2016年 5月 08日

彦根の呉服屋の後家――蓮實重彥「伯爵夫人」

 前回の続きとして書くと、2月末の日曜日に滋賀県立近代美術館で「ビアズリーと日本」展を観てきた。原画は思いのほか小さい。浮世絵などの日本美術から西洋の画家が受けた影響は、モネやマネなどの油絵より、ペンと墨で描かれたビアズリーの画の方がわかりやすい。
 けれど、私が知りたかったのは、日本美術のビアズリーへの影響ではなく、ビアズリーの日本美術界への影響についてだ。
 ビアズリーの没後12年目の1910年、雑誌『白樺』に5点の作品と柳宗悦(現在からすると意外な組み合わせ)による略伝が掲載される。やがて洋書輸入販売の丸善が機関紙『學燈』の表紙にビアズリーの画を使い、紙面には作品集などの広告を掲載した。図録解説に曰く、「〔日本の〕多くの芸術家や文学者がビアズリーの虜になりますが、なかでも本を活躍の場とする版画家や挿絵画家、グラフィックデザイナーへの影響は絶大でした」。
 山六郎、山名文夫、水島爾保布らの単行本や雑誌の挿絵は影響があらわ(ただし、水島は影響を否定している)で、見ていて楽しい。ビアズリー自身も、初期作品『アーサー王の死』の挿画はウィリアム・モリスから「強奪行為」と非難されるほど影響を受けまくっていたのだから、よいではないか。
 1980年代、フランスの漫画家メビウスのタッチが、日本の漫画界に広がった。メビウス・インパクトとでも呼ぶべき経過(雑誌『白樺』の役割を果たしたのは、SF雑誌『スターログ』日本版)を、中学生の頃に眺めていた者としては、大正期日本におけるビアズリー・インパクトもさもありなん。
 さて、ビアズリーの作品であるが、代表作『サロメ』の挿画は当時の紳士淑女が目をそむけるような猥雑な描写が最大の特徴である。前回紹介した小島麻由美のアルバムジャケットに用いられている『イエロー・ブック』にしても、なぜ「黄色い本」なのかといえば、「当時のイギリスで不道徳なものと考えられていたフランス小説本の表紙の色」(同展図録解説)だからだそう。そうした猥雑な側面が好きで来ている来館者は多くなさそうな点は不満。
 フランスの画家クールベの「世界の起源」なんてのもあったなと頭に浮かび、ネットで検索してみる。展示しているオルセー美術館も大変なようで。
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 そんなことを思っていたら、「熟れたまんこ」によって「この世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねない」と登場人物が説く小説に出会った。3月7日発売の文芸誌『新潮』2016年4月号に掲載された蓮實重彥の小説「伯爵夫人」である。彦根市内の書店で手にしたのは3月26日(土)のこと。『群像』に連載されていた映画評論家としての作者による「映画時評」が一昨年終了してしまい、文芸誌の棚を月イチで見ることもなくなっていたので、気づくのが遅れた。ネットで検索してみると、朝日新聞の「文芸時評」などにも取り上げられて、そこそこ話題になっている。
 舞台は帝都とも称された時代の東京。帝大法学部受験をひかえた主人公・二朗は、劇場街の雑踏で、いつの間にか家に居ついた「伯爵夫人」と周囲から呼ばれる女性に呼び止められ、誘われるまま回転扉を抜けてホテルへ。二朗のある過失が原因で豹変した「伯爵夫人」の語りと二朗の回想によって明かされていく、彼女の過去と二朗の祖父を頂点とする奇態な一族の秘密……。
 会話文をカッコでくくらず地の文になじませた谷崎潤一郎的な文章で、一段落が長い点も同じ。ⅠからⅩⅡまでローマ数字のふられた12の章で構成され、文中に登場する回転扉のごとく、次の章への移行がほれぼれするぐらいうまい。
 朝日新聞(片山杜秀)と産経新聞(石原千秋)の文芸時評は、「ポルノ小説」に分類している。片山はジョルジュ・バタイユの「マダム・エドワルダ」の系譜上に位置する作品としているが、読んでいない。私が頭に浮かぶ「夫人」は、映画評論家としての作者が山田宏一・山根貞男両氏とともに選出した2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」32作のうちの一つ、小沼勝監督「生贄夫人」(1974年 日活)だ。性別に関わらずこの映画に拒否反応があるかどうかを、小説「伯爵夫人」の性器や性行為の描写を読むかどうかの目安にすればよいと思う。
 小説や映画のタイトル、俳優の名前が次々出てくるが、知っていなければ読めないというものでもない(私も半分ぐらいはわからなった)。Ⅳで二朗の回想として語られる友人・濱尾の屋敷でキャッチボール中に起こった二朗の睾丸負傷事件の顛末は、帰宅後の従妹・蓬子との秘め事といっしょに、例えば平田アキラ(『監獄学園』)が漫画化できるな(16ページ×2回)と思えるおかしさ。
 「金玉潰し」が出てくるからには、村上春樹の『1Q84』(2009-2010 新潮社)を参照すべき何かをふくんでいて、この小説自体「1Q41」でもあるかもしれないのだが、これまた私は読んでいない。アマゾンにあがっている中古品だと、単行本の1-3巻セットの最低価格は260円+送料なり。いくらか心が動くが、現時点では購入せず。関係があるのなら、誰かの指摘をそのうち読めるだろう。
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 「滋賀縛り」を唯一のルールとして書いている当ブログに取り上げたのは、作品中に「彦根」という地名が2回出てくるからだ。
 Ⅴで、いつでもお相手しますと迫るが、相手には不自由しておりませんからと二朗に拒否された伯爵夫人が言う。「せんだってお暇をとって彦根にもどり、呉服屋の後妻におさまった文江さん」を手ごめにしたとも思えない。
 Ⅶで、古株の女中である小春が、長男に比較した二朗のオクテぶりにあきれて明かすことには、処女の文江を二朗にあてがおうと説得に成功したのに、彼女は「いきなり彦根の呉服屋の後妻におさまり、おいとましてしまいました」。
 二朗が童貞であることが物語を駆動させていたことを思えば、彦根出身の女中・文江は重要な役割を担っていたことになる。小春に至っては自身の後継者にという腹づもりもあったのかもしれないが、文江は処女喪失よりも遥かに怖ろしい何かを察知して奉公先に見切りをつけたのか。
 ここに現れる「彦根」という地名は、「伏見」や「伊丹」、はたまた「八戸」に差し替えられても何ら支障はないのか。作者の初期評論『表層批評宣言』の文庫版(1985年 筑摩書房)の巻末にある自筆年譜をみると、昭和16年(1941)、作者5歳の項にあるのは、父親の出征について「新宿駅からいずこへとも知らず去った父からの最初の絵葉書で、彦根という都市の存在を教えられる」という文章だ。「彦根」は交換可能な地名ではないのか。絵葉書だから文江(文+絵)なのか。連想ゲームなのか。
 わざわざ自筆年譜に目を通してみたのは、「伯爵夫人」の舞台設定に私小説的要素が盛り込まれているからだ。志賀直哉の「暗夜行路」以来の定番テーマが登場する点(それも意識的に組み込まれているのだと思うが)ではなく、作者の実体験がもとになっているようにも読めるという意味で。
 文中に登場する地名を追うと、二朗の住む家の位置は、作者の自筆年譜に書かれている出生地「麻布区六本木町(旧町名)」のようだし、母方の祖父の持ち家だったとされている点も一致する。ただし、作者自身は昭和11年(1936)の生まれであり、描かれた「昭和16年」にはわずか5歳である。
 ついでにいうと、先の『表層批評宣言』文庫版収録のものから改訂が施されている『映画狂人シネマ事典』(2001年 河出書房新社)巻末の自筆年譜にあたると、「伯爵夫人」の中で語られる意味ありげな(しかし、よくわからない)挿話に現れる「尼僧」の語は、同年の記憶を書いた一文中にも見つかる。
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 もうひとつだけ。
 「伯爵夫人」のあれよあれよの展開に浸りつつ、頭に浮かんだのは、磯﨑憲一郎の小説『赤の他人の瓜二つ』(2011年 講談社)だった。「伯爵夫人」の作者は文芸評論家として、磯﨑の芥川賞受賞作「終の住処」を高く評価し、最新作『電車道』(2015年 新潮社)をめぐって『新潮』2015年7月号で対談もしている。
 というわけで、『電車道』を読むことに。
 電車の線路が敷かれた東京近郊のある田舎町を舞台に、二人の男とその子や孫の人生を描いた長編小説と、一応説明しておこう。単行本のカバーには鳥瞰図で有名な吉田初三郎の「小田原急行 鉄道沿線名所図絵」が使われているが、小説の文中には鉄道会社の名は一度も出てこず、特定の私鉄の創業者をモデルにしているわけではないらしい。『新潮』への連載12回で完結したので12の章に分かれている。それぞれに小タイトルがついているわけでもないので説明しにくいが、二つ目の章はそれ以外とは舞台も登場人物も重ならない独立した短編のようになっている。
 舞台は京都。呉服問屋の丁稚となった少年の一本の人生に、思いがけず路面電車が交差する。「一本の人生」というのは妙な言い方だが、磯﨑作品の登場人物はそんな感じなのである。
 作中の会話で、「勧業博覧会の人出も百万人と聞きますから」とあるのは、明治28年(1895)に京都岡崎で開催された内国勧業博覧会をさすのだろう。琵琶湖疏水の水を用いた水力発電所は、日本最初の路面電車を走らせ、東京遷都によって衰退した京都の再生に大きな役割を果たす。というのは、「滋賀縛り」ルール上、書いただけで、作中に「琵琶湖疏水」という語は一度も出てこない。
 ちょうど集中力が持続するぐらいの長さで(正直、単行本一冊だと疲れる)、主人公がみな一種の視野狭窄に陥っている磯﨑作品のおもしろさを味わえるのでおすすめ。

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