2020年 8月 16日

前川恒雄の訃報に接したので、金井美恵子『カストロの尻』への異議申し立て

 4月10日、前川恒雄元滋賀県立図書館長が肺癌で亡くなった。89歳。追悼といえるほどの関連性はないが、1年以上前の前回当ブログの中ほどで「関係するネタがあるので、次回につづく」としたまま、誰も興味を持ってなさそうな気もしてそのままになっていたことを書く。
 前回ブログで「私は読んでいないのである」と書いた前川の主著の一つ、『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)を古本で買った。申し訳ないが、本文は滋賀県内の地名を目で拾ってザッとですませた。編集者・松下裕の関わり具合を知るのが目的なので、最初に「あとがき」を読んだ。前川が「よそいきの言葉」で書いてしまった第1稿は、「この本の産婆役である松下裕、大西寛両氏が、『自分のことを具体的に』」という言葉にあわせて書き改めたという。そのことを、ゴーリキーが記したチェーホフと3人の貴婦人のエピソードを引いて書いているのは、チェーホフの翻訳者でもあった松下への心づかいでもあるのだろう。うまいものだ。
 取り上げるのは、2017年5月に出た金井美恵子の小説『カストロの尻』(新潮社)である。帯には「作家デビュー50年の集大成となる著者最高傑作!」とある。翌年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。書名のところで「小説」と書いたが、頭と最後にエッセイが置かれ、その間に9つの短編小説が並ぶという構成になっている。9つは「あたし」を語り手とした連作短編なのだが、あらすじはまとめようがない。最後のエッセイのタイトル「小さな女の子のいっぱいになった膀胱について」と共鳴するように、真ん中に置かれた5つ目の「廃墟の旋律」の中には、チャールズ・ブロンソン主演、リチャード・フライシャー監督の映画『マジェスティック』のあらすじを説明するなかで、「女が尿が溜って耐えられない程ふくらんでいる膀胱を自由にする必要からトイレを借りるために立ち寄る」という文章も置かれている。タイトルがスタンダールの『カストロの尼』の読み間違いからきていることを重視するなら、「海鼠(なまこ)」を「うみねずみ」、「禍々(まがまが)しい」を「うずうずしい」といった繰り返し現れる漢字の読み間違いを散りばめた小説ともいえる。
 前川の著作の編集者「松下裕」の名が出てくるのは、冒頭のエッセイ「『この人を見よ』あるいは、ボヴァリー夫人も私だ」である。金井は姉から後藤明生の長編小説『この人を見よ』(幻戯書房、2012年)で、中野重治全集(新版)収録の年譜における葬儀と受賞パーティ出席の数の多いことの異様さが指摘されていることを教わり、「なんという社交的で政治的な人物だろうか」と考える。
 後藤の『この人を見よ』は、50代半ばでカルチャーセンターの文学教室に通う元文学青年の「私」がつけていた日記が、いつの間にか「私」と同じ教室に通う男女が小説や作家について話し合う架空シンポジウムに移行して書き継がれる小説である。小説の形式で書かれた作家論・小説論、あるいは作者の後藤が主張していた「読むこと」と「書くこと」は千円札の裏表のような関係にあるという主張(カルチャー教室の講師である小説家は明らかに後藤自身がモデルにされていて、「文学=千円札」理論も講義で話されたことになっている)の実践ということでよいだろうか。
 登場人物の討論の対象となるのが、谷崎潤一郎の『鍵』、太宰治の『ヴィヨンの妻』、志賀直哉の『暗夜行路』、そこから脱線して中野重治の全集収録年譜に至る。文芸誌「海燕」に1990年1月号から1993年4月号まで連載されたが、未完のまま単行本化もされず、後藤も1999年に亡くなってしまった。そして、没後10年以上たった2012年8月に単行本が出た。私のパソコンでamazonのこの本のページを表示すると、「お客様は、2012/8/21にこの商品を注文しました。」と表示される。つまり、私は出版された直後に読んでおり、先の『カストロの尻』のエッセイにおける金井の感想を目にして、中野重治風の言い回しを用いれば「何言ってやがる」と感じたわけだ。
 さて、『この人を見よ』の方では、年譜の作成者は「松下裕」という名前で、「編集者の文章としては、やや主観的過ぎるんじゃないか知ら」「じゃあ研究者かい」「研究者というよりは、秘書とか、お弟子さんといった感じじゃないか知ら」という登場人物の発言が続き、年譜の異様さを中野本人よりは編者に求める方向に進みかけている。結論が出されるわけではなく、小説中人物の会話は別の件(芥川龍之介に対する中野重治の態度が横柄なのではないか問題)に移っていってしまう。
 ややこしいというか、当然というべきか、『この人を見よ』の作者である後藤明生は、松下裕を知っているのだが、小説中の単身赴任サラリーマンであったりする登場人物は松下裕を知らない。
 奇しくも『カストロの尻』と同じ2017年5月に出た後藤明生の対談集『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』(つかだま書房)には、松下裕との対談「チェーホフは『青春文学』ではない」(「ちくま」1987年6月号)が収録されている。
先にも書いたとおりロシア文学者としてチェーホフ作品の翻訳もしている松下と、早稲田大学露文科卒でゴーゴリを中心にロシア文学から創作上の方法論を得たと公言していた後藤の組み合わせに違和感はなく、対話もスムーズに進んでいる。
前回の当ブログで前川恒雄と松下裕がともに植民地下の朝鮮半島生まれだということは書いたが、後藤は彼らの2歳下でやはり朝鮮生まれである。
 その一方で、同書収録の柄谷行人との対談「文学の志」(「文學界」1993年4月号)で、柄谷が中野重治の名前を口にすると、後藤は「でも、中野というのは大したことないと思う」と言い、柄谷は「そうかい(笑)」と返さざるをえない。後藤は「さっき〔対談中に〕出た大西巨人をペテルブルグ派〔=後藤がプーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーの系譜として名づけたロシアの幻想喜劇派〕だとするなら、中野はロシア文学の、いわゆる人生派、人道派だね。笑いがなくて、保守的、情緒的だね」「日本の文壇を支配したのは案外、中野重治だったかもしれませんね。明治以降の日本文学に最も影響を与えたのがロシア文学の人生派、人道派だったという意味でね」と続ける。
 この場では、後藤の中野重治理解に柄谷は反論していないが、頭の中では「いや違う」と考えていたのだろう。翌年の「群像」1994年9月号に掲載された大江健三郎との対談「中野重治のエチカ」(『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』講談社 2018年)では、中野重治のユーモアについて語っている。中野の小説は「一見して深刻な小説でさえ、なんとなくおかしいんです」「なぜおかしいのかというと、自分にこだわっていながら、実はちっともこだわっていないところがあるからです」。
大江の方も、「中野さんの文章を読むと、たいてい一つはおかしくて笑うところがあります。もともと彼が書いた文章を子供のときに単にユーモラスということで、これはおもしろい、この人に会いたい、と思ったことがあるほどです」としている。大江には、「中野さんの仕事をずっと読んできて、道徳と認識とどちらを優位に置くかというと、認識を優位に置く人だと思います」と、後藤の「中野=人道派」説を否定する発言もある。
 後藤 vs 柄谷・大江という構図になっているわけである。私は、後藤の小説を好きで読んでいた。当ブログの2013年11月4付け「そしてCui Cuiになる」の後半、写真集の写真を番号付きで説明しているところは、後藤の短編「十七枚の写真」(『しんとく問答』収録)のまねである。いや、まねというほどでもなく、ああいう小説もあったから、これもありだろうと踏んで書いてみたものだった。だから、未完で長らく単行本化されなかった『この人を見よ』も刊行後すぐに買ったわけだ。反対に柄谷の本はたいしておもしろいと思ったことはないのだが、この件に関しては柄谷に同意する。
 以前に当ブログで書いたとおり、小説『梨の花』で主人公が広告看板に描かれた髭男の顔を比較する箇所が「おかしくて」中野重治を読み始めた。私はその頃に住んでいた北浦和の古書店で、横積みになって1冊1000円の値札がついていた旧版中野重治全集(全19巻、筑摩書房、1959~63年)の1、6~8、10~13、15、17~19巻を買った。2~5巻は小説で、文庫本で入手できたから買わなかった。先に年譜の「異様さ」が指摘された新版全集(全28巻、筑摩書房、1976~80)がすでに刊行されていたので、旧版が安く手に入ったわけだ。そうでなければ、中野の随筆のたぐいを大量に読むことはなかっただろう。
 柄谷の言う中野の「こだわりのなさ」を私の思いつくところであげてみよう。以前の当ブログ「小波の世界――石井桃子と中野重治」(2014.5.25)で紹介した中野の随筆「髪の毛と愛人」。そこでは引用しなかったが、中国で見た男が意識せずにふれつづける恋人の美しいオサゲについて、「つまり私はほんとは〔絵に〕描きたいのだ」と記す。本来、これは作家が使ってはいけない言葉だろう。
 おかしさは、話の筋と関係なく差し挟まれる主人公の所見にもある。短編小説「プロクラスティネーション」(1963年)の主人公・安田は、妻が新聞記事を理解するのにほしいというのでビニール製の安価な地球儀を買う。テレビ台の上に載っているそれを見るとはなしに見て彼は考える。
「『グリーンランドつてやつは、小学校自分からあんなふうに白つぽくかいてあつたな……』理由があるのかも知れなかつたが、それは安田は知らなかつた。」
 もう一つ、『カストロの尻』の収録短編に出てくる「青紫色にあおざめて萎んだ惨めなペニス」という文章を読んでいて思い出した中野の短編「広重」(1954年)をあげておく。
 随筆といってもよい書き方で(実際、これまで随筆だと勘違いしていた。考えてみれば、これを読んだのは、文庫サイズの『ちくま日本文学全集39 中野重治』であり、持っている旧版全集=小説類は含まない巻のみには収録されていない)、「私」の絵画に関するとりとめのない記憶が綴られていく。広重の風景版画の海の青色から、「私」には小学4年か5年の頃に学校からの帰りの田んぼ道で同級生と交わした会話が思い出される。貧乏な百姓である彼の父親が箪笥の中にしまっていた春画に描かれていた勃起したペニスの亀頭は、青色だったというのだ。
 ここで例によって語り手は少し脱線する。「してみると、あのときとにかく亀頭という観念はあったのだな……」。
 後藤が柄谷との対談で「ペテルブルグ派」に属するのかもしれないとした、小説『神聖喜劇』で知られる大西巨人はといえば、旧版中野重治全集第18巻(1963年)の月報に寄稿している。1953年の約2カ月間、大西は妻とともに中野宅の一室を借りて暮らしていた。大西は中野について書くにあたり、「全部分をつつしんで書かねばならない」としたうえで、三つの思い出を書いている。
 一つ目は、中野宅での夕食時に一人娘の卯女に語った「プラウダ」のソ連人記者との会話。笑える小話みたいなもので全文引用する以外に伝えようがない(ので、それは控える)。大西は、「聞いている私も、なんとなく楽しかった」としている。二つ目は、ある講演会での会場からの質問に対する中野の返答で、わりあい有名だと思うので省略。三つ目が、最も詳細に書かれたエピソードで、中野宅に同居中、毎週土曜夜に放送されていたNHKラジオのクイズ番組「私は誰でしよう?」を聞きながら、採点表を用意してきた中野の娘の「卯女ちやん」に呼ばれて、大西と中野が対戦させられた話。第1回は8問中6対2で大西が勝利。翌週の第2回目も9問のうち6対3で大西が勝利。さらに翌週の第3回目、「中野さんは、そこの新聞雑誌類に子細らしく見入つたりして、本気で競り合つてはいないという姿勢を露骨に現し」ていたが、大西5対中野1で迎えた7問目、天井を仰いだ中野は数秒間上向きのまま、ついに「しぼり出すような声で『オーミトシロー』と絶叫した」。
 ついでに、新版全集第28巻「補遺」に収録されている「若い女性に望むこと」(『婦人朝日』1941年6月号)というアンケートに対する回答もあげておこう。中野曰く、「『滑稽』を理解すること、たとえば、害にならぬ程度の他人の欠点をそのまま受け取る心がけをすること」。
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 おそらく後藤の「情緒的な人道派」という中野イメージの方が広く浸透していて、後藤もふくめた後進世代は読まなくなったのだろう。金井は『カストロの尻』の冒頭エッセイで、「もちろん家には一冊の中野重治の本もない」と書いている。「もちろん」である。書店の新刊コーナーで手にとった呉智英著『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年)の「まえがき」冒頭には、「今では誰も読まなくなった小説家に中野重治がいる」「五十年前の私の学生時代、まわりに中野重治を愛読する者は既に多くはなかった。私も全くといっていいほど読んでいない」と断わったうえで、呉は一つだけ好きな短い詩があって暗記しているとして、それを全文載せている。呉は1946年生まれ、金井は1947年生まれの同世代である。
 先の『大江健三郎 柄谷行人 全対話』のアマゾンサイトには六つのレビューが載っているが、その内容から一人として中野重治を読んだことがある者はいない(読もうとしている者もいなくて、この人々は何がしたいのか謎)。収録されている三つの対話の中で、中野をめぐる対話が、二人が最も楽しそうであることぐらいは、読めばわかると思うのだが。
 このように中野が読まれなくなったのは、時代遅れのプロレタリア作家というイメージゆえだろうが、『梨の花』から『歌のわかれ』『むらぎも』『甲乙丙丁』と戦後の長編小説を読んでいた私にとって、中野は「私小説」の作家である。古本屋で買って、存在自体忘れていたコンパクトなサイズの『日本短篇文学全集 第24巻』(筑摩書房 1968年)は、「室生犀星・中野重治・堀辰雄」というラインナップで、巻末の解説で丸谷才一が書いているとおり、犀星は中野と堀の「師匠筋」にあたる。だが、「日本文壇の師弟関係にありがちな卑しい感じがまったく見られない」。「(中野は)多くの場合、自伝的な材料を用いて、いわゆる私小説を書いている」「それは小説というよりは随筆に近い性格を帯びることが多い」。
 実際、旧版中野重治全集の題字は室生犀星が書いており、第1巻の月報の最初には彼の文章が収録されている。「中野君と四十年くらゐの交際はあるが、私の家にふらりと遊びに来たことが一度もない」とある。最後に中野が自伝的小説『むらぎも』で「私の顔の形容を」「〔川魚の〕鮴(ごり)のようだ」と書いた部分を訂正してもらいたい旨を、凝りに凝った訂正案もつけて書いている。ここを読み返してみると、今でいえば画像加工ソフトで盛りに盛った自撮り写真が連想されて笑えてくる。この犀星の憎めなさは、中野が若い頃、犀星の『抒情小曲州』を手にとった際の、「それは実に不思議な本であつた。(中略)作者はこの本をつくるために馬鹿のように一心になり、読んでいるものにその神聖な馬鹿さがそのまま乗りうつつてくる種類のものであった」(『本とつきあう法』)という感想と同種のものだろう。
 また、『カストロの尻』の最初のエッセイの方には、金井が女性の友人から受け取った手紙の中で、中野重治が「朴とつ系」と評されている箇所がある〔手紙からの引用なので原文のまま平仮名表記にしてあるのが、また間抜けで嫌味なのだが〕。この友人も中野を読んだことがなく、わりあい知られた随筆「素朴ということ」や短編小説「村の家」のタイトルから勝手なイメージを抱いたゆえの言葉だろう。悪いが、中野は話好きで筆まめで、無口からは遠い。
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 中野の葬儀出席の数が多いのは、単にそれだけ多くの人が死んだからということもできる。中野の随筆「たすき、はちまき、花たばの類」(1965年)は、「たくさん人が死ぬ。知り合いが死ぬ。これは自分が年取ってきたのだから仕方がない。こないだも私は知合いの葬式に行つた」と書き出され、葬儀場に並んだ花束、花輪、花籠に関して苦言を呈している。花を届けるのはよいが、立ててある「名札だけは取つてしまうのがいい」。
 中野が出席した葬儀の例をあげよう。滋賀ネタとして舟橋聖一の場合とする。彦根藩主井伊直弼を主人公にした『花の生涯』を書いた功績で、舟橋は彦根市名誉市民となり、私が頻繁に利用している彦根市立図書館には遺族から寄贈された蔵書によって創設された「舟橋聖一記念文庫」がある。2016年には館内に「舟橋聖一没後40年」とプリントされた横長の大看板が掲げられていた。
 中野は1949年発表の「舟橋聖一と森鷗外」という文章で、舟橋の小説「夫人と少婢」を厳しく批判した。語り手の「わたし」が中国唐代の詩人、魚玄機に関して説明する箇所が、作中でそうではないと言わせながら、その実、森鷗外の作(「魚玄機」)から剽窃していることを、該当箇所を逐一あげながら。他の機会にも、中野は舟橋の作品を大衆小説的だとして評価していない。
ただし、舟橋の側にも理由はあったことを、彦根市立図書館の郷土図書新刊コーナーに、石川肇著『舟橋聖一の大東亜文学共栄圏―「抵抗の文学」を問い直す―』(晃洋書房 2018年)が並んでいたので借りてしまった私は知っている。収録されている遺書によれば、舟橋自身が「舟橋家の十字架」と名づけている足尾鉱毒事件に端を発する一族の凋落のなかで、さまざまな出費を賄うために自身の望むところではない多作の流行作家とならざるをえなかったのだという。舟橋聖一の母方の祖父は足尾銅山を経営した古河財閥の番頭で、同財閥の初代・古河市兵衛は近江商人に含まれることもある。ついでに書いておくと、後で名前が出てくる志賀直哉は、古河市兵衛とともに足尾銅山を開発した実業家・志賀直道の孫である。
 舟橋は1976年1月13日に死去した。新版中野重治全集の年譜には、「一月十七日、十三日亡くなった舟橋聖一の告別式(午後二時から、新宿区下落合三ノ一七ノ四七の舟橋家)に行く」とある。この時、中野は74歳。
 『中野重治書簡集』(平凡社、2012年)には、この時の葬儀に関する手紙が収録されている。文芸評論家・本多秋五宛ての封書で「昨日(十七日)舟橋聖一の葬式に行つたところ、大鵬と柏戸とを見ました。色の白い、血色のいい、大兵(たいひょう)の全くの好青年で、大変いい気持ちでした。僕が焼香の方へすすむ、そこへ焼香をすました二人が、二十秒ほどの時間間隔で帰つてくるのと正面ですれちがつたのでした」と書いている。さらにもう1通、堀田善衛宛ての封書でも、「舟橋の告別式で大鵬、柏戸にすれちがいました。色白、サクラ色、大兵、はなはだいい感じでした」と書いている。日中国交回復以前の中国へ日本文学代表団の一員として訪れ、長いオサゲの1本がなびいたのを連れの彼が意識するでもなく手で弄ぶカップルとすれ違った幸せを語る「髪の毛と愛人」とほぼ同じパターンである。
舟橋は相撲好きとして知られ、『相撲記』という作品があるほか、長く横綱審議委員長を務めた。その関係で元横綱の大鵬や柏戸が訪れていたわけだ。だとしても、葬儀の場で「大変いい気持ち」になっている中野は、やはり大江の言うとおり、道徳よりも認識を優位に置く人ではないだろうか。
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 『カストロの尻』の最後に位置するエッセイは、金井が最近(2015年)になって読んだ『藤枝静男著作集』第1巻(講談社 1976年)に収録されている随筆「志賀直哉・天皇・中野重治」をもとに再び中野重治周辺の男たちについて書いている。
本題に入る前に気がついたことを一つ。「単行本未収録のこの文章が……」とあるので、私の頭に「?」が浮かんだ。私は『藤枝静男著作集』を持っていないが、「志賀直哉・天皇・中野重治」を読んだ記憶がある。持っている藤枝の単行本(随筆集)に収録されていたはずだ。探してみると、『茫界偏視』(講談社)という函入りの昔ながらの文芸書然とした単行本に収録されている。経緯はわからないが、著作集発刊の後(1978年)で編まれたものだった。骨董好きだった藤枝が所蔵する信楽焼について書いた「壺三箇桶一箇」と、彦根から湖東三山などを巡った際の紀行文「琵琶湖東岸の寺」のページに付箋がついている。20年ばかり前の私がつけたらしい。後ろの見返しのところに古書店の値札をベリッと剥がしとった跡があり、買った時の価格は不明。
この本をアマゾンで検索すると中古本の最低価格は351円(+配送料)で、著作集第1巻の最低価格1412円よりも安い。これらとは別に、2011年には講談社文芸文庫からタイトルに冠した随筆集『志賀直哉・天皇・中野重治』も出ている。こちらはアマゾンでKindle版が825円、中古本最低価格は1800円(+配送料)である。
 藤枝静男関連で滋賀ネタを少し補充しておく。藤枝は浜松市で眼科医を開業しながら執筆活動もおこなった作家で、初期の小説に大津事件に材をとった『凶徒津田三蔵』(1961年)がある。その取材に津田が巡査として勤務した駐在所のあった滋賀県東浅井郡(現、長浜市)の速水にも訪れている。小説にはその際の見聞をもとにした情景描写がある。「村は貧しく、桑畑にかこまれ、ここもまた〔前任地の滋賀県水口と同じく〕三方の視界を山にさえぎられていた。冬は冷たく雪は深く積もった。村をくぎる妹川の広い河原も桑畑にたがやされ、竹藪や櫟の林の向こうに白い流れがあり、対岸の土堤も深く竹藪に覆われていた」。書き写していても暗い気分になってくるが、まぁそのとおりである。とはいえ、南北に北国街道(現、国道8号)が通る周辺地域の中心集落で、平成の大合併で長浜市に編入される前は町役場が置かれていた。私が自転車で15分ほどかけて通った中学校もあり、当時、運動場の南隣はかなり広い桑畑だった。「妹川」は合戦の地として知られる姉川の支流で、私などは地図にもある現表記の「高時川」という名でしか呼んだことがない。
 住民が言うことを聞かないのと、そもそも言葉が通じないことでさらに精神的に病んでいく津田であった……というのは、津田の書簡類なども用いた富岡多惠子の小説『湖の南――大津事件異聞』(岩波現代文庫 2011年)を読んで知ったことで、『凶徒津田三蔵』で速水集落に関する部分は1ページにも満たない。その代わりに藤枝は、この取材旅行で目撃した、虎姫駅から米袋を積み込んで京都の宿屋に売りにいく「担ぎ屋の大群」の姿を、随筆(1960年5月発表)に書き留めてくれている(『今ここ』(講談社 1996年)収録)。
 話を戻そう。「志賀直哉・天皇・中野重治」(初出は1975年7月「文芸」)は、1946年に中野が読売新聞に書いた「安倍さんの『さん』」という、当時文部大臣だった安倍能成を非難する文章などを「不愉快」と感じた志賀直哉と中野の往復書簡、中野の評論『暗夜行路雑談』が指摘した主人公・謙作の特権階級意識を紹介しながら、藤枝自身が接した「白樺」同人の例として園池公致(きんゆき)に関する記憶を取り出してくる。園池は公家の生まれで、10歳から15歳ぐらいまで明治天皇に侍従職(いわゆる「お小姓」)として仕えていた。彼が書いた「白樺」明治43年9月号の「編集室にて」では、偶然電車で乗り合わせた家族連れの軍人の娘が小用を催したので、自分の家へ案内したエピソードが記されている。娘にトイレを貸している間の雑談で、父親のほうが森鷗外だとわかったので、「御高名は兼て承って居りました」と言って別れたという。無署名だったが、藤枝が問うと、園池は自分が書いたことを認め、「書生の便所を貸しました」と悪びれもせずに続ける。藤枝は、園池や志賀にみられた、平和主義とはまったく別種の「軍人蔑視」についてもふれている(このエピソードのとき、鷗外は陸軍省医務局長)。
 金井があきれているのは、藤枝をふくめて登場する男性作家たちは、「四つか五つの、小さな膀胱に尿を溜めて苦しんでいる女の子が『誰』だったのか、まるで興味を持たず、一切触れていない」ことだ。書生用の便所を使わされたのは、森鷗外の長女、森茉莉だぞと。
ただし、ここで「登場する男性作家たち」というのは創刊時の「白樺」同人と藤枝、その友人の文芸評論家・本多秋五のことで、中野重治はふくまれていない。この「編集室にて」を中野が読んでいたら、森茉莉の名をあげたかもしれない。次女の小堀杏奴については、批判的にふれた随筆があった。
 金井はホモソーシャルな男性作家の鈍感さを批判したのだろうが、中野は同時代ではそうしたものからは遠い稀な存在だった。「師匠筋」にあたる室生犀星が森茉莉と親交が深かったことは有名だが、その接し方とも異なる。
 例えば、旧版中野重治全集第8巻(1960年)の月報に、湯浅芳子が寄稿した文章「かけがえのないひと」が載っている。湯浅が中野に初めて会ったのは、1931年(昭和6)に中条(宮本)百合子と二人で中野の家を訪ねた時で、中野は病気だった妻の原泉の看病をしていたという。その後、1935年(昭和10)、湯浅は生計を立てるために、ロシア語教室を始め、ナップ(全日本無産者芸術連盟)のメンバーたち幾人かが通うようになるが、皆じきにやめていくなか、彼らとは別に生徒となった中野が一番長く、警察に逮捕されるまで習い続けた――と書くなかで、湯浅は中野が「とりわけ日本の男性にはめずらしいものを女への態度にもっている」としている。「これを女性への理解とかフェミニストとかいうような安つぽい言葉では表現したくない」「必要とあれば台所仕事でもなんでもやつてのける。あの真似はだれにでもできるというものではない」。最近、新劇の若手人気俳優が「好きな女性」のタイプを書いているのを読んで「些か嘔きけがしたのにくらべて、なんというちがいだろう」と締めくくっている。
 宮本百合子のパートナーだった湯浅芳子について、私もよくは知らなかったので、沢部ひとみ著『百合子、ダスヴィダーニャ(さようなら)――湯浅芳子の青春』(学陽書房、1996年)をアマゾンの古書で注文して読んだ。口絵にある晩年のくわえ煙草の写真がかっこよすぎる(もったいないことに何の手違いか、キャプションが「晩年の百合子」になっているのだが)。
同じく旧版全集第12巻(1962年)の月報では、作家の芝木好子が、「〔別荘のある〕軽井沢の近所では中野さんが一番働くので、壺井〔栄〕さんや私のところのオツトたち〔詩人の壺井繁治と経済学者の大島清〕は恐慌をきたしている」「〔終戦まもなくの頃に東京の中野家を訪れた時も〕若い幾人かのお客さんが集つて、さかんに議論をしていた。途中で中野さんは台所へ立つていつたと思うと、菜つ葉を洗いながら、そこから議論の応酬をしていた。夫人は新劇の公演かなにかで不在だつた」と書いている。
中野はといえば、例えば「ある日の雑録」(「文學界」1973年1月号)という随筆で、共産党のハウスキーパー問題(Wikipedia参照。それ以上の知識は私にもない)にふれて、この語を辞書で引いて「主婦」「女中頭」などほぼ女性に限定された訳語が並んでいることに驚く。「男のハウスキーパーというのも私の頭にはあつたからだつた」と書いている。
 読みたいと思いながら高価(6200円+税)で手が出なかったが、滋賀県立図書館が蔵書にしてくれたので木下千花著『溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局)を借りた。1947年に行われた溝口と田中絹代に作家の織田作之助が加わった鼎談での織田の「たとえば文学がわかったって、絵がわかったって、そんなものはすこしも女の魅力にならない」という言葉が「セクシスト発言」として引用されている。1913年生まれで、Wikipediaでは「愛妻家」と解説されている織田に比して、1902年生まれの中野の方は1944年の宮本(中条)百合子宛ての私信で文学について、あるいは獄中の中野へ本などの差し入れをおこなった童話作家、村上籌子宛ての私信で美術について書く。「なんというちがいだろう」。
 改めて書く機会もなさそうなので、滋賀ネタとして放り込んでしまうと、『溝口健二論』の「第4章 『風俗』という戦場――内務省の検閲」では、検閲台本の切除部分とフィルムを突き合わせて『祇園の姉妹』(1936年)における「『ぜぜうら』という言葉に対する徹底した抑圧」が考察されている。「ぜぜうら」は漢字で書けば「膳所裏(台本では、当て字で「ぜぜ浦」とも表記)」、現在の祇園東(戦前は祇園乙部と称した)のことで、かつて近江の膳所藩の京屋敷があった場所の裏であることから地元で使われた俗称。なぜ切除されたのか? 一応ネタバレは控えるが、これは現在でも製作者側の自己検閲で削除か架空の地名への変更がなされるだろう。
 話を戻す。中野が妻の原泉よりも針仕事などは器用にこなしたという話は以前の当ブログで書いたのでくり返さないが、妻や娘との対等さというのは、「ここ数年、私はわが家のなかでことごとになまり〔上京以来、誰からも指摘されたことのなかったわずかなイントネーションの違い〕を咎められている。女房子供からやつつけられ、その場でとつちめられている」(「展望」1966年4月号掲載「なまりの氏素性」)といったことも許容する態度を含む。
 湯浅が60年前に「安っぽい言葉」と書いたフェミニストのように理念先行で杓子定規にもならない。「『女史』などという言葉」(「大衆クラブ」1948年4月)では、「宮本百合子『女史』がこう言った」というような敬称は不要だと書いたあとで、去年九州の大牟田で、日本青年共産同盟出版部から出た本(1948年)に書かれていた「若い人々は男も女も同じ言葉を使え」「お互いの名を呼ぶにも呼びすてにしろ」という主張を実行したが具合の悪いことが起こったと聞いた。これについては「もつと落ちついて考える必要があると思う」と書く。
数年前(検索したら2016年だとわかった)、ビョークへのインタビュー記事が性別を強調した女性言葉になっているとして、インタビュアーを批判したブログ記事かtwitterをweb上で目にしたとき、70年近くも昔のこの随筆が思い出された。そもそも、これは男性言葉の側も同じくらい普通は使わない翻訳会話文の問題だろうと思う。
 なので、私はいまさら中野をフェミニズムだとかポリコレ的視点から再評価すべきだなどということを言っているのではない。なにせ、その方面から口を出されると、冒頭であげた前川の『われらの図書館』のあとがきで引き合いに出されたチェーホフと貴婦人たちのエピソード(チェーホフの家を訪れた3人の貴婦人たちは、最初、さも関心があるようなふりをして政治問題などについて話していたが、チェーホフが話題をマーマレードのおいしさに変えると、それまでのよそ行き口調をやめて、熱っぽく語りだした)すら、「女性差別だ」と批判の対象にされかねないから。
 中野の態度には、何かのイズム(主義)から来ているものではなく、とりあえず生来のものとしておくしかない自然さがある。キリスト教などの宗教的なものとも無縁だ。江戸時代に生まれていても、こうだったのでないかとすら思える。
 「小学校三、四年生くらいまでは」「いくら叱られても父親と手をつないで歩きたがつた」娘が成長すると、父親に「着物の着方がだらしがない。不精ひげが伸びてみつともない。そんなへんな格好して歩く人は誰もいない。道のまんなかで、何かに感心して大きな声で独り言を言うのはやめなさい。見ず知らずの人をつかまえて、買いもしない品物を、これは何に使うものですかなどと訊いたりするのは恥ずかしくてたまらない、うんぬん」と言い出すと、あと3年で60歳になる時期に書かれた随筆で中野はなげいている(「男を馬鹿にするな」『婦人公論』1954年6月号)。この文章の本題は男女共学反対論に対する反対で、タイトルはそちらに由来する。なげきは、自分が子供の頃にはまだいた髷を結った老人=頭の古い男に自身がなっているのではないか、いや、そのつもりはないという前振りである。
 現在進行形で妻と娘から事あるごとに「とつちめられている」私が感じるのは、中野の父―娘関係のモダンさ、現代性である。明らかにファザコンの鷗外―茉莉なんかは古臭くてかなわない。
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[追記 2020.10.4]
 松下裕が亡くなったことを、小谷野敦のTwitterで知る。亡くなった日がブログをアップした日の翌日(8月17日)だったので、「はーっ」と声が出たが、もちろん偶然である。

2019年 1月 14日

ぬか喜びした話と驚いた話と失礼な話――田井郁久雄著『前川恒雄と滋賀県立図書館の時代』

 その年のうちにアップしようと思いながら、年が越えてしまった。
 昨年(2018年)の4月下旬に彦根市立図書館の新刊コーナーの郷土図書の棚で見つけた田井郁久雄著『前川恒雄と滋賀県立図書館の時代』(出版ニュース社 2018年)について、遅ればせながら。いったん借りて、さらっと読んでおもしろかったので購入。
 県立図書館と市町村立図書館の県民1人当たり貸出点数は、2001年から2013年まで滋賀県が全国1位だった(2014年以降は東京都が1位、滋賀県は2位)。図書館職員の質(司書率の高さ)もふくめ、滋賀県を図書館王国にした立役者が1980年から1990年まで滋賀県立図書館の館長を務めた前川恒雄である。
 前川本人への聞き取りもふくめて関係者に取材し、滋賀県レベルでいえば、武村正義知事による行政主導の図書館振興から嘉田由紀子知事以降の予算削減による停滞までを、図書館業界的には(知ったかぶって書くのだが)、前川恒雄の時代から民営化に舵を切った栗原均の時代への移行を“歴史”としてまとめたのが本書ということらしい。
 図書館学の本というと理論・理念先行のような気がしてしまい、私は前川恒雄の著書もふくめて、あまり読んだことがない。そんな私でも、あくまで記述が具体的な本書は流れをつかみやすい。前川就任以前の滋賀県立図書館が、貸出冊数の何倍もの水増しをおこなっていたこと(ある期間の統計数値は役に立たない)なども包み隠さず書かれている。
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 前川の図書館運営上の方針からひとつだけ紹介すると、予約サービスでリクエストされた本は、内容にかかわらず購入して提供するというもの。県内の市町村立図書館からのリクエストもふくめて、県立図書館が断った事例は、「ほとんどないと言ってもよいくらい少なかった」とある。
 それがリクエストによる購入だったのかはわからないが、公共図書館としては稀なそろいのよさに、私も助けられたようなので、そのことを書いておきたい。
 2016年11月に当ブログでアップした「一夜明けたらFree Fallihg」で、ミュージシャンのプリンスについて書いた。そのさい、ジェフ・ブラウン著/岩崎江身子訳『プリンス全曲解説』(シンコーミュージック、1997年)に目を通しておいたほうがよさそうに思えた。同書に書かれていることを、知らずになぞっていても恥ずかしいし。本自体は絶版。アマゾンで中古本を入手しようと思ったのだが、プリンスが死んですぐだったので関連本や希少CDは高騰しており、最低価格で4000円ぐらいになっていた(定価は1600円+税)。
 そこであまり期待せずに、滋賀県立図書館の蔵書検索をしてみると、あった。
 Google検索で、「国立国会図書館」「プリンス全曲解説」の2語を入力すると、国立国会図書館サーチの書誌情報がヒットして、その右に提携している(という言い方でよいのだろうか)全国の公共図書館(都道府県立・政令指定都市の市立図書館など)のうちから所蔵している館の名前が表示される。
 『プリンス全曲解説』の場合は、滋賀県立図書館と徳島県立図書館の2館のみである。
 徳島県立図書館のほうも、『前川恒雄と滋賀県立図書館の時代』を読むと、「たまたま所蔵していた」のではないことがわかる。滋賀県立図書館には視察が相次ぎ、前川は他県の図書館計画の委員に招かれることも増えていった。「その中で前川がもっとも深く関与したのが徳島県だった」とあり、1節が設けられている。徳島県では、1990年開館の同県立図書館長に前川を招こうと働きかけてもいたという。
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 さすが、と思っていたのだが、2館のみというのは私の勘違いだった。訂正する。今回書き始めて、改めて国立国会図書館サーチのホームの画面で「プリンス全曲解説」を検索すると、検索結果画面には2つの図書が表示される。
 1行目が、「ジ・アーティスト・フォーマリー・ノウン・アズ プリンス全曲解説」
 2行目が、「プリンス全曲解説」
 著者名以下の情報はすべて同じで、同じ本なのだ。
 そう、おわかりのとおり、ジ・アーティスト・フォーマリー・ノウン・アズ・プリンス(The Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト)というのは、1991年から1999年まで、雄雌記号とラッパを組み合わせたような記号(発音は謎)に改名していた時代に、彼のことを音声で伝えるために用いられていた言葉である。
 1997年発行の本書は当然、こちらの名前になっている。それが正しいわけだが、アマゾンでも(あつかわれているのは中古品だけだが)書名は、「プリンス全曲解説」となっており、国立国会図書館も「プリンス全曲解説」を採用し、詳細情報の注記の項に「書名は奥付等による 標題紙の書名The artist formerly known as Prince」とある。ちなみに英語の原題は「The complete guide to the music of Prince」(発行は1995年)。その辺のわかりにくさは、書影画像を参照。
 要するに、1行目の長い書名を採用した所蔵図書館がある。札幌市中央/東京都立多摩/静岡市立中央/三重県立/大阪府立中央/大阪市立の6館。失礼した。それでも所蔵している公共図書館が稀ではあるのは確か。
 さて、『プリンス全曲解説』は、借りて読んでみると、以前のブログで最初にあげた曲「Peach」に関して、「プリンスがライブで必ずといってよいほどプレイする曲だが、なぜこんなつまらない曲をいつもやるのかわからない」といった評(手元にないので記憶による)が書かれており、この著者とはまったく趣味が合わないことがわかった。星5つにしている日本のアマゾンのレビュアーではなく、星1つのアメリカのアマゾンのレビュアーに賛成。
 大枚はたいて買わなくて本当によかった。いや、無理に滋賀県立図書館をほめようとしているわけではなく、仕事の参考文献にしても借りても半分は使い物にならないわけで、目を通してダメだとわかることが大事なのである。所蔵していてくれないことには話にならない。
 資料費(図書購入費)予算額を約2分の1に減額させた嘉田由紀子知事(2006~2014年)、三日月大造知事(2014年~)時代以降は、真面目な話、ない本が増えてゆくのだから仕事上、困っている。
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 なお、「第一部 若き日の前川恒雄―30歳前後までの歩み」は、「図書館関連以外の個人的な体験を語るのを好まない人」だった前川の少年期・青年期が、断片的ながら記録されていて貴重である。
 その中で私が一番驚いたのは、前川が通っていた朝鮮全羅南道木浦府の小・中学校の同学年にロシア文学者の松下裕がいたという部分。
 2人とも1930年に朝鮮で生まれている。当時は名前だけ知っているという程度で親しかったわけではないそうだが、松下は筑摩書房の編集者をしていた頃に、滋賀県立図書館館長だった前川に図書館に関する一般書の執筆をすすめ、『われらの図書館』(1987年)、『移動図書館ひまわり号』(1988年)ができあがったのだという。
 図書館関係者にとっては周知のことなのかもしれないが、この2冊とも私は読んでいないのである。
 その箇所に、中野重治の名前も記されているので書いてしまうと、松下裕といえば、私にとっては、『中野重治全集』の編者として記憶にある。関係するネタがあるので、次回につづく。
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 次回がいつになるかわからないので、昨年のベストセラー『君たちはどう生きるか』について書いておこう。正確には頭に「漫画」とつく、マガジンハウス版が2018年ベストセラー1位になったのだが、こちらについては、漫画家のいしかわじゅんの「俺も読んでみようと思って本屋で手に取ったんだけど、『なにこれ!?』って思って、そのまま元に戻した。絵もひどいし、構成も下手。本当にひどいマンガだよ」(『フリースタイル』41号)という発言と、私も同じ行動をして、同じ感想をもった。
 それとは無縁に、私は岩波文庫版の吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を2冊も所有している。それは、なぜか。
 以下は、以前の当ブログ「小波の世界」(2014年5月25日アップ)の中で、石井桃子とつながる作家は一般的な関心をひくためには太宰治だろうが、私にとっては中野重治だとしたところに、入れていたかもしれない話。ネット上では、このことを書いているものが見当たらない。
 まず、20年ばかり前、私は『石井桃子集 7』(岩波書店)収録の随筆「ある機縁」を読んだ。石井は「ある本」をきっかけに、知り合いを頼って中野の家を訪れる。「まるで子どもが言いつけ口でもするように」と幾分の後ろめたさとともに記す石井は、発行当時、世評高かった「ある本」をあまり好きではないという点で、中野と意見が一致したことに救われたのである。「ある本」の書名は明かされていないが、1940年前後という時期の中野が書いた書評をあたって、『君たちはどう生きるか』だろうと推測して、試しに古本を買ったのである。全体の4分の1ぐらい読んでそのままになった。
 その後、2014年に当ブログで「小波の世界」を書く前、中野と石井が直接会うきっかけになった本として、「おそらく」の但し書きつきで「あの本」のことを書きたくなり、ともかく最後まで読もうと探したのだが見つからない。仕方なく、アマゾンで古本を注文した。私のパソコンでアマゾンの「君たちはどう生きるか(岩波文庫)」のページが表示されると、上段に「お客様は、2014/2/9にこの商品を注文しました」と案内がでる。売価は27円+送料だったこともわかる。そうして2冊目が届いたわけだが、またしても私は読まなかったのである。自分の評価というもののない本の書名を否定的な文脈で出すのも失礼に感じ、このエピソードについてはカットした。
 アップして間もなく、尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)が出版された。聞き取り箇所で、石井は『君たちは……』を「優れたところがあるのも認めますけど」「私は感心することができないんですね」と言い、中野重治が「あれは文学じゃない」という意味のことを書いていたことをつけ加えている。
 なので、2015年に石井桃子の小説『幻の朱い実』が岩波現代文庫になったとき(日曜日の新聞の書評欄の下に載る岩波書店の新刊の広告を見たのだったろう)、同時配本が梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』という書名の、おそらく『君たちは……』を現代的にリメイクした本だったため、私は勝手に「石井さん、いやだろうな」と思ったこともある。これまた、『僕は……』自体を読んでいないので、失礼な話である。そして、いまだに『君たちは……』を読み通していないのも失礼な話である。せめて漫画でもと思ったのだが、前述のとおりの出来だったので果たせていない。

2018年 9月 9日

「きょうはなんのひ?」ごっこ――たなと『あちらこちらぼくら』

 1年ちょっとぶりの更新である。すべて書いているのは自宅で暇なときにだから、「私事多忙につき」ということで。
 間があいた分、古いネタになるが、荒木田隆子著『子どもの本のよあけ―瀬田貞二伝』(福音館書店)について。サブタイトルにあるとおり、『三びきのやぎのがらがらどん』などの絵本や『指輪物語』などのファンタジー小説の翻訳で知られる瀬田貞二の評伝である。
 出たのは2017年1月、私が読んだのは同年3月。以前の当ブログで書いてきたように、児童文学に興味があるわけではない私だが、読みだしたら止まらないおもしろさだった。瀬田の担当編集者だった著者がおこなった講座(東京子ども図書館主催)、つまり語りをベースにしており、その場のライブ感を失わない(前回の訂正をしたりする)整理の仕方がとてもうまい。
 戦後まもなく瀬田が入社した平凡社で編集にたずさわった『児童百科事典』のことが第1章にあてられており、その作り方を、著者は「猛烈リライト作戦」と表現する。これは、ちょうど当ブログ前々回の「原泉子と〈昭和〉の風景」でもふれた中野重治の短編小説「空想家とシナリオ」に触発されて企画したものだという。「空想家とシナリオ」の主人公・善六が思い描くのは、劇映画ではない。本ができるまでを、紙の原料であるモミの木が切り倒されるシーン、あるいは活字の原料となる鉛をふくむ鉱石が掘り出されるシーンから説き起こす映像、いわゆる教育映画である。
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 さて、アマゾンのサイトにある『子どもの本のよあけ』のレビューで、Toshi Kurokawaが書いているとおり、本書は多くの書評で、「(今では)知らない人が多いかもしれないが」という前置きがついた。3つのうちのもう一つのレビューはそれらに影響を受けてだろう、Green Roomと名のる評者が、「名を知らない人も多いだろう」と書いている。私が読んだ新聞の書評もそうだった。Toshi Kurokawaがあげている毎日新聞の持田叙子によるものだったかは覚えていない。
 何だか、石井桃子について書くとき、「誰もが子どもの頃、世話になった」と書き出すような芸のなさ。少なくとも、私が世話になったのは成人してからである。
 疑わしい前置きが定着してしまいそうで、釈然としない。
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 同じ年(2017年)の11月に、たなと著『あちらこちらぼくら』2巻が出た。「たなと」というのが漫画家の名前である。連載されていた青年漫画誌『ヒバナ』(小学館)が同年8月に休刊し、移籍先も未定だったので心配していたが、ひとまずうれしい。
 東京都内の高校(都立立川高校がモデルのよう)を舞台に、同じクラスの地味め丸刈り・園木と金髪リア充・真嶋の異文化交流を描く。都内の進学校らしく、登場人物の多くは「屈託なさげなキャラ」なのだが、そこはそれ、とくに主人公2人にはそれぞれの事情がある。
 2巻に収録されている第12話は修学旅行の話で、行き先が京都・滋賀の3泊4日。京都で大部屋2泊のあと、滋賀のホテルは2人部屋で、園木と真嶋は同室になる。これは本筋とは関係ないが、お約束の「滋賀ネタ」なので、くわしく書いておく。園木は窓のカーテンを開けて、目に入った夜景に「お…… おお――」と声を出し(しかし、これは滋賀県内のどこの夜景だ? 琵琶湖の湖面は描かれていない)、iPodを取り出してベッドに腰かけ、Starsの「On Peak Hill」を聴き始める。そう、園木は彼の世代では希少な洋楽好きである。
 この設定は園木の性格づけだけはなく、これ以前の回で園木から借りたスティングのベスト盤をかけた真嶋(CDをデッキにかける行為自体がひさしぶり)が、今よりも洋楽が普通に聴かれていた世代にあたる父親との何気ない会話を思い出すシーンに生かされている。
 ぎこちないながら(主に園木のせいで)、つきあいを深めてゆくなか、同じく2巻収録の第16話では、園木の誕生日の放課後、真嶋は二つ折りのメモを園木に手渡す。開いてみると、「じゅうじごろ使った教科書の中」という手書きの文字。その場に園木といっしょにいたクラスメイトの須藤の頭にはすぐさま、瀬田貞二作・林明子画『きょうはなんのひ?』(福音館書店 1979年)の表紙が浮かぶ(漫画だから、左側頭上に描かれている)。
 声を大にして言っておく。
 フィクションの中の例だが、今どきの男子高校生である須藤と真嶋は、瀬田貞二の本を知っているぞ。当然、作者である2012年に商業誌デビューしてボーイズラブものばかり描いている30歳前後とおぼしき女性漫画家も、瀬田貞二の本を知っているぞ。
 ついでだから声を潜めて言っておく。私は、園木と同じ誕生日だったぞ。
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 その後、『あちらこちらぼくら』の連載は小学館の電子書籍アプリ『MangaONE(マンガワン)』で継続されることになった。これはスマートフォンでしか見ることができないので、いまだにガラケーの私は妻のiPhoneを借りて(正確にはその前に妻に頼んで同アプリをダウンロードしてもらって)、新作分を読んだ。一昨日(9月7日)にアップされた第26話が最終回である。さびしいが、紙媒体での第3巻が無事出そうなことは喜ばしい。
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 人物つながりで書いておくと、去年の4月から今年の7月にかけて、「林明子原画展」(朝日新聞社主催)が、高松・広島・鳥取・兵庫・宮城・東京の順で、美術館を巡回した。私がそれを知ったのは、宮城県美術館が終了間近の頃、あわてて、同館に電話して図録だけ購入した次第。
 『きょうはなんのひ?』も全ページ収録されている。見開きにもとの4見開き分程度が掲載されているかっこうで、これはこれで楽しい。五味太郎との対談も収録。五味曰く、「(林明子の作品を)童心主義的な流れだと安心して読み始める」と「ちょっとやばいぞ、と」なる。「このやばさに気づかないと、絵本読みとはいえないでしょう」。それと、巻末の論考「イラストレーターとしての林明子」(菅野仁美)の中に掲載されている未來社のPR誌用に描かれたカット絵、擬人化されたネコとウマを見ることができたのも拾い物だった。

2017年 8月 15日

ナニワトモアレ、反緊縮――南勝久『ザ・ファブル』

 北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)を、書店の新書の棚で購入。立ち読みした時点で、一流大学の教授ほど学生の就職難に関心がない(=ほっておいても就職できる)から、アベノミクスに反対するといった発言に、そんな身もふたもない……と笑ってしまった。
 と記憶していたのだが、改めて同書を読むと該当する箇所がない。「いわゆる文化左翼って大学の先生ばっかりでみんな食うに困らない人だから、貧乏人の幸せの心配なんか本気でしないですよ。(栗原)」「アベノミクスの一番の効果というか恩恵を被っているのは大卒の新卒の人たちで、これは非常によくなっている。(北田)」といった発言はあるのだが。もしやと思い、同じ頃に買った髙橋洋一・ぐっちーさん『勇敢な日本経済論』(講談社現代新書)という対談本をあたると、こちらの高橋発言だった。
 「Fランク大学の教員のほうが失業率には敏感なんだ。企業は上から採用していくじゃない。不況のときでも一流大学は影響を受けないんだよ。だから、一流大学の先生って、学生の雇用にまったく関心を示さないんだ。」「金融政策と雇用に関係があるというのは世界の常識なんだけど、一流大学の先生ほどそれを理解しない。金融政策に関して比較的まともな発言してるのって、だいたいマイナー大学の先生なんだ(笑)。身近で深刻な問題なんだもん。」
 前振りからつまずいた格好なんだが、『現代ニッポン論壇事情』の方について書かないと先に進まない。内容は、ここ30年の社会批評を概観しながら、近年とみに経済の問題を無視して政治運動(?)にかまける朝日・岩波文化人(帯にある順で名だけあげれば柄谷行人、上野千鶴子、内田樹、高橋源一郎、宮台真治、小熊英二、古市憲寿……)を批判した鼎談。ひと言でいうと、「(滋賀県草津市にある)立命館大学経済学部の教授・松尾匡さんの本を読んで、反緊縮・リフレ派になろう!」。
 2015年5月24日付けの当ブログ「アルペジオ、アンサンブルー、アベノミクス」で、松尾著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)と『不況は人災です!』(筑摩書房)を取り上げたとおり、私も反緊縮・リフレ派なのだが、松尾本も含め北田や後藤(栗原だけ違う)が「反安倍」なのがわからない。北田の発言に「“安倍嫌い”まではわかる。僕も嫌い(笑)」というのがあるが、何がどう嫌いなのかという説明はなし。
 そもそも私には、安倍首相の祖父の岸信介を左翼が嫌うのがわからない。有名な「満州国の産業開発は私の描いた作品だ」という言葉からして、岸信介は社会主義者だろうに。先のリベラル文化人たちは衣食足りて脱(反)経済成長・緊縮を説く自由放任主義者だから仕方ないとして、それを批判する立場で、なぜ? という理由もじつはわからないわけではない。それは小谷野敦などの本を読めばわかる。
 『現代ニッポン論壇事情』を持ち出してきたのは、同書で東浩紀と宮台真治が「自分だけが本質を見ている系」(後藤)と揶揄されていたから、それに便乗するためである。宮台については、前回の当ブログでも小説中の「北台権司」として登場させており、「著作を読んだことも、コメントの類いが記憶に残ったこともない」と書いた。それは半ば嘘でインタビューでの発言に腹を立てたことはある。「はてなダイアリー」にあった「東浩紀の文章を批評する日記」というブログのコメント欄に投稿までした。適当な語で検索してみると、まだ表示されたので驚いた(ブログ自体は2010年1月以降の更新なし)。
 日付は、2004年8月12日、時刻は23時36分。ちょうど13年前だ。ハンドルネームには「ゴロン」とある。名前を使わせてもらった飼い猫は5、6年前に世を去っている。またしても、盆休みにこうして書いている、わが身の変化のなさよ。
 さて、投稿した文章は以下のとおり。
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 東(とその他)の漫画評で古いネタになりますが、誰もツッコミ入れてないので書いておきます。以下、長くてすいません。無視してもらって結構です。
 WebマガジンのTINMIXインタビュースペシャル「車から老いへ」で、東は小説家の阿部和重、漫画家の砂といっしょに「ヤングマガジン」の『頭文字D』(しげの秀一)と『湾岸ミッドナイト』(楠みちはる)について語っています。この時点で車漫画として、この2作品を取り上げたこと自体が誤りです。ヤングマガジンには、もう1作、南勝久の『ナニワトモアレ』という車漫画があり、3作品の中で漫画として最も面白かった(過去形ではなく連載中の現時点でも)のは『ナニワトモアレ』なんですから(言っておきますが、マニアックな視点で言っているではなく、同誌での掲載順、単行本の売上数などからみて、『ナニワトモアレ』は一般読者にも支持されています)。
 で、鼎談で東は「車は、精神分析的には女の隠喩ですからね。」という結論を出します。(笑。ちょうど『ナニワトモアレ』には、こんなセリフを鼻で笑う場面があります。)
 さらに東は読売新聞の書評欄でも、『湾岸ミッドナイト』を取り上げ、「バブル後の日本社会を映している」とか言うわけです。
(中略)
 さらに、車雑誌「afエグゼ」で、東は社会学者の宮台真司と改造車をテーマにした対談をしたそうです(これは未見)。その後、宮台は「文藝別冊 岡崎京子」(河出書房新社)の岡崎京子に関するインタビューの中で、先の対談の件を持ち出して「今『ヤンマガ』に車の連載が二つあるんです、しげの秀一『頭文字D』と、楠みちはる『湾岸ミッドナイト』」と言い出します。で、語っているのは、漫画そのものではなく、現実のドリフト族とローリング族と自分の自慢話なのでした。だから、2つじゃなくて、3つだってば。コンビニででも『ヤンマガ』を手に取ったことがあるんでしょうか? 宮台は。
(ファンかと思われると心外なので、補足すると私は岡崎京子が大嫌いです。先の本に目を通して、持ち上げているのはどうでもいい人ばかりなので安心した次第。)
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 大阪の環状族をモデルにした『ナニワトモアレ』は、登場人物の素行が悪くチーム同士の抗争シーンも多かったため、走り屋漫画というより喧嘩漫画だと評されることもある。しかし、東・宮台の場合、それを理由にはずしたのではないだろう。単に雑誌を手にとっていないのだろうが、そこをつつく気もしない。むしろ、この2人の選からもれた『ナニワトモアレ』はさすがだ。
 現在、南勝久がヤングマガジンに連載している『ザ・ファブル』が、今年5月に第41回講談社漫画賞[一般部門]を受賞した。○○賞の類いは基本的に無視しているが(同賞は発行元の出版社主催だし)、南勝久はあまりに過小評価されすぎてきた。15年余り、毎週月曜日の仕事帰りに立ち寄るコンビニで(改めて単行本でも)楽しませてもらってきたファンの身としては、ただただ「おめでとうございます」と書きたい。審査委員の一人で漫画家の大暮維人による「前作に引き続いて掲載誌を背負っている作者の凄みを感じました」という選評も、激しく同意しながら書き写しておく。
 『ナニワトモアレ』(2000~2007年 全28巻)と第二部にあたる『なにわ友あれ』(2007~2014年 全31巻)はアマゾンでほとんどレビューの書き込みがなく、休業中の殺し屋を主人公にした『ザ・ファブル』から急増しているが、作劇のうまさは3作とも共通している。1980年代後半から1990年代前半のヤングマガジンを代表する傑作『ゴリラーマン』(ハロルド作石)が一番おもしろかった中期の質を、はるかに長く維持している(ちなみに実際の連載時よりも過去を舞台としている『なにわ友あれ』では、主人公テツヤが『ゴリラーマン』を愛読していることがわかるシーンもある)。テツヤの相棒で1回だけ人差し指からレーザービームを出したこともあるパンダには、2000年代日本漫画の助演男優賞を贈りたい。
 絵はスタッフのポーズを撮影して資料にしており、南は目にしたこともないだろうが『ガロ』系の作家で私が唯一好きな安部慎一の系譜に位置づけたい。
 さて、2014年に『なにわ友あれ』の連載終了から『ザ・ファブル』の連載開始まで、たしか4カ月くらいあった準備期間中、私は次の連載への期待に身もだえしながら、「舞台は滋賀県になってくれ」と心の中で念じていた。単純に当ブログで取り上げたかったからである。舞台は大阪の架空の街(太平市)であるわけだが、第2話で主人公が東京から大阪まで移動する途中、車上荒らしの2人組を瞬殺(殺してはいない)するのは、新名神高速道路の甲南パーキングエリア(滋賀県甲賀市)の駐車場のベンチそばにおいてである。ちょっとだけ私の念が届いたらしい。

2017年 5月 7日

JillはBill、水川は前川――小谷野敦「細雨」

 2回前の「一夜明けたらFree Falling」でとりあげたビッグ・ボーイ(Big Boi)のソロアルバム『Vicious Lies And Dangerous Rumors』(2012年)がなにげに愛聴盤になっていたので、そろそろ次のアルバムも出るのではと、ネットでたまに検索していたら、今年に入ってニューアルバムのレコーディング終了との知らせあり。興味の半分はまたまたケイト・ブッシュにお願いしたか問題だったのだが、そこは不明のまま、4月20日(日本時間では21日)、アルバム収録予定のシングル2曲が同時リリースされた。6月にはアルバム『Boomiverse』がリリース予定だとか。
 シングルの1曲「Kill Jill」(Big Boi feat.Killer Mike & Jeezy)を聴こうと、YouTubeにアップされたジャケット画像(日本の舞妓の写真をデザイン)をクリックすると、鳴り出したのはまさかの初音ミク。一部をサンプリングしてバックトラックにしている「Aura Qualic feat. Hatsune Miku」(2008年)という曲は知らなかったが、声でわかる。
 「Kill Jill」という曲名はゲストラッパー2人の名だけでなく、日本映画にオマージュを捧げたクエンティン・タランティーノ監督の映画『Kill Bill』(2003年)にちなんでいるのだろうというのは誰でも思いつくところだが、調べてみると、アメリカで大スキャンダルに発展した超有名コメディアン、ビル・コスビー(Bill Cosby)のレイプ訴訟(被害者として名乗りでた女性は50人以上。犯行時、未成年者も含む。ただし、ビルは一貫して容疑を否認)にからめた歌詞らしい。
 と知ったように書いているが、かの地でそんなことが大事件になっていたとは初耳。ビル・コスビーという名にしてから、どこかで聞くか読むかした気はするだけ。ネット上のプロフィール記事を見て、トレードマークとされている派手なニットは、一時期、ビートたけしがよく着ていたニットを思い出させるから、たけし担当のスタイリストがコメディアンつながりで真似したのかな(逆ではなく)という感想をもったのみ。
 髪をツインテールにした少女の姿という設定のボーカル音源がうたう歌詞(もちろん日本語)は、「愛してよ 私を抱いてよ ねぇ そばにおいでよ」。ジャケットの舞妓は目と口から血をたらしているように見えるし、毒気たっぷりの使い方ということになる。
 Big Boiはメディアの報道を疑えという立場のよう。英語歌詞の方は機械翻訳にかけても、私の手には負えない。そのうち、誰かのくわしい解説を読めるだろう。
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 JillはBillから、途中まで書いて放置していたネタを思い出したので復活させてみたいと思う。
 前回に書いた蓮實重彦インタビューが掲載されていた『文學界』2016年9月号に載っていた小谷野敦の「細雨」という短編小説についてである。つまり、去年の8月に読んだものだ。
 主人公は、都内の公立図書館に勤め始めた20代女性倉持里沙、調べものをするためにほぼ毎日館を訪れる作家、宇留野伊織と会話を交わすようになり……。タイトルから連想される谷崎潤一郎の長編小説「細雪」ではなく、最近増えた中年から初老にかけてのインテリ男性と若い女性の恋愛を描く小説のパロディ、もしくは、そのリアリズム小説版といえばいいのか。なので、2人が恋愛感情をもつような展開には至らない。むしろ2人のやりとりは、ディスコミュニケーションの苦い笑いを生む。里沙は「現実は小説やドラマのようにはいかないもんだなあ」と思う。
 おもしろい。なんだろう、このおもしろさは。最後のオチ(?)も好きである。肩の力が抜けた、懐かしさも感じるものなのだが。
 それまでの小説、『悲望』(幻冬舎文庫)を書店で、『美人作家は二度死ぬ』(論創社)をアマゾンに中古品出品で購入して読むと、いずれも大学の文学部もので、「細雨」もこれに連なる小説だといえる。
 著者がアメリカ小説を読みといた文芸評論集『聖母のいない国』(青土社)の、モンゴメリの『赤毛のアン』に関する章で書かれている「アン」のファンたちの多く、「ことさらな才能も、あるいは何かによって世に出たいというほどの特殊な技能への執着も」ない女性が、研究者の道には進まず図書館で働き始めた「細雨」の主人公、倉持里沙である。実際、彼女は、冒頭から書店の新刊書コーナーにあった小倉千加子の『「赤毛のアン」の秘密』(岩波現代文庫)を手にとる。
 一方、以前『さえない男』というタイトルの新書がベストセラーになったこともある宇留野伊織は、作者小谷野敦をモデルとしているように読めるわけだが、会話やモノローグに出てくる個人名は、実在の人名のままと変名に分けられる。
 名を変えてあるのは、以下の3人(ざっと見返して拾っただけなので、まだいるかもしれないが)。
A:東大図書館で大量の本を借りたまま返していない社会学者の北台権司
B:騒音嫌いで知られる哲学者N氏
C:著作集も出ている図書館学会の大物、水川
 あっ、Bはイニシャルにしてあるだけだな。AとBはそれぞれ一時的にしろ新聞や雑誌で名前を目にしたことがある人物なのでもとの名前がわかる人が多いだろう(正確にいえば、私は両者とも著作を読んだことも、コメントの類いが記憶に残ったこともないので、姓しかわからないのだが)。
 Cのモデルは前川恒雄である。おそらく一般的には最も知名度が低いだろう人物の姓名がわかるのはなぜかといえば、私が滋賀県の住民だからである。
 東京都の日野市立図書館館長だった前川は、滋賀県の武村正義知事に請われて、1980年7月、滋賀県立図書館の館長に就任(1991年3月まで)。市町村単位で図書館を建てるため、「思い切った補助制度をつくってください」と武村知事に提言したことで、県内に図書館が4館しかなく、全国最下位レベルだった図書館行政は飛躍的に向上していった。専門的知識をもつ人材の登用と複数年にわたる図書費への補助が成功の要因だったとされる。
 今年の1月ごろには、彦根市立図書館にある新刊コーナーの「郷土図書」の棚に、最近行われた前川恒雄の講演を中心に編んだ冊子[草津市の個人宅が発行元で非売品。滋賀の図書館を考える会編集・発行『図書館を考える集い(2015年10月28日)記録 滋賀から問う! “ひまわり号”から50年、日本の図書館の現状は?』]も置かれていた。
 通りのよい成功体験として何かと持ち出される石けん運動(琵琶湖の富栄養化防止条例の本当の功労者は、洗剤メーカーに無リン化の方法を教えた県職員だろう)に私はかなり前からうんざりしている(当ブログ2008年 6月 28日「石けん運動の経過について考える」)。参照するなら、やはり前川による図書館整備だなと思う。
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 どこへ行くあてもないので、「Kill Jill」の歌詞の一節と「細雨」の宇留野の言葉で終わっておこう。
「who knows what the truth is?」
「都合が悪いことは、世間の人は答えないから」

2017年 1月 29日

原泉子と〈昭和〉の風景――森田創著『紀元2600年のテレビドラマ』

 前回の最後で、また小説『伯爵夫人』にもどったので、その続きである。
 同作は例の賞を受賞したため、作者のインタビューが何誌かに掲載された。
 『新潮』7月号に受賞記念インタビュー、『文學界』9月号に掲載のインタビューは、「『文学部不要論』の凡庸さについてお話しさせていただきます」と題されたものだが、『伯爵夫人』への言及もある。聞き手の渡部直己(文芸評論家、早稲田大学教授)とのやりとりの中で、最近のやたら小説を書きたがる学生は、「日本の小説のことなど何も知らない」「中野重治も武田泰淳も知らないで小説なんか書かれちゃ本当は困るわけでしょう」「私の今度の小説だって、中野重治も泰淳も出てきます」
 この発言は、先の受賞記念インタビュー(『新潮』7月号)での、「書きながら、たくさんのかつて読んだものの記憶が招きよせられたのは事実です」「菊の御紋章入りの靴下が出てきますが、あれはわたくしの記憶では武田泰淳の小説にあったはずなのに、どの作品だったのか思い出せません」「映画であれば、さまざまな記憶が共有され継承されていますが、文学ではそうではない」を引き継いでいる。
 とすると、「偽男爵」は中野重治の「空想家とシナリオ」(単行本化は1939年)から来てるわけか――と、即座に頭に浮かんだのであればよいが、そうでもない。見当をつけて、持っている講談社文芸文庫版『空想家とシナリオ・汽車の罐焚き』(1997年)を20年近くぶりに読み返してみて、すっかり忘れていた「偽男爵」の話を見つけた。
 そう、中野重治は読まれていない。私も武田泰淳は1作も読んでいないから偉そうなことはいえないが、別に小説を書く気はないので、そこは勘弁してもらいたい。
 前に石井桃子とのからみで書いたが(当ブログ「小波の世界」)、最近になって河出書房新社が出した石井の随筆集でも、中野との出会いを書いた「ある機縁」は除外されていたし。
 アマゾンで「中野重治」を検索してみても、レビューなしの作品が多い。代表作とされるものでも、1~2件とか。表示される書影とタイトルを下へ移動しながら、次ページ(次画面というべきか)へと移っていくと、6ページ目で、中野重治の著作でも、他人による評伝の類でもない本が現れた。
 森田創『紀元2600年のテレビドラマ ブラウン管が映した時代の交差点』(講談社)[正確に画面表示を記すなら、書名、著者名の順で、二重かぎかっこはなし、出版社名はずっと下にあるわけだが]
 書名部分をクリックして、単独の紹介ページに切り替える。内容紹介の文中に、「原泉子」の文字が読めて、ようやく中野重治とつながりが納得いく。2016年7月に出たこの本は、何紙かの新聞の書評でも取り上げられていたので知ってはいたが、私が読んだ書評中で「原泉子」の名前を出していたものはなかった。アマゾンのレビューは五つ星ばかり6件だが、出演者を指すものとして「岩下志麻さんのお父さまや寺尾聰さんのお母さま」という文章は出てくるがやはり「原泉子」の名はない。
 というわけでアマゾンの検索システムのおかげで、中野重治の妻、原泉子が出演していた日本初のテレビドラマについて書かれたノンフィクションを知る。
 近所の書店では新刊コーナーに並んでいるのを見たことがなかったので、出品されていた中で最安値だった中古品876円のものを購入。定価は1600円+税。
 戦前の日本でテレビの受像機に初めて映ったのは片仮名の「イ」の字だったというのは、テレビのクイズ番組や子供向け学習図書から教わった知識としてある。だが、テレビドラマの実験放送が紀元2600年=昭和15年(1940)にすでに行われていたことは、なぜかあまり知られていない。本書では、その理由を「戦時体制と不可分に結びついたその歴史に、どことなくフタをしたい気持ちがあったからにちがいない」としている。
 昭和15年4月13、14、20日に放送された12分間の生放送ドラマ『夕餉前(ゆうげまえ)』には、左翼系劇団「新協劇団」の俳優3人が出演した。原泉子、野々村潔(岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻、寺尾聰の母)。脚本を担当したのは、大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」の座付き作家だったこともある伊馬鵜平(春部)。
 本書は、プロローグでクライマックスにあたる放送ドラマの関係者が、「紀元2600年」の祝賀行事の一環であった同放送にいささか不似合いな者たちであることを示しつつ、テレビカメラと受像機の開発技術者、高柳健次郎(私たちがよく知る「イ」を映した人物でもある)の過去へとさかのぼっていく。
 読み出すと止まらない。前作『洲崎球場のポール際』(講談社)は、第25回ミズノスポーツライター賞の最優秀賞を受賞と著者プロフィールにあるが、テレビ開発の技術面も、素人にも興味がもてるエピソードを盛り込みつつ解説している。『洲崎球場の…』のアマゾンレビューの一つにある「ニュージャーナリズム的な」(現在時制を用いた再現VTRみたいな)書き方が本書をいくらか安っぽくしているが、読みやすさには確かに貢献している。
 それまでの実験放送で楽器演奏などが放映されていたが、出演者はみな照明の強さに根をあげ、「二度とごめんだ」と語った話は役者業界にも知れわたっていた。「新協劇団」の3人がこの仕事を引き受けたのは、経済的理由による。原泉子の夫、中野重治は昭和12年に執筆禁止処分を受けており、二人の娘である鰀目卯女への取材で、「幼少時代の記憶は、原が稼ぎ、中野が家事をするというものだった」、「ボタンホールの開け方に苦労しながら、腹巻を縫ってくれた」といった証言を得ている。
 これは私にはよくわかる。刊行時に図書館で借りて読んだ『敗戦前日記』(中央公論社、1994年)の半分ほどは、虚弱だった卯女の「育児日記」である。月日、天候と午前二時半、十時半、後二時、六時半それぞれの卯女の体温だけ書き記した日もある。挿絵を好んだ卯女の求めに応じて、『熊のプーさん』を読んでやることもあった。
 原側の結婚の条件が演劇を続けさせてくれることであり、中野もそれは当然と応じたのだから、これは対等な立場ゆえの役割分担だった。
 同年8月19日早朝、特高刑事が中野宅に踏み込み(ここで夫婦の対等性ゆえに生じたコミカルな一幕は、『紀元2600年のテレビドラマ』も拾っている)、原は世田谷署に連行される。新協劇団と新築地劇団の団員が拘束され、翌日警視庁は自発的解散を要請、23日に両劇団は解散を受諾。
 ここのところは、いつ買ったのか覚えていないが本棚にあった『愛しき者へ』上・下巻(中央公論社)のうちの下巻にある澤地久枝による解説文の方が詳細である。原泉は4ヵ月にわたって留置された。長期にわたったのは原がいわゆる「転向手記」を書くことをこばんだためである。
 12月22日、検事が「あなたがお考えになった共産主義に対するごく素朴な御意見を聞かして下さい」と問うと、原は「私は人様の書いた脚本で伯爵夫人にもなれば、水のみ百姓のおかみさんにもなる。みんな人の書いたものを暗記して覚えて、それらしい人間を舞台の上で表現するのが役者の仕事なんで、いちばんそういう論理的なことは弱いんです。共産主義というものはなんでも平等にすることだと私は理解しています」と答え、ようやく不起訴処分になって釈放された。
 「伯爵夫人にもなれば」と来たか。ここまでの過程で、原の評伝にあたる藤森節子著『女優原泉子――中野重治と共に生きて』(新潮社、1994年)の古本をアマゾンで購入していたのだが、カバー裏面には、ルイーズ・ブルックスまがいのボブカットで紙巻煙草を左手の指にはさんでポーズをとる原泉子の姿がある。
 ちなみに『紀元2600年のテレビドラマ』は、昭和16年12月8日、本物の伯爵(東伏見宮邦英)が見学に訪れたフィルム映画と日本舞踊の実験放送が、わずか3日前に定められた「国内放送非常体制要綱」に則り中止させられたところで終わる。
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 ここで整理しておくと、原泉子(はら・せんこ)の本名は原政野(まさの)、明治38年(1905)島根県松江に生まれる。戦後、芸名を原泉(はら・いずみ)と改めた。
 大正9年(1920)15歳で上京し、3人姉妹の下の妹の学費を稼ぐために、画学生や彫刻家の裸体もふくむモデルとして働き始める。昭和3年(1928)プロレタリア演劇研究所の研究生となる。
 先の評伝『女優原泉子』は、昭和54年(1979)に77歳で亡くなった中野重治の告別式会場の様子から始まる。原泉の挨拶がある。「一九三〇年に、旧『驢馬』の同人の手によって、私どもは結婚いた、さ、せ、られ、たのでございますけれども」とあるのが、中野の関係者らしく、正確を期した感じでおかしかった。
 そう、中野と原は「結婚した」のではなく、「結婚させられた」のであり、当時、中野が左翼劇場の研究生である別の女性に〈ねらわれ〉ていたが、その女性が中野にはふさわしくないと考えた友人らが行動に移したものだという仔細も後段では明かされている。
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 今回のブログタイトルは、雑誌『ユリイカ』の2016年2月号特集タイトル「原節子と〈昭和〉の風景」のもじりである。女優原節子が2015年に亡くなったのを受けて出された雑誌だが、書店で手にとってはみたものの、私は原節子ファンではないので購入していない(ついでながら、前に当ブログで少し書いた小津安二郎の映画『麦秋』でいえば、私は原節子よりも淡島千景の方が好みである。中野重治がひいきの女優としていたのも淡島千景だった)。
 Wikipediaにある項目でちょうどよいので使わせてもらうが、「活動期間」は原節子が1935年(昭和10)~1961年(昭和36)、原泉子(原泉)の活動期間が1928年(昭和3)~1989年(平成元年)だから、〈昭和〉のほぼ全期間を女優として生きたのは後者の方である。
 言ってみたものの、私は原の出演作をそれほど見ていない。中野重治を読み出してまもなく、妻が女優だということは知ったが、数作あがっていた出演作で見ていたのは、『遠雷』(根岸吉太郎監督、1981年)だけだった。映画館でもレンタルビデオでもない。高校生だった頃、民放テレビで冬休みや春休みの深夜にATG作品をまとめて放送していたから、それを見た。耳が遠くていつもテレビの音量をあげている婆さんが……と思ったわけだ。
 これは何で読んだのか、原泉が出演作の選り好みをしないということは知っていた。だから、現在のWikipediaに「上品な老婦人・偏執狂的な姑・果ては祈祷師や霊媒師といった妖気漂う不気味な役までこなした」とあっても驚きはしない。それでも、改めて出演作の一覧と役名を眺めると、戦前の世田谷署での尋問に対する自身の返答を地でいく一貫性に驚かざるをえない。
 何か出演作を観てみようと、晩年に近い映画出演作のタイトルを眺める。選んだのは田中登監督『丑三つの村』(1983年)。理由の一つは、監督が田中登だったからだ。以前の当ブログ(「国貞の虜」)で、2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」の32作品のうち、名古屋の上映館へ行って2作品、DVDを買って1作品観たことを書いたが、じつは(といっても、別に隠したわけではなく、本題と関係ないので省略したわけだが)もう1本、観た。
 別の日の上映を観にいった友人から、「『(秘)色情めす市場』面白かったので、お勧めです。」というメールをもらい、そのDVDをアマゾンで購入したのである。購入履歴によると、2012年8月28日に注文している。9月2日にその友人へメールしている。「DVDにて観賞。はい、傑作です。薦めてくれて感謝。大阪西成のドキュメンタリータッチを維持したまま、どシュールな世界へ。」
 アマゾンで検索してみると、とうとう2016年にはブルーレイ化されている(なるほど、ロマンポルノ45周年か)。
 そんなわけで、田中登監督『丑三つの村』のDVD、定価3,024円(税込)が1,854円になっているので新品を購入。
 昭和期最大の大量殺人事件「津山三十人殺し」に取材して書かれた西村望の同名小説が原作。舞台は昭和13年(1938)の日本の山村、村一番の秀才と羨まれていた主人公犬丸継男(古尾谷雅人)だったが、兵役検査で軍医から結核と宣告されると周囲の村人たちは手のひらをかえして避けられるようになる。徐々に不満を募らせ、村内でのリンチ殺人の現場を目撃した継男は自らの身の危険も感じて密かに計画を練る。
 田中作品を2作しか観ていない者なりに、『(秘)色情めす市場』と比較してみれば、同じストーリーの変奏ではある。気づけばみんな穴兄弟、竿姉妹のような狭いコミュニティに生きる主人公が、フリーでやっていこうとする(売春をなんだが)のが『めす市場』で、そこを破壊するのが『丑三つの村』。前者で芹明香(せり・めいか)演じる主人公が地下道で誰彼かまわず声をかけて回るシーンが、後者の殺戮シーンに相当すると。
 原泉演じる犬丸はんは継男の祖母で、両親がともに亡くなっている彼にとっては唯一の肉親にあたり、出番も多い。出演シーンの長さからいっても、原泉晩年の代表作にあたるだろう。孫が道を誤ろうとしていることに気づき、身を挺して思いとどまらせようとするのだが……その結果は定石どおり。
 クライマックスの惨劇シーンのため、映倫が4ヶ所のカットを命じて成人指定になってしまった今作、ヤフオク!で入手した同作のパンフレットにあった「撮影うら話し」には、「ロケ地は琵琶湖畔の木ノ本から2時間も奥へ入った所」とある。
 また、撮影現場への取材記事が山根貞男著『日本映画の現場へ』(筑摩書房 1989年)に収録されていた。これは大船の松竹撮影所でのセット撮影へのルポで、ロケ撮影については、「いい候補地が見つかっても、話が話だけにいやがられたりしたあげく、滋賀県の山奥の村で行われた」とあるのみ。
 そう、これが『丑三つの村』を選んだ理由の二つ目だ。アマゾンの今作DVDのページにある2016年9月15日付けでBo-he-mianという人が書き込んだレビュー中にあるロケ地情報が一番くわしいので、長くなるが該当箇所を引用する。
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「映画のロケ地に使われたのは、豪雪地帯として知られる、滋賀県長浜市余呉町鷲見(よごちょう・わしみ)という集落で、『八つ墓村』(’77)の中にも一瞬登場する村だ。映画の中で、見事な茅葺の古い日本家屋が立ち並び、とてもセットで作り込む事はできない歴史が漂う…時の流れに嬲られ鄙びた寒村の、滅びゆく風景に心打たれること必至であろう。オープンのシーンの多くは、この集落で撮影された。
この集落は、’95年に丹生ダム建設計画のため廃村となり、全ての家屋が解体されてしまったという。現在ダム建設は凍結状態で、鷲見集落はいまだに水没していないようだが、集落への橋も落ちてしまい、もうそこへ行くすべはないという。
本作では、松竹の大船撮影所の大ステージに集落の一部をそっくりそのまま再現したセットを建て、家屋の中のシーンはセットで撮影したそうだ。しかし、古びた感じが実によく作り込まれていて、鷲見集落の家の中で撮影したかのように見える。(以下略)」
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 2010年(平成22)に長浜市に合併する前、撮影・公開時でいえば、伊香郡余呉町鷲見である。
 山根著『日本映画の現場へ』によれば、大船でのセット撮影を著者が見学したのが、1982年(昭和57)の11月とある。鷲見集落でのロケ撮影は同年の8月から9月にかけてか、パンフレットには「台風の真只中なのに、ロケ地だけは晴天が奇跡的に続き」とある。
 鷲見は、姉川の支流、高時川の最上流部(よけいややこしくなるかもしれないが近畿地方の規模でいうと淀川水系の最北端近く)に位置した。先のBo-he-mianという人のレビューには、「丹生ダム建設計画のため廃村」とあるが、これは端折った言い方で適切ではない。それ以前の経緯に、本当の廃村理由がある。以下の参考文献は、琵琶湖流域研究会編『琵琶湖流域を読む(上)』(サンライズ出版 2003年)。
 鷲見も含めた余呉町北東部(旧丹生村)は養蚕・製炭・林業などを主産業としてきたが、木炭需要の減退から、1970年代以降、住民の多くは近隣市町の工場へ勤めるようになっていた。当時の余呉村は「山村振興計画」の名で6集落の集落移転を決定し、1970年前後に3集落が移転、廃村となる。
 引き続き、残る3集落(鷲見をふくむ)も移転する計画だったが、共有林の売却ができなかったため資金難から計画は立ち消えとなる。
 そこへちょうど持ち上がったのが、高時川ダム(1992年に丹生ダムに名称変更)建設計画である。余呉町は建設反対を表明するが、鷲見をふくむ上流集落では集落移転計画実現の手段として下流集落を説得し条件闘争に持ち込んでいった。
 つけ加えると、Bo-he-mianという人も「豪雪地帯として知られる」と書いているとおり、高時川最上流の集落・中河内を中心に、1963年(昭和38)1月の豪雪で完全孤立状態になった。先の3集落が廃村となった直接の要因はこの大雪といってよい。つづいて1981年(昭和56)の「56豪雪」と呼ばれる大雪で、再び高時川上流の集落が長期間孤立する。翌1982年に流域集落が高時川ダム対策委員会を組織、翌83年から反対運動は条件闘争へと方針を転換する。
 その結果、鷲見地区の16世帯のうち13戸が同町内の造成地へ集団移転、3戸が同町内や旧長浜市へ自己資金で移転、離村式は平成7年(1995)10月22日に行われた。
 昭和50年前後の鷲見集落などの写真が掲載されている写真集『湖北の今昔』(郷土出版社 2003年)の解説には、「丹生ダム水没地域の人びとは、用地買収や補償にも積極的に協力して円満離村が成立した」と記されている。
 映画『丑三つの村』は、56豪雪翌年のロケであり、すでに当時鷲見集落の住人は町中心部近くに建てられた公営住宅などに生活の拠点を移していた。その点で、ロケはしやすかっただろう。『湖北の今昔』には56豪雪の翌年1982年(昭和57)以降、「トタン葺き屋根が並ぶようになった」とあるから、草葺き屋根が撮影できたぎりぎりのタイミングでもある。
 『琵琶湖流域を読む(上)』の「余呉型民家の形式」から引用する。
「鷲見の集落は、高時川と鷲見川との合流点から西に遡る鷲見川の両岸に形成され、古くは22戸、1991年では19戸で、入母屋造草葺トタン被の余呉型民家が妻面を川に向けて整然と建ち並んでいた。家屋は石段を一段高く積んだ敷地に建ち、別棟の隠居を付属していた」。
 映画でも、妻面を川に向けて整然と建ち並ぶ家々を主人公が向かいの山の斜面から見下ろし呪詛の言葉を口にする。「皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ」。唯一異なるのは、先にも書いたが「トタン被(かぶせ)」はなされていない点だ。
 もう一つ重要なのは、「妻入」すなわち妻面に入口がある余呉型民家だということだ。妻入なのは豪雪地帯であるために屋根からの落雪を避けるためで、屋根の雪が均等に解けるように妻面=入口は南を向いている。
 間取りは三間取広間型(前広間三間取り)で、部屋数が少なく、敷地面積自体も狭い。
 図を入れるとわかりやすいが、とりあえず文字と記号だけで表現すると、
   入口→1(にわ):1(だいどこ):2(ざしき/ねま)
となる。数字は部屋数、もちろん平屋(1階建て)である。それぞれの部屋は、壁ではなく襖か障子で仕切られている。
 これに対し、鷲尾の30kmほど南、琵琶湖岸の平野部にある葦葺き屋根民家(私も小学4年まではその一つに住んでいた)は、「余呉型」ではないものが一般的で、平面の左か右寄りに入り口がある「平入」の四間取だった。
    1(にわ):2(なかのま/だいどこ):2(ざしき/ねま)
     ↑
    入口(にわの反対側に勝手口あり)
 上記のようになる。
 ねま(寝間)に寝ているとして、殺人鬼に襲われた場合を想像してみてほしい。『丑三つの村』を観ながら、私が暮らした家との違いに気づいたわけだが、妻(短辺の側)から直線的にドン、ドン、ドンと寝間に押し入ってこられてしまう「余呉型民家」に逃げ場はない。
 たしか最初の2軒ぐらいドンドンドンの逃げ場なしが続いて、怖い。その後はワンパターンになるのを避けてか、平入の家や屋外に逃げたところを殺す形に移っていく。継男が一番殺したかった勇造(夏木勲)は瓦葺2階建ての家に住んでいたため、さっさと2階に上がると畳を起こして銃弾を防ぎ、生き延びてしまった。こら、勇造、余呉型民家で勝負しろ。そういう対決映画ではないわけだが。
…………………………………………………………………………………………
[追記 2月12日]
 原泉の出演作リストの中で、松山善三監督『名もなく貧しく美しく』(1961年)が近くのレンタル店に置いてあったので、借りてきて観た。二人とも聾者の夫婦の物語だが、高峰秀子と小林桂樹が芸達者さを発揮、手話による会話を名シーンにするエンタメ性もそなえた作品。
 原泉は、高峰演じる主人公の母親役で、主演二人の次にクレジットされており、出演シーンも多い。中期の代表作といってよいのではないだろうか。
 孫を相手に笑顔を見せるシーンも貴重だが、一番の見せ場は、家を出ていったまま音信不通だった、草笛光子演じる長女(主人公の姉)の住まいを訪ねるシーンだろう。
 バーの雇われママ兼中国人富豪の妾となり金には不自由していない長女の住いは、和服姿の母には不似合いなマンションの一室。
 入口で履いてきた下駄を左手にさげたまま、ソファに前かがみに座った母と傍らで立ったままの長女の会話は、緊張感を増していく。
 「用がなきゃ、訪ねてきちゃいけないのかい!」
 決裂して去る母、一人残された長女は鏡台の前に座ってブラシで荒っぽく髪をとかす。ここまでワンカット。
 初監督作品で単にカットが割れなかった可能性もあるが、見応えあり。

2016年 11月 6日

一夜明けたらFree Falling――Big Boi feat. Little Dragon & Killer Mike「Thom Pettie」

 最初に断っておくと、今回は丸ごと脱線である。「滋賀縛り」も果たせなかった。
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 3月に蓮實重彥の小説「伯爵夫人」を掲載誌『新潮』で読んでいる最中、あるミュージシャンのことが頭に浮かんでいた。エロスとユーモアの人、共和国アメリカの「殿下」、終盤に至って毎晩主人公が耳にしていた、行為の最中の女性の嬌声はどうやら録音されたものらしいとわかる……となれば。そう、プリンス。
 あろうことか、しばらく経った4月21日、殿下急逝。
 個人的に初めて買ったプリンスのCDが3枚組のベスト盤『ザ・ヒッツ&Bサイド・コレクション』(1993年)で、再生数は「セクシャリティ」をテーマにまとめたという2枚目の後半、サンプリングされた「アッ」という女性のあえぎ声がバックでリズムを刻み続ける12曲目の「Peach」以降だからなのか。録音された「あえぎ声」といえば、プリンスが私の頭には浮かぶ。
 Googleで、「プリンス」「あえぎ声」と検索してみる。先のベスト盤の翌年に発売されたアルバム『Come』(1994年)の10曲目(アルバム最終曲)「Orgasm」は曲中ずっと女性のあえぎ声がバックに流れているとわかる。このアルバムは持っていない。ワーナーとのトラブルから独立レーベルへの移行を決めた、例の記号(ラブ・シンボル)へ改名前のラスト・アルバムということで、未発表曲のお座なりな寄せ集めと音楽批評家が考えたせいだろう、発売時の音楽雑誌では軒並み不評だったはずだ。私はそれを信じて買わなかった。先の3枚組ベスト盤でお腹いっぱいだったというのもある。
 ところが、アマゾンで検索してみると、あれ? 評価が高い。「再評価望む!」「もっと評価されていい名盤」「何で人気無いの?」と、不評をいぶかしむレビューも多い。4月26日(履歴は便利だ)に輸入盤の中古を購入。700円なり。
 聴いたのはゴールデンウィークに入った休日の車の中、田植えをひかえて水の張られた田の風景とともに思い出される。
 冒頭のタイトル曲「Come」はワンコードで11分強の長尺ファンク、普通にかっこいい。
 4曲目「Loose!」は聴き覚えあり。持っている4枚組アルバム『クリスタル・ボール(Crystal Ball)』(1998年)の3枚目の7曲目「Get Loose」は、これの歌詞を減らしてアレンジを若干変えたものだ(曲名は、本来「Get Loose」だったものをアルバム『Come』の全曲名1単語の方針から「Loose!」にしていたのか)。テクノっぽいせいで歌詞はわからないまま近未来スパイアクション映画を連想していた。『Crystal Ball』の付属ライナーに、「(次の8曲目「P.Control」とともに)LAのErotic City dancersの大のお気に入りだった」とある。YouTubeを探すと、プリンスがプロデュースしたクラブ「グラム・スラム(Glam Slam)」のステージでの「Loose!」のライブ映像あり。なるほど、ここで踊っているのがErotic City dandersの面々なのだろう。SFじみた小芝居があって、私の連想がそう的はずれでもないらしいことがうれしい。
 5曲目以降の紹介は端折るが、曲飛ばしなしで、9曲目「Letitgo」(先述のとおり、全曲名1単語の方針から、Let it goのスペース削除)へ。これはさんざレビューに書かれているとおり名曲、その再生途中、「Orgasm」にたどりつく前に家に着いてしまったので、翌日にまた出かけた際に10曲目から。波の音、女性のあえぎ声、エレキギター、プリンスのつぶやきのような「come on」。2分程度、曲というよりはエピローグ的なもの。
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 小説「伯爵夫人」とプリンスについては、デビュー時からプリンス好きを公言している小説家の阿部和重が何か書くだろうと思っていたら、7月6日に発売された『論集 蓮實重彦』(工藤庸子編 羽鳥書店)収録の『伯爵夫人』論のタイトルが「Sign ‘O’the Times」である。いうまでもなく、プリンスの曲名兼アルバム名(1987年)。内容自体は、律儀にテクスト内の読みに徹した蓮實的評論で、プリンスへの言及はなし。一応断っておくと、6月22日に単行本が出たので、以降は小説名が二重かぎかっこ扱い。
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 7月から8月末にかけて、音楽誌の増刊号などの形でプリンス追悼のムック本が次々出たのを読む。遅ればせながら、昨年出ていた西寺郷太著『プリンス論』(新潮新書)も読む。アルバム『Come』が普通に傑作扱いになっているのはよいとして、プリンスと同年(1958年)生まれのミュージシャンとして比較されるのが、マイケル・ジャクソンとマドンナというのは、はなから似ていないものを比べて意味があるのかという気になる。
 才能からいって、あるいは混血、両性具有といったキーワードからいっても、比較の対象になりうるのはケイト・ブッシュだろう。プリンスを、80年代ニューウェーブの文脈から語ろうとする文章はいくつかあった。そこにケイト・ブッシュも加えて語っていけば、見晴らしがよくなる気がする。ムック本の一つ、『プリンス 星になった王子様』(ミュージック・マガジン)には、小嶋さちほ(ゼルダ)と真保みゆきの対談が収録されていて、この2人ならと期待したが、1985年のアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』の際の記事の再録だったので、そこまで俯瞰した視点はなく残念。
 YouTubeにあったのは、オーストラリアのマッシュアップ制作集団Wax Audioによる作品「Prince Mashed With Kate Bush Sign o’ That Hill」で、「Sign ‘O’ The Times」とケイトの「Running up that Hill」のかけ合わせ。ケイトのアルバム『The Red Shoes』(1993年)収録のプリンスとの共作曲「Why Should I Love You?」で、イントロのトリオ・ブルガリカによるコーラスからプリンス・メロディーに移行する「違和感のなさ」に笑わされたのを思い出す。
 日本のCINRA.NETというサイトにあるビョークの最新来日インタビューを読むと、彼女は「ジョニ・ミッチェルやケイト・ブッシュに深く傾倒」したが、「(デヴィッド・)ボウイやプリンスがいるファミリーツリー(系譜)には属していない」と言っている。ケイト・ブッシュのファミリーツリーとプリンスのファミリーツリーは近いと思うのだが。
 ジャンルでいえばネオ・ソウルに分類される黒人歌手マックスウェル(Maxwell)は、カバーを以前のアルバムにも収録していたケイト・ブッシュの「This Woman’s Work」を、4月23日(プリンスの死から2日後)にルイジアナ州ニューオリンズで開催されたジャズ&ヘリテッジフェスティバル(New Orleans Jazz & Heritage Festival 2016)のステージで、「プリンスへの追悼曲」として披露したそう。8月19日の初来日公演でも。
 男性黒人ミュージシャンでは、フィッシュボーンのメンバーや、ヒップホップデュオ、アウトキャスト(OutKast)のビッグ・ボーイ(Big Boi)とアンドレ3000(Andre 3000)は2人ともケイト好きを公言している。とくに、ビッグボーイが何度もコラボしたいとケイトにラブコールを送っていることは、ケイトファンの間では有名な話だ。
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 どうしているのかと久しぶりに調べてみたら、ビッグ・ボーイが、2012年に出した2ndソロアルバム『Vicious Lies And Dangerous Rumors』の13曲目「Tremendous Damage」は、ケイト・ブッシュにデモ音源を送って聴いてもらったと、インタビューで答えているのをネット上で見つける(結局、共演には至らず)。
 その代わり、スウェーデンのバンド、リトル・ドラゴン(Little Dragon)と3曲(デラックス・エディションだと4曲)も共演している。ボーカルのユキミ・ナガノ(Yukimi Nagano 父親が日本人)は、ケイトとプリンスに影響を受けたことをあちこちのインタビューで語っている。日本語記事ならverita(ヴェリタ)というサイトに、「北欧の歌姫 Yukimi Naganoのフェイバリットソング」という2007年の記事あり。私は、この記事で「彼らもケイト・ブッシュから影響を受けていると思います」と語られているスウェーデンのエレクトロ姉弟デュオ、ザ・ナイフ(The Knife)を知ったので、彼女にはとても感謝している。
 9月30日、アマゾンで先のビッグ・ボーイのアルバム(タイトルを訳せば、「たちの悪い嘘と物騒な噂」)デラックス・エディション版の輸入盤を注文。日本盤は出ておらず、ネット上でも日本語の情報が少ない。日本のアマゾンではレビューゼロ。さまざまなインディー・ロックバンド、エレクトロ・ポップバンドと共演、バラエティに富んだ意欲作だと思うのだが。
 ニューヨークのエレクトロ・デュオ、ファントグラム(Phantogram)が参加した10曲目「Lines」などには、ケイト・ブッシュ色も感じられる(このアルバム以後、ビッグ・ボーイはファントグラムの2人と、Big Gramsというユニットまで結成してしまった。長身でセクシャルな衣装も着こなす女性ヴォーカル、サラはステージ映えするし、ビッグ・ボーイと相性がよいよう。去年出た7曲入りミニアルバムも気に入ったので購入)。
 アルバムの中で最もキャッチーな9曲目「Mama Told Me」は、リトル・ドラゴンとの共作曲。ただし、バンドのレーベル移籍の時期に重なったことから権利問題でもめ、歌い手がユキミ・ナガノからケリー・ローランドに交代されている。プリンスが1980年代に多用していたリズムマシン「リンドラム(LinnDrum)」のビート(「Automatic」『1999』収録)をサンプリングして使っているのだそう。
 同じくリトル・ドラゴンと共演している8曲目「Thom Pettie」は、エフェクトをかけまくった不気味な低い男の声に続いて、女性が「あ~ん」。あった! サンプリングされた女性のあえぎ声。続く高音寄りのギターソロとあわせて、プリンスを連想させる曲。ブリッジでは、ユキミが甘い声で「We shining like the sun and moon」と歌う。
 曲タイトルはトム・ぺティ(Tom Petty)のスペル違い、トム・ぺティと言えば、2004年の「ロックの殿堂」式典で、トム・ぺティらとともにステージに立ったプリンスが圧巻のギターソロを見せつけたことがあるので(YouTubeにも動画あり)、両者の結びつきは想像できるのだが、英語の歌詞が、私の英語力では手に負えない。
 検索してみると、カナダのトロントで配布されている「Metro」というフリーペーパーのウェブ版にビッグ・ボーイの短いインタビュー記事があった。この曲名は、取材者にもいくぶん物議を醸すものと感じられたようで、「Tom Pettyってのは誰のことですか?」と冒頭から尋ねている。それに答えて、ビッグ・ボーイ、「とびきりの一夜を過ごしたけど、夜があけてみればどこに連れてかれていたのかわからないってことがあるだろう。いわゆる『free falling』ってやつさ。それを(トムのヒット曲『Free Fallin’』にひっかけて)『トム・ぺティする(Tom Pettying)』って言ってたのさ」。
 なるほど。行きがかり上、仕方ないので英語の歌詞を自動翻訳機能も使いながら日本語になおしてみる。
  俺はダイヤモンドがジャラジャラついた大きなメダルのチェーンを揺らす(中略)
  ヤクはない、でも俺たちはハイになった(中略)
  俺のXLサイズで彼女を……
 そう。ジャケット画像の左上を見ればわかるとおり、このアルバムは「Parental Advisory(保護者への勧告)」マーク入り。このマーク誕生の経緯は、プリンス追悼本のいくつかに記されているとおり。
 歌詞を要約するとだ。
 ホテルのどことも知れない場所での美女との一夜、夜が明けたら、俺のもとからあの女もこの女も去っていった。
 どこかで読んだような話だ。アメリカまで飛んで、ようやく小説『伯爵夫人』に戻ってきた。

2016年 5月 8日

彦根の呉服屋の後家――蓮實重彥「伯爵夫人」

 前回の続きとして書くと、2月末の日曜日に滋賀県立近代美術館で「ビアズリーと日本」展を観てきた。原画は思いのほか小さい。浮世絵などの日本美術から西洋の画家が受けた影響は、モネやマネなどの油絵より、ペンと墨で描かれたビアズリーの画の方がわかりやすい。
 けれど、私が知りたかったのは、日本美術のビアズリーへの影響ではなく、ビアズリーの日本美術界への影響についてだ。
 ビアズリーの没後12年目の1910年、雑誌『白樺』に5点の作品と柳宗悦(現在からすると意外な組み合わせ)による略伝が掲載される。やがて洋書輸入販売の丸善が機関紙『學燈』の表紙にビアズリーの画を使い、紙面には作品集などの広告を掲載した。図録解説に曰く、「〔日本の〕多くの芸術家や文学者がビアズリーの虜になりますが、なかでも本を活躍の場とする版画家や挿絵画家、グラフィックデザイナーへの影響は絶大でした」。
 山六郎、山名文夫、水島爾保布らの単行本や雑誌の挿絵は影響があらわ(ただし、水島は影響を否定している)で、見ていて楽しい。ビアズリー自身も、初期作品『アーサー王の死』の挿画はウィリアム・モリスから「強奪行為」と非難されるほど影響を受けまくっていたのだから、よいではないか。
 1980年代、フランスの漫画家メビウスのタッチが、日本の漫画界に広がった。メビウス・インパクトとでも呼ぶべき経過(雑誌『白樺』の役割を果たしたのは、SF雑誌『スターログ』日本版)を、中学生の頃に眺めていた者としては、大正期日本におけるビアズリー・インパクトもさもありなん。
 さて、ビアズリーの作品であるが、代表作『サロメ』の挿画は当時の紳士淑女が目をそむけるような猥雑な描写が最大の特徴である。前回紹介した小島麻由美のアルバムジャケットに用いられている『イエロー・ブック』にしても、なぜ「黄色い本」なのかといえば、「当時のイギリスで不道徳なものと考えられていたフランス小説本の表紙の色」(同展図録解説)だからだそう。そうした猥雑な側面が好きで来ている来館者は多くなさそうな点は不満。
 フランスの画家クールベの「世界の起源」なんてのもあったなと頭に浮かび、ネットで検索してみる。展示しているオルセー美術館も大変なようで。
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 そんなことを思っていたら、「熟れたまんこ」によって「この世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねない」と登場人物が説く小説に出会った。3月7日発売の文芸誌『新潮』2016年4月号に掲載された蓮實重彥の小説「伯爵夫人」である。彦根市内の書店で手にしたのは3月26日(土)のこと。『群像』に連載されていた映画評論家としての作者による「映画時評」が一昨年終了してしまい、文芸誌の棚を月イチで見ることもなくなっていたので、気づくのが遅れた。ネットで検索してみると、朝日新聞の「文芸時評」などにも取り上げられて、そこそこ話題になっている。
 舞台は帝都とも称された時代の東京。帝大法学部受験をひかえた主人公・二朗は、劇場街の雑踏で、いつの間にか家に居ついた「伯爵夫人」と周囲から呼ばれる女性に呼び止められ、誘われるまま回転扉を抜けてホテルへ。二朗のある過失が原因で豹変した「伯爵夫人」の語りと二朗の回想によって明かされていく、彼女の過去と二朗の祖父を頂点とする奇態な一族の秘密……。
 会話文をカッコでくくらず地の文になじませた谷崎潤一郎的な文章で、一段落が長い点も同じ。ⅠからⅩⅡまでローマ数字のふられた12の章で構成され、文中に登場する回転扉のごとく、次の章への移行がほれぼれするぐらいうまい。
 朝日新聞(片山杜秀)と産経新聞(石原千秋)の文芸時評は、「ポルノ小説」に分類している。片山はジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」の系譜上に位置する作品としているが、読んでいない。私が頭に浮かぶ「夫人」は、映画評論家としての作者が山田宏一・山根貞男両氏とともに選出した2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」32作のうちの一つ、小沼勝監督「生贄夫人」(1974年 日活)だ。性別に関わらずこの映画に拒否反応があるかどうかを、小説「伯爵夫人」の性器や性行為の描写を読むかどうかの目安にすればよいと思う。
 小説や映画のタイトル、俳優の名前が次々出てくるが、知っていなければ読めないというものでもない(私も半分ぐらいはわからなった)。Ⅳで二朗の回想として語られる友人・濱尾の屋敷でキャッチボール中に起こった二朗の睾丸負傷事件の顛末は、帰宅後の従妹・蓬子との秘め事といっしょに、例えば平田アキラ(『監獄学園』)が漫画化できるな(16ページ×2回)と思えるおかしさ。
 「金玉潰し」が出てくるからには、村上春樹の『1Q84』(2009-2010 新潮社)を参照すべき何かをふくんでいて、この小説自体「1Q41」でもあるかもしれないのだが、これまた私は読んでいない。アマゾンにあがっている中古品だと、単行本の1-3巻セットの最低価格は260円+送料なり。いくらか心が動くが、現時点では購入せず。関係があるのなら、誰かの指摘をそのうち読めるだろう。
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 「滋賀縛り」を唯一のルールとして書いている当ブログに取り上げたのは、作品中に「彦根」という地名が2回出てくるからだ。
 Ⅴで、いつでもお相手しますと迫るが、相手には不自由しておりませんからと二朗に拒否された伯爵夫人が言う。「せんだってお暇をとって彦根にもどり、呉服屋の後妻におさまった文江さん」を手ごめにしたとも思えない。
 Ⅶで、古株の女中である小春が、長男に比較した二朗のオクテぶりにあきれて明かすことには、処女の文江を二朗にあてがおうと説得に成功したのに、彼女は「いきなり彦根の呉服屋の後妻におさまり、おいとましてしまいました」。
 二朗が童貞であることが物語を駆動させていたことを思えば、彦根出身の女中・文江は重要な役割を担っていたことになる。小春に至っては自身の後継者にという腹づもりもあったのかもしれないが、文江は処女喪失よりも遥かに怖ろしい何かを察知して奉公先に見切りをつけたのか。
 ここに現れる「彦根」という地名は、「伏見」や「伊丹」、はたまた「八戸」に差し替えられても何ら支障はないのか。作者の初期評論『表層批評宣言』の文庫版(1985年 筑摩書房)の巻末にある自筆年譜をみると、昭和16年(1941)、作者5歳の項にあるのは、父親の出征について「新宿駅からいずこへとも知らず去った父からの最初の絵葉書で、彦根という都市の存在を教えられる」という文章だ。「彦根」は交換可能な地名ではないのか。絵葉書だから文江(文+絵)なのか。連想ゲームなのか。
 わざわざ自筆年譜に目を通してみたのは、「伯爵夫人」の舞台設定に私小説的要素が盛り込まれているからだ。志賀直哉の「暗夜行路」以来の定番テーマが登場する点(それも意識的に組み込まれているのだと思うが)ではなく、作者の実体験がもとになっているようにも読めるという意味で。
 文中に登場する地名を追うと、二朗の住む家の位置は、作者の自筆年譜に書かれている出生地「麻布区六本木町(旧町名)」のようだし、母方の祖父の持ち家だったとされている点も一致する。ただし、作者自身は昭和11年(1936)の生まれであり、描かれた「昭和16年」にはわずか5歳である。
 ついでにいうと、先の『表層批評宣言』文庫版収録のものから改訂が施されている『映画狂人シネマ事典』(2001年 河出書房新社)巻末の自筆年譜にあたると、「伯爵夫人」の中で語られる意味ありげな(しかし、よくわからない)挿話に現れる「尼僧」の語は、同年の記憶を書いた一文中にも見つかる。
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 もうひとつだけ。
 「伯爵夫人」のあれよあれよの展開に浸りつつ、頭に浮かんだのは、磯﨑憲一郎の小説『赤の他人の瓜二つ』(2011年 講談社)だった。「伯爵夫人」の作者は文芸評論家として、磯﨑の芥川賞受賞作「終の住処」を高く評価し、最新作『電車道』(2015年 新潮社)をめぐって『新潮』2015年7月号で対談もしている。
 というわけで、『電車道』を読むことに。
 電車の線路が敷かれた東京近郊のある田舎町を舞台に、二人の男とその子や孫の人生を描いた長編小説と、一応説明しておこう。単行本のカバーには鳥瞰図で有名な吉田初三郎の「小田原急行 鉄道沿線名所図絵」が使われているが、小説の文中には鉄道会社の名は一度も出てこず、特定の私鉄の創業者をモデルにしているわけではないらしい。『新潮』への連載12回で完結したので12の章に分かれている。それぞれに小タイトルがついているわけでもないので説明しにくいが、二つ目の章はそれ以外とは舞台も登場人物も重ならない独立した短編のようになっている。
 舞台は京都。呉服問屋の丁稚となった少年の一本の人生に、思いがけず路面電車が交差する。「一本の人生」というのは妙な言い方だが、磯﨑作品の登場人物はそんな感じなのである。
 作中の会話で、「勧業博覧会の人出も百万人と聞きますから」とあるのは、明治28年(1895)に京都岡崎で開催された内国勧業博覧会をさすのだろう。琵琶湖疏水の水を用いた水力発電所は、日本最初の路面電車を走らせ、東京遷都によって衰退した京都の再生に大きな役割を果たす。というのは、「滋賀縛り」ルール上、書いただけで、作中に「琵琶湖疏水」という語は一度も出てこない。
 ちょうど集中力が持続するぐらいの長さで(正直、単行本一冊だと疲れる)、主人公がみな一種の視野狭窄に陥っている磯﨑作品のおもしろさを味わえるのでおすすめ。

2016年 2月 14日

小島麻由美と3776を「聴く」理由があるとすれば

 年が明けてすでに1ヶ月以上たってしまい、いまさらな気がしないわけではないが、2015年はどんな年だったか振り返ってみる。ひとつ確実に言えるのは、小島麻由美デビュー20周年の年だった。
 7月に20周年記念盤として、1st~3rdアルバム(通称「セシル三部作」)と幻の4thアルバムをふくむ未発表音源を収録したCD4枚組『セシルの季節 La saison de Cécile 1995-1999』と、イスラエル・テルアビブで活動するサーフロックバンドBoom Pam(ブーム・パム)とのコラボレーションアルバム『with Boom pam』が同日発売。UHQCD仕様の前者はとにかく音がよい。カーオーディオでも違いがはっきりわかる(私はそもそも仕事帰りの車の中でしかCDを聴かない)。後者については後述。
 12月には、待ちに待ったカバー曲集『Cover Songs』が発売された。
 この3曲目「夜明けのスキャット(Live)」(2000年発売のライブアルバム『Songs For Gentlemen』収録)は、スカ風味のライブ録音のみが存在。2002年に私の結婚式披露宴でお色直し前の新郎新婦退場にBGMとして使わせてもらった。妻ですら覚えていなかったから書いておく。
 4曲目の「夏の魔物」は、2013年7月15日付けの当ブログ「君はもう向こう側」で書いたとおり、彦根出身の徳永憲がアコースティックギターを演奏。
 全16曲、うち12曲はトリビュートアルバムなどですでに聴いたことあるもの(TOKYO No.1 SOUL SETが女性シンガーをゲストに迎えた企画アルバム『全て光』収録の「Champion Lover」は収録されなかったのだな)。
 なので、聴きどころは、2011年録音で未発表だった10曲目の尾崎豊「I LOVE YOU」と11曲目の同じく尾崎豊「シェリー」。前者は、ピアノのコードがジャズっぽい不協和音で、より不穏かつアダルトな雰囲気。男性曲を女性が歌う点と性的な内容の歌詞から、ケイト・ブッシュがシングル「King of the Mountain」にカップリングで収録したマーヴィン・ゲイの「Sexual Healing」を思い出した(ちょうど今日、DVDをレンタルして観た映画、ジョン・ファヴロー監督・主演の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』には、陽気なラテン風にアレンジされたこの曲がラジオから流れ、それにあわせて主人公と相棒が楽しげに合唱し、主人公の10歳の息子が顔を赤らめるというシーンがあったのでびっくり。評判どおりのよい映画)。
 後者は伴奏がリコーダーとトイピアノ。演奏と歌詞のミスマッチぶりがシュールの域。小島本人の編曲かと思ったら、佐藤清喜という人だということに驚く。
 このアルバム用の新録がラストの2曲。16曲目の「君の瞳に恋してる」は日本語訳歌詞が使えなかったそうで残念。
 最高なのは15曲目の「Hava Nagila(ハバナギラ)」。先にあげたイスラエルのサーフロックバンド、Boom Pamが来日した際に、小島の希望で収録されたヘブライ語民謡。日本でも、「マイムマイム」と並ぶフォークダンスの定番曲とのことだが、私は踊ったことなし。ベースがわりのチューバにかぶるエレキギターのかっこいいこと! 小細工なしの歌唱と演奏なのにポップかつ妖艶。
 この曲のプロデュースと編曲が、久保田麻琴。そう、2013年6月6日付けの当ブログ「ルーツと歌詞にマッチした名リミックス」で、その仕事『江州音頭 桜川百合子』リミックス集を紹介した、人呼んで「音の錬金術師」。アルバム『With Boom Pam』でもマスタリングを担当していて、私は2人の出会いを喜んだ。さらに、この新録がフォークダンスミュージック(日本でいえば「音頭」)ときた。「滋賀」とは関係ないが当ブログに書きとめておく。
 ちなみに、『With Boom Pam』のジャケットは、怪しげや本屋の店先で箱に雑然と詰め込まれた廉価本を物色する女性が描かれているビアズリーの『イエロー・ブック』趣意書表紙画(1894年)。本棚の上にある「BOOKS」の書き文字を「BOO」まででトリミングしてバンド名とかけてある。ビアズリーの選択は、代表作「サロメ」つながりなのだろう。
 2016年2月14日(本日)現在、googleで「小島麻由美 ビアズリー」と検索すると、一番頭にあがってくるのは、「オーブリー・ビアズリー文庫」というFacebookのページだ。大阪府内の個人がビアズリー情報を提供している私設ページのようで、昨年6月26日付けで『With Boom Pam』のCDジャケットを紹介している。
 見たなら、そこから下にスクロールしてみてください。
 2月7日付けで滋賀県立近代美術館(大津市)で開催している「ビアズリーと日本」展(2月6日~3月27日)の観覧記事が現れる。私も近いうちに行く予定。
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 もう、ひとネタ。
 そんなわけで、『Cover Songs』が2015年に購入する最後のCDになるかと思っていたら、立ち読みした「週刊文春」で近田春夫が20年ぶり(また20年)にラップの作詞をした曲が出たことを知り、ネットで検索。
 TeddyLoidのアルバム『SILENT PLANET』収録の「VIBRASKOOL feat. 近田春夫 (Professor Drugstore a.k.a. President BPM) & tofubeats」だということがわかる。
TeddyLoidさんは日本人の男性ミュージシャン(別名「リミックス王子」 wiki知識)が多彩なジャンルの人気ミュージシャンとコラボした2ndとのこと。1曲のみダウンロードで購入。250円なり。
 アマゾンで同アルバムページの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」欄に、ももいろクローバーZのあれこれ(TeddyLoidが公式リミックスアルバムを制作した関係)とともにあったのが、3776『3776を聴かない理由があるとすれば』。☆5つだったのでクリックしてみる。
 白と青に色分けされたCDジャケットと名前から想像されるとおり、3776(ミナナロ)は富士山(静岡県富士宮市)ご当地アイドル。現時点のメンバーは井出ちよの1名でソロユニット。プロデュースと楽曲提供は石田彰。
 カスタマーレビュー曰く、「コンセプトアルバムの傑作」「2015年アイドルアルバムのベスト」「2010年代の重要盤」……いずれも大絶賛。
 購入。アマゾンの購入記録によると12月16日のこと。
 先にも書いたとおり、かけたのは仕事帰りの車の中。運転しながらなので、曲名リストも歌詞も見ないまま。80年代ニューウェーブっぽいという評価どおり、打ち込み主体で、基本的にギターはメロディを奏でない(クライマックスの19曲目「3.11」をのぞき)。
 富士山を「彼」と擬人化して恋愛ソングにしたものもあるが、アルバム全体のコンセプトが「富士登山」なので、インターバルの語りも含め、観光案内的言葉が多い。なので、「あるかも」と思い始めた曲が、中盤にかかったところで登場。
 8曲目「日本全国どこでも富士山」。森高千里の「ロックンロール県庁所在地」の系譜に属する「○○づくし」もの(そんな系譜があるのか知らないが)。
 関東地方なら群馬県にある「榛名富士」というふうに、その山容から「○○富士」の名でも呼ばれる山が地方別に列挙されていく。北陸「越後富士」、さぁ次かと思ったら、中国地方の「伯耆(ほうき)富士」に飛ぶ。あれ……。九州・四国ときて、国内では最後に近畿地方「近江富士、別名三上山」(滋賀県野洲市)。
 「聴く」理由とするには弱いか。
 インターバルの語りもふくめ全20曲の中では、10曲目の「春がきた」が好き。
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 以下は余談だが、ネット上に類似の文章が見あたらないから書いてしまえ。
 一人でプロデュース・作詞・作曲・編曲を手がけた女性歌手のアルバムということで、私に思い出されるのは、近田春夫がつくった風見りつ子の『Kiss Of Fire(キッスオブファイヤー)』(1985年)だ。
 先のTeddyLoidのアルバムの特設サイトにあるプロダクションノートでは、近田春夫を「超オールドスクール」と評している。曲名「VIBRASKOOL」は、近田率いるヒップホップバンド「ビブラストーン」(1987年結成)に由来している(SKOOLの意味がわからなければ検索せよ。私もわからず検索した)。
 私は同じ「VIBRA」でも、さらにその前のニューウェーブバンド「ビブラトーンズ」に高校生の頃、ハマッた世代にあたる。ミニアルバム『Vibra-Rock(バイブラ・ロック)』とメンバーがバックと作詞・作曲を務めた平山みきのアルバム『鬼ヶ島』(ともに1982年)によってである。30年以上前、レコードの時代だ。
 大学進学で都会に出たらライブを見にいきたいと思っていたが、1984年、FMラジオから解散ライブだという演奏が流れてきた。翌年(1985)、4月に近田プロデュースによる風見りつ子の1st『キッスオブファイヤー』、5月に近田以外のメンバーが中心のバンド、PINK(ピンク)のバンド名と同じタイトルの1stアルバムが発売される。当然、私は両方買った。LPレコードを。レコードプレイヤーは居間に置かれていて、姉との共有物だったので、初めて聴くときにテープに録音してしまい、それぞれの部屋でラジカセで聴くことになる。
 いまも日本語ロック・ポップスの名盤に数えられる『鬼ヶ島』は、70年代歌謡曲の歌姫、平山みき(三紀)が、テクノにエスノにユーミンまでまぜたニューウェーブサウンドにのせ、ひねった設定(受験生の弟をもつ姉とか)の歌詞を歌った。
 一方、『キッスオブファイヤー』は、無名の新人歌手、風見りつ子に一聴、歌謡曲的な演奏・バックコーラスにのせ、「夜の大人の世界」をモチーフにした雰囲気重視の歌詞を歌わせたなかに、思いつくかぎりの音楽的な遊びをつめこんだ作品。
 対照的な2作だが、近田による企画先行なわけではなく、風見がビブラトーンズのファンで、『鬼ヶ島』収録曲を歌ったデモテープを近田に送り、その声質からアルバムコンセプトができあがった。
 さて、1980年代の終わりはレコードからCDへの移行期だった。レコードで所有していたものも、CD化されれば買いなおした。『Vibra Rock』は1stアルバムとセットで『ビブラトーンズFUN』としてCD化され(1988年)、『鬼ヶ島』もCD化される(1991年)。そのうち、『キッスオブファイヤー』もと思いつづけて幾星霜……。
 CD化されたのは、2013年10月24日。日本コロンビアのオンデマンドCDとしてだ。廃盤や在庫切れになったCDもしくは未CD化音源を1枚単位で受注生産するサービスで、2008年から始まっていたらしいが、知らなかった。そのラインナップに加わったのである。
 私はネット上でたまたま気づいて購入した。私のパソコンでアマゾンの『キッスオブファイヤー』のページを表示させると、上部に「お客様は、2013/12/30にこの商品を注文しました。」と表示される。その時の状況を忘れているわけだが、年末の夜で時間があったのだろう。思いついたものは何でも検索してみるものだ。
 3曲目「恋に溺れて」、4曲目「恋人達に明日はない」、5曲目「夜のすべて」の流れは、20年ほどぶりに聴いてもやはりよい。「恋に溺れて」の12インチミックスのような天井知らずの高揚感。「恋人達に明日はない」後半の間奏で、同じフレーズを延々くり返すキーボードと男性コーラスには「ライブかよ!」と突っ込みを入れて笑わずにはいられない(この曲は7分もある)。
 歌詞における頭韻と脚韻の多用や、曲やアレンジにおける過去のヒット曲からの“パクリ”は、ヒップホップに傾倒していた当時の近田ならでは。
 と、エラそうに書いたが、前段は、LPについていた「『精神』と『構造』」という物々しいタイトルの近田自身によるライナーノーツに書かれていることである。
 ありがたかったオンデマンドCDだが、ライナーノーツは、曲ごとの一言コメント部分のみが印刷され、その4倍ぐらいの長さがある「『精神』と『構造』」は割愛されている。このCDを買って、アマゾンなどにレビューを書く人は、その点で星ひとつマイナスしてください。

2015年 11月 29日

もう覚えた。ゴセダヨシマツ――神奈川県立歴史博物館「没後100年 五姓田義松 最後の天才」展

 横浜市にある神奈川県立歴史博物館で9月18日から11月8日まで開催された特別展「没後100年 五姓田義松 最後の天才」について書くが、見に行ってはいない。
 NHK教育「日曜美術館」の10月11日放送回で取り上げられたそうだが、翌週の再放送もふくめて見逃した。特別展の開催を知ったのは、10月22日付け読売新聞の文化欄に載った木下直之東京大学教授の寄稿記事によってである(ひもで縛ってゴミに出してしまっていたので日付が不明だったが、図書館で調べて判明)。鉛筆画の「自画像 六面相」と亡くなる前日の母親を描いた「老母図」が掲載されていた。
 まず画が目に入り、「昭和初期ぐらいの画家かな」と思ったら、幕末(1856年)に生まれ、日本で「洋画」を描いた最初期の人物だという。先の画は、それぞれ明治6年と8年の作。絵師・五姓田芳柳を父に持ち、慶応元年、10歳でイギリスから新聞の特派員として来日していたチャールズ・ワーグマンに入門、西洋の絵画技法を学び、25歳でフランスに渡り、作品はサロンで入選を果たした。
 同館のサイトで特別展関連の画像を見る。これはもっと見たいと思い、22日の夜に神奈川県立歴史博物館のサイトからミュージアムショップ宛メールで図録の入手方法を問い合わせた。翌23日に、払込口座番号と図録代1800円と送料460円を郵便局から払い込むこと、発送が11月初めになる旨の返信メールが届く。
 同時にアマゾンで、今回の特別展にあわせて一般書籍として出版された同館の角田拓朗学芸員の著書『絵師五姓田芳柳 義松親子の夢追い物語』(三好企画)を購入。
 予告どおり、11月初めに、図録が到着。同館サイトの記事に、「おかげさまで、初刷は10月29日(木)をもって、増刷分は11月7日(土)をもって完売し販売を終了いたしました」とある。危ない、危ない。
 図録は288ページ、掲載図版636点はすべてカラー印刷。
 11月第2週は、3晩ほどにわけて図録の掲載図版を眺めて楽しませてもらった。掲載図版の多くを占める鉛筆デッサンがとりわけよい(師のワーグマンや弟子の作品もかなり混ざっているそうだが)。
 タッチが確立する前、手癖で描くようになる前の、着物の皺をどう描くか書きあぐねているような画や、1枚の紙に頬づえをついた自画像と横向きの女性像と風景画が混在しているものなど、学生時代に図工や美術の授業以外で絵を描いた、つまり好きで絵を描いた経験のある人間なら気に入るのではないだろうか。
 うまさという点では、義松より生まれが1年遅い浅井忠の鉛筆デッサンの方が上だと思うのだが、浅井のそれは、後に工芸デザイン図案も手がけた達者さがあって構図と線が洗練されている分、対象の生々しさは若き義松の方が勝る。
 漫画でいえば、能條純一(『哭きの竜』)よりも、南勝久(『なにわ友あれ』『ザ・ファブル』)の方が断然好きだからということになるが、よけいわかりにくいか。
 義松のそれは、初期作品ゆえの輝きかもしれないのだが、図録で油彩画「老母図」の前ページに掲載されている鉛筆画「病母」2点も、明治8年の日本で描かれたことがやはり信じられない。1歳下の妹・勇(読みは「ゆう」。のちに義松の弟子・渡辺文三郎と結婚し、渡辺幽香と名のる)を描いた何枚もの画は、その多くが彼女自身も膝に画帳を置いて鉛筆を手に一点を見つめる姿であるため、晩年に「結婚などしないで画家として頑張って生きたかった」と回想したというその人となりをよく伝えている。
 義松の一生は、先の『夢追い物語』にくわしい。パリ留学から帰国後、日本では洋画が冷遇されるようになり、明治25年に父の芳柳が死去して工房は解体、失意の後半生が始まる。
 図録巻末の年譜から拾うと、「明治28年・1895・40歳/5月13日、妻菊、義彦〔2年前に生れた長男〕を連れて家出、3日間帰らず。翌月7日には義彦を置いて妻菊が家出/11月、戸籍訂正願を神奈川県に提出」。酒で生活が乱れたとする証言もあるそうで、それが原因だろうか。
 50歳代は、黒田清輝に旧作の購入の仲介を依頼するなどして糊口をしのぎ、60歳で没。
 そして、義松は長く忘れられた存在となる。
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 ネット上にある企画展を鑑賞してきた人によるブログの文章と同様、「私もその名を知らなかった」と書くところなのだが、「待てよ」と思い直し、別の部屋に移動して本棚から「あれ」を探す。
 滋賀県立近代美術館でやった「山岡コレクション」のあれ、高橋由一の「鮭図」が表紙のあれ……。あった。『日本近代洋画への道 山岡コレクションを中心に』。ぺらぺらぺら。
 載ってる。五姓田義松の作品としてカラー図版で、どこかの霊場の参詣道らしき路上に立ち何か唱えている(口を開けている)山伏姿の少年を描いた「少年法界坊」、そして、イスに座って針と糸で人形の服を縫う老婆と傍らで人形を抱きながらその仕事ぶりを見つめる孫娘の姿を描いた「人形の着物」(明治16年に日本人として初めてパリのサロンで入選を果たした油彩画)の2点が、モノクロ図版で「富嶽図」「七里ヶ浜」「塩原風景」「駿河湾風景」の4点が掲載されている。
 見たことはあったが、覚えていなかったのである。失礼。
 しかし、改めて見ても、カラー2作の前者は完成品ではなく習作のような印象、後者は細部も緻密に描き込まれ日本人の作品とは思えない仕上がりだが、油絵としては古臭さしか感じない。実際、渡仏・渡米を経た後の義松のデッサンは、なんだかもそもそした、かえって垢抜けないタッチに変化している。
 この図録は、滋賀県立近代美術館で2005年10月1日から11月13日に開催された展覧会用のものである。私はこの展覧会「にも」行っていない。展示期間から推測すれば、同年10月上旬に娘が生れたことが理由だろう。数年後、同館を訪れた際にミュージアムショップで図録を買ったわけだから許してほしい。
 同図録には、義松の妹・渡辺幽香もカラーとモノクロ1点ずつ、二世五姓田芳柳もカラーで3点、ワーグマンの鉛筆スケッチや水彩・油彩画はモノクロだが20点以上掲載されている。結構な数の義松とその関係者の作品をそろえている「山岡コレクション」とは何か? 産業用発動機メーカー・ヤンマーの創業者、山岡孫吉(1888~1962)が収集した江戸末期から昭和初期に至る日本の洋画コレクションである。
 山岡は滋賀県伊香郡東阿閉村(現、長浜市)に生まれた。山岡の伝記にも「寒村」と書かれるような湖北の小集落なわけだが、私の父方の祖母は同じ村の生まれだったりする。
 そのコレクションは、ごく稀に所蔵者をふせたまま美術館に貸し出されるだけだったため、美術館関係者の間で「幻のコレクション」と称されていたそうだが、2001年に笠間日動美術館に託されると、同年3月31日~5月20日に同館で初のまとまった公開となる「高橋由一から藤島武二まで 展 日本近代洋画への道 山岡コレクション」が開催された。その後は毎年、全国各地の公立美術館を巡回している(図録自体も笠間日動美術館の編集)。
 2002年に埼玉県立近代美術館で、「日本近代洋画への道 山岡コレクション」展
 2003年に岩手県立美術館
 2004年に徳島県立近代美術館、目黒区美術館
 そして、2005年に滋賀県立近代美術館
 滋賀県はかなり後回しだったのだな。孫吉生誕の地だし、日動美術館以外では最初ぐらいかと予想したが、甘かった。山岡コレクションが滋賀県立近代美術館に託されていた可能性というのも……ほぼなさそうなので、ここで打ち切り。
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 さて、明治11年(1878)、23歳の義松は、宮内省からの要請で明治天皇の約3ヶ月にわたる北陸東海巡幸に供奉して、各視察地で油彩の風景画を制作した。「明治十一年 北陸東海御巡幸図」として、宮内庁が所蔵している41点のうち、「江州石山観月堂臨御之図」と「三井寺眺望之図」の2点が滋賀県で描かれたものである。
 前者は、石山寺の月見亭(どんな建築物なのかは、弊社より発売中の畑裕子著『源氏物語の近江を歩く』のカバーをご覧ください)とそれが建つ高台から望む瀬田川を描き、月見亭の中には明治天皇の姿も見える。手前には緋毛氈(ひもうせん)をかけた長いすが3段2列に並んでいて、色彩も鮮やかで巡幸図中でもひときわ目立つ画である。そのためか、東京藝術大学にはそのまま模写した「明治帝御眺望図」が所蔵され、さらに手前に洋装の男性の人だかりも描かれた鉛筆画(その際のスケッチと考えられる)「天皇御巡幸図」も存在するとのこと。神奈川県立歴史博物館の特別展図録では、1ページにこの3点を並べて掲載している。
 後者は、西国十四番札所である三井寺(園城寺)観音堂が建つ境内から東方を向いて琵琶湖を望んだ風景で、右手に絵馬堂が描かれている。
 明治維新後の欧化政策への反動として、明治20年代前半からフェノロサと岡倉天心を中心に伝統的な日本画を振興しようとする運動=洋画排斥運動が起こる。義松はフランス留学から帰ってみると、国内の風潮は一変していた。いち早く洋画の道に進んだ五姓田一門に訪れた歴史の皮肉である。三井寺境内最北にある子院、法明院奥の山麓に「日本美術の恩人」と称えられるフェノロサの墓が完成したのは明治42年(1909)、ロンドンでの客死の翌年のこと。
 この年の義松(54歳)の行動を、図録巻末の年譜から拾うと、「10月以後、黒田清輝に対して頻繁に書簡をやり、旧作の購入を促す/11月15日、パリ時代の油彩画習作ほかを総額129円で東京美術学校へ売却」とある。

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