2011年 12月 7日

どうやら、ナメクジではなくシャクトリムシらしい琵琶湖

 今年もあとわずか…ということで、振り返ってみると、「東京は遠い」と改めて思った年だった。東日本大震災も福島原発事故も、私の生活にほとんど影響はなく、東京発の情報に距離ばかり感じたからである。福井県にある高速増殖炉「もんじゅ」から50km圏内の滋賀北部に住んでいる者にとっては、去年の炉内中継装置落下だかを報じる中日新聞1面の方が怖かったんだもの。その時、他紙は1面で報じなかった。東京在住者にとっては遠いところの出来事だったのだろうから、お互い様である。
 なので、地震ネタあるいは原発ネタを書くつもりはなかったのだが、大げさにいうと発想の転換を迫られる本に出会ったので紹介したい。
 11月に出た寒川旭著『日本人はどんな大地震を経験してきたのか―地震考古学入門』(平凡社新書)を書店で手にとって中ほどを開くと、右に伊勢湾、左に大阪湾、中央に琵琶湖が描かれた地図が載っていた。「図4-2-2 聖武天皇の遷都と活断層」という図で、聖武天皇が紫香楽宮を半年も満たぬうちに廃して、平城京に遷都した決定的な理由として、745年に起きた地震のことが書かれている。ふむふむ。数ページ進むと、「3 揺れ沈む巨大な湖」という見出しがある。
 1986年に滋賀県高島郡今津町(現、高島市)の町史編纂室を訪ねた著者は、発掘中だった北仰西海道(きとげにしかいどう)遺跡の発掘現場で、粘土層を引き裂いて噴砂が流れ出した痕跡を見た。このことが、「地震考古学」という新しい研究分野を開拓するきっかけになったのだそうだ。
 北仰西海道遺跡というのは、西日本最大規模といわれる縄文から弥生時代にかけての集団墓地の跡で、私は以前、出土した土器棺墓(土器二つの口の側を重ねて遺体を入れる棺おけにしたもの)の写真を担当した本に掲載するため、高島市教育委員会に申請したことがある。
 一方的に著者への親近感が増した私がページをめくると、琵琶湖と地震の関係が簡潔明瞭に説明されていた。
 「この巨大な水溜まりは、周囲から流れこむ河川が運んだ土砂で、少しずつ埋められます。しかし、埋めきらないうちに次の地震(断層活動)で沈むので、巨大な湖として存続しつづけているのです。」
 要するに琵琶湖西岸断層帯が何百年ごとかに起こす地震で湖岸が崩れるから、湖としては世界的にも稀な長寿を保っているということ? 琵琶湖って、治らない傷みたいなもの? そもそも、私がこれまで読んできた本で「断層活動」と書かれていたのは、「地震」なわけ?
 ネットで検索すると、県立琵琶湖博物館の里口保文学芸員がちゃんと「地震」という言葉を使って説明していた。
 「湖が移動してきたと言っても、地震のたびに沈んでいく中心が北へ移動してきたと言う方が良いかもしれません。」
 滋賀県民なら読むか聞くかしたことがあるだろう、「琵琶湖は年間3cmの速度で北へ移動している」という説明(たいてい、何万年後だったかには若狭湾に抜けるという補足がつく)。単純に「ある期間の移動距離÷要した年数」なのだろうが、どうやら琵琶湖の移動の仕方は年平均してはいけない、平均化するとイメージをつかみそこねるものらしい。
 琵琶湖の歩幅はもっとでかい。
 次の一歩を踏み出すまでの時間はものすごく長いけれど。
 年間3cmずつなんていうと、ナメクジよろしく、
                                                  
ズル…ズルズル…ズルズル…ズルズル…ズル…ズル…ズルズル…ズルズル…ズルズル…ズル…
                                                  
という動きをイメージしてしまうが、正しくはシャクトリムシのように、
                                                  
      ピ             ピ            ピ             ピ
      ョ             ョ            ョ             ョ
      ン             ン            ン             ン
…………コ………………………コ……………………コ………………………コ…………

なのではないか。
 車輪走行の移動メカに乗ってたつもりが、上下動の激しい二足歩行ロボットだったみたいな……って、比喩はくどいか。

2011年 11月 3日

ギリギリセーフの長浜東映

 まずは前回に続いて、近く上映される映画の案内。
 東京の東劇で11月19日~27日、「相米慎二のすべて」と題して、全作品13本が上映される。。私はわざわざ見に行きはしないのだが、関東在住あるいは東京出張のある方はどうぞ。没後10年ということで、2冊の関連書籍『甦る相米慎二』『シネアスト相米慎二』も出たばかりだ。
 11月22日に上映される6作目の監督作品(1985年)を、高校生の頃、長浜市にあった映画館で観た。タイミングとして今しかないと思うので、落としどころも思いつかないまま書いておく。
 これを映画館で観ることができた、私はギリギリセーフの世代(1968年生まれ)だ。
 なぜかといえば、成人映画(今回の東京上映の場合も、R18指定)だからで、厳密にいえばアウトだが、映画館は入れてくれた。長浜駅から東へ200mほど、駅前通りと北国街道が交差する角にあった長浜東映という映画館。当時、長浜に2つあった映画館の片方で、私の記憶にある期間(小・中・高)はずっと、にっかつロマンポルノの上映館だった。
 その建物は、『長浜市史』や『画文集 わたしの長浜』(郷土出版社)によると、長浜の実業家、下郷伝平父子の寄付をもとに運営されていた慈善団体・下郷共済会が、大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に建てた図書館だったもので、モルタル壁の洋風建築。戦後は映画館として利用され、写真集『湖北の今昔』(郷土出版社)には、一般映画を上映していた時代(昭和38年)の写真が掲載されている。
 にっかつは昭和63年(1988)にロマンポルノの製作をやめているので、平成になったかならないかぐらいに取り壊されて、跡地に滋賀銀行の支店が開業したようだ(私は大学進学で県外に出ていたし、『長浜市史』などにもこの辺りの記述が見当たらない)。当時は、排気ガスで汚れた時代遅れの建物という印象だったが、もうしばらく、長浜が観光地として知られる時代まで持ちこたえていたら、改修され保存対象になったかもしれない。黒壁ガラス館のオープンは平成元年(1989)である。
 もう一つの映画館は、長浜協映といって、浜京極という名のアーケードの中ほどにあった(取り壊されて、現在は駐車場)。長浜東映より広く、2階席もあった。地方の映画館では新作の封切でも2本立てだったから、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』と『戦場のメリークリスマス』(ともに1983年)という何の関連もない組み合わせを観たことがある。
 さかのぼって中学の頃、機動戦士ガンダムの映画(いわゆるファースト・ガンダムの世代でもあるわけで)を同級生2人と観にいく約束をしたところ、一人が親に校則を理由に反対された。親同伴でないと映画館に入ってはいけないことになっていたのである。「わしが連れてったことにしたらええがな」と私の父。友人の家に電話をし、礼を言う向こうの親に適当に応答している父に感謝した。
 相米監督の映画は、1作目『翔んだカップル』をテレビ放映で観たのが最初。RCサクセションの「ブン・ブン・ブン」が主人公のつけてるヘッドホンの音として流れるシーンに、隣で観ていた姉といっしょに驚いた。
 作品データによると、ここで話題にしている6作目『ラブホテル』(1985年)が8月3日封切、次の7作目『台風クラブ』(1985年)が8月31日封切なのだが、地方だから遅れて上映されたのか、6作目の『ラブホテル』を後で観たように思う。都市圏でしか上映されなかった『台風クラブ』は、名古屋の映画館へ観に行った。
 さて、長浜東映で観た『ラブホテル』についてだが、残っている記憶はわずか。テスト期間で午後から休みの平日(映画館周辺の人通りは少なかった)だったように思うが、服は学生服から着替えたんだっけ? 長浜東映へはそれ以前に、別の監督の成人映画を観に行ったことがあるが、そっちの記憶とごっちゃになっているせいでもある。そちらはワンシーンも覚えていないので割愛。2回とも場内がガラガラだったのは確か。
 『ラブホテル』の覚えているシーンは、夜の埠頭に立つ名美(速水典子)、挿入歌がもんた&ブラザーズの「赤いアンブレラ」。電話で村木(寺田農)と話す名美、挿入歌が山口百恵の「夜へ…」(作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜堂)。相米慎二の映画は、歌ばかり印象に残っている。これは、ありきたりな感想だ。本人が「俺は全部ミュージカルだと思って撮ってる」と発言しているし。
 山口百恵には興味がなく(『台風クラブ』で中学教師を演じた夫・三浦友和の方は、その後も気になる俳優になった)、曲名もわからないままだったが、『甦る相米慎二』で「夜へ…」だとわかり、四半世紀ぶりにYouTubeで聴いた。
[追記]
『甦る相米慎二』によると、相米慎二は最も好きな映画として成瀬巳喜男(前回ブログ参照)の作品をあげていたそう。作った作品と作り方は正反対。驚く。

2011年 9月 25日

10月2日(日)は映画「おかあさん」を観る日

 私は観に行けない。この日、私は「第4回とりいもと宿場まつり」で弊社の本の売り子をしている予定だから。
 映画「おかあさん」(成瀬巳喜男監督、1952年)は、買ったDVDで観た。2007年に日本名作映画集というシリーズの1作としてたった1000円で発売されたやつ。おもしろくてびっくり。同年に観た日本映画ベストワン(たぶん)。
 10月2日(日)午後1時10分からの上映、場所は甲賀市水口町の碧水ホール。
 1日(土)とあわせて同監督の「めし」(主演:上原謙・原節子)、「浮雲」(主演:高峰秀子・森雅之)、「乱れ雲」(主演:加山雄三・司葉子)、それから「おかあさん」の4作品を上映。1回券500円。
 よく知られた他の3作品で、成瀬巳喜男監督=男女の湿っぽいメロドラマの人というイメージがあって、私は敬遠していたのだ。食わず嫌いでした。失礼しました。成瀬監督はコメディタッチも抜群でした。
 映画「おかあさん」は、戦後間もない東京でクリーニング店を営む一家が主役。過労で倒れた夫が死ぬ。長男が死ぬ。次女は養子にもらわれていく。ほっておいたらお涙頂戴映画になるしかないストーリーなのに、ならない。おかあさん役の田中絹代が出てくるとちょっと辛気臭くなるが、観終わって記憶に残るのは、長女(香川京子)と近所のパン屋の息子(岡田英次)の終始明るい恋愛模様。
 ネット上の映画評を探せばあちこちに書かれているだろうから、目新しい発見でも何でもないのだが、花嫁衣裳に照れて障子の後ろに隠れる香川京子のかわいさったら!!!!!
 もう一つ語りぐさになってる映画館の場面では、碧水ホールの観客もどよめくかな。

2011年 9月 14日

昭和5年頃のベースボール

 星野博美著『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)は、東京・五反田でバルブ加工の町工場を営んでいた祖父が残した手記(自分史)を読むことから始まった、著者自身のルーツ探索の旅を記した本。「コンニャク屋」は先祖が一時、コンニャクを売る商売もしていたからついたらしい屋号で、祖父の前の代までは房総半島の漁師、その前をたどると、紀州(和歌山)から移住して来た漁師の一団があったことがわかり…。
 オビには「よその家のルーツ探しが、どうしてこんなに面白いのだろう。全国書店員も絶賛!!」とある。
 いっそ、ルーツ探索本ブームでも巻き起こしてくれると出版社としてはありがたいのだが、読んでるとイラッと来る部分がある。
 例えば、生業(なりわい)による人物の類型化。「はじめに」の中で、著者は「漁師」と「農民」を対比して、「大胆と臆病。楽観と悲観。おおらかさとせせこましさ。反抗と従順。挑戦性と保守性。開放と閉鎖」と、それぞれの性質を列挙(著者がどちらにシンパシーを抱いているかは、一目瞭然)したうえで、農家出身だった祖母が、もったいながって客の吸いさしの煙草を吸っていたエピソードを紹介する。身内だろうと嫌いなら嫌いでかまわないが、それを生家の職業のせいにしてどうする。去年までコメの兼業農家だった私は腹が立ったぞ。
 著者は、『転がる香港に苔は生えない』で第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したというが、どんな目で外国人を見てるんだっていう話でもある。
 こんな一文もある。「県史や町史というのは、これまでの人生でまったく縁のない書物の類だったが、興味を持って読み始めると実におもしろい読み物だとわかったのは小さな発見だった」(276ページ)。土地の歴史ぐらい調べて当たり前。ノンフィクションライターというのは、そんな楽な商売なのか。
 私が興味を持った部分も深みがなかったので、補っておきたい。
 第2章「五反田」の「五反田の赤い星」という節で、祖父・星野量太郎さんの手記からの引用がある。
 「その頃[昭和5~6年]、素人野球が流行しだした。工場とか商店或は町会等でチームを造った。私の工場でも人数は九人ようやくでしたが、チームを造れる様になった。」「然し試合場所取りに一苦労でした。朝早く起き、品川や芝浦埋立地迄行きネットを張って待機しなければならないのです。少しでもおそいと場所がなくなるのです。」
 アルバムに残されていた当時のユニホーム姿の写真も掲載されている。
 さて、私は大学生の時に、大正時代後期の埼玉県入間郡富岡村(現在の所沢市北部)青年団がどんな活動をしていたかを調べたことがある。都市近郊で野菜やサツマイモの栽培に勤しんでいた勤労青年たちは、陸上競技をしていた。年間事業費の約7割は体育部費で、団員の4分の3が参加、郡運動会の前には3週間の合宿まで行っていた。若者の間では、スポーツブームだったのである。最終学歴で考えると見逃すが、クラブ活動が勤労青年にまで広がっていた。
 国もこれを政策的に後押しする。大正13年(1924)には、11月3日が「全国体育デー」になる。同年から、明治神宮競技大会が開催される。競技者は、青年団、一般(学生含む)、軍人、女子のそれぞれから選出、種目は陸上競技、フットボール、ベースボール、バレーボール、バスケットボール、ボートレース、テニス、ホッケー、水泳、剣道、柔道、弓道、相撲、乗馬など。
 この流れは昭和に入っても引き継がれる。
 昭和5年(1930)には、政府が次のような行政指導まで行っている。
 一 工場、鉱山、会社、商店、官庁等の勤労者に対する体育運動を奨励すること。
 一 官庁、会社、銀行、工場等に体育指導者を置きかつ運動場を設けて運動実行の
   機会を多からしむること。
 一 体育運動に関する会やクラブ等の発達を図り、老若男女の運動に親しむ機会を
   多からしむること。
 一 各種屋外運動場、屋内運動場、武道場、山小屋等の体育的施設を奨励しかつ
   必要に応じてこれを助成すること。
 ここには、国民の健康を向上させようとする福祉国家的政策と、「過激思想に感染せしめざる」ための思想統制とが混在していた。企業の側も、社員の健康維持と不良化防止のために歓迎した。何より勤労者の側は、現代的な余暇の過ごし方としてこれを楽しんだ。
 以前、当ブログ(琵琶湖上で三上山に向かって「バカヤロー」と叫んだ中井正一)で書いたとおり、京都帝大生だった中井正一が瀬田川(大津市)でのボート練習の経験をもとに「スポーツの美的要素」を書いたのも、この年。
 東京は、2年後の昭和7年(1932)、オリンピックの1940年大会の開催地に立候補する。
 先の祖父のユニホーム姿の写真について、中国好きを自認する著者(中国ルポの著書もある)は、「左胸のあたりに大きな星のマークがついている。『星野』にひっかけたのだろう。星の大きさが、なんとなく社会主義国家のナショナルチームみたいだ」と書いているが、我田引水もいいところ。
 当時の東京に暮らす日本人勤労者の典型である。
 だいたい昭和史の概説書などには、昭和初期、全国中等学校野球大会や東京六大学野球が人気を呼んだといったことが試合写真をそえて書かれているのだが、それでは大学進学率が5%にも満たない時代に、一部エリート層だけがスポーツを楽しんだかのように受け取ってしまう。すそ野はもっと広がっていたことを示すために、こういう工員による草野球チームの集合写真でも掲載するべきなのだ。
 野暮を承知で説明しておくと、『コンチキ号漂流記』をもじった『コンニャク屋漂流記』という書名にならって、今回タイトルは、大江健三郎の『万延元年のフットボール』、村上春樹の『1972年のピンボール』、それから小田嶋隆の『1984年のビーンボール』を意識している。

2011年 8月 4日

蒸気船映画の系譜―フォード、ヒューストン、宮崎駿

 2007年1月28日にアップした「あなどるなかれ、琵琶湖の汽船」の追記である。
 この時、私は以下のように書いた。

中岡哲郎著『日本近代技術の形成 ―〈伝統〉と〈近代〉のダイナミクス』(朝日新聞社)の第七章「近代造船業の形成」は、まさに目から鱗。曰く「汽船は川で誕生しました。当時の蒸気機関は大型で熱効率が悪く、船にのせても静かな川や湖で短距離を走るのがやっとだったのです」。そう初期の汽船は「淡水向き」なのだ。

 ここで私は、「まさに目から鱗」と驚いてしまっているが、このブログの半分ぐらいを映画ネタで埋めてきた者として、この反応はちと恥ずかしい。
 思い浮かぶ蒸気船映画といえば、次の3本。

ジョン・フォード監督『周遊する蒸気船』(1935年、米)…19世紀末、ミシシッピー川の蒸気船を買った主人公が、死刑宣告を受けた甥っ子を助けるために、その恋人と奔走。ヒロインを演じた女優アン・シャーリー(『赤毛のアン』のアン役を演じて改名した)のかわいさと、蒸気船レースの「悪ノリ」ぶりが見どころ。

ジョン・ヒューストン監督『アフリカの女王』(1951年、米・英)…第一次大戦中の東アフリカを舞台。イギリス人男女(ハンフリー・ボガードとキャサリン・ヘップバーン)が、おんぼろ蒸気船「アフリカの女王」号に乗り込んで川を下り、湖に浮かぶドイツ軍の戦艦をやっつける。

ヴェルナー・ヘルツォーク監督『フィッツカラルド』(1982年、西独)…蒸気船がアマゾン川をさかのぼり、山も越える。(食わず嫌いで、私は未見)

 「川」ばかりだ。
 正確を期すために、「蒸気船」「映画」で検索して、2本を追加。
「喜劇王、バスターキートンの絶頂期を代表する一本」と紹介されている『キートンの蒸気船』(1928年、米)は、ミシシッピー川が舞台。
 ディズニーの『蒸気船ウィリー』(1928年、米)に至っては、ミッキーマウスのデビュー作だそうだ。川蒸気の船員として、ミッキーは初登場したのだ。世間では常識なのか? youtubeで見ることができる。
 映画史は、「蒸気船は、川もしくは湖のものだ」ということを語っている……と追記すべきだなと思いつつ、4年が過ぎたのだった。

 たまに、思い出されはしたのだ。
 『崖の上のポニョ』(2008年)で、水位が上がって熱帯のジャングルみたいになった家の前の海を、宗介とポニョがポンポン船に乗って進むシーンなど目にすると、「『アフリカの女王』じゃん」となる。
 『アフリカの女王』の、ドイツの戦艦に攻撃を仕掛けようとするが捕らえられ、あわやというところで一発逆転となるラスト20分ぐらいは、早送り1ぐらいで見ると、宮崎駿の画のアニメに脳内変換ができるんだよな。
 『周遊する蒸気船』にしても、男装で登場するヒロインや、当初は甥の恋人である彼女によい印象を持っていなかった主人公が、彼女の父親たちが連れ戻しにやってくると、なりゆきから一転彼女の味方につき、彼らを追い払う場面など、宮崎アニメに変換可能だ。
 それに、上の紹介文で「悪ノリ」と表現した蒸気船レースの場面を知っていると、『ハウルの動く城』でハウルの城が崩れて瓦礫となり、小さい動く城になってしまう一連の場面(ストーリー展開がわかりにくすぎて、よく覚えていないが)は、事情はなんであれハウルを助けるために急ぐ必要から、城の家具や外壁まで燃料になるものは何でも蒸気機関にあたるカルシファーの口に放り込んで、どんどん小さくなり、最後は板と脚2本だけでハウルのもとにたどりつくという展開の方が画の面でも観客の心情の面でもよっぽど盛り上がるではないか……と考えたりする。魔力がなくなって何だかよくわからんキャラになってしまう荒地の魔女は、終始一貫『周遊する…』に登場する悪ノリ預言者ニュー・モーゼ(爆笑です)みたいなのにすればよかったのに……とも。
 そう、宮崎アニメは、1930~50年代のハリウッド映画を思い出させる。
 何も私だけの発見ではない。
 塩田明彦監督(一番のヒット作は草薙剛主演の『黄泉<よみ>がえり』)は、ある座談会で「(『天空の城ラピュタ』を見た時の)衝撃は大きかった。現代日本にジョン・フォードをやれる人がいるっていう驚き」と発言している。すごいのは、この発言後に塩田監督が、実写で宮崎アニメをやったこと。映画『カナリア』(2005年)である。

[あらすじ]をネットから拾うと、、
 カルト教団崩壊後、教団施設から児童相談所に預けられた少年。少年は引き離された妹と母を取り戻すため、児童相談所を抜け出す…。1995年に起こった地下鉄サリン事件をモチーフに、妹を取り返しに行く少年とその途中で出会う少女の心の葛藤を描き出した作品。

 だそうだが、勝手に要約させてもらうと、
 主人公がロリコン中年男の手から少女を2回救い出す(1回目は偶然、2回目は意識的に)映画。
 なので、私にとってのクライマックス(物語上は中盤の山場ぐらいなのだが)は、金を稼ぐためにやむなく出会い系サイトで呼び出した男の車に乗った少女(谷村美月)を連れ戻すべく、走って追いかける少年(石田法嗣)の右手に金属バットが握られているのを目にする瞬間である。ただし、直前のシーンからの連なりによるこの場面の高揚感は、宮崎アニメ的だからではなく、塩田監督の才能。

 さて、ええと何の話でしたっけ……となるのは、書かなくてもわかるので4年間書かなかったのだが、今年元日の新聞に載った『コクリコ坂から』(2011年)の一面予告広告で宮崎駿監督が性懲りもなく蒸気船(タグボート)を描いているのを見て、また思い出し、まぁいいやと上映中のいま書いた。『コクリコ坂から』がいまいちだったのは、舞台が「海」だったからということにしておこう。

2011年 7月 17日

ままならない子供時代―『冬冬の夏休み』と『もうすぐ夏至だ』

 弊社発行の情報誌Duet103号特集座談会「日・韓・台の鎮守の杜」(ホームページにもアップされてます)の中に出てくる台湾映画『冬冬(トントン)の夏休み』(1984年製作、日本公開は1990年)について、少しつけ加えておきたい。
 私が「ホウシャオシェン(侯孝賢)」と監督名をいえば、李春子さんは、「ヒジョージョーシー(非情城市。代表作のタイトル)」とすぐさま返し、日本公開時のパンフレットに掲載されている巨木の下の祠の前で少年たちがカメを競争させているスチール写真を絶対載せましょうと言い合ったのだが、配給元兼パンフレット発行元のフランス映画社(フランスだけじゃない海外作品を幅広く配給)に問い合わせたところ、上映権はすでに切れており、写真も掲載許可を出すことはできないという返事で、掲載を取りやめた次第。
 タイトルからイメージされるような子供向け映画ではない。
 夏、首都・台北の小学校を卒業(台湾の学校は9月始まり)した少年・冬冬(トントン)と妹の婷婷(ティンティン、幼稚園児ぐらい)は、母が台北の大学病院に入院したので、銅鑼(トンロー)で医者をしている母方の祖父の家で夏休みをすごすことになる。
 巨木の下の祠の前でカメを競争させているのは、地元の少年たちが、都会っ子・冬冬の持っているリモコンカーと1位のカメを交換したいからだ。
 この巨木と祠はもう一度登場する。冬冬が巨木の枝に登っていると、精神に異常を来たしている女性・寒子(ハンズ)がやってきて、祠前の祭壇に草や空き缶を並べてお祈りの真似事をする。間もなく寒子は、父親のいないうちに家へ出入りしていたスズメ捕りをなりわいにしている男の子をはらみ、祖父の医院ではその処置が話し合われる。
 前後して、冬冬の叔父(=祖父の息子)の幼なじみ2人が路上強盗を働き、石で頭を割られた被害者が祖父のもとに担ぎこまれる。
 ようすをうかがう冬冬と婷婷に、祖母は「子供の見るものじゃない。あっちへおいき」とにべもない。
 台北で手術をした母親が麻酔が効きすぎて目をさまさないという連絡が入ると、祖父と祖母は、孫2人は家に置いたまま、娘のもとへ駆けつけるために駅へ向かう。
 もちろん、ストーリー上、きょうだいは「子供の見るものじゃない」ことにうまくからませてあり(時にユーモラスに)、妹・婷婷のある行動によって、祖父母は駅のプラットフォームから家へと引き戻される。
 横に並べてみたくなったのが、滋賀県高島市出身の歌人・永田和宏さんのエッセイ集『もうすぐ夏至だ』(白水社)。
 昨年8月に亡くなった妻で同じく歌人の河野裕子さんのことを詠み込んだ歌の一節がタイトルになっているわけで、オビにも「亡妻河野裕子とともに築いた創造の日々を、見事な筆致でつづる」とあるのだが、私がここで取り上げたいのは、著者が高島郡饗庭村ですごした幼少期を書いたいくつかの文章。
 母が結核を患っていたため、感染を恐れて近くの山寺にあずけられる。父は妻の療養費を稼ぐために京都で住み込みで働いている。3歳の頃、母は亡くなるが、父はそのまま勤めを続け、子供に会いに来るのは月に一度か二度。父と少しでも長くいっしょにいたい子は、4キロほどの道のりを歩いて、江若鉄道の饗庭駅まで送っていき、そこでも父の手を離そうとしない。どうしようもなく、1時間に1本ほどの電車を見送ったり、再び家に引き返すこともあった。
「いまはもうなくなってしまった饗庭の小さな木造駅舎は、私には父との幼い駆け引き、闘争の場なのであった」(「三歳の知恵」より)
 著者の息子(歌人の永田淳さん)の出版社「釣りの友社」就職から同社の倒産までの顛末がつづられる「たった一度だけ」も、出版関係者には泣ける。人生、大人になってもままならない。

2011年 6月 19日

こころうきふねよがりあふかな―月岡雪鼎の春本と春画

 前回で取り上げた本『本を生み出す力』のことから始める。この10年で社会科学に分類される本の年間刊行点数は1.2倍に、新書サイズに限ると434点(1997年)が810点(2009年)と2倍近い増加率となっていることをとりあげ、出版不況にともない新刊依存の傾向が強まっている点とあわせて、同書は「『硬い本』が出しやすくなっている面もある」と指摘している。実際、研究者=著者側にとっては環境がよくなったともとれるわけである。先日、話す機会のあった某大学の研究者(東洋史)も最近は「あいつが?」と思ってしまうような同世代の知人が本を出していると言っていたし。
 そんなわけで、最近拾い物だった新書2冊。
 1冊目は、板坂耀子著『江戸の紀行文』(中公新書)。アマゾンのカスタマーレビューにある、無名子さんの文章にまったく同意(なぜ、☆4つなのかが疑問。私は☆5つ)。著者が江戸時代最大の紀行作家とする小津久足の紀行文の例として、郷里の伊勢松坂を出発、近江・美濃・京都・大坂をめぐった『青葉日記』が行程図付きで一部紹介されており、弊社がある鳥居本も通過したことがわかる。これまで一度も活字化されていないとのこと。どなたかお願いします。
 もう1冊は、アンドリュー・ガーストル著『江戸をんなの春画本―艶と笑の夫婦指南―』(平凡社新書)
 2009年12月に立命館大学アート・リサーチセンターで行われたシンポジウム「近世春本・春画とそのコンテクスト」における著者の発表「18世紀女子用往来パロディーの意義 ―月岡雪鼎の春本制作」がもとになっているものと思われる。
 それから1年たらずで、カラー8ページを含む新書として880円(本体)で手に入るのだから、ありがたい。ただ、新書の方の書名はいただけない。シンポジウムの演題が硬すぎるのはわかるが、春画本を網羅的に紹介した本ではなく、著者が「日本のもじり(パロディ)文芸の最高傑作」だと評価する近江出身の画人・月岡雪鼎の作品のみが取り上げられているのだから、サブタイトルでもよいからその名を入れるべき。
 月岡雪鼎(1726-86)は、近江国蒲生郡大谷村(現、日野町大谷)に生まれた。本当の姓は木田、月岡は日野にある山の名前にちなむ。同郷の高田敬輔に師事したのち、大坂に移り住んで美人画の名手として知られた。今も大坂風俗画系絵師の祖として評価が高い。2005年に滋賀県立近代美術館で行われた「高田敬輔と小泉斐」展でも、敬輔に連なる画家の一人として代表作が展示されている。
 『江戸をんなの…』は、原本(元ネタ)となった女子教訓書と、雪鼎作と考えられる春本4つを比較しながら、前者が理想とする夫や舅、姑、生活上の細かな決まりごとに従う儒教的・禁欲主義的な女性像を、後者が笑い飛ばし、夫婦ともに満足のいく性生活を送ることで家庭円満をめざすより実践的なガイドとしての役割を持っていたことを示す。実際にそれらは多くの女性読者を得ていた。
 例えば、教訓書『女大学宝箱』に引用されている『源氏物語』「浮舟」の段にある和歌「たちばなのこじまのいろはかはらじを、このうき舟ぞよるべしられぬ」が、春本『女大楽宝開』では「たちばなのこじまのいろはかはらじと、こころうきふねよがりあふかな」に書きかえられたように、ある程度の教養を備え、原本をすでに読んでいる読者を想定したものである。
 一番手っ取り早く笑えるのは、「琴三味線」各部名称と「陰茎図」各部名称、「小笠原流折形(贈り物の包み紙)図」と「大松原流張形(ディルド、いわゆるコケシ)の図」を並べた図版(177ページと179ページ)だろう。
 雪鼎は春画も含め、性にまつわる事柄を卑俗なものと見なしていなかった。本書でも指摘されているように、そこには一貫した“思想”が感じられる。多くの門人を得たのちにつくった漢画絵手本には、通常の美人画においてもみられた「当世の遊女を描くことは卑俗」とする見方に反論した文章が残っているそうだし、京都・仁和寺出入りの絵師となって与えられた「法橋」の称号を、富裕な商人らの求めに応じて制作した肉筆春画の落款にも用いた。
 カラーページに掲載されている肉筆春画2作品16点もそうした作品。
 先の県立近代美術館の企画展図録に掲載されている「梅に美人図」に描かれたのとほぼ同じ髪形、表情の女が下半身の着物をはだけ背後から男性器を受け入れている図と聞けば、セルフパロディという言葉が浮かぶが、実物に遊びの印象はない。上質な絵具を用いた丁寧な仕事とされるのもうなずける。日本画では接合部も描線のみで描かれ淡白な表現にならざるをえないが、掲載の数点では、陰毛と男性器にまとわりつく白濁した女性器からの分泌液が胡粉(日本画の白色顔料)を用いて表現されており、生々しさが増している。他の作者の肉筆春画には見られず、雪鼎オリジナルの技法なのだろうか。
 なお、気づいたので書いておくと、『江戸をんなの…』掲載の「四季画巻」の「秋図」は、『別冊太陽 肉筆春画』(平凡社)にも掲載されているが、どちらかが逆版である。
 さて、パロディといえば、もう一人、近江には思い出される画人がいる。栗太郡下笠村(現、草津市下笠町)に生まれた横井金谷(1761-1832)だ。その自伝『金谷上人御一代記』は、タイトルからして法然(金谷は浄土宗の僧でもあった)や蓮如などの事績を弟子がまとめた伝記のパロディである。
 冒頭から、子宝に恵まれたいと石山寺に参籠した母が大きなマツタケを呑み込む夢を見て身ごもり、放屁とともに産み落としたと記すのだから、自己諧謔的といった形容では生ぬるい。
 9歳で母の弟が住職を務めていた大坂天満の宗金寺の小僧となるが、11歳のとき、伏見屋九兵衛の娘りさとやっちまったことがばれて叔父の住職に折檻されそうになったので、大坂からトンズラ。こんな調子の彼の破天荒な放浪生活には、そもそもフィクションもかなり含まれていることがわかっているからタチが悪い。
 弊社の「淡海文庫」の一冊として、滋賀県立琵琶湖文化館の上野良信学芸員が「御一代記」をベースに横井金谷伝を執筆中。

2011年 6月 6日

本を生み出す《配偶者の》力

 社会学者3人が学術書の出版社4社(ハーベスト社、新曜社、有斐閣、東京大学出版会)の歴史、体制、戦略などを調査し、本ができるまでの過程を追った『本を生み出す力 ―学術出版の組織アイデンティティ―』(新曜社)を読んだので感想を。編集者へのインタビューで得た発言も盛り込まれ、同業者からするとあるあるネタ満載。
 一人で営業・編集・経理などすべてをこなしている「ひとり出版社」ハーベスト社の章にある、「社長である小林の家計という点では、安定した収入を持つ公務員である配偶者の存在が非常に大きい」という身もフタもない一文が標題のもとだが、揶揄する気は毛頭ない。
 驚いているわけでもない。小林社長が新卒後、最初に入社した出版社であるN社の編集部には、私も出入りしてお世話になったことがある。そこの労働量に見合わない給与に甘んじる編集者たちも、奥さんはかなりの割合で小学校の先生などの公務員だと聞いたことがあるから。そして、私自身はその知識を生かさず、最もチャレンジングな選択をしたので、自分で書いた言葉にダメージを受けているのは自分自身なわけだが、それはまぁいい。
 ここからが本題。
 オビには「知の門衛(ゲートキーパー)たちが直面している『危機』とは?」という惹句が踊るが、4社の創立以来の新刊刊行点数と従業員数のグラフをみると、2000年以降はむしろ安定期である。
 では、いつが本当の危機だったのか? 歴史の長い有斐閣と東京大学出版会は、出版業界が右肩上がりの成長期だったのだろうと思いがちな1970年代に最大の経営危機に直面している。2社とも、そこから一貫して従業員を徐々に減らしていき、現在は最多時の2分の1ほど(有斐閣…1976年 184人 → 2009年 95人、東京大学出版会…1976年 76人 → 2009年 42人)。
 経営面でないとすれば、「危機」とは質の問題なのか?
 著者たちは、新書ブームによって加速された教養書の商品化・俗流化(いわゆるファスト新書の濫造)というよく取りざたされる問題をまな板に載せる。ところが、新書がベストセラーとなりテレビタレント化するような大学人・研究者に似たようなタイプは、日本ではすでに1930年前後には誕生しており、取り立てて目新しいものではないと結論づけるし、欧米の出版社・出版物市場との比較でみえてくるのは、日本の出版社や書店が扱う書籍の多様性とそれを受け入れる分厚い読者層の存在という長所だ。
 複合ポートフォリオ戦略(書籍タイプ別の相対的比率に関する構想)について、新曜社前社長に質問している。
 返ってきた答えは、「そういう計画性は全く無い」。
 読み進めるうちに幾度か遭遇する、この「肩すかしをくらうような感覚」が本書の面白さなのだろう。もちろんほめ言葉である。巻末の「付録1 事例研究の方法」を読むと、著者たちがそのことに自覚的であることがわかる。

2011年 5月 9日

東浅井詰所のこと

 今、書店に並んでいる長浜の地域情報誌『み~な』109号の特集「親鸞さんのおかげさん」で、東本願寺の近くにある「東浅井詰所」が紹介されている。江戸時代後期、火災にあった東本願寺の再建に地方から出仕した門徒たちの宿舎として建てられ、明治以降は参詣者の宿泊施設として運営されてきた。
 江戸時代の話は初めて知った。旧東浅井郡内の門徒の人が管理者として10日ごとに交替で寝泊りしているというのも初めて知った。
 建物の外観と室内の写真も載っている。これは覚えがある。私はここに泊まったことがある。昔だ。正直、自分としてはそれほど「昔」という感覚がないが、27年も前だ。今、計算して、この数字に驚いている。
 高校2年の夏休み、とある文化部の合宿で、私はここに1泊した。東本願寺に参ったわけではない。あれはどういう経緯だったのか。ほとんど活動していない部だったので、部費が余っていたせいもあったのか。3年の先輩を目当てに入部した女子3人は、その先輩が卒業してしまったために目的を喪失した。彼女たちは大学生となった先輩に会いたかった。U先輩は、八重歯がチャームポイントの小柄なメガネ男子で、後輩女子に人気があった。彼はK大に入学、京都の住民となった。彼女たちは考えた。「そうだ、京都へ行こう」。
 宿泊場所を「東浅井詰所」に決め、手配したのは、部長だった私(わが部に1学年上はいなかった。Uさんらの代から1年おいて私たちだ)。情報源は母である。宿泊費が安かった。『み~な』に載っている現在の宿泊料(素泊まり1泊)でも旧東浅井郡の住人だと3000円(それ以外は3500円)となっているから、その頃だと2000円ぐらいだったか。部員の中には合併前の長浜市(旧坂田郡)の住人もいたが、まぁ高校が東浅井郡内だからよかったのか。
 部の顧問の先生には、それ用の用紙に必要事項を記入して提出し、許可を得た。顧問の先生の同伴は、なし。男子4人・女子5人なのだが、そこは田舎の進学校、わりに放任だった。U先輩への信頼が厚かったというのもある。
 夜、どこかの橋の近くで人混みにもまれながら「大文字の送り火」を見たので、宿泊日は8月16日だ。ここで「大文字焼き」を検索して、これが浄土宗の行事だとわかる。本当に東本願寺とは関係ない。その日の昼間か、京都市動物園にも行った。両方、Uさんともう一人の大学生になった先輩が案内してくれた。
 以上、何の役にも立たない記憶が、『み~な』の2ページ記事のおかげで蘇ってきた……というのはウソ。あれから20年ばかりして衆議院選挙や県知事選挙に立候補するようになったUさんの顔を見ると毎度思い出されるので、書き止めてみた。

2011年 4月 4日

電子書籍の惨状

 昨年の電子書籍をめぐる騒ぎ(結局は、それに関する通常書籍の形式での出版ラッシュでしかなかったが)を見ていて思ったのは、「この煽っている人たちは、音楽を聴いてないんだろうな」ということだった。だって、一歩先にデジタル配信が主流になった音楽業界では、嘆きの言葉があふれていたのだから。
 すでに2009年の年末に出た音楽雑誌では、編集長が編集後記に「とにかく身銭を切って、音楽を買って欲しい。アーティストに還元して欲しい」と書き、その後もミュージシャンがインタビューで「1曲単位の配信ダウンロードが一般化して、アルバムにかけられる予算が減った」と話したりしていた。実際、どこの店舗でもCD売り場のスペースは縮小される一方である。
 昨年の年末、高校の同級生数人で飲んだ時、中学3年の息子を持つ一人が苦笑いしながら言った。「息子が音楽の無料ダウンロードの方法、教えて、言いよる」。40歳代前半の父は息子にいいところを見せようとするわけだ。ウェブ上の万引きとなると、道徳的な禁止の敷居はものすごく低くなる。仮に自分が高校生のころ、LPレコードを万引きしていたからといって、その方法を息子に教える親父というのは、そうそういないだろうに。
 もう、これで答えは出ているだろうと思わずにはいられないではないか。

 漫画関係の本でも同じである。2009年を総括する関係者による座談会での会話は以下のような具合だった。
「しかし、どこもここもウェブコミックサイトを作ってるね」
「雑誌がダメになるとウェブコミックサイトを作るんですけど、いまのところみんな失敗してます。」
「収益は単行本を作ってってことだよね。」
「課金はしてないんでしょ。」
「ほとんどは無料です。アメリカなんかはものすごい量の海賊版がネットで流れてるんですが、このあいだNHKの番組でアメリカのオタクというのが映ってて、みんなマンガ買うんですかって聞いたら、『マンガはネットで見るとタダですから』ってニコニコしながら言ってましたね(笑)。翻訳したものがアメリカでも中国でも流れてる。」
 これも状況はずっと変わらない。「過渡期だから」といった言い訳が通じる期間はすでに過ぎているように思うが、違うのか。
 最近、講談社が漫画の電子書籍に力を入れているというが、飽和状態とというより数が多すぎる漫画家と漫画誌の避難所でしかないだろう。ケータイコミックの頃から、人気が出たら通常書籍の単行本化というパターンだし。私はこれに文句はない。ブログが人気でたから単行本化というルートにも文句はない。多くの書き手は、書籍という形になることを望んでいる。
 それもさらにデジタル配信が一般的になると、それだけで完了してしまい、作者にとっては酷い状態になる。
 アメリカでは、新人バンドが音楽共有サイトで一時人気になったのはいいが、すぐ忘れ去られて、CD化できなかった(ミュージシャン本人は、最終的にはCDという実体のある形になることを望んでいる)といった話が音楽雑誌に載っていた。日本でもyoutubeでライブ映像が話題になったバンドのCDが発売されたりしているが、数年後には同様のバンドでも、「さぁCD化という頃には過去の人」といったことになるのだろう。

 3月半ばに出た山田順著『出版大崩壊―電子書籍の罠―』(文春新書)は、電子出版ビジネスに携わってきた著者が数々の実体験をもとに電子書籍の惨状を報告した本である。
 この著者の山田さん、父親は芥川賞・直木賞の候補に計8回なったことのある私小説家・津田信(完全に今では忘れ去られた作家で、私も知らない)だそうで、さすがその息子というべきか、自身の見込み違いも赤裸々に書いている。失礼なことだが、何カ所かで大爆笑させてもらった(よい私小説は滑稽なものだ)。
 繰り返すが、発展途上の分野だから成功例が少ないというわけではなく、すでにアメリカの出版業界や新聞業界、レコード業界、ゲーム業界が産業全体として縮小した=その後を追う必要はないということで結論は出ている。デジタル配信を行えば、質を維持したままでの再生産が不可能になるということだ。

 ロサンゼルス在住の自称IT企業家に振り回された失敗談を書いた第9章「ビジネスとしての電子出版」には、「IT側人間はコンテンツに愛情が足りない」という項がある。愛情が足りないというより、わかっていないのだと思う。
 去年、テレビ東京の番組「カンブリア宮殿」に出ていたソフトバンクの孫正義にしても、その発言を聞くとコンテンツというものがわかっていない。たまたまつけたらやっていたので途中から見ただけで、正確ではないかもしれないが、「出版社は、とにかく早く電子書籍に参入すべき」といったことを言っていたはずだ。
 彼の頭の中には、携帯市場のような限られたパイをめぐる分捕り合戦のイメージしかないのだろうが、コンテンツ(こんな大げさな言葉を使うのもアホらしい。単に本や音楽)とはそういうものではない。遅れて参入しようとかまわないのである。少量多品種でどんどん更新されていくものだから。
 会社名の連呼とバナナの叩き売り式の営業は、どこの出版社もやってはいない。韓国の芸能プロダクションは新人育成に5年かけるだろうし、ハリーポッターシリーズ日本語版の出版社の名前を知っている人などそれほどいはしない。

 再び話を『出版大崩壊』に戻すと、一面的にすぎるので反論したい部分もある。
 まず、第4章「岐路に立つ出版界」で、「出版業界は総崩れ」と言っている点。
 著者自身、勤めていた光文社が業績悪化、希望退職したわけだが、そうした業界大手の斜陽化は、他業種大手や世代間格差が問題になっている大学で起こっていることと同じなのではないのか。ほとんどが中小企業で、高給取りでもない出版社の社員は、彼らの問題と自分たちの問題を同じと考える必要があるのだろうか。
 本書の中にも「(新刊書の刊行点数は)1989年には約3万8000点だった。それが、2008年には約7万6000点と倍増」と書かれている。書籍は供給過多なのだから、大手が最盛期のままでいられるわけはないだろう。
 二つ目は、これも大手出版社社員だった著者だからであろう、自費出版に対する偏見。大手出版社に相手にされなかった三流品の原稿=自費出版という形しか著者の念頭にはないようなのだが、明らかに認識不足だろう。自費出版の多くは、対象地域なり対象読者層が限定されているために、読者数が採算ラインに達しないことを著者自身が認識しているから製作費を出す、という構図で成り立っている。
 ついでにいうと、自費出版業界にいる者は、より多くの人にあなたの本が届く(かもしれない)という電子書籍が振りまく幻想には、文芸社の商法でほとほとこりているはずだ。

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