシュで会場を素早く駆け抜いたのでした。

4年前、誕生した時には、ほとんど認知度がなく、振り返ってももらえなかったものの、愛嬌をふりまくけなげな姿が思い出されます。本当に偉くなったものです。

来年は新年より、近江戦国の姫たちを主人公とした大河ドラマが始まります。おそらく近江展のテーマは、江様中心になるでしょう。どうぞ来年も大近江展をご期待ください。

2010年 3月 8日

近江に春がやってきた

湖国滋賀の春を告げるという大きなイベントの一つ「びわ湖毎日マラソン」が昨日小雨降る大津市で行われた。第64回を迎える本大会は国内最古のマラソン大会で、例年好記録が誕生している。
本年は新しいコースとなったことからスタートして間もなくコース誘導ミスがあったようだが、日本選手が2位に入るなどの活躍ぶりが報道されていた。

昨日は冬を思わすような寒さのぶり返しであったが、毎日マラソンのニュースは湖国滋賀の春の訪れでもある。積雪がある北近江では、「川道のおこないが終わらないと春が来ない」と言われるが、今年はその祭礼にめぐりあうことができた。
なんせ女人禁制の行事なので、遠慮がちな取材ではあったものの、旧来の伝統を極力、できる限り引き継いでいくというその熱意に驚嘆したものだった。以前に比べるとずいぶん大きく変化した。と古老の方が話されていたが、文久年間の印のある杵による鏡つくりから、献鏡された鏡餅を各戸に下げられるまで、例年になく暖かな日よりの中、粛々進行する行事の隅々に、地域の人々の一体感、連帯感をひしひしと感じたものだった。

世間では「暑さ寒さも彼岸まで」というが、湖国近江では彼岸過ぎの比良八講が終わるまで本格的な春は来ないといわれる。このところの天候は、まだ冬ではあるが、週末の私はすっかり春の訪れを感じていた。そのひとつ、6日には、川渕依子さんの『高橋潔と大阪市立聾唖学校』出版祝賀会と高橋潔さんの生誕120年のお祝いが行われた。そして、翌7日には、5人もの子供の里親として元気に歌づくりに励む「のぶかあちゃん」の2回目のコンサートが開催された。

どちらの会場にも、彼女らを応援し支えあう人々が集い来て、暖かかな雰囲気に包まれていた。
両日とも冷たい小雨が降り続いていたが、心の中にはやわらかい日差しが差し込み春到来を感じたのだった。

そしてもう一つ、今年で3年目の京阪電車石坂線にラッピング電車が走る。
京阪石坂線の駅数21にちなんで、石坂線を愛する会が、全国から募集した21文字のメッセージの中から選ばれた最優秀作品などが車体を飾る。入選作品 100点は「電車と青春21文字のメッセージ」として3月10日発売。
最優秀作品、石坂洋二郎青春賞に輝いたのは

 11枚綴りの回数券 あなたに会える予約券

今回は親子のきずなをテーマにしたものが多かった。明日から大津パルコで開催される京阪電車開業100周年記念イベント会場で入選作品が紹介される。

2010年 2月 16日

手話を守り抜いた高橋潔

琵琶湖の西、比叡山のふもとの琵琶湖霊園に「指骨」と大書された墓所があり、ここに手話教育に生涯をささげた高橋潔さんが眠る。建立したのが川渕依子さんとそのご家族。

川渕さんは、父「高橋潔」のこと書くために滋賀作家クラブで文章のイロハを学び、1967年、高橋潔の生涯を伝記小説『指骨』として出版。本書の序文は、聾者を主人公にした「名もなく貧しく美しく」を撮った松山善三監督が飾っている。

その後、1983年には、ご自身の手話通訳者としての立場をも織り交ぜた『手話は心』を出版され、さらに高橋潔氏生誕110年の2000年には『手話讃美-手話を守り抜いた高橋潔の信念-』を当社から発行させていただいた。

『手話讃美』は、たちまちに完売となり、永年増刷を求める方が多いが増刷までには踏み切れないでいた。まことに申し訳ない限りである。ところが、こ の出版記念会席上、手話でご挨拶された山本おさむ氏著の漫画『わが指のオーケストラ』4巻は、この時すでに大きな波紋が生まれており、その後、手話の本場 フランスで翻訳され、より多くの人々の中に手話を守り抜いた高橋先生の記憶が刻まれていくのであった。

そして本年傘寿を迎えられた川渕さんが、高橋潔生誕120年、元大阪市立聾唖学校創立110周年の本年に、「書き尽くしたとは思うが、それでも父のことを最後に記したい」と、このたび『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』を出版された。

6歳のころから育ててもらった父が亡くなって3年後、父との思い出をノートにでも綴り残しておきたいと思い、相談した叔父から「高橋潔を除いて日本 の聾教育界は語れない。そこを書くのだ。お前が書かなくて誰が書く」と諭され、本書にも多く引用されている高橋潔著『宗教教育に就いて』を渡された。
さらに「ちゃんとした著作として出版するのだ。そのためには大阪市立聾唖学校の先生方から高橋潔のすべてを聞き、大阪市立聾唖学校がどのような方針で来た かを聞き、日本の聾教育界をよく理解することだ。簡単ではないが、依子が親孝行したいというのなら、これが一番の親孝行になる」と励まされた。
これが、川渕さんの高橋潔氏の信念を著した発端となり、次々著作が生まれた。

皮肉にも、川渕さんが生まれ、結婚後に暮らした滋賀県では、高橋潔氏とは相反する「口話法による聾教育」が採られていた。そして全国各地の聾者の教 育機関が「聾唖学校、盲聾学校であったが、滋賀県では、「聾話学校」が昭和3年に創立され、近江商人の末裔の西川吉之助氏が多くの私財を投入して運営され ていた。

口話法による聾者教育は、高橋潔の手話教育と対峙したものであり、生涯、高橋潔は手話による心の教育の必要性を訴え続けてきたのである。本書では、 高橋氏の手話を貫き続けた様子とともに、高橋の教育信念を支え、ともに聾教育をけん引してきた教育者の実績を紹介している。いずれも東北学院の同窓生で、 英文科専攻というのも、手話がその後、多くの人々の中に溶け込んでいった要素が大きかったという。

米国に渡り、ヘレンケラー女史に進められて指文字を作った大曾根源助、苦労しながら渡仏して本場の手話教育を学び、多くの研究成果を発表し、先進的 に手話劇を上演した藤井東洋男、そして藤本敏夫、松永端、加藤大策らの活躍の様子とともに川渕さんの彼らへの思い出が連なって構成されている。まさしく本 書は、日本の聾教育界の足跡を示したものといえよう。現在、日常的に手話が見られるが、先人の滲むような苦難がうかがえる。
2010年2月15日朝日新聞で、「デフライフジャッパン」創刊、ろう者が編集、という記事が載っていた。相次ぐ雑誌の休刊の中、うれしいニュースである。世界の人々が、手話を通して自由に話せることは、素晴らしく大きなうねりとなろう。
今回の著作では、手話による心の教育を貫いた教育者の素顔が力強くあふれ、大きな感動を呼ぶものとなり、何よりも川渕さんのご両親への感謝の気持ちがあふれている。

3月初旬には、川渕依子さんの出版を祝う会が開催されるが、当日はまた楽しい手話劇が拝見できることだろう。

『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』は3月初旬発売

2009年 6月 23日

小江戸と小京都の近江屋

NPO法人三方よし研究所の仲間で秩父・川越へ 研修に出かけた。
秩父の矢尾直秀社長に出会うことが最大の目的であったが、近くの川越にも足を 延ばした。

矢尾さんは創業260年の矢尾酒造と地域一番店の矢尾百貨店の社長で、近江商人的経営を継承している。昭和40年代ころまで、単身赴任、地元滋賀県 からの社員の採用などが続いていた。
現在では近代的な設備で製造が進む「秩父酒づ くりの森」では工場長であり館長の新井さんから酒づくりの秘策をお聞きし、地酒秩父錦を試飲。そして秩父における矢野家の歴史と商いの極意をお聞 きした

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矢尾百貨店に隣接する旧酒造りの蔵。大きな杉玉がかかる

そして翌日は川越に、蔵の町として人気がある川越には年間60万人の観光客が訪れるという。朝の連続ドラマの舞台でもあり、都心から30キロという 利便性、そして町の活性化を推進する町衆の熱気があふれている。

街角で案内に徹するボランティアガイドさんもみな親切で食事どころもガイドさんが紹介してくださった。その「幸すし」さんは、近年「近常」さんとい う近江商人ゆかりの蔵づくり商家を譲り受け「明治の館」となっている。川越のシンボル「時の鐘」の近所の「近長」さんも近江商人ゆかりの商店で、川越でも 「近○」という商店はほとんど近江の商人によるものだ。

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川越に現存する蔵の多くは、明治26年の大火ののちに建築されたものだが、唯一、江戸時代からの蔵造り商家「大沢家住宅」は重要文化財の指定を受け る。そしてこの建物は、「近江屋」西村半右衛門が建てたものだ。

江戸に近く、大都市の物資斡旋の拠点として栄えた川越には、「近江屋を冠した近江商人の足跡が残るものの、この町での近江商人への好感度はあまりよ ろしくない。

「近江から来た商人は成功したが、その後は定石どおりに・・・」という話も聞かれ、近年では転廃業する近江ゆかりの商店が目立つとのことだった。

地元に溶け込んだ秩父、矢尾家の印象が強烈だっただけに、少し悲しい思いが残った。この町での足跡の詳細を再確認する必要がありそうだ。

そして、先週は社内研修で、城崎、出石方面に出かけた。
出石では名物のそばに期待がかかったのであったが、どうにも満足できるものではなかった。今やうまい「そば」は各地にあるので、歴史があるだけでは、人気 を獲得するのが難しいようだ。

ところが、やはりうまいと評判の店には行列ができている。それが「近又」というそば屋であった。

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近江屋又兵衛さんが篠山築城の頃、近江からこの地にやって来て旅籠を営み代々又兵衛を襲名し当主は11代という。「近又」は明治になって命名され、 そばやは2代目という由緒が店頭に記されている。
京都の高級料亭に同じ「近又」があるが、偶然なのだろう。出石という予期しない場所での近江商人の足跡に出会えたのであった。川越での暗い気分がすっかり 晴れた。

全国各地で商いをした近江商人の数は、他の地方に比べて圧倒的に多いらしいが、その商いの精神が現代にまで、営々と受け継がれ続けてほしいものだ。

2009年 4月 17日

合羽所「住田屋」さまに出会う

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2009年 4月 17日
合羽所「住田屋」さまに出会う

サンライズの社屋の裏には旧中山道が通り、正面には現在はヴォーリズ建築の住居になっているのが旧本陣。

この宿場の名物は、現在に歴史を伝える赤玉神教丸がもっとも有名。この名物を製造する有川家住宅は昨年彦根市指定文化財になり名実ともに鳥居本名物である。

そしてかつて、この宿場で多く作られ販売されたのが「合羽」である。我が家の先祖さまは、何代かにわたって合羽の製造販売を行い、当時の看板がその歴史を伝える

長男であった父が、昭和5年に謄写印刷をはじめたので、その後は、祖母と伯母が花合羽を作っていたことを聞いているが、私はその製造過程はまったく知らない。
先年「鳥居本の歴史」本の制作に当たって、聞き取りしたことぐらいの知識しかなかったのであるが、このとき最大の協力者が、住田屋の角田稔さんであった。「長浜みーな」で角田さまの消息を知り、その後懇切丁寧な合羽製造記を頂戴した。これがあったからこそ鳥居本合羽について記述することが出来たのである。
その後、ご無沙汰していたが、先日、上京の機会に、初めてお出会いした。

科学者の角田さんは、より正確な数値などの詳細を求めて、さらに深く調査を進めることをご提案いただいた。そして、四方山話とも入れる戦前の製造現場のお話をお聞きできた。
20軒近くの製造販売所があったが、同業組合の組織が強固で、仕入れや売価などについての統制が行われていたようであるが、販路や製法に関しては、各家独自の手法で工夫が重ねられてきたようだ。こうしたことが鳥居本合羽の名声を高めたのであろう。
合羽製造の起源については諸説あるが、次第に分家が進み20軒になったらしいが、一部大規模な合羽所は県外で活躍されたようだが、いづれもが小規模で、戦後には2,3軒程度が残ったという。
住田屋さんも角田さんの母上が、昭和30年近くまで花合羽などを製造されていたという。渋づくりや天日干しは重労働だったらしく、家内労働が強いられたことだろう。

当家には、今でいうビニールシートのような大きな包装資材を作っていたようだが、そのときの型紙が相当数存在するので、これらをなにかの形で保管できないかと思い、さらには鳥居本宿のかつての名物の痕跡をものこせたらと考えている。
ようやく緒に就いたばかりではあるが、名声を博し、旅人び重宝がられた合羽に再び日の目が見られることを願っているのだが、角田さまとの出会いでよけいにその思いが募ってきたのであった。ありがとうございました。

2009年 3月 31日

畑裕子さんの新刊

昨年の源氏物語千年紀イベント関連本として出版した『源氏物語の近江を歩く』で独自の紫式部の心情を描写された畑裕子さんが、このたび、従来の作品のほか、新作を含む現代小説集『天上の鼓』を上梓された。

久しぶりの現代小説であるが、人生の終焉期にさしかかった女性の生き方がさわやかな、のびのびした筆致で描かれている。

昨日その畑さん宅を訪れた。久しぶりにご主人の畑明郎さんもご一緒だ。絶版になったが、『近江の百人一首を歩く』の執筆に際しては、ご主人が同行され取材を続けられたという。すこぶる仲のよいご夫妻だ。

近刊『アジアの土壌汚染』(世界思想社発行)などの著作のある明郎さんは、本年3月で大阪市立大学を退官されたが、環境政策の研究にはますます拍車がかかりそうな気配が感じられる。そのごようすについては、滋賀銀行発行の「湖 4月号」で詳しく紹介されているが、誠実なお人柄がにじみ出ている。

畑裕子先生には、現在もご依頼している作品があり、随分と無理難題をお願いしているが、まもなくこの場で公表できるであろう。京都のお生まれであるが、すっかり近江の人となられた裕子さんの今後の活躍に大いに期待したい。

なお次回作品に関する講演会が下記のとおり予定されている。

湖周山遊会 創立15周年記念講演会
日時 2009年4月18日(土) 午後1時30分から15時
場所 草津市立まちづくりセンター 電話 077-562-9240
入場無料で一般参加自由ということなので、是非ご参加を

2009年 3月 30日

NHKニュースで紹介された青春メッセージ

21時のNHKニュースで春の便りをお届けしますといって紹介された京阪電車。ボディには、21文字のメッセージが書かれていた。残念ながらどの作品だったか覚えていないが、石坂線21駅の顔づくりグループが呼びかけ、全国から応募された青春メッセージの優秀作品であった。

「電車と青春+初恋 21文字のメッセージ」を公募したのは、今年で3回目、昨年は、優秀作品をまとめた書籍を発行、そして本年も『電車と青春+初恋 21文字のメッセージ2009』がこのほど刊行。
石山と坂本を結ぶ石坂線にちなみ、青春小説作家の石坂洋次郎さんと関連させて生まれた企画が21文字のメッセージである。

今年も2000点余の応募があり、優秀作品をペイントした電車が3月8日から29日まで沿線を運行した。書籍の発行は運行期間ぎりぎりの25日に完成したが、発行に先立つ3月19日、偶然にも

「行かないで、ドアが閉まれば言えるのに」

と車体に書かれた電車に乗り合わせた。宮城県の20歳の女性の作品で初恋賞を受賞している。なんとラッキー。イベント中といえども、どの電車にもペイントされているわけではないので、本当に偶然。

今回の書籍に掲載された写真は、長年、電車の写真を撮り続けてきた方の作品だけに、アングルも何もかもすばらしい。歌人俵万智さんも「出会い、別れ、初恋、思い出、さまざまなドラマを載せて電車は走っていることでしょう」と総評されている。2006年からはじまったこの企画は電車が走り続ける限り続いていくのではないかと思う。

そして本日はさらにもうひとつ初体験。大阪天満から浜大津まで京阪電車を利用した。近江鉄道より狭く向かい合わせの席は、多くの出会いや別れを物語る要素が多いのかも知れないと思った。
21文字のメッセージ作品集は、滋賀県内および京阪沿線で発売中。是非来年にはあなたも応募されてはいかが。

2009年 3月 5日

『近江が生んだ知将 石田三成』発刊

大近江展で先行販売した『近江が生んだ知将 石田三成』がようやく完成し昨日発売となった。ご予約のお客様に早速送付し、書店様への配本も昨日完了。まもなく各地書店店頭に並ぶこととなる。長らくお待たせして申し訳ございません。

なんせ太田浩司先生は超多忙。その中でなんとか間に合わせていただいた次第。どうもありがとうございます。彦根城築城400年祭を契機に、地元彦根市の書籍が勢ぞろいしたが、肝心のお膝元佐和山城主の三成本が未完であり、大いに気掛りだっただけに完成はうれしい。

来る21日には太田先生の講演会と佐和山城下町散策を行うが、反響は大きく、城下町散策は定員に達した。しかし講演会にはまだゆとりがあるので、新事実の解説に期待いただける。井伊家が完全抹消したといわれる佐和山城ではあるが、その痕跡がかなり残っているようだ。周辺は、現在、圃場整備が進んでいるので貴重な痕跡がなくなることも考えられる。古代の遺跡が発掘され一方で、なごりの地形がなくなることは残念なことでもある。
城下町近くの六反田遺跡の調査報告会が7日に行われるが、古代から中世にかけて東山道の道筋の現状がなにか見出されるのであろうか。いずれにしても、地元の歴史を知ることは楽しい。

2009年 2月 3日

安土城再建!!

先日、安土城を作ろうという本の発売告知があった。なんでも完成までに10数万円の投資が必要らしいが、50センチ程度の安土城天主が完成するというものだ。城ファンならずとも心躍る企画である。過去にも企画があったが、ようやく陽の目を見たという。『安土城 信長の夢』の表紙には内藤昌氏の安土天主の復元図を用いたが、今回の企画は、広島大学の三浦正幸氏のものである。

ところで本物の安土城を作ろうという話しが30年前にあったと聞いた。元滋賀県知事武村正義さんが、知事時代に近畿知事会議の席上で、景気浮揚対策の一環として滋賀には安土城を、京都には羅生門を、奈良には平城京をという具合に、建設当時の形で再建しよういう提案をしたのだという。

お話によると、西欧では焼失した価値が高い建築物の復元の例は多いが、日本では、かなり曖昧に、お茶を濁した再建をしているといわれる。文化を残すためには、建設当時そのままの形が望ましいというものだった。
ただし、正確さが要求されるので再建はかなりの困難な問題が多いという。話を聞いて早速に「再建はわが社で」という引き合いまであったという。
それはともかくも、景気対策としては妙案だと思う。

近年「三方よし」という言葉が独り歩きしてすっかり有名になった近江商人は、利益を社会貢献事業に費やしたことで知られる。近江商人の社会貢献は、人知れず善行をおこなうことで陰徳善事といわれ、不況時に自宅や寺社を建設した「お助け普請」は、民間による公共事業投資であるといえる。城主などからは、この時代に贅沢なという批判もあったらしいが、不況だからこそ建設をして仕事を作り、食べられる生活を求めるという目的を聞いて、批判なく許可されたという。
現存する近江日野商人館や豊郷町の豊会館などは、お助け普請によって建設されたものである。
安土城の再建とまでいかなくても、財政難を理由に、文化施設を閉館に追い込むだけではなく、いまだからできる新規事業で新しい価値を見出すことが求められているのだと思うが、いかがなものか。ピンチはチャンスという元気な企業者の声も聞かれる。景気回復には時間がかかる様相であるが、今だからできることもあるのではないかもしれない。冷静に見つめなおしてみたいものだ。

2009年 1月 19日

直江兼続の盟友三成

若い女性の戦国ファンが増殖中という。一昨年ころからの傾向で、彦根城築城400年祭りの際にも佐和山一夜城イベントには多くの女性ファンが押し寄せ、ひそかに浅井氏菩提寺「徳勝寺」で手を合わせるまさしくファンらしき人を見かける。

新年から始まった大河ドラマ「天地人」も、この点を押さえ、若い女性に人気の俳優が配されている。私はよくわからないのが若くない証拠かも知れないが、まあ可愛い俳優である。この兼続と心底信頼しあった友が、三成だったという。
わが社の前には、三成の居城「佐和山城跡」が正面に見える。とりわけよく晴れた日の日没時、佐和山の向こうの夕焼け空がなんとも美しい。木立の茂みの少ないこの時期には、天主付近のようすが手に取るようにわかるのも嬉しい。

今、来月末発行を目指して『近江の知将 石田三成』の制作が進んでいる。秀吉へ忠義の臣として評価される三成ではあるが、著者の太田浩司さんは、戦国時代後の社会の在り方を求め、思いが異なる家康に対したと熱く語る。
新しい史料を交えた新しい三成像に期待がかかる。お膝元の佐和山城下町の詳細もわかったらしく、完成が待ち遠しい。
戦国ファンのみなさま、今少しお待ちいただきますようお願い申し上げる次第。

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