2017年 1月 29日

原泉子と〈昭和〉の風景――森田創著『紀元2600年のテレビドラマ』

 前回の最後で、また小説『伯爵夫人』にもどったので、その続きである。
 同作は例の賞を受賞したため、作者のインタビューが何誌かに掲載された。
 『新潮』7月号に受賞記念インタビュー、『文學界』9月号に掲載のインタビューは、「『文学部不要論』の凡庸さについてお話しさせていただきます」と題されたものだが、『伯爵夫人』への言及もある。聞き手の渡部直己(文芸評論家、早稲田大学教授)とのやりとりの中で、最近のやたら小説を書きたがる学生は、「日本の小説のことなど何も知らない」「中野重治も武田泰淳も知らないで小説なんか書かれちゃ本当は困るわけでしょう」「私の今度の小説だって、中野重治も泰淳も出てきます」
 この発言は、先の受賞記念インタビュー(『新潮』7月号)での、「書きながら、たくさんのかつて読んだものの記憶が招きよせられたのは事実です」「菊の御紋章入りの靴下が出てきますが、あれはわたくしの記憶では武田泰淳の小説にあったはずなのに、どの作品だったのか思い出せません」「映画であれば、さまざまな記憶が共有され継承されていますが、文学ではそうではない」を引き継いでいる。
 とすると、「偽男爵」は中野重治の「空想家とシナリオ」(単行本化は1939年)から来てるわけか――と、即座に頭に浮かんだのであればよいが、そうでもない。見当をつけて、持っている講談社文芸文庫版『空想家とシナリオ・汽車の罐焚き』(1997年)を20年近くぶりに読み返してみて、すっかり忘れていた「偽男爵」の話を見つけた。
 そう、中野重治は読まれていない。私も武田泰淳は1作も読んでいないから偉そうなことはいえないが、別に小説を書く気はないので、そこは勘弁してもらいたい。
 前に石井桃子とのからみで書いたが(当ブログ「小波の世界」)、最近になって河出書房新社が出した石井の随筆集でも、中野との出会いを書いた「ある機縁」は除外されていたし。
 アマゾンで「中野重治」を検索してみても、レビューなしの作品が多い。代表作とされるものでも、1~2件とか。表示される書影とタイトルを下へ移動しながら、次ページ(次画面というべきか)へと移っていくと、6ページ目で、中野重治の著作でも、他人による評伝の類でもない本が現れた。
 森田創『紀元2600年のテレビドラマ ブラウン管が映した時代の交差点』(講談社)[正確に画面表示を記すなら、書名、著者名の順で、二重かぎかっこはなし、出版社名はずっと下にあるわけだが]
 書名部分をクリックして、単独の紹介ページに切り替える。内容紹介の文中に、「原泉子」の文字が読めて、ようやく中野重治とつながりが納得いく。2016年7月に出たこの本は、何紙かの新聞の書評でも取り上げられていたので知ってはいたが、私が読んだ書評中で「原泉子」の名前を出していたものはなかった。アマゾンのレビューは五つ星ばかり6件だが、出演者を指すものとして「岩下志麻さんのお父さまや寺尾聰さんのお母さま」という文章は出てくるがやはり「原泉子」の名はない。
 というわけでアマゾンの検索システムのおかげで、中野重治の妻、原泉子が出演していた日本初のテレビドラマについて書かれたノンフィクションを知る。
 近所の書店では新刊コーナーに並んでいるのを見たことがなかったので、出品されていた中で最安値だった中古品876円のものを購入。定価は1600円+税。
 戦前の日本でテレビの受像機に初めて映ったのは片仮名の「イ」の字だったというのは、テレビのクイズ番組や子供向け学習図書から教わった知識としてある。だが、テレビドラマの実験放送が紀元2600年=昭和15年(1940)にすでに行われていたことは、なぜかあまり知られていない。本書では、その理由を「戦時体制と不可分に結びついたその歴史に、どことなくフタをしたい気持ちがあったからにちがいない」としている。
 昭和15年4月13、14、20日に放送された12分間の生放送ドラマ『夕餉前(ゆうげまえ)』には、左翼系劇団「新協劇団」の俳優3人が出演した。原泉子、野々村潔(岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻、寺尾聰の母)。脚本を担当したのは、大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」の座付き作家だったこともある伊馬鵜平(春部)。
 本書は、プロローグでクライマックスにあたる放送ドラマの関係者が、「紀元2600年」の祝賀行事の一環であった同放送にいささか不似合いな者たちであることを示しつつ、テレビカメラと受像機の開発技術者、高柳健次郎(私たちがよく知る「イ」を映した人物でもある)の過去へとさかのぼっていく。
 読み出すと止まらない。前作『洲崎球場のポール際』(講談社)は、第25回ミズノスポーツライター賞の最優秀賞を受賞と著者プロフィールにあるが、テレビ開発の技術面も、素人にも興味がもてるエピソードを盛り込みつつ解説している。『洲崎球場の…』のアマゾンレビューの一つにある「ニュージャーナリズム的な」(現在時制を用いた再現VTRみたいな)書き方が本書をいくらか安っぽくしているが、読みやすさには確かに貢献している。
 それまでの実験放送で楽器演奏などが放映されていたが、出演者はみな照明の強さに根をあげ、「二度とごめんだ」と語った話は役者業界にも知れわたっていた。「新協劇団」の3人がこの仕事を引き受けたのは、経済的理由による。原泉子の夫、中野重治は昭和12年に執筆禁止処分を受けており、二人の娘である鰀目卯女への取材で、「幼少時代の記憶は、原が稼ぎ、中野が家事をするというものだった」、「ボタンホールの開け方に苦労しながら、腹巻を縫ってくれた」といった証言を得ている。
 これは私にはよくわかる。刊行時に図書館で借りて読んだ『敗戦前日記』(中央公論社、1994年)の半分ほどは、虚弱だった卯女の「育児日記」である。月日、天候と午前二時半、十時半、後二時、六時半それぞれの卯女の体温だけ書き記した日もある。挿絵を好んだ卯女の求めに応じて、『熊のプーさん』を読んでやることもあった。
 原側の結婚の条件が演劇を続けさせてくれることであり、中野もそれは当然と応じたのだから、これは対等な立場ゆえの役割分担だった。
 同年8月19日早朝、特高刑事が中野宅に踏み込み(ここで夫婦の対等性ゆえに生じたコミカルな一幕は、『紀元2600年のテレビドラマ』も拾っている)、原は世田谷署に連行される。新協劇団と新築地劇団の団員が拘束され、翌日警視庁は自発的解散を要請、23日に両劇団は解散を受諾。
 ここのところは、いつ買ったのか覚えていないが本棚にあった『愛しき者へ』上・下巻(中央公論社)のうちの下巻にある澤地久枝による解説文の方が詳細である。原泉は4ヵ月にわたって留置された。長期にわたったのは原がいわゆる「転向手記」を書くことをこばんだためである。
 12月22日、検事が「あなたがお考えになった共産主義に対するごく素朴な御意見を聞かして下さい」と問うと、原は「私は人様の書いた脚本で伯爵夫人にもなれば、水のみ百姓のおかみさんにもなる。みんな人の書いたものを暗記して覚えて、それらしい人間を舞台の上で表現するのが役者の仕事なんで、いちばんそういう論理的なことは弱いんです。共産主義というものはなんでも平等にすることだと私は理解しています」と答え、ようやく不起訴処分になって釈放された。
 「伯爵夫人にもなれば」と来たか。ここまでの過程で、原の評伝にあたる藤森節子著『女優原泉子――中野重治と共に生きて』(新潮社、1994年)の古本をアマゾンで購入していたのだが、カバー裏面には、ルイーズ・ブルックスまがいのボブカットで紙巻煙草を左手の指にはさんでポーズをとる原泉子の姿がある。
 ちなみに『紀元2600年のテレビドラマ』は、昭和16年12月8日、本物の伯爵(東伏見宮邦英)が見学に訪れたフィルム映画と日本舞踊の実験放送が、わずか3日前に定められた「国内放送非常体制要綱」に則り中止させられたところで終わる。
…………………………………………………………………………………………
 ここで整理しておくと、原泉子(はら・せんこ)の本名は原政野(まさの)、明治38年(1905)島根県松江に生まれる。戦後、芸名を原泉(はら・いずみ)と改めた。
 大正9年(1920)15歳で上京し、3人姉妹の下の妹の学費を稼ぐために、画学生や彫刻家の裸体もふくむモデルとして働き始める。昭和3年(1928)プロレタリア演劇研究所の研究生となる。
 先の評伝『女優原泉子』は、昭和54年(1979)に77歳で亡くなった中野重治の告別式会場の様子から始まる。原泉の挨拶がある。「一九三〇年に、旧『驢馬』の同人の手によって、私どもは結婚いた、さ、せ、られ、たのでございますけれども」とあるのでが、中野の関係者らしく、正確を期した感じでおかしかった。
 そう、中野と原は「結婚した」のではなく、「結婚させられた」のであり、当時、中野が左翼劇場の研究生である別の女性に〈ねらわれ〉ていたが、その女性が中野にはふさわしくないと考えた友人らが行動に移したものだという仔細も後段では明かされている。
…………………………………………………………………………………………
 今回のブログタイトルは、雑誌『ユリイカ』の2016年2月号特集タイトル「原節子と〈昭和〉の風景」のもじりである。女優原節子が2015年に亡くなったのを受けて出された雑誌だが、書店で手にとってはみたものの、私は原節子ファンではないので購入していない(ついでながら、前に当ブログで少し書いた小津安二郎の映画『麦秋』でいえば、私は原節子よりも淡島千景の方が好みである。中野重治がひいきの女優としていたのも淡島千景だった)。
 Wikipediaにある項目でちょうどよいので使わせてもらうが、「活動期間」は原節子が1935年(昭和10)~1961年(昭和36)、原泉子(原泉)の活動期間が1928年(昭和3)~1989年(平成元年)だから、〈昭和〉のほぼ全期間を女優として生きたのは後者の方である。
 言ってみたものの、私は原の出演作をそれほど見ていない。中野重治を読み出してまもなく、妻が女優だということは知ったが、数作あがっていた出演作で見ていたのは、『遠雷』(根岸吉太郎監督、1981年)だけだった。映画館でもレンタルビデオでもない。高校生だった頃、民放テレビで冬休みや春休みの深夜にATG作品をまとめて放送していたから、それを見た。耳が遠くていつもテレビの音量をあげている婆さんが……と思ったわけだ。
 これは何で読んだのか、原泉が出演作の選り好みをしないということは知っていた。だから、現在のWikipediaに「上品な老婦人・偏執狂的な姑・果ては祈祷師や霊媒師といった妖気漂う不気味な役までこなした」とあっても驚きはしない。それでも、改めて出演作の一覧と役名を眺めると、戦前の世田谷署での尋問に対する自身の返答を地でいく一貫性に驚かざるをえない。
 何か出演作を観てみようと、晩年に近い映画出演作のタイトルを眺める。選んだのは田中登監督『丑三つの村』(1983年)。理由の一つは、監督が田中登だったからだ。以前の当ブログ(「国貞の虜」)で、2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」の32作品のうち、名古屋の上映館へ行って2作品、DVDを買って1作品観たことを書いたが、じつは(といっても、別に隠したわけではなく、本題と関係ないので省略したわけだが)もう1本、観た。
 別の日の上映を観にいった友人から、「『(秘)色情めす市場』面白かったので、お勧めです。」というメールをもらい、そのDVDをアマゾンで購入したのである。購入履歴によると、2012年8月28日に注文している。9月2日にその友人へメールしている。「DVDにて観賞。はい、傑作です。薦めてくれて感謝。大阪西成のドキュメンタリータッチを維持したまま、どシュールな世界へ。」
 アマゾンで検索してみると、とうとう2016年にはブルーレイ化されている(なるほど、ロマンポルノ45周年か)。
 そんなわけで、田中登監督『丑三つの村』のDVD、定価3,024円(税込)が1,854円になっているので新品を購入。
 昭和期最大の大量殺人事件「津山三十人殺し」に取材して書かれた西村望の同名小説が原作。舞台は昭和13年(1938)の日本の山村、村一番の秀才と羨まれていた主人公犬丸継男(古尾谷雅人)だったが、兵役検査で軍医から結核と宣告されると周囲の村人たちは手のひらをかえして避けられるようになる。徐々に不満を募らせ、村内でのリンチ殺人の現場を目撃した継男は自らの身の危険も感じて密かに計画を練る。
 田中作品を2作しか観ていない者なりに、『(秘)色情めす市場』と比較してみれば、同じストーリーの変奏ではある。気づけばみんな穴兄弟、竿姉妹のような狭いコミュニティに生きる主人公が、フリーでやっていこうとする(売春をなんだが)のが『めす市場』で、そこを破壊するのが『丑三つの村』。前者で芹明香(せり・めいか)演じる主人公が地下道で誰彼かまわず声をかけて回るシーンが、後者の殺戮シーンに相当すると。
 原泉演じる犬丸はんは継男の祖母で、両親がともに亡くなっている彼にとっては唯一の肉親にあたり、出番も多い。出演シーンの長さからいっても、原泉晩年の代表作にあたるだろう。孫が道を誤ろうとしていることに気づき、身を挺して思いとどまらせようとするのだが……その結果は定石どおり。
 クライマックスの惨劇シーンのため、映倫が4ヶ所のカットを命じて成人指定になってしまった今作、ヤフオク!で入手した同作のパンフレットにあった「撮影うら話し」には、「ロケ地は琵琶湖畔の木ノ本から2時間も奥へ入った所」とある。
 また、撮影現場への取材記事が山根貞男著『日本映画の現場へ』(筑摩書房 1989年)に収録されていた。これは大船の松竹撮影所でのセット撮影へのルポで、ロケ撮影については、「いい候補地が見つかっても、話が話だけにいやがられたりしたあげく、滋賀県の山奥の村で行われた」とあるのみ。
 そう、これが『丑三つの村』を選んだ理由の二つ目だ。アマゾンの今作DVDのページにある2016年9月15日付けでBo-he-mianという人が書き込んだレビュー中にあるロケ地情報が一番くわしいので、長くなるが該当箇所を引用する。
…………………………………………………………………………………………
「映画のロケ地に使われたのは、豪雪地帯として知られる、滋賀県長浜市余呉町鷲見(よごちょう・わしみ)という集落で、『八つ墓村』(’77)の中にも一瞬登場する村だ。映画の中で、見事な茅葺の古い日本家屋が立ち並び、とてもセットで作り込む事はできない歴史が漂う…時の流れに嬲られ鄙びた寒村の、滅びゆく風景に心打たれること必至であろう。オープンのシーンの多くは、この集落で撮影された。
この集落は、’95年に丹生ダム建設計画のため廃村となり、全ての家屋が解体されてしまったという。現在ダム建設は凍結状態で、鷲見集落はいまだに水没していないようだが、集落への橋も落ちてしまい、もうそこへ行くすべはないという。
本作では、松竹の大船撮影所の大ステージに集落の一部をそっくりそのまま再現したセットを建て、家屋の中のシーンはセットで撮影したそうだ。しかし、古びた感じが実によく作り込まれていて、鷲見集落の家の中で撮影したかのように見える。(以下略)」
…………………………………………………………………………………………
 2010年(平成22)に長浜市に合併する前、撮影・公開時でいえば、伊香郡余呉町鷲見である。
 山根著『日本映画の現場へ』によれば、大船でのセット撮影を著者が見学したのが、1982年(昭和57)の11月とある。鷲見集落でのロケ撮影は同年の8月から9月にかけてか、パンフレットには「台風の真只中なのに、ロケ地だけは晴天が奇跡的に続き」とある。
 鷲見は、姉川の支流、高時川の最上流部(よけいややこしくなるかもしれないが近畿地方の規模でいうと淀川水系の最北端近く)に位置した。先のBo-he-mianという人のレビューには、「丹生ダム建設計画のため廃村」とあるが、これは端折った言い方で適切ではない。それ以前の経緯に、本当の廃村理由がある。以下の参考文献は、琵琶湖流域研究会編『琵琶湖流域を読む(上)』(サンライズ出版 2003年)。
 鷲見も含めた余呉町北東部(旧丹生村)は養蚕・製炭・林業などを主産業としてきたが、木炭需要の減退から、1970年代以降、住民の多くは近隣市町の工場へ勤めるようになっていた。当時の余呉村は「山村振興計画」の名で6集落の集落移転を決定し、1970年前後に3集落が移転、廃村となる。
 引き続き、残る3集落(鷲見をふくむ)も移転する計画だったが、共有林の売却ができなかったため資金難から計画は立ち消えとなる。
 そこへちょうど持ち上がったのが、高時川ダム(1992年に丹生ダムに名称変更)建設計画である。余呉町は建設反対を表明するが、鷲見をふくむ上流集落では集落移転計画実現の手段として下流集落を説得し条件闘争に持ち込んでいった。
 つけ加えると、Bo-he-mianという人も「豪雪地帯として知られる」と書いているとおり、高時川最上流の集落・中河内を中心に、1963年(昭和38)1月の豪雪で完全孤立状態になった。先の3集落が廃村となった直接の要因はこの大雪といってよい。つづいて1981年(昭和56)の「56豪雪」と呼ばれる大雪で、再び高時川上流の集落が長期間孤立する。翌1982年に流域集落が高時川ダム対策委員会を組織、翌83年から反対運動は条件闘争へと方針を転換する。
 その結果、鷲見地区の16世帯のうち13戸が同町内の造成地へ集団移転、3戸が同町内や旧長浜市へ自己資金で移転、離村式は平成7年(1995)10月22日に行われた。
 昭和50年前後の鷲見集落などの写真が掲載されている写真集『湖北の今昔』(郷土出版社 2003年)の解説には、「丹生ダム水没地域の人びとは、用地買収や補償にも積極的に協力して円満離村が成立した」と記されている。
 映画『丑三つの村』は、56豪雪翌年のロケであり、すでに当時鷲見集落の住人は町中心部近くに建てられた公営住宅などに生活の拠点を移していた。その点で、ロケはしやすかっただろう。『湖北の今昔』には56豪雪の翌年1982年(昭和57)以降、「トタン葺き屋根が並ぶようになった」とあるから、草葺き屋根が撮影できたぎりぎりのタイミングでもある。
 『琵琶湖流域を読む(上)』の「余呉型民家の形式」から引用する。
「鷲見の集落は、高時川と鷲見川との合流点から西に遡る鷲見川の両岸に形成され、古くは22戸、1991年では19戸で、入母屋造草葺トタン被の余呉型民家が妻面を川に向けて整然と建ち並んでいた。家屋は石段を一段高く積んだ敷地に建ち、別棟の隠居を付属していた」。
 映画でも、妻面を川に向けて整然と建ち並ぶ家々を主人公が向かいの山の斜面から見下ろし呪詛の言葉を口にする。「皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ」。唯一異なるのは、先にも書いたが「トタン被(かぶせ)」はなされていない点だ。
 もう一つ重要なのは、「妻入」すなわち妻面に入口がある余呉型民家だということだ。妻入なのは豪雪地帯であるために屋根からの落雪を避けるためで、屋根の雪が均等に解けるように妻面=入口は南を向いている。
 間取りは三間取広間型(前広間三間取り)で、部屋数が少なく、敷地面積自体も狭い。
 図を入れるとわかりやすいが、とりあえず文字と記号だけで表現すると、
   入口→1(にわ):1(だいどこ):2(ざしき/ねま)
となる。数字は部屋数、もちろん平屋(1階建て)である。それぞれの部屋は、壁ではなく襖か障子で仕切られている。
 これに対し、鷲尾の30kmほど南、琵琶湖岸の平野部にある葦葺き屋根民家(私も小学4年まではその一つに住んでいた)は、「余呉型」ではないものが一般的で、平面の左か右寄りに入り口がある「平入」の四間取だった。
    1(にわ):2(なかのま/だいどこ):2(ざしき/ねま)
     ↑
    入口(にわの反対側に勝手口あり)
 上記のようになる。
 ねま(寝間)に寝ているとして、殺人鬼に襲われた場合を想像してみてほしい。『丑三つの村』を観ながら、私が暮らした家との違いに気づいたわけだが、妻(短辺の側)から直線的にドン、ドン、ドンと寝間に押し入ってこられてしまう「余呉型民家」に逃げ場はない。
 たしか最初の2軒ぐらいドンドンドンの逃げ場なしが続いて、怖い。その後はワンパターンになるのを避けてか、平入の家や屋外に逃げたところを殺す形に移っていく。継男が一番殺したかった勇造(夏木勲)は瓦葺2階建ての家に住んでいたため、さっさと2階に上がると畳を起こして銃弾を防ぎ、生き延びてしまった。こら、勇造、余呉型民家で勝負しろ。そういう対決映画ではないわけだが。
…………………………………………………………………………………………
[追記 2月12日]
 原泉の出演作リストの中で、松山善三監督『名もなく貧しく美しく』(1961年)が近くのレンタル店に置いてあったので、借りてきて観た。二人とも聾者の夫婦の物語だが、高峰秀子と小林桂樹が芸達者さを発揮、手話による会話を名シーンにするエンタメ性もそなえた作品。
 原泉は、高峰演じる主人公の母親役で、主演二人の次にクレジットされており、出演シーンも多い。中期の代表作といってよいのではないだろうか。
 孫を相手に笑顔を見せるシーンも貴重だが、一番の見せ場は、家を出ていったまま音信不通だった、草笛光子演じる長女(主人公の姉)の住まいを訪ねるシーンだろう。
 バーの雇われママ兼中国人富豪の妾となり金には不自由していない長女の住いは、和服姿の母には不似合いなマンションの一室。
 入口で履いてきた下駄を左手にさげたまま、ソファに前かがみに座った母と傍らで立ったままの長女の会話は、緊張感を増していく。
 「用がなきゃ、訪ねてきちゃいけないのかい!」
 決裂して去る母、一人残された長女は鏡台の前に座ってブラシで荒っぽく髪をとかす。ここまでワンカット。
 初監督作品で単にカットが割れなかった可能性もあるが、見応えあり。

2016年 11月 6日

一夜明けたらFree Falling――Big Boi feat. Little Dragon & Killer Mike「Thom Pettie」

 最初に断っておくと、今回は丸ごと脱線である。「滋賀縛り」も果たせなかった。
…………………………………………………………………………………………………
 3月に蓮實重彥の小説「伯爵夫人」を掲載誌『新潮』で読んでいる最中、あるミュージシャンのことが頭に浮かんでいた。エロスとユーモアの人、共和国アメリカの「殿下」、終盤に至って毎晩主人公が耳にしていた、行為の最中の女性の嬌声はどうやら録音されたものらしいとわかる……となれば。そう、プリンス。
 あろうことか、しばらく経った4月21日、殿下急逝。
 個人的に初めて買ったプリンスのCDが3枚組のベスト盤『ザ・ヒッツ&Bサイド・コレクション』(1993年)で、再生数は「セクシャリティ」をテーマにまとめたという2枚目の後半、サンプリングされた「アッ」という女性のあえぎ声がバックでリズムを刻み続ける12曲目の「Peach」以降だからなのか。録音された「あえぎ声」といえば、プリンスが私の頭には浮かぶ。
 Googleで、「プリンス」「あえぎ声」と検索してみる。先のベスト盤の翌年に発売されたアルバム『Come』(1994年)の10曲目(アルバム最終曲)「Orgasm」は曲中ずっと女性のあえぎ声がバックに流れているとわかる。このアルバムは持っていない。ワーナーとのトラブルから独立レーベルへの移行を決めた、例の記号(ラブ・シンボル)へ改名前のラスト・アルバムということで、未発表曲のお座なりな寄せ集めと音楽批評家が考えたせいだろう、発売時の音楽雑誌では軒並み不評だったはずだ。私はそれを信じて買わなかった。先の3枚組ベスト盤でお腹いっぱいだったというのもある。
 ところが、アマゾンで検索してみると、あれ? 評価が高い。「再評価望む!」「もっと評価されていい名盤」「何で人気無いの?」と、不評をいぶかしむレビューも多い。4月26日(履歴は便利だ)に輸入盤の中古を購入。700円なり。
 聴いたのはゴールデンウィークに入った休日の車の中、田植えをひかえて水の張られた田の風景とともに思い出される。
 冒頭のタイトル曲「Come」はワンコードで11分強の長尺ファンク、普通にかっこいい。
 4曲目「Loose!」は聴き覚えあり。持っている4枚組アルバム『クリスタル・ボール(Crystal Ball)』(1998年)の3枚目の7曲目「Get Loose」は、これの歌詞を減らしてアレンジを若干変えたものだ(曲名は、本来「Get Loose」だったものをアルバム『Come』の全曲名1単語の方針から「Loose!」にしていたのか)。テクノっぽいせいで歌詞はわからないまま近未来スパイアクション映画を連想していた。『Crystal Ball』の付属ライナーに、「(次の8曲目「P.Control」とともに)LAのErotic City dancersの大のお気に入りだった」とある。YouTubeを探すと、プリンスがプロデュースしたクラブ「グラム・スラム(Glam Slam)」のステージでの「Loose!」のライブ映像あり。なるほど、ここで踊っているのがErotic City dandersの面々なのだろう。SFじみた小芝居があって、私の連想がそう的はずれでもないらしいことがうれしい。
 5曲目以降の紹介は端折るが、曲飛ばしなしで、9曲目「Letitgo」(先述のとおり、全曲名1単語の方針から、Let it goのスペース削除)へ。これはさんざレビューに書かれているとおり名曲、その再生途中、「Orgasm」にたどりつく前に家に着いてしまったので、翌日にまた出かけた際に10曲目から。波の音、女性のあえぎ声、エレキギター、プリンスのつぶやきのような「come on」。2分程度、曲というよりはエピローグ的なもの。
…………………………………………………………………………………………………
 小説「伯爵夫人」とプリンスについては、デビュー時からプリンス好きを公言している小説家の阿部和重が何か書くだろうと思っていたら、7月6日に発売された『論集 蓮實重彦』(工藤庸子編 羽鳥書店)収録の『伯爵夫人』論のタイトルが「Sign ‘O’the Times」である。いうまでもなく、プリンスの曲名兼アルバム名(1987年)。内容自体は、律儀にテクスト内の読みに徹した蓮實的評論で、プリンスへの言及はなし。一応断っておくと、6月22日に単行本が出たので、以降は小説名が二重かぎかっこ扱い。
…………………………………………………………………………………………………
 7月から8月末にかけて、音楽誌の増刊号などの形でプリンス追悼のムック本が次々出たのを読む。遅ればせながら、昨年出ていた西寺郷太著『プリンス論』(新潮新書)も読む。アルバム『Come』が普通に傑作扱いになっているのはよいとして、プリンスと同年(1958年)生まれのミュージシャンとして比較されるのが、マイケル・ジャクソンとマドンナというのは、はなから似ていないものを比べて意味があるのかという気になる。
 才能からいって、あるいは混血、両性具有といったキーワードからいっても、比較の対象になりうるのはケイト・ブッシュだろう。プリンスを、80年代ニューウェーブの文脈から語ろうとする文章はいくつかあった。そこにケイト・ブッシュも加えて語っていけば、見晴らしがよくなる気がする。ムック本の一つ、『プリンス 星になった王子様』(ミュージック・マガジン)には、小嶋さちほ(ゼルダ)と真保みゆきの対談が収録されていて、この2人ならと期待したが、1985年のアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』の際の記事の再録だったので、そこまで俯瞰した視点はなく残念。
 YouTubeにあったのは、オーストラリアのマッシュアップ制作集団Wax Audioによる作品「Prince Mashed With Kate Bush Sign o’ That Hill」で、「Sign ‘O’ The Times」とケイトの「Running up that Hill」のかけ合わせ。ケイトのアルバム『The Red Shoes』(1993年)収録のプリンスとの共作曲「Why Should I Love You?」で、イントロのトリオ・ブルガリカによるコーラスからプリンス・メロディーに移行する「違和感のなさ」に笑わされたのを思い出す。
 日本のCINRA.NETというサイトにあるビョークの最新来日インタビューを読むと、彼女は「ジョニ・ミッチェルやケイト・ブッシュに深く傾倒」したが、「(デヴィッド・)ボウイやプリンスがいるファミリーツリー(系譜)には属していない」と言っている。ケイト・ブッシュのファミリーツリーとプリンスのファミリーツリーは近いと思うのだが。
 ジャンルでいえばネオ・ソウルに分類される黒人歌手マックスウェル(Maxwell)は、カバーを以前のアルバムにも収録していたケイト・ブッシュの「This Woman’s Work」を、4月23日(プリンスの死から2日後)にルイジアナ州ニューオリンズで開催されたジャズ&ヘリテッジフェスティバル(New Orleans Jazz & Heritage Festival 2016)のステージで、「プリンスへの追悼曲」として披露したそう。8月19日の初来日公演でも。
 男性黒人ミュージシャンでは、フィッシュボーンのメンバーや、ヒップホップデュオ、アウトキャスト(OutKast)のビッグ・ボーイ(Big Boi)とアンドレ3000(Andre 3000)は2人ともケイト好きを公言している。とくに、ビッグボーイが何度もコラボしたいとケイトにラブコールを送っていることは、ケイトファンの間では有名な話だ。
…………………………………………………………………………………………………
 どうしているのかと久しぶりに調べてみたら、ビッグ・ボーイが、2012年に出した2ndソロアルバム『Vicious Lies And Dangerous Rumors』の13曲目「Tremendous Damage」は、ケイト・ブッシュにデモ音源を送って聴いてもらったと、インタビューで答えているのをネット上で見つける(結局、共演には至らず)。
 その代わり、スウェーデンのバンド、リトル・ドラゴン(Little Dragon)と3曲(デラックス・エディションだと4曲)も共演している。ボーカルのユキミ・ナガノ(Yukimi Nagano 父親が日本人)は、ケイトとプリンスに影響を受けたことをあちこちのインタビューで語っている。日本語記事ならverita(ヴェリタ)というサイトに、「北欧の歌姫 Yukimi Naganoのフェイバリットソング」という2007年の記事あり。私は、この記事で「彼らもケイト・ブッシュから影響を受けていると思います」と語られているスウェーデンのエレクトロ姉弟デュオ、ザ・ナイフ(The Knife)を知ったので、彼女にはとても感謝している。
 9月30日、アマゾンで先のビッグ・ボーイのアルバム(タイトルを訳せば、「たちの悪い嘘と物騒な噂」)デラックス・エディション版の輸入盤を注文。日本盤は出ておらず、ネット上でも日本語の情報が少ない。日本のアマゾンではレビューゼロ。さまざまなインディー・ロックバンド、エレクトロ・ポップバンドと共演、バラエティに富んだ意欲作だと思うのだが。
 ニューヨークのエレクトロ・デュオ、ファントグラム(Phantogram)が参加した10曲目「Lines」などには、ケイト・ブッシュ色も感じられる(このアルバム以後、ビッグ・ボーイはファントグラムの2人と、Big Gramsというユニットまで結成してしまった。長身でセクシャルな衣装も着こなす女性ヴォーカル、サラはステージ映えするし、ビッグ・ボーイと相性がよいよう。去年出た7曲入りミニアルバムも気に入ったので購入)。
 アルバムの中で最もキャッチーな9曲目「Mama Told Me」は、リトル・ドラゴンとの共作曲。ただし、バンドのレーベル移籍の時期に重なったことから権利問題でもめ、歌い手がユキミ・ナガノからケリー・ローランドに交代されている。プリンスが1980年代に多用していたリズムマシン「リンドラム(LinnDrum)」のビート(「Automatic」『1999』収録)をサンプリングして使っているのだそう。
 同じくリトル・ドラゴンと共演している8曲目「Thom Pettie」は、エフェクトをかけまくった不気味な低い男の声に続いて、女性が「あ~ん」。あった! サンプリングされた女性のあえぎ声。続く高音寄りのギターソロとあわせて、プリンスを連想させる曲。ブリッジでは、ユキミが甘い声で「We shining like the sun and moon」と歌う。
 曲タイトルはトム・ぺティ(Tom Petty)のスペル違い、トム・ぺティと言えば、2004年の「ロックの殿堂」式典で、トム・ぺティらとともにステージに立ったプリンスが圧巻のギターソロを見せつけたことがあるので(YouTubeにも動画あり)、両者の結びつきは想像できるのだが、英語の歌詞が、私の英語力では手に負えない。
 検索してみると、カナダのトロントで配布されている「Metro」というフリーペーパーのウェブ版にビッグ・ボーイの短いインタビュー記事があった。この曲名は、取材者にもいくぶん物議を醸すものと感じられたようで、「Tom Pettyってのは誰のことですか?」と冒頭から尋ねている。それに答えて、ビッグ・ボーイ、「とびきりの一夜を過ごしたけど、夜があけてみればどこに連れてかれていたのかわからないってことがあるだろう。いわゆる『free falling』ってやつさ。それを(トムのヒット曲『Free Fallin’』にひっかけて)『トム・ぺティする(Tom Pettying)』って言ってたのさ」。
 なるほど。行きがかり上、仕方ないので英語の歌詞を自動翻訳機能も使いながら日本語になおしてみる。
  俺はダイヤモンドがジャラジャラついた大きなメダルのチェーンを揺らす(中略)
  ヤクはない、でも俺たちはハイになった(中略)
  俺のXLサイズで彼女を……
 そう。ジャケット画像の左上を見ればわかるとおり、このアルバムは「Parental Advisory(保護者への勧告)」マーク入り。このマーク誕生の経緯は、プリンス追悼本のいくつかに記されているとおり。
 歌詞を要約するとだ。
 ホテルのどことも知れない場所での美女との一夜、夜が明けたら、俺のもとからあの女もこの女も去っていった。
 どこかで読んだような話だ。アメリカまで飛んで、ようやく小説『伯爵夫人』に戻ってきた。

2016年 5月 8日

彦根の呉服屋の後家――蓮實重彥「伯爵夫人」

 前回の続きとして書くと、2月末の日曜日に滋賀県立近代美術館で「ビアズリーと日本」展を観てきた。原画は思いのほか小さい。浮世絵などの日本美術から西洋の画家が受けた影響は、モネやマネなどの油絵より、ペンと墨で描かれたビアズリーの画の方がわかりやすい。
 けれど、私が知りたかったのは、日本美術のビアズリーへの影響ではなく、ビアズリーの日本美術界への影響についてだ。
 ビアズリーの没後12年目の1910年、雑誌『白樺』に5点の作品と柳宗悦(現在からすると意外な組み合わせ)による略伝が掲載される。やがて洋書輸入販売の丸善が機関紙『學燈』の表紙にビアズリーの画を使い、紙面には作品集などの広告を掲載した。図録解説に曰く、「〔日本の〕多くの芸術家や文学者がビアズリーの虜になりますが、なかでも本を活躍の場とする版画家や挿絵画家、グラフィックデザイナーへの影響は絶大でした」。
 山六郎、山名文夫、水島爾保布らの単行本や雑誌の挿絵は影響があらわ(ただし、水島は影響を否定している)で、見ていて楽しい。ビアズリー自身も、初期作品『アーサー王の死』の挿画はウィリアム・モリスから「強奪行為」と非難されるほど影響を受けまくっていたのだから、よいではないか。
 1980年代、フランスの漫画家メビウスのタッチが、日本の漫画界に広がった。メビウス・インパクトとでも呼ぶべき経過(雑誌『白樺』の役割を果たしたのは、SF雑誌『スターログ』日本版)を、中学生の頃に眺めていた者としては、大正期日本におけるビアズリー・インパクトもさもありなん。
 さて、ビアズリーの作品であるが、代表作『サロメ』の挿画は当時の紳士淑女が目をそむけるような猥雑な描写が最大の特徴である。前回紹介した小島麻由美のアルバムジャケットに用いられている『イエロー・ブック』にしても、なぜ「黄色い本」なのかといえば、「当時のイギリスで不道徳なものと考えられていたフランス小説本の表紙の色」(同展図録解説)だからだそう。そうした猥雑な側面が好きで来ている来館者は多くなさそうな点は不満。
 フランスの画家クールベの「世界の起源」なんてのもあったなと頭に浮かび、ネットで検索してみる。展示しているオルセー美術館も大変なようで。
…………………………………………………………………………………
 そんなことを思っていたら、「熟れたまんこ」によって「この世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねない」と登場人物が説く小説に出会った。3月7日発売の文芸誌『新潮』2016年4月号に掲載された蓮實重彥の小説「伯爵夫人」である。彦根市内の書店で手にしたのは3月26日(土)のこと。『群像』に連載されていた映画評論家としての作者による「映画時評」が一昨年終了してしまい、文芸誌の棚を月イチで見ることもなくなっていたので、気づくのが遅れた。ネットで検索してみると、朝日新聞の「文芸時評」などにも取り上げられて、そこそこ話題になっている。
 舞台は帝都とも称された時代の東京。帝大法学部受験をひかえた主人公・二朗は、劇場街の雑踏で、いつの間にか家に居ついた「伯爵夫人」と周囲から呼ばれる女性に呼び止められ、誘われるまま回転扉を抜けてホテルへ。二朗のある過失が原因で豹変した「伯爵夫人」の語りと二朗の回想によって明かされていく、彼女の過去と二朗の祖父を頂点とする奇態な一族の秘密……。
 会話文をカッコでくくらず地の文になじませた谷崎潤一郎的な文章で、一段落が長い点も同じ。ⅠからⅩⅡまでローマ数字のふられた12の章で構成され、文中に登場する回転扉のごとく、次の章への移行がほれぼれするぐらいうまい。
 朝日新聞(片山杜秀)と産経新聞(石原千秋)の文芸時評は、「ポルノ小説」に分類している。片山はジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」の系譜上に位置する作品としているが、読んでいない。私が頭に浮かぶ「夫人」は、映画評論家としての作者が山田宏一・山根貞男両氏とともに選出した2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」32作のうちの一つ、小沼勝監督「生贄夫人」(1974年 日活)だ。性別に関わらずこの映画に拒否反応があるかどうかを、小説「伯爵夫人」の性器や性行為の描写を読むかどうかの目安にすればよいと思う。
 小説や映画のタイトル、俳優の名前が次々出てくるが、知っていなければ読めないというものでもない(私も半分ぐらいはわからなった)。Ⅳで二朗の回想として語られる友人・濱尾の屋敷でキャッチボール中に起こった二朗の睾丸負傷事件の顛末は、帰宅後の従妹・蓬子との秘め事といっしょに、例えば平田アキラ(『監獄学園』)が漫画化できるな(16ページ×2回)と思えるおかしさ。
 「金玉潰し」が出てくるからには、村上春樹の『1Q84』(2009-2010 新潮社)を参照すべき何かをふくんでいて、この小説自体「1Q41」でもあるかもしれないのだが、これまた私は読んでいない。アマゾンにあがっている中古品だと、単行本の1-3巻セットの最低価格は260円+送料なり。いくらか心が動くが、現時点では購入せず。関係があるのなら、誰かの指摘をそのうち読めるだろう。
…………………………………………………………………………………
 「滋賀縛り」を唯一のルールとして書いている当ブログに取り上げたのは、作品中に「彦根」という地名が2回出てくるからだ。
 Ⅴで、いつでもお相手しますと迫るが、相手には不自由しておりませんからと二朗に拒否された伯爵夫人が言う。「せんだってお暇をとって彦根にもどり、呉服屋の後妻におさまった文江さん」を手ごめにしたとも思えない。
 Ⅶで、古株の女中である小春が、長男に比較した二朗のオクテぶりにあきれて明かすことには、処女の文江を二朗にあてがおうと説得に成功したのに、彼女は「いきなり彦根の呉服屋の後妻におさまり、おいとましてしまいました」。
 二朗が童貞であることが物語を駆動させていたことを思えば、彦根出身の女中・文江は重要な役割を担っていたことになる。小春に至っては自身の後継者にという腹づもりもあったのかもしれないが、文江は処女喪失よりも遥かに怖ろしい何かを察知して奉公先に見切りをつけたのか。
 ここに現れる「彦根」という地名は、「伏見」や「伊丹」、はたまた「八戸」に差し替えられても何ら支障はないのか。作者の初期評論『表層批評宣言』の文庫版(1985年 筑摩書房)の巻末にある自筆年譜をみると、昭和16年(1941)、作者5歳の項にあるのは、父親の出征について「新宿駅からいずこへとも知らず去った父からの最初の絵葉書で、彦根という都市の存在を教えられる」という文章だ。「彦根」は交換可能な地名ではないのか。絵葉書だから文江(文+絵)なのか。連想ゲームなのか。
 わざわざ自筆年譜に目を通してみたのは、「伯爵夫人」の舞台設定に私小説的要素が盛り込まれているからだ。志賀直哉の「暗夜行路」以来の定番テーマが登場する点(それも意識的に組み込まれているのだと思うが)ではなく、作者の実体験がもとになっているようにも読めるという意味で。
 文中に登場する地名を追うと、二朗の住む家の位置は、作者の自筆年譜に書かれている出生地「麻布区六本木町(旧町名)」のようだし、母方の祖父の持ち家だったとされている点も一致する。ただし、作者自身は昭和11年(1936)の生まれであり、描かれた「昭和16年」にはわずか5歳である。
 ついでにいうと、先の『表層批評宣言』文庫版収録のものから改訂が施されている『映画狂人シネマ事典』(2001年 河出書房新社)巻末の自筆年譜にあたると、「伯爵夫人」の中で語られる意味ありげな(しかし、よくわからない)挿話に現れる「尼僧」の語は、同年の記憶を書いた一文中にも見つかる。
…………………………………………………………………………………
 もうひとつだけ。
 「伯爵夫人」のあれよあれよの展開に浸りつつ、頭に浮かんだのは、磯﨑憲一郎の小説『赤の他人の瓜二つ』(2011年 講談社)だった。「伯爵夫人」の作者は文芸評論家として、磯﨑の芥川賞受賞作「終の住処」を高く評価し、最新作『電車道』(2015年 新潮社)をめぐって『新潮』2015年7月号で対談もしている。
 というわけで、『電車道』を読むことに。
 電車の線路が敷かれた東京近郊のある田舎町を舞台に、二人の男とその子や孫の人生を描いた長編小説と、一応説明しておこう。単行本のカバーには鳥瞰図で有名な吉田初三郎の「小田原急行 鉄道沿線名所図絵」が使われているが、小説の文中には鉄道会社の名は一度も出てこず、特定の私鉄の創業者をモデルにしているわけではないらしい。『新潮』への連載12回で完結したので12の章に分かれている。それぞれに小タイトルがついているわけでもないので説明しにくいが、二つ目の章はそれ以外とは舞台も登場人物も重ならない独立した短編のようになっている。
 舞台は京都。呉服問屋の丁稚となった少年の一本の人生に、思いがけず路面電車が交差する。「一本の人生」というのは妙な言い方だが、磯﨑作品の登場人物はそんな感じなのである。
 作中の会話で、「勧業博覧会の人出も百万人と聞きますから」とあるのは、明治28年(1895)に京都岡崎で開催された内国勧業博覧会をさすのだろう。琵琶湖疏水の水を用いた水力発電所は、日本最初の路面電車を走らせ、東京遷都によって衰退した京都の再生に大きな役割を果たす。というのは、「滋賀縛り」ルール上、書いただけで、作中に「琵琶湖疏水」という語は一度も出てこない。
 ちょうど集中力が持続するぐらいの長さで(正直、単行本一冊だと疲れる)、主人公がみな一種の視野狭窄に陥っている磯﨑作品のおもしろさを味わえるのでおすすめ。

2016年 2月 14日

小島麻由美と3776を「聴く」理由があるとすれば

 年が明けてすでに1ヶ月以上たってしまい、いまさらな気がしないわけではないが、2015年はどんな年だったか振り返ってみる。ひとつ確実に言えるのは、小島麻由美デビュー20周年の年だった。
 7月に20周年記念盤として、1st~3rdアルバム(通称「セシル三部作」)と幻の4thアルバムをふくむ未発表音源を収録したCD4枚組『セシルの季節 La saison de Cécile 1995-1999』と、イスラエル・テルアビブで活動するサーフロックバンドBoom Pam(ブーム・パム)とのコラボレーションアルバム『with Boom pam』が同日発売。UHQCD仕様の前者はとにかく音がよい。カーオーディオでも違いがはっきりわかる(私はそもそも仕事帰りの車の中でしかCDを聴かない)。後者については後述。
 12月には、待ちに待ったカバー曲集『Cover Songs』が発売された。
 この3曲目「夜明けのスキャット(Live)」(2000年発売のライブアルバム『Songs For Gentlemen』収録)は、スカ風味のライブ録音のみが存在。2002年に私の結婚式披露宴でお色直し前の新郎新婦退場にBGMとして使わせてもらった。妻ですら覚えていなかったから書いておく。
 4曲目の「夏の魔物」は、2013年7月15日付けの当ブログ「君はもう向こう側」で書いたとおり、彦根出身の徳永憲がアコースティックギターを演奏。
 全16曲、うち12曲はトリビュートアルバムなどですでに聴いたことあるもの(TOKYO No.1 SOUL SETが女性シンガーをゲストに迎えた企画アルバム『全て光』収録の「Champion Lover」は収録されなかったのだな)。
 なので、聴きどころは、2011年録音で未発表だった10曲目の尾崎豊「I LOVE YOU」と11曲目の同じく尾崎豊「シェリー」。前者は、ピアノのコードがジャズっぽい不協和音で、より不穏かつアダルトな雰囲気。男性曲を女性が歌う点と性的な内容の歌詞から、ケイト・ブッシュがシングル「King of the Mountain」にカップリングで収録したマーヴィン・ゲイの「Sexual Healing」を思い出した(ちょうど今日、DVDをレンタルして観た映画、ジョン・ファヴロー監督・主演の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』には、陽気なラテン風にアレンジされたこの曲がラジオから流れ、それにあわせて主人公と相棒が楽しげに合唱し、主人公の10歳の息子が顔を赤らめるというシーンがあったのでびっくり。評判どおりのよい映画)。
 後者は伴奏がリコーダーとトイピアノ。演奏と歌詞のミスマッチぶりがシュールの域。小島本人の編曲かと思ったら、佐藤清喜という人だということに驚く。
 このアルバム用の新録がラストの2曲。16曲目の「君の瞳に恋してる」は日本語訳歌詞が使えなかったそうで残念。
 最高なのは15曲目の「Hava Nagila(ハバナギラ)」。先にあげたイスラエルのサーフロックバンド、Boom Pamが来日した際に、小島の希望で収録されたヘブライ語民謡。日本でも、「マイムマイム」と並ぶフォークダンスの定番曲とのことだが、私は踊ったことなし。ベースがわりのチューバにかぶるエレキギターのかっこいいこと! 小細工なしの歌唱と演奏なのにポップかつ妖艶。
 この曲のプロデュースと編曲が、久保田麻琴。そう、2013年6月6日付けの当ブログ「ルーツと歌詞にマッチした名リミックス」で、その仕事『江州音頭 桜川百合子』リミックス集を紹介した、人呼んで「音の錬金術師」。アルバム『With Boom Pam』でもマスタリングを担当していて、私は2人の出会いを喜んだ。さらに、この新録がフォークダンスミュージック(日本でいえば「音頭」)ときた。「滋賀」とは関係ないが当ブログに書きとめておく。
 ちなみに、『With Boom Pam』のジャケットは、怪しげや本屋の店先で箱に雑然と詰め込まれた廉価本を物色する女性が描かれているビアズリーの『イエロー・ブック』趣意書表紙画(1894年)。本棚の上にある「BOOKS」の書き文字を「BOO」まででトリミングしてバンド名とかけてある。ビアズリーの選択は、代表作「サロメ」つながりなのだろう。
 2016年2月14日(本日)現在、googleで「小島麻由美 ビアズリー」と検索すると、一番頭にあがってくるのは、「オーブリー・ビアズリー文庫」というFacebookのページだ。大阪府内の個人がビアズリー情報を提供している私設ページのようで、昨年6月26日付けで『With Boom Pam』のCDジャケットを紹介している。
 見たなら、そこから下にスクロールしてみてください。
 2月7日付けで滋賀県立近代美術館(大津市)で開催している「ビアズリーと日本」展(2月6日~3月27日)の観覧記事が現れる。私も近いうちに行く予定。
…………………………………………………………………………………………………
 もう、ひとネタ。
 そんなわけで、『Cover Songs』が2015年に購入する最後のCDになるかと思っていたら、立ち読みした「週刊文春」で近田春夫が20年ぶり(また20年)にラップの作詞をした曲が出たことを知り、ネットで検索。
 TeddyLoidのアルバム『SILENT PLANET』収録の「VIBRASKOOL feat. 近田春夫 (Professor Drugstore a.k.a. President BPM) & tofubeats」だということがわかる。
TeddyLoidさんは日本人の男性ミュージシャン(別名「リミックス王子」 wiki知識)が多彩なジャンルの人気ミュージシャンとコラボした2ndとのこと。1曲のみダウンロードで購入。250円なり。
 アマゾンで同アルバムページの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」欄に、ももいろクローバーZのあれこれ(TeddyLoidが公式リミックスアルバムを制作した関係)とともにあったのが、3776『3776を聴かない理由があるとすれば』。☆5つだったのでクリックしてみる。
 白と青に色分けされたCDジャケットと名前から想像されるとおり、3776(ミナナロ)は富士山(静岡県富士宮市)ご当地アイドル。現時点のメンバーは井出ちよの1名でソロユニット。プロデュースと楽曲提供は石田彰。
 カスタマーレビュー曰く、「コンセプトアルバムの傑作」「2015年アイドルアルバムのベスト」「2010年代の重要盤」……いずれも大絶賛。
 購入。アマゾンの購入記録によると12月16日のこと。
 先にも書いたとおり、かけたのは仕事帰りの車の中。運転しながらなので、曲名リストも歌詞も見ないまま。80年代ニューウェーブっぽいという評価どおり、打ち込み主体で、基本的にギターはメロディを奏でない(クライマックスの19曲目「3.11」をのぞき)。
 富士山を「彼」と擬人化して恋愛ソングにしたものもあるが、アルバム全体のコンセプトが「富士登山」なので、インターバルの語りも含め、観光案内的言葉が多い。なので、「あるかも」と思い始めた曲が、中盤にかかったところで登場。
 8曲目「日本全国どこでも富士山」。森高千里の「ロックンロール県庁所在地」の系譜に属する「○○づくし」もの(そんな系譜があるのか知らないが)。
 関東地方なら群馬県にある「榛名富士」というふうに、その山容から「○○富士」の名でも呼ばれる山が地方別に列挙されていく。北陸「越後富士」、さぁ次かと思ったら、中国地方の「伯耆(ほうき)富士」に飛ぶ。あれ……。九州・四国ときて、国内では最後に近畿地方「近江富士、別名三上山」(滋賀県野洲市)。
 「聴く」理由とするには弱いか。
 インターバルの語りもふくめ全20曲の中では、10曲目の「春がきた」が好き。
…………………………………………………………………………………………………
 以下は余談だが、ネット上に類似の文章が見あたらないから書いてしまえ。
 一人でプロデュース・作詞・作曲・編曲を手がけた女性歌手のアルバムということで、私に思い出されるのは、近田春夫がつくった風見りつ子の『Kiss Of Fire(キッスオブファイヤー)』(1985年)だ。
 先のTeddyLoidのアルバムの特設サイトにあるプロダクションノートでは、近田春夫を「超オールドスクール」と評している。曲名「VIBRASKOOL」は、近田率いるヒップホップバンド「ビブラストーン」(1987年結成)に由来している(SKOOLの意味がわからなければ検索せよ。私もわからず検索した)。
 私は同じ「VIBRA」でも、さらにその前のニューウェーブバンド「ビブラトーンズ」に高校生の頃、ハマッた世代にあたる。ミニアルバム『Vibra-Rock(バイブラ・ロック)』とメンバーがバックと作詞・作曲を務めた平山みきのアルバム『鬼ヶ島』(ともに1982年)によってである。30年以上前、レコードの時代だ。
 大学進学で都会に出たらライブを見にいきたいと思っていたが、1984年、FMラジオから解散ライブだという演奏が流れてきた。翌年(1985)、4月に近田プロデュースによる風見りつ子の1st『キッスオブファイヤー』、5月に近田以外のメンバーが中心のバンド、PINK(ピンク)のバンド名と同じタイトルの1stアルバムが発売される。当然、私は両方買った。LPレコードを。レコードプレイヤーは居間に置かれていて、姉との共有物だったので、初めて聴くときにテープに録音してしまい、それぞれの部屋でラジカセで聴くことになる。
 いまも日本語ロック・ポップスの名盤に数えられる『鬼ヶ島』は、70年代歌謡曲の歌姫、平山みき(三紀)が、テクノにエスノにユーミンまでまぜたニューウェーブサウンドにのせ、ひねった設定(受験生の弟をもつ姉とか)の歌詞を歌った。
 一方、『キッスオブファイヤー』は、無名の新人歌手、風見りつ子に一聴、歌謡曲的な演奏・バックコーラスにのせ、「夜の大人の世界」をモチーフにした雰囲気重視の歌詞を歌わせたなかに、思いつくかぎりの音楽的な遊びをつめこんだ作品。
 対照的な2作だが、近田による企画先行なわけではなく、風見がビブラトーンズのファンで、『鬼ヶ島』収録曲を歌ったデモテープを近田に送り、その声質からアルバムコンセプトができあがった。
 さて、1980年代の終わりはレコードからCDへの移行期だった。レコードで所有していたものも、CD化されれば買いなおした。『Vibra Rock』は1stアルバムとセットで『ビブラトーンズFUN』としてCD化され(1988年)、『鬼ヶ島』もCD化される(1991年)。そのうち、『キッスオブファイヤー』もと思いつづけて幾星霜……。
 CD化されたのは、2013年10月24日。日本コロンビアのオンデマンドCDとしてだ。廃盤や在庫切れになったCDもしくは未CD化音源を1枚単位で受注生産するサービスで、2008年から始まっていたらしいが、知らなかった。そのラインナップに加わったのである。
 私はネット上でたまたま気づいて購入した。私のパソコンでアマゾンの『キッスオブファイヤー』のページを表示させると、上部に「お客様は、2013/12/30にこの商品を注文しました。」と表示される。その時の状況を忘れているわけだが、年末の夜で時間があったのだろう。思いついたものは何でも検索してみるものだ。
 3曲目「恋に溺れて」、4曲目「恋人達に明日はない」、5曲目「夜のすべて」の流れは、20年ほどぶりに聴いてもやはりよい。「恋に溺れて」の12インチミックスのような天井知らずの高揚感。「恋人達に明日はない」後半の間奏で、同じフレーズを延々くり返すキーボードと男性コーラスには「ライブかよ!」と突っ込みを入れて笑わずにはいられない(この曲は7分もある)。
 歌詞における頭韻と脚韻の多用や、曲やアレンジにおける過去のヒット曲からの“パクリ”は、ヒップホップに傾倒していた当時の近田ならでは。
 と、エラそうに書いたが、前段は、LPについていた「『精神』と『構造』」という物々しいタイトルの近田自身によるライナーノーツに書かれていることである。
 ありがたかったオンデマンドCDだが、ライナーノーツは、曲ごとの一言コメント部分のみが印刷され、その4倍ぐらいの長さがある「『精神』と『構造』」は割愛されている。このCDを買って、アマゾンなどにレビューを書く人は、その点で星ひとつマイナスしてください。

2015年 11月 29日

もう覚えた。ゴセダヨシマツ――神奈川県立歴史博物館「没後100年 五姓田義松 最後の天才」展

 横浜市にある神奈川県立歴史博物館で9月18日から11月8日まで開催された特別展「没後100年 五姓田義松 最後の天才」について書くが、見に行ってはいない。
 NHK教育「日曜美術館」の10月11日放送回で取り上げられたそうだが、翌週の再放送もふくめて見逃した。特別展の開催を知ったのは、10月22日付け読売新聞の文化欄に載った木下直之東京大学教授の寄稿記事によってである(ひもで縛ってゴミに出してしまっていたので日付が不明だったが、図書館で調べて判明)。鉛筆画の「自画像 六面相」と亡くなる前日の母親を描いた「老母図」が掲載されていた。
 まず画が目に入り、「昭和初期ぐらいの画家かな」と思ったら、幕末(1856年)に生まれ、日本で「洋画」を描いた最初期の人物だという。先の画は、それぞれ明治6年と8年の作。絵師・五姓田芳柳を父に持ち、慶応元年、10歳でイギリスから新聞の特派員として来日していたチャールズ・ワーグマンに入門、西洋の絵画技法を学び、25歳でフランスに渡り、作品はサロンで入選を果たした。
 同館のサイトで特別展関連の画像を見る。これはもっと見たいと思い、22日の夜に神奈川県立歴史博物館のサイトからミュージアムショップ宛メールで図録の入手方法を問い合わせた。翌23日に、払込口座番号と図録代1800円と送料460円を郵便局から払い込むこと、発送が11月初めになる旨の返信メールが届く。
 同時にアマゾンで、今回の特別展にあわせて一般書籍として出版された同館の角田拓朗学芸員の著書『絵師五姓田芳柳 義松親子の夢追い物語』(三好企画)を購入。
 予告どおり、11月初めに、図録が到着。同館サイトの記事に、「おかげさまで、初刷は10月29日(木)をもって、増刷分は11月7日(土)をもって完売し販売を終了いたしました」とある。危ない、危ない。
 図録は288ページ、掲載図版636点はすべてカラー印刷。
 11月第2週は、3晩ほどにわけて図録の掲載図版を眺めて楽しませてもらった。掲載図版の多くを占める鉛筆デッサンがとりわけよい(師のワーグマンや弟子の作品もかなり混ざっているそうだが)。
 タッチが確立する前、手癖で描くようになる前の、着物の皺をどう描くか書きあぐねているような画や、1枚の紙に頬づえをついた自画像と横向きの女性像と風景画が混在しているものなど、学生時代に図工や美術の授業以外で絵を描いた、つまり好きで絵を描いた経験のある人間なら気に入るのではないだろうか。
 うまさという点では、義松より生まれが1年遅い浅井忠の鉛筆デッサンの方が上だと思うのだが、浅井のそれは、後に工芸デザイン図案も手がけた達者さがあって構図と線が洗練されている分、対象の生々しさは若き義松の方が勝る。
 漫画でいえば、能條純一(『哭きの竜』)よりも、南勝久(『なにわ友あれ』『ザ・ファブル』)の方が断然好きだからということになるが、よけいわかりにくいか。
 義松のそれは、初期作品ゆえの輝きかもしれないのだが、図録で油彩画「老母図」の前ページに掲載されている鉛筆画「病母」2点も、明治8年の日本で描かれたことがやはり信じられない。1歳下の妹・勇(読みは「ゆう」。のちに義松の弟子・渡辺文三郎と結婚し、渡辺幽香と名のる)を描いた何枚もの画は、その多くが彼女自身も膝に画帳を置いて鉛筆を手に一点を見つめる姿であるため、晩年に「結婚などしないで画家として頑張って生きたかった」と回想したというその人となりをよく伝えている。
 義松の一生は、先の『夢追い物語』にくわしい。パリ留学から帰国後、日本では洋画が冷遇されるようになり、明治25年に父の芳柳が死去して工房は解体、失意の後半生が始まる。
 図録巻末の年譜から拾うと、「明治28年・1895・40歳/5月13日、妻菊、義彦〔2年前に生れた長男〕を連れて家出、3日間帰らず。翌月7日には義彦を置いて妻菊が家出/11月、戸籍訂正願を神奈川県に提出」。酒で生活が乱れたとする証言もあるそうで、それが原因だろうか。
 50歳代は、黒田清輝に旧作の購入の仲介を依頼するなどして糊口をしのぎ、60歳で没。
 そして、義松は長く忘れられた存在となる。
………………………………………………………………………………………
 ネット上にある企画展を鑑賞してきた人によるブログの文章と同様、「私もその名を知らなかった」と書くところなのだが、「待てよ」と思い直し、別の部屋に移動して本棚から「あれ」を探す。
 滋賀県立近代美術館でやった「山岡コレクション」のあれ、高橋由一の「鮭図」が表紙のあれ……。あった。『日本近代洋画への道 山岡コレクションを中心に』。ぺらぺらぺら。
 載ってる。五姓田義松の作品としてカラー図版で、どこかの霊場の参詣道らしき路上に立ち何か唱えている(口を開けている)山伏姿の少年を描いた「少年法界坊」、そして、イスに座って針と糸で人形の服を縫う老婆と傍らで人形を抱きながらその仕事ぶりを見つめる孫娘の姿を描いた「人形の着物」(明治16年に日本人として初めてパリのサロンで入選を果たした油彩画)の2点が、モノクロ図版で「富嶽図」「七里ヶ浜」「塩原風景」「駿河湾風景」の4点が掲載されている。
 見たことはあったが、覚えていなかったのである。失礼。
 しかし、改めて見ても、カラー2作の前者は完成品ではなく習作のような印象、後者は細部も緻密に描き込まれ日本人の作品とは思えない仕上がりだが、油絵としては古臭さしか感じない。実際、渡仏・渡米を経た後の義松のデッサンは、なんだかもそもそした、かえって垢抜けないタッチに変化している。
 この図録は、滋賀県立近代美術館で2005年10月1日から11月13日に開催された展覧会用のものである。私はこの展覧会「にも」行っていない。展示期間から推測すれば、同年10月上旬に娘が生れたことが理由だろう。数年後、同館を訪れた際にミュージアムショップで図録を買ったわけだから許してほしい。
 同図録には、義松の妹・渡辺幽香もカラーとモノクロ1点ずつ、二世五姓田芳柳もカラーで3点、ワーグマンの鉛筆スケッチや水彩・油彩画はモノクロだが20点以上掲載されている。結構な数の義松とその関係者の作品をそろえている「山岡コレクション」とは何か? 産業用発動機メーカー・ヤンマーの創業者、山岡孫吉(1888~1962)が収集した江戸末期から昭和初期に至る日本の洋画コレクションである。
 山岡は滋賀県伊香郡東阿閉村(現、長浜市)に生まれた。山岡の伝記にも「寒村」と書かれるような湖北の小集落なわけだが、私の父方の祖母は同じ村の生まれだったりする。
 そのコレクションは、ごく稀に所蔵者をふせたまま美術館に貸し出されるだけだったため、美術館関係者の間で「幻のコレクション」と称されていたそうだが、2001年に笠間日動美術館に託されると、同年3月31日~5月20日に同館で初のまとまった公開となる「高橋由一から藤島武二まで 展 日本近代洋画への道 山岡コレクション」が開催された。その後は毎年、全国各地の公立美術館を巡回している(図録自体も笠間日動美術館の編集)。
 2002年に埼玉県立近代美術館で、「日本近代洋画への道 山岡コレクション」展
 2003年に岩手県立美術館
 2004年に徳島県立近代美術館、目黒区美術館
 そして、2005年に滋賀県立近代美術館
 滋賀県はかなり後回しだったのだな。孫吉生誕の地だし、日動美術館以外では最初ぐらいかと予想したが、甘かった。山岡コレクションが滋賀県立近代美術館に託されていた可能性というのも……ほぼなさそうなので、ここで打ち切り。
………………………………………………………………………………………
 さて、明治11年(1878)、23歳の義松は、宮内省からの要請で明治天皇の約3ヶ月にわたる北陸東海巡幸に供奉して、各視察地で油彩の風景画を制作した。「明治十一年 北陸東海御巡幸図」として、宮内庁が所蔵している41点のうち、「江州石山観月堂臨御之図」と「三井寺眺望之図」の2点が滋賀県で描かれたものである。
 前者は、石山寺の月見亭(どんな建築物なのかは、弊社より発売中の畑裕子著『源氏物語の近江を歩く』のカバーをご覧ください)とそれが建つ高台から望む瀬田川を描き、月見亭の中には明治天皇の姿も見える。手前には緋毛氈(ひもうせん)をかけた長いすが3段2列に並んでいて、色彩も鮮やかで巡幸図中でもひときわ目立つ画である。そのためか、東京藝術大学にはそのまま模写した「明治帝御眺望図」が所蔵され、さらに手前に洋装の男性の人だかりも描かれた鉛筆画(その際のスケッチと考えられる)「天皇御巡幸図」も存在するとのこと。神奈川県立歴史博物館の特別展図録では、1ページにこの3点を並べて掲載している。
 後者は、西国十四番札所である三井寺(園城寺)観音堂が建つ境内から東方を向いて琵琶湖を望んだ風景で、右手に絵馬堂が描かれている。
 明治維新後の欧化政策への反動として、明治20年代前半からフェノロサと岡倉天心を中心に伝統的な日本画を振興しようとする運動=洋画排斥運動が起こる。義松はフランス留学から帰ってみると、国内の風潮は一変していた。いち早く洋画の道に進んだ五姓田一門に訪れた歴史の皮肉である。三井寺境内最北にある子院、法明院奥の山麓に「日本美術の恩人」と称えられるフェノロサの墓が完成したのは明治42年(1909)、ロンドンでの客死の翌年のこと。
 この年の義松(54歳)の行動を、図録巻末の年譜から拾うと、「10月以後、黒田清輝に対して頻繁に書簡をやり、旧作の購入を促す/11月15日、パリ時代の油彩画習作ほかを総額129円で東京美術学校へ売却」とある。

2015年 10月 12日

ミシン、移民、伊勢商人(その2)――再び、小津久足『煙霞日記』ほか

(前回からのつづき)
 テッド・Y・フルモトの小説『バンクーバー朝日 日系人野球チームの奇跡』に登場する日系人社会の顔役、鏑木は「朝日」というチーム名の名づけ親だという設定で、この名は本居宣長の有名な和歌「敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花(日本人の心とは朝日を浴びて香る桜の花のようなものだ)」にちなむと披露する場面がある。
 これは創作で、史料や取材をもとにしているわけではない。前回書名をあげたノンフィクション、後藤紀夫著『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』にチーム名の由来に関する記述はない。ないのだが、カナダには「敷島」「ヤマト」という名前の日系人チームがあったことは事実なので、これらの名が本居宣長の歌に由来する可能性は高い。
 そもそも、これらの名から何を思い出すかといえば、明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達のために日本政府が発売したタバコの4銘柄「敷島」「大和」「朝日」「山桜」だろう。この4銘柄の名前が宣長の歌に由来することは事実である。当時の日本人なら知らぬ者のない和歌だった。思想としても、宣長が「漢意(からごころ)」に対比させた「大和魂」が、明治以降、新渡戸稲造の『武士道』で言及されたことなどから復活する。
 現在も、本居宣長は国語と日本史の両方で暗記すべき人名だ。高校の日本史資料として利用され、一般書店でも購入できる『図説 日本史通覧』(帝国書院)の2015年度版の場合、189ページに「本居宣長六十一歳自画自賛像」(国の重要文化財)がカラーで掲載されており、自画像の左上にそえられた和歌が赤線で囲まれ、引き出し線の中に「しき嶋のやまとごころを人とはば/朝日ににほふ山ざくら花」と書かれている文字が示されている。
 同じページの左側に掲載されている表「国学者の系譜」にある解説は以下のとおり。
 「賀茂真淵に学び、『古事記』の注釈書『古事記伝』を完成、日本古来の精神への復帰を主張して国学を体系化。『源氏物語玉の小櫛』(注釈書)、『玉勝間』(随想集)などを著す。」
 30年前高校生だった私には単に暗記する名前でしかなかったのだが、10年近く前、担当した書籍の関係で、近江出身とされる室町時代の連歌師・宗祇と江戸時代の歌人・北村季吟を調べ、その流れで本居宣長の著作も読んだ。いずれも『源氏物語』に対する注釈をおこなった人として、いまでいえば「文芸批評家の系譜」に連なっている。
 ご存知のとおり、『源氏物語』の筋は、主人公・光源氏の恋愛遍歴である。例えば、戦国時代の公卿・三条西公条による注釈書『明星抄』の場合、物語内容が「ことごとく好色淫乱の風」であるのは、「この風の戒め」とするためであると説いている。現代の感覚からすると苦しい言い訳のような鑑賞法が、中世・近世を通して継承された。
 これに対して、宣長は、いやいやそんな道徳の教科書のように『源氏物語』を読むのは誤りだ。『源氏物語』本文に「登場人物の行動に心ひかれる」とあるではないか(つまり、それを否定していない)。文学は道徳とは別の価値基準がある。矛盾をかかえ愚かに見えるどのような行為、心理であろうと、すべてを書かれているままに味わうべきだと主張した。
 ここまでなら、そのとおりというしかない(まぁ、それ以前の道徳的解釈も「たてまえ」だったのだが)。ところが、ここから奇妙な理屈が展開する。
 本来、日本には心の移り行きをそのままに味わう素直でやさしい精神=「物のあわれを知る」心があった。しかし、漢国(からくに=中国)から儒教と仏教が伝わり、自分の心を偽る「さかしら心(利巧ぶった考え方)」が広まった。さぁ、『古事記』にさかのぼって、「古道(日本に古来から伝わる固有の精神)」を明らかにしたぞ。やはり日本には、万事を神のはからいとして素直に受け入れる神道がふさわしい(今の神道は堕落しているが)。
 以上、参考にした『本居宣長集』(新潮社)の「解説」(日野龍夫)も、その論理展開を「ふと気がつけば啞然とせざるを得ない」としているが、そう感じて納得しなかった人間は江戸時代にもいた。すぐそばに。
………………………………………………………………………………
 というわけで、今年2月22日付けの当ブログ「われはやくより病あり」で紹介した、江戸時代後期の伊勢商人、小津久足が再び登場する。
 そこで紹介した近江への紀行文「煙霞日記」に次のようなくだりがある。
 久足は永源寺へ向かう途中の高野村にある茶屋で、彦根から来た3人の彦根藩士(水野工樹、上田正方、山口友之)と知り合う。彼らも久足と同じく本居門下に連なる者だとわかる。永源寺で紅葉を愛でてのちの語らいの場で、話上手の水野と打ち解けたころあいに、久足は「本居先生の学風や和歌の歌い方は、もう流行遅れだと私は思う」と恐る恐る口にした。すると、水野はわが意を得たりという風に手を打って同意したので、さらに「今日の紅葉狩りは、桜好きの本居風にはできないことだ」と言って笑いあった。
 宣長の本来の姓は小津で、久足と同じ伊勢商人の一族である。「本居」は、戦国時代の武将、蒲生氏郷(商都・松坂を築く)に仕えた6代前の祖先、本居武秀の姓に戻したもの。ただし、血脈はつながっていない。久足(1804~1858)は、宣長(1730~1801)の長男、春庭(はるにわ)(1763~1828)の門人であり、その長男、有郷(ありさと)(1804~1853)の後見人となった。生没年を見れば、有郷と同年生まれで、宣長の孫の世代ということになる。
 ここからは、最初に久足について書いた当ブログ(「われはやくより病あり」)へのコメント欄で、板坂耀子先生にご教示いただいた髙倉一紀ほか編『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(二)』(皇學館大学研究開発推進センター 神道研究所)を参考に。
 同書巻頭にある解題によれば、春庭を師として国学の研鑽につとめた久足だったが、春庭の著した『詞八衢(ことばのやちまた)』(宣長の『詞の玉緒』を発展させた動詞の活用語集)を読んでもどうにも性に合わない。「おのれはかりにも信ずることなく、常にいみきらふことはなはだしく」「とにかく心にかなはぬをしへおほき」(「斑鳩日記」)と感じる。
 決定的だったのは、近江の石山寺参詣だという。普段から観世音菩薩を信仰していた久足は本堂を参拝して、「やまとだましゐとかいふ無益のかたくな心」とは決別したと記す(「花鳥日記」)。
 理由は、仏教への信仰心のためばかりではない。古学というには、「むかしより聞えぬことなるを、近来つくりまうけたるみちなり」「『やまとだましひ』『まごゝろ』『からごゝろ』などいふ、おほやけならぬ名目のかたはらいたくなりて」(「陸奥日記」)。
 「大和魂」なんぞは、最近になって作られたお題目でしかなく、笑止千万だというのだ。
………………………………………………………………………………
 そうすると、もう一度『ミシンと日本の近代』に戻ることになる。同書は、日本人の読者が好みそうな、「日本的特性」を明らかにする「日本文化論」としては書かれていない。最後にあるのは、「われわれの結論は、『日本では特殊にも』ではなく、『日本では、ほかのどこでもそうだったように』という句ではじめざるをえない」という、身も蓋もない(が、真実の)言葉だ。
 本書の中で引かれる「日本的特性」や「日本人らしさ」は、あくまで西洋(ヨーロッパとアメリカ)との対比で論者が都合よく定義した(新たに創造した)ものとして扱われる。1870年代以前(江戸時代)に、日本の「忘れることのできない他者」の役を担ったのは中国だったとも、ちゃんと書かれている。本居宣長が「漢意(からごころ)」に「大和心」を対置したようにである。
 1932年10月にシンガー社のセールスマンが行った労働争議では、争議団メンバー=日本人セールスマン50人が靖国神社と明治神宮に「成功祈願」に出かけていた。彼らが、シンガーのやり方は「崇高ナル大和民族ニ対」する「侮辱的言動」だとしたのは、世界中のどの国でも起ってきたグローバリズムの進展にともなうナショナリズムの高揚というやつの典型的な例にあたる。
 1930年代には、シンガーに対抗して、三菱、パイン、蛇の目、ブラザーなどの国内メーカーも誕生した。製造技術を提供した者の中には、争議後シンガーを退社した元従業員も多く含まれていた。164ページにブラザーの第1号ミシン、165ページにシンガーの一般的家庭用ミシンの写真が並べて掲載されているが、フォルムも部品の配置も表面にプリントされた図案と書体もそっくりである。
 国内メーカーは、コピー製品をつくり、セールスマンを全国に配置して月賦販売をおこなうシンガーのシステムもそっくりまねた。にもかかわらず、月賦制度についてパインは、月ごとに積立金を払う無尽講を採り入れた「日本の伝統的」な購入方法だと説明した。
………………………………………………………………………………
 さて、小津久足の家の分家の子孫に、映画監督の小津安二郎がいる。小津安二郎は「日本的な」映画監督だろうか? 今年4月に刊行されたハーマン・G・ワインバーグ著/宮本高晴訳『ルビッチ・タッチ』(国書刊行会)は、「映画史上最も洗練された映画監督」として知られるエルンスト・ルビッチ(「ニノチカ」最高!)の評伝だが、日本版特別寄稿として収録された山田宏一の「永遠のエルンスト・ルビッチ」第6節は、「ルビッチと小津安二郎」と題して、小津がルビッチ作品のファンだったことを示す小津本人や関係者の証言をひき、女性キャラクターやギャグの演出にルビッチの影響がみてとれるとしている。
 ちなみに、私が現時点で一番好きな小津作品は「麦秋」(1951年)。物語終盤で、主人公の紀子(原節子)が見合いをするはずだった相手の顔を拝みに友人のアヤ(淡島千景)と並んで廊下を抜き足差し足進むシーンは何度見ても微笑んでしまう。
 とうのルビッチは、ドイツ・ベルリン生まれのユダヤ人。ドイツで映画監督として活躍後、ハリウッドに招かれ、1920年代半ばから1940年代初頭までヒット作を連発し、「スクリューボール・コメディの神様」と称される。本書の帯には、その作風を評した「流麗優美 軽妙洒脱 淫風爛漫」という四文字熟語3つがピンク色で印刷されているが、さてこれは、ルビッチの「ドイツ的」な性質に由来するのだろうか?
 本書「まえがき」には、「批評家は彼のなかにあるフランス的風趣とギリシャ的機知の混在に注目したのだが、彼のインスピレーションの源泉となったのは(中略)、近年のハンガリーとバルカン諸国(ルビッチという姓はバルカン半島にルーツがある)の文化だったように思われる」とある。列挙される国名の数は、ルビッチ・タッチに「国民性」を持ち出しても無意味であることを逆説的に示しているだろう。
………………………………………………………………………………
 話を小津久足に戻す。
 『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(一)』の方の解題は、商人としての久足は家産の維持に努めた「極めて冷徹な現実主義者」だったとしている。子孫へ商売上の心得として書き残した『家の昔かたり』には、「もとより交ありとも、零落せし人には遠ざかるべし」と、それが道徳的には批判されるべきことだと承知のうえで、率直に記しているからだ。
 一方で、家産の維持さえできれば、「おもしろく、遊びてくらすが肝要也」とも書く。この辺をもう少し掘り下げたのが、平川新編『江戸時代の政治と地域社会 第2巻 地域社会と文化』(清文堂出版)に収録されている青柳周一滋賀大学経済学部教授の論考「天保期、松坂商人による浜街道の旅 小津久足『陸奥(みちのく)日記』をめぐって」。
 「陸奥日記』は、天保11年(1840)に、江戸と陸奥国松島(宮城県)を往復した旅行記。銚子(千葉県)の港を訪れた際、商売上の取引先(干鰯製造業者?)へ挨拶に立ち寄ったことを記したところで、久足の筆は自らの商売観におよぶ。
 世間の趣味人はたいてい家業を俗事と卑しくおとしめて、結局家を傾けてしまう。私がそうならず、趣味と家業を両立できているのは、空恐ろしいまでにありがたいことだ。珍しい本を思うまま買うことができるのも商売がうまくいっているおかげだ。まったくその恩を忘れることはできない……というようなことを思いつつ、銚子の取引先を回った。
………………………………………………………………………………
 ここで冒頭の『わが父塚本邦雄』にもどる。
 小学校低学年の息子(靑史)が父に尋ねた。
 「おとうさん。あんたは子供のとき、いったいどんな遊びをしてたんや?」
 父は答える。
 「漢和辞典を引っ繰り返して、難しい字から順番に覚えていた」
 四人きょうだいの末っ子に生まれ、辞書を片時も手放さず、兄や姉が買い与えられていた『千一夜物語』『万葉集』『新古今集』を当人よりも先に読む子供。後の前衛歌人を生んだのが商家の富だったことは確かなのだ。
………………………………………………………………………………
 ダメだ。書く前に頭の中でアウトラインができあがっていたから、思いがけない方向に転んでくれなかった。いまいちなので、以下おまけ。
  結婚衣裳縫ひつづりゆく鋼鐵のミシンの中の暗きからくり
 ミシンの語が詠み込まれた作品はないかと思い、「塚本邦雄」「ミシン」で検索したらヒットした。収録されているのは、第二歌集『裝飾樂句』(1956年)。
 書名は「カデンツァ」と読ませるとのこと。
 あーっ、前々回にちょろっと書いておいた岸誠二監督『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(カデンツァ)』が10月3日から公開中なのに、まだ観にいけてない!

2015年 10月 12日

ミシン、移民、伊勢商人(その1)――奥寺佐渡子脚本『バンクーバーの朝日』ほか

 今回はお尻の「ん」並びである。前々回の頭の「ア」並びの次にアップするつもりだったのだが、前回の「刺客…、シカ喰う…、人を喰った…」の方が先にできてしまったので、後回しにしていたネタ。頭の中では数珠つなぎになっているのだが、これがいつにも増して長い。文章に起こしていくのが面倒くさい。
………………………………………………………………………………
 昨年12月に出た塚本靑史著『わが父塚本邦雄』(理想社)を、今年3月頃に図書館で借りて読んだ。滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現、東近江市五個荘川並町)生まれの歌人・塚本邦雄の一生を、タイトルどおり息子が綴った本。
 文字資料は用いず、著者が見聞きしたことにほぼ限定して記されているので、とても読みやすい。近江商人を数多輩出した地として知られる五個荘に対する邦雄の態度は、よく知られているとおりだ。この本でも、「(その地において)人の価値を計るのは、金銭の多寡だけだったと、塚本邦雄は吐いて捨てるように言っていた」とある。
 大阪の繊維商社、又一に勤めていた邦雄は、短歌結社「青樫」の歌会で竹島慶子と出会い、2年後に結婚する。奈良の二上山の麓で生まれ育った慶子と、五個荘生まれの邦雄、古代にさかのぼる双方の生地の因縁話もおもしろい。昭和26年、第一歌集『水葬物語』が出版されると、三島由紀夫らから絶賛を受ける。昭和29年、商業誌からの仕事の依頼も来るようになった矢先、会社の集団検診で肺結核だと診断される。
「邦雄が慶子に総てを打ち明けて相談すると、期を一にするように彼女はドレメ式の洋裁学校に通い出す」。その後、師範免許状まで取得し、邦雄を治療した医師の夫人の洋服を作ったりしたという文章の後に、「ドレスメーカー女学院時代の慶子(左端, 1956年)」とキャプションがそえられたワンピース姿の写真も掲載されている。それより前の第1章で、実際に会う以前に結社誌『青樫』を手にした邦雄が、後の妻となる女性の名と作品を目にしていたことを語る部分にも使われている若き日の慶子の写真も、「大倉ドレスメーカー女学院での竹島慶子(右端)」とあり、こちらはブラウスにスカート。慶子は、ファッション雑誌のモデルだったとしてもおかしくない容姿である。幸い邦雄の結核は2年の療養を経て完治した。
 戦後の日本人女性の多くにとって「ミシン裁縫は生き延びるための技能」であったとするアンドルー・ゴードン著『ミシンと日本の近代』(みすず書房)を思い出す。同書は、明治期以降の日本での家庭用ミシンの販売・利用とともに進む女性の洋装普及の歴史を丹念にたどったものだが、第7章のタイトルは「ドレスメーカーの国」。戦後、日本女性の服装が農村部まで含めて、ブラウス、スカート、ワンピースなどの洋服に変わっていくなかで、洋裁学校の大ブームが起こる。杉野芳子が創立したドレスメーカー女学院(略称ドレメ)は、卒業生によるフランチャイズ校が全国に700校も開設された。
 2013年7月発行の本書の帯にある推薦コメントは、ファッションデザイナーのコシノヒロコによるものである。曰く「ドラマ『カーネーション』で描かれた母と、同世代を生きた女性たち。彼女たちの息づかいまでが聞こえてくるようだ」。
 そう、コシノの母・小篠綾子をモデルにしたNHKの連続テレビ小説(2011年度下半期)は、洋裁店を営む主人公・小原糸子(尾野真千子)が、夫の戦死後も洋裁業で3人の娘たちを育てあげる物語。ドラマ内のミシンにはSINGERをもじったSTINGERというメーカー名が記されていた……とうのは、ネットで検索した豆知識。
 ただし、戦争未亡人とミシンのつながりは、太平洋戦争に始まることではない。ミシンメーカー・シンガーが日本への本格的な販売活動を開始してまもなく、1906年に創立されたシンガーミシン裁縫女学院の初代院長・秦利舞子が、日露戦争によって夫を失った妻たちに自身の学院で教育を受けるよう勧めていたそうだから、その歴史は半世紀ほどはある。
………………………………………………………………………………
 夫が、結核でも戦争でも死ななかったとしても安心してはいられない。
 生来病弱な質で、若い頃、結核にかかっていたおかげで兵役免除になったことのある夫は、下駄履きの普段着のまま自転車で「ちょっと出かけて来る」と言ったまま、家に妻と幼い息子を残して失踪する。東京から地方の実家へ移り住んだ妻は、シンガー社製のミシンを操る独り身の姉とともに、自宅に設けた「洋裁室」で近所から注文のあったウエディングドレスやバレエの舞台衣装を縫って生計を立てている。その後(たぶん昭和50年代)、小説家になった「私」の元に、父と暮らしていた女から彼の死を知らせる手紙が届く。金井美恵子の小説『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社)が出たのが、2012年1月で、それをネタに3月に当ブログで「反魂の法」を書いた。
………………………………………………………………………………
 いやいや、夫が別の女にうつつをぬかさず懸命に働いていたとしても安心できない。
 製材所での仕事を終え、カフェで仕事仲間たちと語らった後、主人公のレジーは徒歩で家路につく。帰ってきた家の玄関先には、洋裁業を営んでいることを示す看板がかかっている。どこまでがキッチンでどこからが居間なのか区別もない狭い家の中では、母親がミシンを踏み、妹のエミーが針仕事でそれを手伝っている。父親は生きていて人一倍働き者だが、稼いだ金のほとんどを家には入れず、遠く海をへだてた日本の親戚に送金してしまうから、母と娘は夕食後も手を休めず家計を支えている。
 舞台はカナダ西岸。昨年の12月から公開された映画『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)の話だ。父親(佐藤浩市)と母親(石田えり)は日本からやってきた移民、レジー(妻夫木聡)とエミー(高畑充希)はカナダで生まれ育った2世である。
 私が観た彦根市内の映画館「彦根ビバシティシネマ」の入口に設置されていた特別パネルと配布チラシには「初代“バンクーバー朝日軍”の監督と主要メンバーは彦根出身者」「彦根出身移民の方がモデルです」と書かれていた。このことは新聞の県内版紙面などでも報じられたから、映画館でも親類縁者に移民者がいたのだろう感じの60歳代夫婦であったり70歳台老人が目についた。
(滋賀県からカナダ・バンクーバーへの移民については、当ブログの5年前の記事「さよならバンクーバー、こんにちはバンクーバー」を参照)
 ところが、実際の映画の登場人物たちに彦根出身者らしき痕跡はまったくない。レジーの父が話しているのは広島弁だ。脇役に名古屋弁を話す男がいる。
 現実の「朝日」は1914年から1941年まで存在したチームだが、映画化にあたって、そのエピソードを1938年の1年間1シーズンの物語に圧縮し、登場人物に特定のモデルはいないとのこと。
 現在の彦根市開出今町出身で、チーム創設時の中心メンバー(初代監督を含む)については、映画パンフレットに収録されている河原典史教授(立命館大学)の5ページにわたる日本人移民史、後藤紀夫著『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』(岩波書店)などを読むしかない。
………………………………………………………………………………
 要するに、映画自体は「滋賀」にからめて書くことがない。関係はないが、思いついたことはあるので以下、脱線。
 観る前は、その前に観た妻夫木聡主演映画が『黄金を抱いて翔べ』(井筒和幸監督、2012年)だったものだから、そこでの妻夫木×チャンミンが、妻夫木×亀梨和也になったブロマンスを想像してもいたのだが、どちらかが瀕死の重症を負ってもう片方の腕に抱かれるようなシーンはなかった。これは違う。
 物語がかなり進んでようやく、主人公レジーは奥寺佐渡子脚本作品の「たよりない男子」キャラなのだとわかる。映画『学校の階段』(平山秀幸監督、1995年)の小向先生(野村宏伸)の系譜だといえば、1990年代半ばに小学生だった人ならわかるだろう。公開時、私はすでに社会人だったので、夏休みの子供向け作品である同作を映画館ではなく、数年してからのテレビ放送で観た。舞台となる小学校に勤める小向先生は、気が弱く、恋愛も奥手(近々お見合いの予定あり)、オバケが現れれば、生徒を追い越して一番に逃げていく。「先生」だけど「男子」と称した方がしっくりする。
 そんなことを思い出し、ちょうど小学4年生の娘が「怖い話」にはまっている時期(図書館で借りる本は、漫画風挿絵が入ったその手のシリーズ本ばかり。夜の歯磨きに一人で洗面所へ行けない)なので、8月上旬の土日は、平山&奥寺コンビの3作(1と2と4。3は監督・脚本が異なるので除外)を続けてレンタルして二人で鑑賞。20年近く前の作品なので少し不安もあったが、娘は恐怖にも笑いにも的確に反応。4に至っては、「感動作やん」と感想を述べるものだから、笑ったら怒られた。笑った私が悪い。娘は、通販サイトで購入してあげた中古の映画パンフレットも熟読。
 このタイミングで思い出して、本当によかった。
 さて、「たよりない男子」は、その後、細田守監督との共同脚本によるアニメ映画『サマーウォーズ』(2009年)の主人公・小磯健二くんとして登場し、ネット空間に投入されたプログラムの暴走による危機から世界を救う。
 決して大向先生と大磯くんとは名づけられない、小向先生と小磯くんが活躍する『学校の怪談』と『サマーウォーズ』はともに、「たよりない男子がカギと格闘する話」だ。(もちろん『サマーウォーズ』が、細田守監督の過去作『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』のセルフ・リメイクだということは承知のうえで書いている。そんな誰の目にも明らかなことより、『学校の怪談』とつなげた方がおもしろいではないか。)
 『バンクーバーの朝日』の主人公・レジーも、熱血野球少年ではなく、内向的な性格の「たよりない男子」である。チームのキャプテンを含む3番・4番の二人が勤め先の閉鎖で移住することになる。レジーは後任のキャプテンに選ばれるが、持ち前のリーダーシップを買われてというわけではなく、理由は年齢だ(一番年上のトムは妻子持ちなので除外)。それも、強く主張することが苦手な性格を見透かされて、厄介な役どころを押しつけられたようにも見える。円陣を組んで発する掛け声も、照れてしまってうまくいかない。
 そんなレジーだが、ある試合の打席でビーンボールまがいの球を防ごうと出したバットにたまたま当たったボールが前にころがったことをヒントに、バントと盗塁で得点に結びつける戦法を編み出す。やがて、万年最下位チームが勝利を手にし、その戦法はカナダ人をも魅了していく。
 「情けない主人公がほんの少ししかない武器をどう活かし、どう戦って乗り越えるか」を見せようとしたという奥寺佐渡子の『サマーウォーズ 公式ガイドブック』(角川書店)収録インタビューでの発言は、『バンクーバーの朝日』にもそのまま当てはまる。主人公の姓が「笠原」である点が残念。
 快進撃を続ける「朝日」だったが、ピッチャーのロイ(亀梨和也)が試合中に乱闘騒ぎを起こし、出場停止に。しかし、カナダ人も含めた観客からリーグ事務局への抗議が殺到し、すぐに停止措置は解かれる。
 連絡を受けた「朝日」の選手たちがいつものカフェに集まった。普通なら、さぁ、決意を新たにがんばろうという場で、キャプテンのレジーの「たよりない男子」キャラが発揮される。「俺、そういうの苦手だから……」と言って、スピーチを妹のエミーに代わり退場。
 エミーは、カナダ人の友人から教えてもらった「Take Me Out to Ball Game(私を野球に連れてって)」を歌う。
 背を向けてテーブルを見つめたまま聴いていたロイは……。
 カフェに集まる前のシーンでレジーに示した態度を一変させるわけだが、エミーが歌っている途中から、その行動は予感されるものなので、観ていて気持ちよい。無駄に言葉を費やさないシナリオのうまさが光る。
 ただし、エミー役の高畑はうじうじと感情を込めすぎ(歌詞がよく聴き取れないほどなんだもの)。もっと明朗に歌い上げてほしかったし、ロイ役の亀梨もオーバーアクション気味にした方がテンポのよさが生まれたと思う。作品全体を通してシリアスさを求めすぎ、大事なところでクライマックス感が生れていないのは、石井監督の責任だろう。
 レジー役の妻夫木聡は、「たよりない男子」が屈強な相手に勝利するお話の構図をよく理解して演じていたが、悲しいかな、性格づけがなされているシーンに引きのカットが多すぎた。ネット上のレビューを見るかぎり、観客には単に「暗い主人公」と受け取られている。
 無駄に言葉を費やさないシナリオは、「国民性」といった言葉を持ち出さないことにも注意を払っている。日本人移民選手とカナダ人選手の違いはあくまで体格上のものだ。
 同じカナダの日本人野球チームをモデルとしながら、テッド・Y・フルモトの小説『バンクーバー朝日 日系人野球チームの奇跡』(文芸社文庫)になるとどうか。
 監督のハリー(小説内の架空の人物。以下同)が言う。
「白人みたいな戦い方をしてちゃあダメだってことです。僕たちはあくまで日本人らしく戦わないといけない。日本人でなければできないようなプレーをしない限り、白人たちに勝つことはできない」。
 日本人街の顔役で、朝日を金銭的に援助している鏑木と、新聞記者の会話。
「どうして日本人はビーンボールを投げられても怒ったりしないのですか?」
「それが武士道の精神だからだ」
 こんな調子だ。
(つづく)

2015年 7月 25日

刺客の映画、シカ喰うための本、ヒトを喰ったテレビドラマ

 今年のカンヌ国際映画祭で監督賞に輝いた台湾のホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の最新作『黒衣の刺客』が、9月12日から日本で公開される。
 と書き出してみたが、公式サイトのトップページ(パソコンのディスプレイ上で同時に開いている)にある作品名のそばには、平仮名で小さく「こくいのしきゃく」……困った。「しかく」と読まないことには、今回のブログタイトルが成り立たない。先は長いので、知らなかったことにして進める。
 舞台は唐の時代(9世紀)の中国、主人公は誘拐され暗殺者として育てられた女性、標的はかつての許婚だった暴君、彼女が任務中に陥ったピンチを救う人物として、難破した遣唐使船の日本人青年も登場するそう。
 サイト内の現在の予告編は静止画ばかりだが、「刺客聶隱娘」や「刺客聂隐娘」で検索すれば、台湾や中国の芸能ニュースで公開された動画を見ることができる。
 同作のfacebook7月7日付け記事によると、日本公開版は、ホウ監督の希望でインターナショナルバージョンでは割愛された日本でのロケシーンを復活させるとのこと。ロケ地としてあがっているのは、「京都・奈良・滋賀・兵庫」の4県。インターナショナルバージョンの105分に対して、日本公開版は108分と公開時間が3分長い。単純に均等割りすれば、滋賀での撮影部分は1分以下だけど。日本人青年(妻夫木聡)の回想シーンで、その妻(忽那汐里)が雅楽の舞を披露する。
 撮影監督はリー・ピンビン(李屏賓)。動画を見ると、ロケ地の多くが中国だからか、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督と組んだ『春の惑い』(2002年)を思い出させる。そして、主人公に狙われる暴君を演じるのは、やはり田壮壮監督の『呉清源 極みの棋譜』(2006年)で、主役の呉清源を好演したチャン・チェン(張震)。同作のロケは、2004年の10月から12月にかけて、滋賀県の近江八幡市や彦根市で行われた。私は、滋賀ロケ映画の取材にかこつけて訪れた同作の製作本部(旧八幡公民館)で、本人を見ている。彼は、その辺にころがっていたらしいケバケバになった硬式テニスボールをドリブルして時間をつぶしていた。
 以上、取り急ぎ。2007年10月22日付け「プレミア上映『呉清源 極みの棋譜』評」と、ホウ監督作品『冬冬の夏休み』について書いた2011年7月17日付け「ままならない子供時代」も参照いただきたい。
………………………………………………………………………………
 さて、次。彦根市立図書館の郷土本新刊の棚で見つけたのが、松井賢一著『いけるね!シカ肉 おいしいレシピ60』(農文協、6月5日発行)。情報誌『Duet』106号「特集 シカ肉を食べる」で取材させていただいた著者(本業は滋賀県職員)のシカ肉レシピ本第2弾である。
 シカ肉にこじつけて、当ブログでも2012年6月3日付けで「シカ喰う人々――阪本順治監督『大鹿村騒動記』ほか」という文章を書いた。書いたものだから、気になる。例えば、クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』(2014年)は、冒頭で少年時代の主人公が父親に連れられてシカ狩りに行き、並みはずれた才能の片鱗を見せる。続いて、仕留めたシカを、……食べるシーンはもちろんない。
 アメリカでは、殺したシカをどうするのか。ドッグフードなどの他に、一つの使い道として、腹を開いて内臓を見せると、ちょうど人間のそれと同じ大きさぐらいなので、映画のスプラッターシーンに使われていると、雑誌かネットで読んだことがある。
 なので、猟奇殺人の死体と人肉を調理した美しい料理の数々が見どころだというアメリカのテレビドラマ『ハンニバル』(NBC、2013年~)が人気だと知った時も、まず思ったのはシカ肉がたくさん使われているのだろうなということ。
 かといってグロ描写は苦手なので観ていなかったのだが、人食い殺人鬼レクター博士役のマッツ・ミケルセンがすばらしいという友人の言葉もあって、おくればせながら、1st シーズンのDVDを借りた。ややこしいが、同タイトルの小説が原作になっているのではなく、時間的にはその前の『羊たちの沈黙』、さらに前の『レッド・ドラゴン』よりも前、レクター博士がまだ逮捕されていない時代(ただし、時代設定は現代)を描くオリジナルストーリーだそう。
 FBIで連続殺人事件の捜査を手伝うウィル・グレアムは殺人現場を見ただけで犯人の行為を忠実に脳内で再現できる能力を持っていて、その精神鑑定を依頼された精神科医ハンニバル・レクターは彼に関心を抱く。複数の事件の犯人に共感することで精神に異常を来たしていくグレアムと、彼となら友人になれると感じ、ちょっかいを出し続け、事態をさらに悪化させていくレクター博士。
 なるほど、レクター役のマッツ・ミケルセンは魅力的で、孤独な魂同士の邂逅にはまる原作ファンがいるのだろうということはわかるのだが、私には今ひとつ楽しみ方がわからないまま話は進む。
 おもしろかったシーンをあげてみる。
 第2話で、視聴者が「お前が真っ先に殺されろ!」と思わずにはいられないタブロイド紙の記者を冷たい目で見つめるレクター博士。シーンが変わり、レクターが自ら調理した赤いソースのかかったロイン(腰肉)をFBIのクロフォード課長に振る舞っている(ほぼ毎回、レクターはFBI捜査官も含めた事件の関係者を自宅に招いて手料理を供する)。
 「何の腰肉?」との問いに、「ポーク(豚です)」と博士。
 「やった! 喰われやがった(のか?)」と思っていたら、続くシーンで記者が何事もなく現れる。この微妙なヒッカケはよかった。(ただし、彼にとって、殺した人間は皆、無礼な「ブタ」という設定を守ろうとすると料理に広がりがなくなる。後半の話数になると、烏骨鶏のスープや子牛肉のなんとかなんて料理が出てくる。)
 もう一つ。第7話で、名刺ファイルとレシピのカードを交互に繰るレクターの指先、男性歌手のオペラが流れるなか、キッチンで冷蔵庫から取り出した肝臓(ヘモグロビン多そうな色だったのでシカ?)、心臓、肺などを次々さばく彼の表情は心もち楽しげ。
 そうか、ブラック・コメディなのか!
 楽しみ方の目星がついたので、「ハンニバル」「ブラック・コメディ」を検索してみる。書評家の古山裕樹という人が、「人を食ったブラック・コメディ」と題してトマス・ハリス著『ハンニバル』(新潮文庫)を書評している2000年6月の記事を発見。
 「クライマックスの料理シーンは大笑い」とある。
 以下、小説版『ハンニバル』のクライマックスに関するネタばれあり。刊行以来、紙媒体やネットでさんざん指摘されていることだろうから、今さらだが、海外ミステリに縁のない私には発見(シカ肉が導いてくれた!)だったので、書き止めておく。
………………………………………………………………………………
 というわけで、前世紀末のベストセラーミステリ『ハンニバル』(上)(下)を読む。
 本題の前に一つ、シカ肉関連なのであげておく。下巻が始まって3分の1ぐらいのところで、クラリスを助けにアメリカに舞い戻ったレクターが最初に犯す殺人。猟期を守らずにシカをクロスボウで狩った男が、同じくクロスボウの矢で頭部を射抜かれ、ともにサーロインと腰肉とフィレ肉を取り去られた状態で発見される。検死の場の医師がヒロインのFBI特別捜査官クラリスに言う。「心臓の重量は、両者とも、ほとんど同じだった」。このセリフがもとで、死体の臓器に用いられるようになったのではあるまいが。
 そして、クライマックスは、ゲストにクラリスを招いたディナーの場。レクター博士が供するメインデッシュは、出世欲と私怨からクラリスを窮地に陥れた司法省監察次官補(にして、最低のゲス野郎)クレンドラーの脳味噌。彼は生きたまま頭蓋をはずされ、前頭葉をスプーンで一切れすくいとられる。
 と、だしぬけにビング・クロスビーのヒット曲(「星にスイング」)を歌いだすクレンドラー。
 これは予想外の展開。私は声を出して笑った。『2001年宇宙の旅』(1968年)のパロディときたか。先の古山評では、イギリスのコメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(BBC、1969~1974年)だとしており、その「ガンビー脳手術」というコントはネット上の動画で見ることができるが、どこも似ていない。似ているのは、『2001年』のクライマックスの一つである。
 宇宙船ディスカバリー号の船内で、搭乗員ボーマンが狂ったコンピューターHAL9000の中枢部のパネルを抜き取っていくと、HALの知能が退行していき、開発初期に教えられた歌を再生する。
 昔、『ハンニバル』の映画版の方を観たはずなのに、笑った記憶がないので、リドリー・スコット監督『ハンニバル』(2001年)のDVDをレンタル。クレンドラーの脳味噌シーンはあるが、歌いだしたりせず、自分の脳を食べさせられるのが最高の罰という感じで処理されている。公開年はそのものずばりだし、パロディだと気づかない人でも、コメディシーンになってしまうからだろう。
 続いて、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』のDVDをレンタル。通して観るのは、中学生の頃、テレビの「日曜洋画劇場」での放送、高校生の頃、京都新京極の映画館であったリバイバル上映、それから約30年ぶりの3回目だ。
 “デイジー、デイジー、答えておくれ。気が狂いそうなほど、きみが好き。派手な暮らしはできないし、車も買えない……”
 やがて壊れたテープレコーダーのようなスロー再生になり、ついにHALはこと切れる。
 歌は、ポップスのスタンダードナンバー「デイジー・ベル」。Wikipediaには、この選曲の理由も書かれている。「星にスイング」も日本語訳詞を探すと、選曲理由はなんとなくわかる。
 トマス・ハリスが参照したのは映画か原作かわからないので、アーサー・C・クラーク著『2001年宇宙の旅』(ハヤカワ文庫)も古本を購入。著者には失礼だが、最初から読まずに後半の該当箇所を探す。
 ボーマンは思う。
 「これは、かなりきわどい手術になりそうだ」
 「おれがしろうと脳外科医をやることになるとは思わなかった――それも、木星の軌道の外で脳手術なんて」
 “デイジー、デイジー、答えておくれ”という歌も出てくる。コンピューター相手でもいくぶんブラックな知能退行はキューブリックのオリジナルかと推測していたが、違った。HALを人に見立てた「脳手術」という言葉を重視するなら、小説『ハンニバル』のクライマックスは、小説版『2001年宇宙の旅』のパロディというべきなのだろう。
………………………………………………………………………………
 長い道のりであった。今回のテレビドラマ『ハンニバル』も、殺害シーンや死体にパロディ要素が盛り込まれていると、実際と慣用表現の両方で「ヒトを喰った」テレビドラマになったのに残念、というのが結論。
 なお、『いけるね!シカ肉 おいしいレシピ60』には、ちゃんと「脳のムニエル(焼きセルヴェルのソースがけ)」という一品もカラー写真入りで紹介されている。セリヴェルとはフランス語で食用の動物の脳のこと。「セルヴェルは止め刺し後30分以内のものを使う」とある。脳味噌は新鮮さが命。レクター博士は正しい。
………………………………………………………………………………
 以下、余談。知らずに観始めたのだが、テレビドラマ『ハンニバル』では、巨大な角をはやした雄鹿が、グレアムの幻覚の中に何度も登場する。ラスト2話では、角人間(ネット内での通称は「リアルせんとくん」もしくは「黒せんとくん」)まで。いったい何の象徴なのやら、1stシーズン13話ではまったくわからなかったので、ふれなかった。書くなら、奈良県民の仕事だろうし。

2015年 5月 24日

アルペジオ、アンサンブルー、アベノミクス

 前にとりあげた潜水艦アニメの映画版『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- DC』が1月に公開スタート。岸誠二監督は高島市出身。乗りかかった船というやつで、3月にイオンシネマ近江八幡にて鑑賞。
 私の願いかなわず、主人公の父、登場。どこかで見たような、ロリコン親父 VS 主人公で行くらしい。あんな世慣れた主人公に、いまさら父殺しは必要ないと思うんだが。
 中盤まではテレビ版のダイジェスト。新作パートで登場の敵キャラ「霧の生徒会」生徒会長の名前は、ヒエイ(原作漫画どおりで、滋賀がらみの名称は偶然)。彼女と主人公が顔合わせしたところでお終い。
 10月3日公開の続編「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(カデンツァ)」で、彼女は誰に恋するのだろうか?
………………………………………………………………………………………………………
 前にとりあげた彦根出身のシンガーソングライター、徳永憲の新作アルバム『アンサンブルー』が3月に発売。タイトルは徳永による造語で、「ブルー(悲しみ)の集合体」の意とのこと。
 そこはそれ、徳永憲なので、1曲目の歌い出しが「解体ショーのマグロと目が合う」。あろうことか、続いてマグロが話しかけてくるのだが、それへの返答が非情。
 前作『ねじまき』の、東日本大震災を引きずったシリアス路線にいまいちのれなかった私としては、シニカルさとユーモアが復活した今作の方が好き。ただし、4曲目(アルバムタイトル曲)は、歌詞が何を言わんとしているのかよくわからず。
 8曲目「なぜか席が近くなる女の子」は、歌詞が思わぬ展開をみせる失恋ソング。最後に告げられる真実に、悲しむより先に呆然とさせられる。
 10曲目「絵本のなかに」は、ブログの自作解説によると、子供の感覚で絵本に入り込めなくなった大人の悲しみを綴っているらしく、ある種の絵本にまじる説教臭さを皮肉っているのだと思った私は意図を読み違えていたことになる。それでも、童話中の呪いの言葉たちが飛び交う森に丸腰で放り込まれた怖さが味わえる歌詞と、セイント・ヴィンセントばりのギターにホーンがからむ後半の展開は、アルバム中の個人的ハイライト。PVが公開中。撮影地は、どこの湖畔だ?
………………………………………………………………………………………………………
 「ア」並びで入れてしまったアベノミクスは、第2次安部内閣の経済政策の通称。2年半前に「1930年代を忘れるな」の題で書いたとおり、アベノミクス(というか、第1と第2の矢だけでケインズ主義的政策という言葉を用いるべき経済政策)を私は支持してる。
 今年2月の休日、書店で『中央公論』2015年3月号を立ち読み。「発表!新書大賞2015」のページを見るためだが、ベスト10のどれにも興味がもてず脱力……いや、別に期待していたわけではないので、さすが「新書大賞」というべきか。
 新書総まくり座談会の宮崎哲弥(ちゃんとリフレ派に転向している)の発言だけ拾い読み。ベスト5の1冊目にあげているのが、松尾匡著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)。「『期待』に働きかけるリフレ政策の重要性を熱く説き、左派、リベラル派の経済政策のワールドスタンダードを教えてくれる」とのこと。新書のコーナーで『ケインズの逆襲……』を探して、『中央公論』とともにレジへ。
 著者は、立命館大学経済学部教授。経済学部は、滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンパス」にある。
 本書中で重要性が説かれる「予想」の語は、宮崎哲弥が使った「期待」の語に差し替えた方がよいと思う。全体では「そうそう」が2分の1、「わからない」が4分の1、「それはどうなの」が4分の1ぐらい……っていうのは、前の「1930年代を忘れるな」でとりあげた柴山桂太著『静かなる大恐慌』と同じ。ちなみに、こちらの著者は、この4月に滋賀大学経済学部から京都大学に移籍してしまった。ちょっと残念。
 同じ松尾本として、2010年に出ていた『不況は人災です!――みんなで元気になる経済学・入門』(筑摩書房)も読む。デフレ不況の原因として、時系列で小泉政権と日銀の失策が説明されている。滋賀県民は、同じ立命館大学経済学部の松川周二教授が翻訳した『デフレ不況をいかに克服するか ケインズ1930年代評論集』(文藝春秋)とあわせて読んで、坊主憎けりゃ袈裟まで式のトンチンカンなアベノミクス批判はやめよう(という言い方だと、私は経済政策以外の安倍政権の政策には批判的かのようだが、そういうわけでもない。2年前の特別秘密保護法の時は、治安維持法を引き合いに出す反対派を無知だと思った。現在国会審議中の安全保障関連法案についても憲法を持ち出してくる……以下同)。
 さて、ケインズ曰く、「完成に時間を要することは最善の計画の特徴のひとつである」。なんてすばらしい言葉だろう。載っていた本が見つけられないが、ケインズの経済政策をひと言でいえば、「不況時の節約は悪徳である」ということ。政府においても、企業においても、個人においても。真理だと思う。そろそろ常識になってほしい。ケインズ好きは、楽観的であることを信条としなければいけないのだが、いい加減疲れてきた。
 1930年に発表された「わたしたちは経済について、悲観論の重い発作に見舞われている」という文章で始まる論考(「孫の世代の経済的可能性」、山岡洋一訳『ケインズ説得論集』日本経済新聞出版社)で、ケインズはイギリスに現れた悲観論者の2タイプをあげている。
 A 事態は極端に悪くなっているので暴力的な変化以外に救われる道はないと説く革命派の悲観論。
 B 経済と社会の均衡がきわめて危うくなっているので、なんらかの方法を試すリスクをとることなどできないと考える反動派の悲観論。
 こないだ大阪で大騒ぎされたのはAのタイプだろうし、「新書大賞2015」2位の『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)の著者などはBのタイプだろう。
 松尾本にもどると、『ケインズの逆襲……』という書名は担当編集者が決めたもので、エリート主義的なところがあるケインズを、著者自身はそれほど好きではないらしい。ちょっと残念。
 出自も知力も抜きん出ていたケインズの場合、財務省役人や中央銀行職員といった世間的にはエリートの層すら「その程度のもの」とみかぎってて、上から目線の鼻持ちならなさを通り越し、私なんかには小気味いいのだけど。

2015年 2月 22日

われはやくより病あり――小津久足『煙霞日記』

 昨年の12月末、書店で「月岡雪鼎」の文字が目に入ったので、『芸術新潮』2015年1月号を購入。特集タイトルが「月岡雪鼎の絢爛エロス」、大阪歴史博物館で特別展示があるわけか(ただし、展示に肝心の春画はなし)。
 すると……と思って、当ブログのアクセス数を見てみたら、2011年6月19日アップの「こころうきふねよがりあふかな――月岡雪鼎の春本と春画」が月間最上位になっている。といっても、書くのもはばかられるわずかな数字。常日頃「ほんとにこれだけ?」と思っていたが反省。このアクセス解析は正しい。
 1月集計も同様で、最新の「大津市民は嫉妬すべき」を1アクセス上回った。
 せっかくなので、自分でも3年半ほど前に書いたものを読み直してみた。気になり出したのは、あわせて紹介した板坂耀子著『江戸の紀行文』(中公新書)が「江戸時代最大の紀行作家」としていた小津久足(おづ・ひさたり)のこと。
 近江などをめぐった紀行文がいまだ翻刻(活字化)されてないとのことだったが、その後どうなったのか?
 2013年3月に出た日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史 第3巻 近世編』では、3章4節「街道と宿駅」で、執筆担当の青柳周一教授(滋賀大学)が久足の『石走日記』、『煙霞日記』、『志比(しい)日記』、『青葉日記』から日野町域を通過した際の記述を引いており、地域史研究にも「使える記録」であることがわかる。ただし、必要部分のみ各所蔵先にある原本から翻刻されたもの。
 抜粋でなく、全文を通して読んでみたい。「小津久足」で検索してみると、久足の『煙霞(えんか)日記』(天保8年・1837)を収録した津本信博著『江戸後期紀行文学全集 第2巻』(新典社)が2013年10月に刊行されていた。
 さっそく、滋賀県立図書館の蔵書を、彦根市立図書館でリクエストして入手。
………………………………………………………………………………………………
 「われはやくより病あり……療しかねむやまひなり(治療することのできない病気である)」と書き出されるので、深刻な展開を予想していると、すぐさまニヤリとさせられる。
 書名にある「煙霞」とは(以下、google検索知識)、唐代の正史『新唐書』に書かれた故事に由来する「自然の風景を愛する心が非常に強いこと」、「旅行好きのたとえ」。「煙霞の癖(へき)」という言葉、「煙霞痼疾(こしつ)」という四字熟語もあるのだそう。
 つまり書名は、今なら、「病みつき旅行日記」あるいは「旅狂日記」とでもつけた感じ。久足は当時33~34歳、江戸にも店を構える干鰯(ほしか=肥料の一種)問屋の主人で、お供の男が一人つき、たまには駕籠も利用する、そこそこリッチな旅。
 目的地は、琵琶湖の竹生島(長浜市)と紅葉の名所である永源寺(東近江市)で、10月1日に伊勢松坂を出発、津、鈴鹿、大垣、不破の関、関ヶ原、筑摩(以上上巻)、11日飯村、竹生島、長浜、永源寺、筆捨山、津、16日帰着(以上下巻)。
 研究者用の専門書なので、現代語訳や注釈はいっさいない。正直読めるのか不安だったのだが、思いのほか意味がとれる。私自身が知っている地名で土地勘があるせい、その地にまつわる情報が現在と共通している、それから板坂著『江戸の紀行文』でも指摘されていたが「感覚が現代人に近い」せいか。江戸後期の人間にとって南北朝や室町時代の歴史は、現代人にとってと同じように「大昔の出来事」なのである。
 先の路程のとおり、上巻のお終い近くで近江国に入る。下巻の書き出しの段落が、またうまい。以下、読点なしにつながっている文章をさらにわかりやすくなるように改行した。
 「あまの川」(天野川・米原市)を渡っていくつか村を過ぎ、
 「けさはいとさむくて駕籠にのりたるが」
 「ぬむりきざしておもはずまどろみたるほど」
 「ふとめざめて波のおとにおどろけば」
 「湖はただ目のまへなるに」
 「あけがたちかくしらみわたりてことにいひしらぬながめ也」
 わかる、わかる。ただし、教養人である久足が「そのおもむきおなじことなり」として続けて書き記している「宋郭青山」(中国宋代の詩人か?)の七言絶句は、半分も意味がわからない。
 場所は長浜の近く、早崎から竹生島に渡る舟に乗るため、久足は北国街道を進み、やがて竹生島に渡る船を出す早崎に到着する。
 「このむらの杉田源内といふものの家より船をいだす」
 「船いだす家は三軒にて当番といふがありてこの家このほど当番也」
 「(往復料金は)銭五百文嶋まはりのあたひ銭百文也」
 記述は極めて具体的。その一方で、稲刈りの終わった田に稲穂を干す稲架(はさ)がつくられているのを見れば、「めづらしくみやびたり」と旅情を感じ、漕ぎ出た船上からの眺めを「さざ波は稲葉の波にうばはれてみぎはひまなくかけわたしけり」と詠む。
 湖上からの景色、上陸した竹生島にある建築物などに関する詳細な記述がつづき、本書最初のクライマックス。以下も読点なしの文章をわかりやすく改行した。
 「われもとより汐海のさまはこのまず」
 「常に湖を好むの癖あれば」
 「この湖の景はことさらこのみて」
 「勢田大津あたりより見ることをだによろこびしに」
 「ましてこのところに来たりてみること」
 「幸の幸といふべし」
 もう一方のクライマックス、永源寺境内で、久足は特に色づきのよい紅葉1枚を拾って懐紙に包み持ち帰る。そこで、詠まれた一首も引用したいのだが、今後の読者に悪いのでやめておく。
………………………………………………………………………………………………
 滋賀県立図書館HPの横断検索をかけたところ、『江戸後期紀行文学全集 第2巻』があるのは、県内公立図書館では県立図書館の1冊のみ(大学では、立命館大学と龍谷大学の図書館にあり)。
 滋賀県立図書館の本は、同館カウンターでの貸し出しの際、後ろ見返しに貼られた紙に日付スタンプが押される。その紙は白いままだ。私のように他館経由で借りた人がいるかもしれないが、これはもったいない。
 収録19篇のうち、貞幸・益親・千枝子著『さきくさ日記』、松岡行義著『かりの冥土』、橋本実麗著『近江田上紀行 全』の3篇も近江の地について記されているので、郷土図書コーナーにあってもおかしくない本。ただし、価格は1万3000円+税。

1 / 712345...最後 »

最近の記事

カテゴリー

ページの上部へ