2015年 10月 12日

ミシン、移民、伊勢商人(その2)――再び、小津久足『煙霞日記』ほか

(前回からのつづき)
 テッド・Y・フルモトの小説『バンクーバー朝日 日系人野球チームの奇跡』に登場する日系人社会の顔役、鏑木は「朝日」というチーム名の名づけ親だという設定で、この名は本居宣長の有名な和歌「敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花(日本人の心とは朝日を浴びて香る桜の花のようなものだ)」にちなむと披露する場面がある。
 これは創作で、史料や取材をもとにしているわけではない。前回書名をあげたノンフィクション、後藤紀夫著『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』にチーム名の由来に関する記述はない。ないのだが、カナダには「敷島」「ヤマト」という名前の日系人チームがあったことは事実なので、これらの名が本居宣長の歌に由来する可能性は高い。
 そもそも、これらの名から何を思い出すかといえば、明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達のために日本政府が発売したタバコの4銘柄「敷島」「大和」「朝日」「山桜」だろう。この4銘柄の名前が宣長の歌に由来することは事実である。当時の日本人なら知らぬ者のない和歌だった。思想としても、宣長が「漢意(からごころ)」に対比させた「大和魂」が、明治以降、新渡戸稲造の『武士道』で言及されたことなどから復活する。
 現在も、本居宣長は国語と日本史の両方で暗記すべき人名だ。高校の日本史資料として利用され、一般書店でも購入できる『図説 日本史通覧』(帝国書院)の2015年度版の場合、189ページに「本居宣長六十一歳自画自賛像」(国の重要文化財)がカラーで掲載されており、自画像の左上にそえられた和歌が赤線で囲まれ、引き出し線の中に「しき嶋のやまとごころを人とはば/朝日ににほふ山ざくら花」と書かれている文字が示されている。
 同じページの左側に掲載されている表「国学者の系譜」にある解説は以下のとおり。
 「賀茂真淵に学び、『古事記』の注釈書『古事記伝』を完成、日本古来の精神への復帰を主張して国学を体系化。『源氏物語玉の小櫛』(注釈書)、『玉勝間』(随想集)などを著す。」
 30年前高校生だった私には単に暗記する名前でしかなかったのだが、10年近く前、担当した書籍の関係で、近江出身とされる室町時代の連歌師・宗祇と江戸時代の歌人・北村季吟を調べ、その流れで本居宣長の著作も読んだ。いずれも『源氏物語』に対する注釈をおこなった人として、いまでいえば「文芸批評家の系譜」に連なっている。
 ご存知のとおり、『源氏物語』の筋は、主人公・光源氏の恋愛遍歴である。例えば、戦国時代の公卿・三条西公条による注釈書『明星抄』の場合、物語内容が「ことごとく好色淫乱の風」であるのは、「この風の戒め」とするためであると説いている。現代の感覚からすると苦しい言い訳のような鑑賞法が、中世・近世を通して継承された。
 これに対して、宣長は、いやいやそんな道徳の教科書のように『源氏物語』を読むのは誤りだ。『源氏物語』本文に「登場人物の行動に心ひかれる」とあるではないか(つまり、それを否定していない)。文学は道徳とは別の価値基準がある。矛盾をかかえ愚かに見えるどのような行為、心理であろうと、すべてを書かれているままに味わうべきだと主張した。
 ここまでなら、そのとおりというしかない(まぁ、それ以前の道徳的解釈も「たてまえ」だったのだが)。ところが、ここから奇妙な理屈が展開する。
 本来、日本には心の移り行きをそのままに味わう素直でやさしい精神=「物のあわれを知る」心があった。しかし、漢国(からくに=中国)から儒教と仏教が伝わり、自分の心を偽る「さかしら心(利巧ぶった考え方)」が広まった。さぁ、『古事記』にさかのぼって、「古道(日本に古来から伝わる固有の精神)」を明らかにしたぞ。やはり日本には、万事を神のはからいとして素直に受け入れる神道がふさわしい(今の神道は堕落しているが)。
 以上、参考にした『本居宣長集』(新潮社)の「解説」(日野龍夫)も、その論理展開を「ふと気がつけば啞然とせざるを得ない」としているが、そう感じて納得しなかった人間は江戸時代にもいた。すぐそばに。
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 というわけで、今年2月22日付けの当ブログ「われはやくより病あり」で紹介した、江戸時代後期の伊勢商人、小津久足が再び登場する。
 そこで紹介した近江への紀行文「煙霞日記」に次のようなくだりがある。
 久足は永源寺へ向かう途中の高野村にある茶屋で、彦根から来た3人の彦根藩士(水野工樹、上田正方、山口友之)と知り合う。彼らも久足と同じく本居門下に連なる者だとわかる。永源寺で紅葉を愛でてのちの語らいの場で、話上手の水野と打ち解けたころあいに、久足は「本居先生の学風や和歌の歌い方は、もう流行遅れだと私は思う」と恐る恐る口にした。すると、水野はわが意を得たりという風に手を打って同意したので、さらに「今日の紅葉狩りは、桜好きの本居風にはできないことだ」と言って笑いあった。
 宣長の本来の姓は小津で、久足と同じ伊勢商人の一族である。「本居」は、戦国時代の武将、蒲生氏郷(商都・松坂を築く)に仕えた6代前の祖先、本居武秀の姓に戻したもの。ただし、血脈はつながっていない。久足(1804~1858)は、宣長(1730~1801)の長男、春庭(はるにわ)(1763~1828)の門人であり、その長男、有郷(ありさと)(1804~1853)の後見人となった。生没年を見れば、有郷と同年生まれで、宣長の孫の世代ということになる。
 ここからは、最初に久足について書いた当ブログ(「われはやくより病あり」)へのコメント欄で、板坂耀子先生にご教示いただいた髙倉一紀ほか編『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(二)』(皇學館大学研究開発推進センター 神道研究所)を参考に。
 同書巻頭にある解題によれば、春庭を師として国学の研鑽につとめた久足だったが、春庭の著した『詞八衢(ことばのやちまた)』(宣長の『詞の玉緒』を発展させた動詞の活用語集)を読んでもどうにも性に合わない。「おのれはかりにも信ずることなく、常にいみきらふことはなはだしく」「とにかく心にかなはぬをしへおほき」(「斑鳩日記」)と感じる。
 決定的だったのは、近江の石山寺参詣だという。普段から観世音菩薩を信仰していた久足は本堂を参拝して、「やまとだましゐとかいふ無益のかたくな心」とは決別したと記す(「花鳥日記」)。
 理由は、仏教への信仰心のためばかりではない。古学というには、「むかしより聞えぬことなるを、近来つくりまうけたるみちなり」「『やまとだましひ』『まごゝろ』『からごゝろ』などいふ、おほやけならぬ名目のかたはらいたくなりて」(「陸奥日記」)。
 「大和魂」なんぞは、最近になって作られたお題目でしかなく、笑止千万だというのだ。
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 そうすると、もう一度『ミシンと日本の近代』に戻ることになる。同書は、日本人の読者が好みそうな、「日本的特性」を明らかにする「日本文化論」としては書かれていない。最後にあるのは、「われわれの結論は、『日本では特殊にも』ではなく、『日本では、ほかのどこでもそうだったように』という句ではじめざるをえない」という、身も蓋もない(が、真実の)言葉だ。
 本書の中で引かれる「日本的特性」や「日本人らしさ」は、あくまで西洋(ヨーロッパとアメリカ)との対比で論者が都合よく定義した(新たに創造した)ものとして扱われる。1870年代以前(江戸時代)に、日本の「忘れることのできない他者」の役を担ったのは中国だったとも、ちゃんと書かれている。本居宣長が「漢意(からごころ)」に「大和心」を対置したようにである。
 1932年10月にシンガー社のセールスマンが行った労働争議では、争議団メンバー=日本人セールスマン50人が靖国神社と明治神宮に「成功祈願」に出かけていた。彼らが、シンガーのやり方は「崇高ナル大和民族ニ対」する「侮辱的言動」だとしたのは、世界中のどの国でも起ってきたグローバリズムの進展にともなうナショナリズムの高揚というやつの典型的な例にあたる。
 1930年代には、シンガーに対抗して、三菱、パイン、蛇の目、ブラザーなどの国内メーカーも誕生した。製造技術を提供した者の中には、争議後シンガーを退社した元従業員も多く含まれていた。164ページにブラザーの第1号ミシン、165ページにシンガーの一般的家庭用ミシンの写真が並べて掲載されているが、フォルムも部品の配置も表面にプリントされた図案と書体もそっくりである。
 国内メーカーは、コピー製品をつくり、セールスマンを全国に配置して月賦販売をおこなうシンガーのシステムもそっくりまねた。にもかかわらず、月賦制度についてパインは、月ごとに積立金を払う無尽講を採り入れた「日本の伝統的」な購入方法だと説明した。
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 さて、小津久足の家の分家の子孫に、映画監督の小津安二郎がいる。小津安二郎は「日本的な」映画監督だろうか? 今年4月に刊行されたハーマン・G・ワインバーグ著/宮本高晴訳『ルビッチ・タッチ』(国書刊行会)は、「映画史上最も洗練された映画監督」として知られるエルンスト・ルビッチ(「ニノチカ」最高!)の評伝だが、日本版特別寄稿として収録された山田宏一の「永遠のエルンスト・ルビッチ」第6節は、「ルビッチと小津安二郎」と題して、小津がルビッチ作品のファンだったことを示す小津本人や関係者の証言をひき、女性キャラクターやギャグの演出にルビッチの影響がみてとれるとしている。
 ちなみに、私が現時点で一番好きな小津作品は「麦秋」(1951年)。物語終盤で、主人公の紀子(原節子)が見合いをするはずだった相手の顔を拝みに友人のアヤ(淡島千景)と並んで廊下を抜き足差し足進むシーンは何度見ても微笑んでしまう。
 とうのルビッチは、ドイツ・ベルリン生まれのユダヤ人。ドイツで映画監督として活躍後、ハリウッドに招かれ、1920年代半ばから1940年代初頭までヒット作を連発し、「スクリューボール・コメディの神様」と称される。本書の帯には、その作風を評した「流麗優美 軽妙洒脱 淫風爛漫」という四文字熟語3つがピンク色で印刷されているが、さてこれは、ルビッチの「ドイツ的」な性質に由来するのだろうか?
 本書「まえがき」には、「批評家は彼のなかにあるフランス的風趣とギリシャ的機知の混在に注目したのだが、彼のインスピレーションの源泉となったのは(中略)、近年のハンガリーとバルカン諸国(ルビッチという姓はバルカン半島にルーツがある)の文化だったように思われる」とある。列挙される国名の数は、ルビッチ・タッチに「国民性」を持ち出しても無意味であることを逆説的に示しているだろう。
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 話を小津久足に戻す。
 『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(一)』の方の解題は、商人としての久足は家産の維持に努めた「極めて冷徹な現実主義者」だったとしている。子孫へ商売上の心得として書き残した『家の昔かたり』には、「もとより交ありとも、零落せし人には遠ざかるべし」と、それが道徳的には批判されるべきことだと承知のうえで、率直に記しているからだ。
 一方で、家産の維持さえできれば、「おもしろく、遊びてくらすが肝要也」とも書く。この辺をもう少し掘り下げたのが、平川新編『江戸時代の政治と地域社会 第2巻 地域社会と文化』(清文堂出版)に収録されている青柳周一滋賀大学経済学部教授の論考「天保期、松坂商人による浜街道の旅 小津久足『陸奥(みちのく)日記』をめぐって」。
 「陸奥日記』は、天保11年(1840)に、江戸と陸奥国松島(宮城県)を往復した旅行記。銚子(千葉県)の港を訪れた際、商売上の取引先(干鰯製造業者?)へ挨拶に立ち寄ったことを記したところで、久足の筆は自らの商売観におよぶ。
 世間の趣味人はたいてい家業を俗事と卑しくおとしめて、結局家を傾けてしまう。私がそうならず、趣味と家業を両立できているのは、空恐ろしいまでにありがたいことだ。珍しい本を思うまま買うことができるのも商売がうまくいっているおかげだ。まったくその恩を忘れることはできない……というようなことを思いつつ、銚子の取引先を回った。
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 ここで冒頭の『わが父塚本邦雄』にもどる。
 小学校低学年の息子(靑史)が父に尋ねた。
 「おとうさん。あんたは子供のとき、いったいどんな遊びをしてたんや?」
 父は答える。
 「漢和辞典を引っ繰り返して、難しい字から順番に覚えていた」
 四人きょうだいの末っ子に生まれ、辞書を片時も手放さず、兄や姉が買い与えられていた『千一夜物語』『万葉集』『新古今集』を当人よりも先に読む子供。後の前衛歌人を生んだのが商家の富だったことは確かなのだ。
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 ダメだ。書く前に頭の中でアウトラインができあがっていたから、思いがけない方向に転んでくれなかった。いまいちなので、以下おまけ。
  結婚衣裳縫ひつづりゆく鋼鐵のミシンの中の暗きからくり
 ミシンの語が詠み込まれた作品はないかと思い、「塚本邦雄」「ミシン」で検索したらヒットした。収録されているのは、第二歌集『裝飾樂句』(1956年)。
 書名は「カデンツァ」と読ませるとのこと。
 あーっ、前々回にちょろっと書いておいた岸誠二監督『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(カデンツァ)』が10月3日から公開中なのに、まだ観にいけてない!

2015年 10月 12日

ミシン、移民、伊勢商人(その1)――奥寺佐渡子脚本『バンクーバーの朝日』ほか

 今回はお尻の「ん」並びである。前々回の頭の「ア」並びの次にアップするつもりだったのだが、前回の「刺客…、シカ喰う…、人を喰った…」の方が先にできてしまったので、後回しにしていたネタ。頭の中では数珠つなぎになっているのだが、これがいつにも増して長い。文章に起こしていくのが面倒くさい。
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 昨年12月に出た塚本靑史著『わが父塚本邦雄』(理想社)を、今年3月頃に図書館で借りて読んだ。滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現、東近江市五個荘川並町)生まれの歌人・塚本邦雄の一生を、タイトルどおり息子が綴った本。
 文字資料は用いず、著者が見聞きしたことにほぼ限定して記されているので、とても読みやすい。近江商人を数多輩出した地として知られる五個荘に対する邦雄の態度は、よく知られているとおりだ。この本でも、「(その地において)人の価値を計るのは、金銭の多寡だけだったと、塚本邦雄は吐いて捨てるように言っていた」とある。
 大阪の繊維商社、又一に勤めていた邦雄は、短歌結社「青樫」の歌会で竹島慶子と出会い、2年後に結婚する。奈良の二上山の麓で生まれ育った慶子と、五個荘生まれの邦雄、古代にさかのぼる双方の生地の因縁話もおもしろい。昭和26年、第一歌集『水葬物語』が出版されると、三島由紀夫らから絶賛を受ける。昭和29年、商業誌からの仕事の依頼も来るようになった矢先、会社の集団検診で肺結核だと診断される。
「邦雄が慶子に総てを打ち明けて相談すると、期を一にするように彼女はドレメ式の洋裁学校に通い出す」。その後、師範免許状まで取得し、邦雄を治療した医師の夫人の洋服を作ったりしたという文章の後に、「ドレスメーカー女学院時代の慶子(左端, 1956年)」とキャプションがそえられたワンピース姿の写真も掲載されている。それより前の第1章で、実際に会う以前に結社誌『青樫』を手にした邦雄が、後の妻となる女性の名と作品を目にしていたことを語る部分にも使われている若き日の慶子の写真も、「大倉ドレスメーカー女学院での竹島慶子(右端)」とあり、こちらはブラウスにスカート。慶子は、ファッション雑誌のモデルだったとしてもおかしくない容姿である。幸い邦雄の結核は2年の療養を経て完治した。
 戦後の日本人女性の多くにとって「ミシン裁縫は生き延びるための技能」であったとするアンドルー・ゴードン著『ミシンと日本の近代』(みすず書房)を思い出す。同書は、明治期以降の日本での家庭用ミシンの販売・利用とともに進む女性の洋装普及の歴史を丹念にたどったものだが、第7章のタイトルは「ドレスメーカーの国」。戦後、日本女性の服装が農村部まで含めて、ブラウス、スカート、ワンピースなどの洋服に変わっていくなかで、洋裁学校の大ブームが起こる。杉野芳子が創立したドレスメーカー女学院(略称ドレメ)は、卒業生によるフランチャイズ校が全国に700校も開設された。
 2013年7月発行の本書の帯にある推薦コメントは、ファッションデザイナーのコシノヒロコによるものである。曰く「ドラマ『カーネーション』で描かれた母と、同世代を生きた女性たち。彼女たちの息づかいまでが聞こえてくるようだ」。
 そう、コシノの母・小篠綾子をモデルにしたNHKの連続テレビ小説(2011年度下半期)は、洋裁店を営む主人公・小原糸子(尾野真千子)が、夫の戦死後も洋裁業で3人の娘たちを育てあげる物語。ドラマ内のミシンにはSINGERをもじったSTINGERというメーカー名が記されていた……とうのは、ネットで検索した豆知識。
 ただし、戦争未亡人とミシンのつながりは、太平洋戦争に始まることではない。ミシンメーカー・シンガーが日本への本格的な販売活動を開始してまもなく、1906年に創立されたシンガーミシン裁縫女学院の初代院長・秦利舞子が、日露戦争によって夫を失った妻たちに自身の学院で教育を受けるよう勧めていたそうだから、その歴史は半世紀ほどはある。
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 夫が、結核でも戦争でも死ななかったとしても安心してはいられない。
 生来病弱な質で、若い頃、結核にかかっていたおかげで兵役免除になったことのある夫は、下駄履きの普段着のまま自転車で「ちょっと出かけて来る」と言ったまま、家に妻と幼い息子を残して失踪する。東京から地方の実家へ移り住んだ妻は、シンガー社製のミシンを操る独り身の姉とともに、自宅に設けた「洋裁室」で近所から注文のあったウエディングドレスやバレエの舞台衣装を縫って生計を立てている。その後(たぶん昭和50年代)、小説家になった「私」の元に、父と暮らしていた女から彼の死を知らせる手紙が届く。金井美恵子の小説『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社)が出たのが、2012年1月で、それをネタに3月に当ブログで「反魂の法」を書いた。
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 いやいや、夫が別の女にうつつをぬかさず懸命に働いていたとしても安心できない。
 製材所での仕事を終え、カフェで仕事仲間たちと語らった後、主人公のレジーは徒歩で家路につく。帰ってきた家の玄関先には、洋裁業を営んでいることを示す看板がかかっている。どこまでがキッチンでどこからが居間なのか区別もない狭い家の中では、母親がミシンを踏み、妹のエミーが針仕事でそれを手伝っている。父親は生きていて人一倍働き者だが、稼いだ金のほとんどを家には入れず、遠く海をへだてた日本の親戚に送金してしまうから、母と娘は夕食後も手を休めず家計を支えている。
 舞台はカナダ西岸。昨年の12月から公開された映画『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)の話だ。父親(佐藤浩市)と母親(石田えり)は日本からやってきた移民、レジー(妻夫木聡)とエミー(高畑充希)はカナダで生まれ育った2世である。
 私が観た彦根市内の映画館「彦根ビバシティシネマ」の入口に設置されていた特別パネルと配布チラシには「初代“バンクーバー朝日軍”の監督と主要メンバーは彦根出身者」「彦根出身移民の方がモデルです」と書かれていた。このことは新聞の県内版紙面などでも報じられたから、映画館でも親類縁者に移民者がいたのだろう感じの60歳代夫婦であったり70歳台老人が目についた。
(滋賀県からカナダ・バンクーバーへの移民については、当ブログの5年前の記事「さよならバンクーバー、こんにちはバンクーバー」を参照)
 ところが、実際の映画の登場人物たちに彦根出身者らしき痕跡はまったくない。レジーの父が話しているのは広島弁だ。脇役に名古屋弁を話す男がいる。
 現実の「朝日」は1914年から1941年まで存在したチームだが、映画化にあたって、そのエピソードを1938年の1年間1シーズンの物語に圧縮し、登場人物に特定のモデルはいないとのこと。
 現在の彦根市開出今町出身で、チーム創設時の中心メンバー(初代監督を含む)については、映画パンフレットに収録されている河原典史教授(立命館大学)の5ページにわたる日本人移民史、後藤紀夫著『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』(岩波書店)などを読むしかない。
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 要するに、映画自体は「滋賀」にからめて書くことがない。関係はないが、思いついたことはあるので以下、脱線。
 観る前は、その前に観た妻夫木聡主演映画が『黄金を抱いて翔べ』(井筒和幸監督、2012年)だったものだから、そこでの妻夫木×チャンミンが、妻夫木×亀梨和也になったブロマンスを想像してもいたのだが、どちらかが瀕死の重症を負ってもう片方の腕に抱かれるようなシーンはなかった。これは違う。
 物語がかなり進んでようやく、主人公レジーは奥寺佐渡子脚本作品の「たよりない男子」キャラなのだとわかる。映画『学校の階段』(平山秀幸監督、1995年)の小向先生(野村宏伸)の系譜だといえば、1990年代半ばに小学生だった人ならわかるだろう。公開時、私はすでに社会人だったので、夏休みの子供向け作品である同作を映画館ではなく、数年してからのテレビ放送で観た。舞台となる小学校に勤める小向先生は、気が弱く、恋愛も奥手(近々お見合いの予定あり)、オバケが現れれば、生徒を追い越して一番に逃げていく。「先生」だけど「男子」と称した方がしっくりする。
 そんなことを思い出し、ちょうど小学4年生の娘が「怖い話」にはまっている時期(図書館で借りる本は、漫画風挿絵が入ったその手のシリーズ本ばかり。夜の歯磨きに一人で洗面所へ行けない)なので、8月上旬の土日は、平山&奥寺コンビの3作(1と2と4。3は監督・脚本が異なるので除外)を続けてレンタルして二人で鑑賞。20年近く前の作品なので少し不安もあったが、娘は恐怖にも笑いにも的確に反応。4に至っては、「感動作やん」と感想を述べるものだから、笑ったら怒られた。笑った私が悪い。娘は、通販サイトで購入してあげた中古の映画パンフレットも熟読。
 このタイミングで思い出して、本当によかった。
 さて、「たよりない男子」は、その後、細田守監督との共同脚本によるアニメ映画『サマーウォーズ』(2009年)の主人公・小磯健二くんとして登場し、ネット空間に投入されたプログラムの暴走による危機から世界を救う。
 決して大向先生と大磯くんとは名づけられない、小向先生と小磯くんが活躍する『学校の怪談』と『サマーウォーズ』はともに、「たよりない男子がカギと格闘する話」だ。(もちろん『サマーウォーズ』が、細田守監督の過去作『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』のセルフ・リメイクだということは承知のうえで書いている。そんな誰の目にも明らかなことより、『学校の怪談』とつなげた方がおもしろいではないか。)
 『バンクーバーの朝日』の主人公・レジーも、熱血野球少年ではなく、内向的な性格の「たよりない男子」である。チームのキャプテンを含む3番・4番の二人が勤め先の閉鎖で移住することになる。レジーは後任のキャプテンに選ばれるが、持ち前のリーダーシップを買われてというわけではなく、理由は年齢だ(一番年上のトムは妻子持ちなので除外)。それも、強く主張することが苦手な性格を見透かされて、厄介な役どころを押しつけられたようにも見える。円陣を組んで発する掛け声も、照れてしまってうまくいかない。
 そんなレジーだが、ある試合の打席でビーンボールまがいの球を防ごうと出したバットにたまたま当たったボールが前にころがったことをヒントに、バントと盗塁で得点に結びつける戦法を編み出す。やがて、万年最下位チームが勝利を手にし、その戦法はカナダ人をも魅了していく。
 「情けない主人公がほんの少ししかない武器をどう活かし、どう戦って乗り越えるか」を見せようとしたという奥寺佐渡子の『サマーウォーズ 公式ガイドブック』(角川書店)収録インタビューでの発言は、『バンクーバーの朝日』にもそのまま当てはまる。主人公の姓が「笠原」である点が残念。
 快進撃を続ける「朝日」だったが、ピッチャーのロイ(亀梨和也)が試合中に乱闘騒ぎを起こし、出場停止に。しかし、カナダ人も含めた観客からリーグ事務局への抗議が殺到し、すぐに停止措置は解かれる。
 連絡を受けた「朝日」の選手たちがいつものカフェに集まった。普通なら、さぁ、決意を新たにがんばろうという場で、キャプテンのレジーの「たよりない男子」キャラが発揮される。「俺、そういうの苦手だから……」と言って、スピーチを妹のエミーに代わり退場。
 エミーは、カナダ人の友人から教えてもらった「Take Me Out to Ball Game(私を野球に連れてって)」を歌う。
 背を向けてテーブルを見つめたまま聴いていたロイは……。
 カフェに集まる前のシーンでレジーに示した態度を一変させるわけだが、エミーが歌っている途中から、その行動は予感されるものなので、観ていて気持ちよい。無駄に言葉を費やさないシナリオのうまさが光る。
 ただし、エミー役の高畑はうじうじと感情を込めすぎ(歌詞がよく聴き取れないほどなんだもの)。もっと明朗に歌い上げてほしかったし、ロイ役の亀梨もオーバーアクション気味にした方がテンポのよさが生まれたと思う。作品全体を通してシリアスさを求めすぎ、大事なところでクライマックス感が生れていないのは、石井監督の責任だろう。
 レジー役の妻夫木聡は、「たよりない男子」が屈強な相手に勝利するお話の構図をよく理解して演じていたが、悲しいかな、性格づけがなされているシーンに引きのカットが多すぎた。ネット上のレビューを見るかぎり、観客には単に「暗い主人公」と受け取られている。
 無駄に言葉を費やさないシナリオは、「国民性」といった言葉を持ち出さないことにも注意を払っている。日本人移民選手とカナダ人選手の違いはあくまで体格上のものだ。
 同じカナダの日本人野球チームをモデルとしながら、テッド・Y・フルモトの小説『バンクーバー朝日 日系人野球チームの奇跡』(文芸社文庫)になるとどうか。
 監督のハリー(小説内の架空の人物。以下同)が言う。
「白人みたいな戦い方をしてちゃあダメだってことです。僕たちはあくまで日本人らしく戦わないといけない。日本人でなければできないようなプレーをしない限り、白人たちに勝つことはできない」。
 日本人街の顔役で、朝日を金銭的に援助している鏑木と、新聞記者の会話。
「どうして日本人はビーンボールを投げられても怒ったりしないのですか?」
「それが武士道の精神だからだ」
 こんな調子だ。
(つづく)

2015年 7月 25日

刺客の映画、シカ喰うための本、ヒトを喰ったテレビドラマ

 今年のカンヌ国際映画祭で監督賞に輝いた台湾のホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の最新作『黒衣の刺客』が、9月12日から日本で公開される。
 と書き出してみたが、公式サイトのトップページ(パソコンのディスプレイ上で同時に開いている)にある作品名のそばには、平仮名で小さく「こくいのしきゃく」……困った。「しかく」と読まないことには、今回のブログタイトルが成り立たない。先は長いので、知らなかったことにして進める。
 舞台は唐の時代(9世紀)の中国、主人公は誘拐され暗殺者として育てられた女性、標的はかつての許婚だった暴君、彼女が任務中に陥ったピンチを救う人物として、難破した遣唐使船の日本人青年も登場するそう。
 サイト内の現在の予告編は静止画ばかりだが、「刺客聶隱娘」や「刺客聂隐娘」で検索すれば、台湾や中国の芸能ニュースで公開された動画を見ることができる。
 同作のfacebook7月7日付け記事によると、日本公開版は、ホウ監督の希望でインターナショナルバージョンでは割愛された日本でのロケシーンを復活させるとのこと。ロケ地としてあがっているのは、「京都・奈良・滋賀・兵庫」の4県。インターナショナルバージョンの105分に対して、日本公開版は108分と公開時間が3分長い。単純に均等割りすれば、滋賀での撮影部分は1分以下だけど。日本人青年(妻夫木聡)の回想シーンで、その妻(忽那汐里)が雅楽の舞を披露する。
 撮影監督はリー・ピンビン(李屏賓)。動画を見ると、ロケ地の多くが中国だからか、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督と組んだ『春の惑い』(2002年)を思い出させる。そして、主人公に狙われる暴君を演じるのは、やはり田壮壮監督の『呉清源 極みの棋譜』(2006年)で、主役の呉清源を好演したチャン・チェン(張震)。同作のロケは、2004年の10月から12月にかけて、滋賀県の近江八幡市や彦根市で行われた。私は、滋賀ロケ映画の取材にかこつけて訪れた同作の製作本部(旧八幡公民館)で、本人を見ている。彼は、その辺にころがっていたらしいケバケバになった硬式テニスボールをドリブルして時間をつぶしていた。
 以上、取り急ぎ。2007年10月22日付け「プレミア上映『呉清源 極みの棋譜』評」と、ホウ監督作品『冬冬の夏休み』について書いた2011年7月17日付け「ままならない子供時代」も参照いただきたい。
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 さて、次。彦根市立図書館の郷土本新刊の棚で見つけたのが、松井賢一著『いけるね!シカ肉 おいしいレシピ60』(農文協、6月5日発行)。情報誌『Duet』106号「特集 シカ肉を食べる」で取材させていただいた著者(本業は滋賀県職員)のシカ肉レシピ本第2弾である。
 シカ肉にこじつけて、当ブログでも2012年6月3日付けで「シカ喰う人々――阪本順治監督『大鹿村騒動記』ほか」という文章を書いた。書いたものだから、気になる。例えば、クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』(2014年)は、冒頭で少年時代の主人公が父親に連れられてシカ狩りに行き、並みはずれた才能の片鱗を見せる。続いて、仕留めたシカを、……食べるシーンはもちろんない。
 アメリカでは、殺したシカをどうするのか。ドッグフードなどの他に、一つの使い道として、腹を開いて内臓を見せると、ちょうど人間のそれと同じ大きさぐらいなので、映画のスプラッターシーンに使われていると、雑誌かネットで読んだことがある。
 なので、猟奇殺人の死体と人肉を調理した美しい料理の数々が見どころだというアメリカのテレビドラマ『ハンニバル』(NBC、2013年~)が人気だと知った時も、まず思ったのはシカ肉がたくさん使われているのだろうなということ。
 かといってグロ描写は苦手なので観ていなかったのだが、人食い殺人鬼レクター博士役のマッツ・ミケルセンがすばらしいという友人の言葉もあって、おくればせながら、1st シーズンのDVDを借りた。ややこしいが、同タイトルの小説が原作になっているのではなく、時間的にはその前の『羊たちの沈黙』、さらに前の『レッド・ドラゴン』よりも前、レクター博士がまだ逮捕されていない時代(ただし、時代設定は現代)を描くオリジナルストーリーだそう。
 FBIで連続殺人事件の捜査を手伝うウィル・グレアムは殺人現場を見ただけで犯人の行為を忠実に脳内で再現できる能力を持っていて、その精神鑑定を依頼された精神科医ハンニバル・レクターは彼に関心を抱く。複数の事件の犯人に共感することで精神に異常を来たしていくグレアムと、彼となら友人になれると感じ、ちょっかいを出し続け、事態をさらに悪化させていくレクター博士。
 なるほど、レクター役のマッツ・ミケルセンは魅力的で、孤独な魂同士の邂逅にはまる原作ファンがいるのだろうということはわかるのだが、私には今ひとつ楽しみ方がわからないまま話は進む。
 おもしろかったシーンをあげてみる。
 第2話で、視聴者が「お前が真っ先に殺されろ!」と思わずにはいられないタブロイド紙の記者を冷たい目で見つめるレクター博士。シーンが変わり、レクターが自ら調理した赤いソースのかかったロイン(腰肉)をFBIのクロフォード課長に振る舞っている(ほぼ毎回、レクターはFBI捜査官も含めた事件の関係者を自宅に招いて手料理を供する)。
 「何の腰肉?」との問いに、「ポーク(豚です)」と博士。
 「やった! 喰われやがった(のか?)」と思っていたら、続くシーンで記者が何事もなく現れる。この微妙なヒッカケはよかった。(ただし、彼にとって、殺した人間は皆、無礼な「ブタ」という設定を守ろうとすると料理に広がりがなくなる。後半の話数になると、烏骨鶏のスープや子牛肉のなんとかなんて料理が出てくる。)
 もう一つ。第7話で、名刺ファイルとレシピのカードを交互に繰るレクターの指先、男性歌手のオペラが流れるなか、キッチンで冷蔵庫から取り出した肝臓(ヘモグロビン多そうな色だったのでシカ?)、心臓、肺などを次々さばく彼の表情は心もち楽しげ。
 そうか、ブラック・コメディなのか!
 楽しみ方の目星がついたので、「ハンニバル」「ブラック・コメディ」を検索してみる。書評家の古山裕樹という人が、「人を食ったブラック・コメディ」と題してトマス・ハリス著『ハンニバル』(新潮文庫)を書評している2000年6月の記事を発見。
 「クライマックスの料理シーンは大笑い」とある。
 以下、小説版『ハンニバル』のクライマックスに関するネタばれあり。刊行以来、紙媒体やネットでさんざん指摘されていることだろうから、今さらだが、海外ミステリに縁のない私には発見(シカ肉が導いてくれた!)だったので、書き止めておく。
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 というわけで、前世紀末のベストセラーミステリ『ハンニバル』(上)(下)を読む。
 本題の前に一つ、シカ肉関連なのであげておく。下巻が始まって3分の1ぐらいのところで、クラリスを助けにアメリカに舞い戻ったレクターが最初に犯す殺人。猟期を守らずにシカをクロスボウで狩った男が、同じくクロスボウの矢で頭部を射抜かれ、ともにサーロインと腰肉とフィレ肉を取り去られた状態で発見される。検死の場の医師がヒロインのFBI特別捜査官クラリスに言う。「心臓の重量は、両者とも、ほとんど同じだった」。このセリフがもとで、死体の臓器に用いられるようになったのではあるまいが。
 そして、クライマックスは、ゲストにクラリスを招いたディナーの場。レクター博士が供するメインデッシュは、出世欲と私怨からクラリスを窮地に陥れた司法省監察次官補(にして、最低のゲス野郎)クレンドラーの脳味噌。彼は生きたまま頭蓋をはずされ、前頭葉をスプーンで一切れすくいとられる。
 と、だしぬけにビング・クロスビーのヒット曲(「星にスイング」)を歌いだすクレンドラー。
 これは予想外の展開。私は声を出して笑った。『2001年宇宙の旅』(1968年)のパロディときたか。先の古山評では、イギリスのコメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(BBC、1969~1974年)だとしており、その「ガンビー脳手術」というコントはネット上の動画で見ることができるが、どこも似ていない。似ているのは、『2001年』のクライマックスの一つである。
 宇宙船ディスカバリー号の船内で、搭乗員ボーマンが狂ったコンピューターHAL9000の中枢部のパネルを抜き取っていくと、HALの知能が退行していき、開発初期に教えられた歌を再生する。
 昔、『ハンニバル』の映画版の方を観たはずなのに、笑った記憶がないので、リドリー・スコット監督『ハンニバル』(2001年)のDVDをレンタル。クレンドラーの脳味噌シーンはあるが、歌いだしたりせず、自分の脳を食べさせられるのが最高の罰という感じで処理されている。公開年はそのものずばりだし、パロディだと気づかない人でも、コメディシーンになってしまうからだろう。
 続いて、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』のDVDをレンタル。通して観るのは、中学生の頃、テレビの「日曜洋画劇場」での放送、高校生の頃、京都新京極の映画館であったリバイバル上映、それから約30年ぶりの3回目だ。
 “デイジー、デイジー、答えておくれ。気が狂いそうなほど、きみが好き。派手な暮らしはできないし、車も買えない……”
 やがて壊れたテープレコーダーのようなスロー再生になり、ついにHALはこと切れる。
 歌は、ポップスのスタンダードナンバー「デイジー・ベル」。Wikipediaには、この選曲の理由も書かれている。「星にスイング」も日本語訳詞を探すと、選曲理由はなんとなくわかる。
 トマス・ハリスが参照したのは映画か原作かわからないので、アーサー・C・クラーク著『2001年宇宙の旅』(ハヤカワ文庫)も古本を購入。著者には失礼だが、最初から読まずに後半の該当箇所を探す。
 ボーマンは思う。
 「これは、かなりきわどい手術になりそうだ」
 「おれがしろうと脳外科医をやることになるとは思わなかった――それも、木星の軌道の外で脳手術なんて」
 “デイジー、デイジー、答えておくれ”という歌も出てくる。コンピューター相手でもいくぶんブラックな知能退行はキューブリックのオリジナルかと推測していたが、違った。HALを人に見立てた「脳手術」という言葉を重視するなら、小説『ハンニバル』のクライマックスは、小説版『2001年宇宙の旅』のパロディというべきなのだろう。
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 長い道のりであった。今回のテレビドラマ『ハンニバル』も、殺害シーンや死体にパロディ要素が盛り込まれていると、実際と慣用表現の両方で「ヒトを喰った」テレビドラマになったのに残念、というのが結論。
 なお、『いけるね!シカ肉 おいしいレシピ60』には、ちゃんと「脳のムニエル(焼きセルヴェルのソースがけ)」という一品もカラー写真入りで紹介されている。セリヴェルとはフランス語で食用の動物の脳のこと。「セルヴェルは止め刺し後30分以内のものを使う」とある。脳味噌は新鮮さが命。レクター博士は正しい。
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 以下、余談。知らずに観始めたのだが、テレビドラマ『ハンニバル』では、巨大な角をはやした雄鹿が、グレアムの幻覚の中に何度も登場する。ラスト2話では、角人間(ネット内での通称は「リアルせんとくん」もしくは「黒せんとくん」)まで。いったい何の象徴なのやら、1stシーズン13話ではまったくわからなかったので、ふれなかった。書くなら、奈良県民の仕事だろうし。

2015年 5月 24日

アルペジオ、アンサンブルー、アベノミクス

 前にとりあげた潜水艦アニメの映画版『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- DC』が1月に公開スタート。岸誠二監督は高島市出身。乗りかかった船というやつで、3月にイオンシネマ近江八幡にて鑑賞。
 私の願いかなわず、主人公の父、登場。どこかで見たような、ロリコン親父 VS 主人公で行くらしい。あんな世慣れた主人公に、いまさら父殺しは必要ないと思うんだが。
 中盤まではテレビ版のダイジェスト。新作パートで登場の敵キャラ「霧の生徒会」生徒会長の名前は、ヒエイ(原作漫画どおりで、滋賀がらみの名称は偶然)。彼女と主人公が顔合わせしたところでお終い。
 10月3日公開の続編「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(カデンツァ)」で、彼女は誰に恋するのだろうか?
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 前にとりあげた彦根出身のシンガーソングライター、徳永憲の新作アルバム『アンサンブルー』が3月に発売。タイトルは徳永による造語で、「ブルー(悲しみ)の集合体」の意とのこと。
 そこはそれ、徳永憲なので、1曲目の歌い出しが「解体ショーのマグロと目が合う」。あろうことか、続いてマグロが話しかけてくるのだが、それへの返答が非情。
 前作『ねじまき』の、東日本大震災を引きずったシリアス路線にいまいちのれなかった私としては、シニカルさとユーモアが復活した今作の方が好き。ただし、4曲目(アルバムタイトル曲)は、歌詞が何を言わんとしているのかよくわからず。
 8曲目「なぜか席が近くなる女の子」は、歌詞が思わぬ展開をみせる失恋ソング。最後に告げられる真実に、悲しむより先に呆然とさせられる。
 10曲目「絵本のなかに」は、ブログの自作解説によると、子供の感覚で絵本に入り込めなくなった大人の悲しみを綴っているらしく、ある種の絵本にまじる説教臭さを皮肉っているのだと思った私は意図を読み違えていたことになる。それでも、童話中の呪いの言葉たちが飛び交う森に丸腰で放り込まれた怖さが味わえる歌詞と、セイント・ヴィンセントばりのギターにホーンがからむ後半の展開は、アルバム中の個人的ハイライト。PVが公開中。撮影地は、どこの湖畔だ?
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 「ア」並びで入れてしまったアベノミクスは、第2次安部内閣の経済政策の通称。2年半前に「1930年代を忘れるな」の題で書いたとおり、アベノミクス(というか、第1と第2の矢だけでケインズ主義的政策という言葉を用いるべき経済政策)を私は支持してる。
 今年2月の休日、書店で『中央公論』2015年3月号を立ち読み。「発表!新書大賞2015」のページを見るためだが、ベスト10のどれにも興味がもてず脱力……いや、別に期待していたわけではないので、さすが「新書大賞」というべきか。
 新書総まくり座談会の宮崎哲弥(ちゃんとリフレ派に転向している)の発言だけ拾い読み。ベスト5の1冊目にあげているのが、松尾匡著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)。「『期待』に働きかけるリフレ政策の重要性を熱く説き、左派、リベラル派の経済政策のワールドスタンダードを教えてくれる」とのこと。新書のコーナーで『ケインズの逆襲……』を探して、『中央公論』とともにレジへ。
 著者は、立命館大学経済学部教授。経済学部は、滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンパス」にある。
 本書中で重要性が説かれる「予想」の語は、宮崎哲弥が使った「期待」の語に差し替えた方がよいと思う。全体では「そうそう」が2分の1、「わからない」が4分の1、「それはどうなの」が4分の1ぐらい……っていうのは、前の「1930年代を忘れるな」でとりあげた柴山桂太著『静かなる大恐慌』と同じ。ちなみに、こちらの著者は、この4月に滋賀大学経済学部から京都大学に移籍してしまった。ちょっと残念。
 同じ松尾本として、2010年に出ていた『不況は人災です!――みんなで元気になる経済学・入門』(筑摩書房)も読む。デフレ不況の原因として、時系列で小泉政権と日銀の失策が説明されている。滋賀県民は、同じ立命館大学経済学部の松川周二教授が翻訳した『デフレ不況をいかに克服するか ケインズ1930年代評論集』(文藝春秋)とあわせて読んで、坊主憎けりゃ袈裟まで式のトンチンカンなアベノミクス批判はやめよう(という言い方だと、私は経済政策以外の安倍政権の政策には批判的かのようだが、そういうわけでもない。2年前の特別秘密保護法の時は、治安維持法を引き合いに出す反対派を無知だと思った。現在国会審議中の安全保障関連法案についても憲法を持ち出してくる……以下同)。
 さて、ケインズ曰く、「完成に時間を要することは最善の計画の特徴のひとつである」。なんてすばらしい言葉だろう。載っていた本が見つけられないが、ケインズの経済政策をひと言でいえば、「不況時の節約は悪徳である」ということ。政府においても、企業においても、個人においても。真理だと思う。そろそろ常識になってほしい。ケインズ好きは、楽観的であることを信条としなければいけないのだが、いい加減疲れてきた。
 1930年に発表された「わたしたちは経済について、悲観論の重い発作に見舞われている」という文章で始まる論考(「孫の世代の経済的可能性」、山岡洋一訳『ケインズ説得論集』日本経済新聞出版社)で、ケインズはイギリスに現れた悲観論者の2タイプをあげている。
 A 事態は極端に悪くなっているので暴力的な変化以外に救われる道はないと説く革命派の悲観論。
 B 経済と社会の均衡がきわめて危うくなっているので、なんらかの方法を試すリスクをとることなどできないと考える反動派の悲観論。
 こないだ大阪で大騒ぎされたのはAのタイプだろうし、「新書大賞2015」2位の『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)の著者などはBのタイプだろう。
 松尾本にもどると、『ケインズの逆襲……』という書名は担当編集者が決めたもので、エリート主義的なところがあるケインズを、著者自身はそれほど好きではないらしい。ちょっと残念。
 出自も知力も抜きん出ていたケインズの場合、財務省役人や中央銀行職員といった世間的にはエリートの層すら「その程度のもの」とみかぎってて、上から目線の鼻持ちならなさを通り越し、私なんかには小気味いいのだけど。

2015年 2月 22日

われはやくより病あり――小津久足『煙霞日記』

 昨年の12月末、書店で「月岡雪鼎」の文字が目に入ったので、『芸術新潮』2015年1月号を購入。特集タイトルが「月岡雪鼎の絢爛エロス」、大阪歴史博物館で特別展示があるわけか(ただし、展示に肝心の春画はなし)。
 すると……と思って、当ブログのアクセス数を見てみたら、2011年6月19日アップの「こころうきふねよがりあふかな――月岡雪鼎の春本と春画」が月間最上位になっている。といっても、書くのもはばかられるわずかな数字。常日頃「ほんとにこれだけ?」と思っていたが反省。このアクセス解析は正しい。
 1月集計も同様で、最新の「大津市民は嫉妬すべき」を1アクセス上回った。
 せっかくなので、自分でも3年半ほど前に書いたものを読み直してみた。気になり出したのは、あわせて紹介した板坂耀子著『江戸の紀行文』(中公新書)が「江戸時代最大の紀行作家」としていた小津久足(おづ・ひさたり)のこと。
 近江などをめぐった紀行文がいまだ翻刻(活字化)されてないとのことだったが、その後どうなったのか?
 2013年3月に出た日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史 第3巻 近世編』では、3章4節「街道と宿駅」で、執筆担当の青柳周一教授(滋賀大学)が久足の『石走日記』、『煙霞日記』、『志比(しい)日記』、『青葉日記』から日野町域を通過した際の記述を引いており、地域史研究にも「使える記録」であることがわかる。ただし、必要部分のみ各所蔵先にある原本から翻刻されたもの。
 抜粋でなく、全文を通して読んでみたい。「小津久足」で検索してみると、久足の『煙霞(えんか)日記』(天保8年・1837)を収録した津本信博著『江戸後期紀行文学全集 第2巻』(新典社)が2013年10月に刊行されていた。
 さっそく、滋賀県立図書館の蔵書を、彦根市立図書館でリクエストして入手。
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 「われはやくより病あり……療しかねむやまひなり(治療することのできない病気である)」と書き出されるので、深刻な展開を予想していると、すぐさまニヤリとさせられる。
 書名にある「煙霞」とは(以下、google検索知識)、唐代の正史『新唐書』に書かれた故事に由来する「自然の風景を愛する心が非常に強いこと」、「旅行好きのたとえ」。「煙霞の癖(へき)」という言葉、「煙霞痼疾(こしつ)」という四字熟語もあるのだそう。
 つまり書名は、今なら、「病みつき旅行日記」あるいは「旅狂日記」とでもつけた感じ。久足は当時33~34歳、江戸にも店を構える干鰯(ほしか=肥料の一種)問屋の主人で、お供の男が一人つき、たまには駕籠も利用する、そこそこリッチな旅。
 目的地は、琵琶湖の竹生島(長浜市)と紅葉の名所である永源寺(東近江市)で、10月1日に伊勢松坂を出発、津、鈴鹿、大垣、不破の関、関ヶ原、筑摩(以上上巻)、11日飯村、竹生島、長浜、永源寺、筆捨山、津、16日帰着(以上下巻)。
 研究者用の専門書なので、現代語訳や注釈はいっさいない。正直読めるのか不安だったのだが、思いのほか意味がとれる。私自身が知っている地名で土地勘があるせい、その地にまつわる情報が現在と共通している、それから板坂著『江戸の紀行文』でも指摘されていたが「感覚が現代人に近い」せいか。江戸後期の人間にとって南北朝や室町時代の歴史は、現代人にとってと同じように「大昔の出来事」なのである。
 先の路程のとおり、上巻のお終い近くで近江国に入る。下巻の書き出しの段落が、またうまい。以下、読点なしにつながっている文章をさらにわかりやすくなるように改行した。
 「あまの川」(天野川・米原市)を渡っていくつか村を過ぎ、
 「けさはいとさむくて駕籠にのりたるが」
 「ぬむりきざしておもはずまどろみたるほど」
 「ふとめざめて波のおとにおどろけば」
 「湖はただ目のまへなるに」
 「あけがたちかくしらみわたりてことにいひしらぬながめ也」
 わかる、わかる。ただし、教養人である久足が「そのおもむきおなじことなり」として続けて書き記している「宋郭青山」(中国宋代の詩人か?)の七言絶句は、半分も意味がわからない。
 場所は長浜の近く、早崎から竹生島に渡る舟に乗るため、久足は北国街道を進み、やがて竹生島に渡る船を出す早崎に到着する。
 「このむらの杉田源内といふものの家より船をいだす」
 「船いだす家は三軒にて当番といふがありてこの家このほど当番也」
 「(往復料金は)銭五百文嶋まはりのあたひ銭百文也」
 記述は極めて具体的。その一方で、稲刈りの終わった田に稲穂を干す稲架(はさ)がつくられているのを見れば、「めづらしくみやびたり」と旅情を感じ、漕ぎ出た船上からの眺めを「さざ波は稲葉の波にうばはれてみぎはひまなくかけわたしけり」と詠む。
 湖上からの景色、上陸した竹生島にある建築物などに関する詳細な記述がつづき、本書最初のクライマックス。以下も読点なしの文章をわかりやすく改行した。
 「われもとより汐海のさまはこのまず」
 「常に湖を好むの癖あれば」
 「この湖の景はことさらこのみて」
 「勢田大津あたりより見ることをだによろこびしに」
 「ましてこのところに来たりてみること」
 「幸の幸といふべし」
 もう一方のクライマックス、永源寺境内で、久足は特に色づきのよい紅葉1枚を拾って懐紙に包み持ち帰る。そこで、詠まれた一首も引用したいのだが、今後の読者に悪いのでやめておく。
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 滋賀県立図書館HPの横断検索をかけたところ、『江戸後期紀行文学全集 第2巻』があるのは、県内公立図書館では県立図書館の1冊のみ(大学では、立命館大学と龍谷大学の図書館にあり)。
 滋賀県立図書館の本は、同館カウンターでの貸し出しの際、後ろ見返しに貼られた紙に日付スタンプが押される。その紙は白いままだ。私のように他館経由で借りた人がいるかもしれないが、これはもったいない。
 収録19篇のうち、貞幸・益親・千枝子著『さきくさ日記』、松岡行義著『かりの冥土』、橋本実麗著『近江田上紀行 全』の3篇も近江の地について記されているので、郷土図書コーナーにあってもおかしくない本。ただし、価格は1万3000円+税。

2014年 12月 6日

大津市民は嫉妬すべき――大林宣彦監督『この空の花―長岡花火物語』

 さて、また間があいた。6月に尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)が、そして、11月に石井桃子の創作集『においのカゴ』(河出書房新社)が出たので、その間をつなげて5月25日付け当ブログ「小波の世界」のページに追記。ただし、滋賀とは無関係。
 今回もまた始まりは石井桃子。河出書房新社から4冊出た随筆集のうちの『みがけば光る』に収められた「友だち」という文章に、石井がニューヨーク滞在中に出会った「Mさん」という出版社の社長のことが書かれている。感謝祭の日(11月の第4木曜日)に、ニュージャージー州にあるMさんの自宅に石井は招かれた。夜、帰る段になり、バスの停留所まで送ってくれたMさんに、日本から遠く離れた地に立っていながら不安な気持ちやさびしさを感じていないと石井が伝えると、Mさんは「だれでも、いま、その人が立っているところが、世界の中心なんですよ」と答える。
 この言葉から、ウイリアム・メレル・ヴォーリズがサインにつけた丸書いてチョンの記号が頭に浮かんだ。今年の没後50年を記念して近江兄弟社の監修で弊社から出た『漫画W.メレル・ヴォーリズ伝』の「刊行にあたって」でも書かれているとおり、このマークは、「(自身の活動拠点である)近江八幡は世界の中心」だという意味。両者のもとになっているキリスト教の言い回しのようなものがあるのか……、調べていないのでわからない。
 ヴォーリズが生まれたのはカンザス州、卒業した大学はコロラド州、1905年に北米YMCAの仲介で滋賀県立商業学校の英語教師として来日。その後、彼はYMCA活動の仲間たちと建築設計事務所を設立した。全国各地に今も残るその作品によって、彼の名は知られている。近江八幡市では10月4日から11月3日まで「ヴォーリズ・メモリアル in 近江八幡」と題して講演会や建築物の特別観覧などの催しが行われたが、結局一度も行けなかった。正確には、天気がすぐれないせいで行かない日が続いて(特別公開の建築物も、雨ではねぇ)、終わってしまった。
 今日現在もネット上で見ることができる公式HPのタイトルロゴでも、「50」の「0」が、筆でシュッと丸を書いて中心に点を打ったサインになっている。
 この記号を見ていたら、最近レンタルDVDで観た映画を思い出した。
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 漫画や映画だったらつながるが、文章で許されるのだろうか。
  丸書いてチョンのサイン
  回転する一輪車の車輪のアップ 河原の土手で停止
  彼方の夜空に打ち上がり点から円へと広がる花火
 一輪車と花火で、すでに観た方はわかっただろう。大林宣彦監督の映画『この空の花―長岡花火物語』(2012年)を、遅ればせながら観た。
 新潟県長岡市の市役所内に製作委員会事務局を置き、製作費用を調達、市内各地で撮影がなされた、いわゆる「ご当地映画」である。日本映画の末期症状かのように、いくぶんかの揶揄を込めて用いられることも多い言葉だが、日本特有のものともいえない。同じ年に製作された『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』(日本では2013年に公開)は、旧市街地がユネスコの世界遺産になっているポルトガル北西部にある古都ギマランイスがEUの欧州文化首都に指定された年に記念プロジェクトとして製作された、まさにご当地映画だ。アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・ド・オリヴェイラと、現代ヨーロッパを代表する4人の監督の作品が並ぶオムニバス映画なので、日本でも話題になった。
 パンフレットによると、「この街はどんな物語を語るべきなのだろう?」という問いかけが発端だったというが、これも『この空の花』と共通している。
 20世紀に繁栄を極めた紡績工場の元労働者へのインタビューと当時のモノクロ写真だけで編集されたエリセの「割れたガラス」と、独裁政権打倒のための革命に加わった兵士(を顕彰するために造られたブロンズ像……だが、口をきく)がポルトガルの植民地からの移民労働者を相手にエレベーターの中で会話するペドロ・コスタの「スウィート・エクソシスト」が、ストイックな表現の両極として印象に残る。
 この両者(ドキュメンタリー的手法と現代演劇的手法)をかなり乱暴に混ぜたところへ、NHKスペシャル的要素(解説用CGとテロップ)も加えた『この空の花』は、慣れるまで観るのがしんどい。とくに前半は、物語の進行役とはいえ主役の女性記者2人のセンチメンタル・ジャーニーにつきあわされる。予告編やDVDのパッケージに登場する一輪車に乗るセーラー服少女が見たかっただけの私は、前半1時間ほどでいったん停止ボタンを押し、翌日になってもやはり一輪車少女は見たかったので、続きから最後までを見通した。
 困ったことに、この作品のDVDは、最初の新作予告編(大林監督の『野のなななのか』)を早送りすることができず、本編にはチャプターメニューがない。アマゾンのDVDレビューでこの点に不満を表明している購入者は2回、3回と見る時に困るということらしいが、2時間40分を通して見るのがきつい私のような人のためにも、新作予告編飛ばしとチャプターメニューは必要だったと思う。
 けなしているようだが、一日おいてでも、最後まで見てよかった。やがて「長岡という街の物語」が明らかになったところで、私はその力技に感心したから。
 花火と爆弾を表裏のシンボルに掲げて、時代は戊辰戦争から太平洋戦争を経て東日本大震災まで、地理上は開戦の地パールハーバー、爆心地長崎、抑留地シベリアまでという広がりの中で、日本の近現代史が日本海側の小都市・長岡を中心とした物語としてまとめられてしまっている。私の頭には「まるで伝奇SF」という言葉さえ浮かんだ(ただし、打ち上げ花火師一族が歴史の影で暗躍……なんていう話ではない)。特典映像として収録されている森民夫長岡市長と大林監督の対談で、市長が「長岡の花火は世界一です」と豪語しても許される大風呂敷になっている。
 その部分の功績は、原作・脚本に名前があがっている長谷川孝治(青森県で弘前劇場を主宰)にあるのか、たぶんあるのだろうが、演劇にうとい私はネット上の情報以外のことが書けない。
 さて、長岡市を見舞った悲劇のひとつに、1945年7月20日の模擬原爆の投下がある。原爆投下候補地だった新潟市への投下のための訓練で落とされたものだ。同じく候補地だった京都市への投下訓練で、大津市にも「パンプキン」と通称される同タイプの模擬原爆が7月24日に落とされた。投下目標となったのは東洋レーヨン石山工場で、16名が死亡、104名が重軽傷を負った。
 大津市にも長岡市に負けない大風呂敷を広げるだけの歴史がおそらくある、あるだろうか、きっとある……というわけで、今回のブログタイトルが結語。
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 以上、滋賀につなげて終了。以下、気づいたことの覚え書き。
 脚本は長谷川・大林の連名になっていて、先の特典映像の対談で大林監督は、取材時に畑から焼夷弾の残骸を発見した人に出会ったのでそのまま登場させたと発言している。二人どちらの意向なのか、現実の証言なり、実在のモデルをもとに映像化(再現)した際に生じるおさまりの悪さが奇妙な味としてつけ加えられていて、カット数の異常に多い展開の中でも記憶に残る。空襲で家族を失った人の体験談が再現されているシーンで正面から映る遺灰を入れた平たいそうめんの木箱が悲しみを誘い、花火師が三尺玉づくりを回想するシーンでは、「あーでもねぇ、こーでもねぇ言いながら……」というナレーションがかぶる再現劇中の人物まで「あーでもねぇ、こーでもねぇ」という語りならではの慣用句を口にしながら手を動かすので笑わされる。
よくわからないのもある。現実に存在する山本五十六記念館の中で展示品などを解説する人物(演じているのはプロの俳優)が主人公たちに差し出した名刺が大写しになる。
  「山本五十六記念館/戦史研究室 室長/羽生善治郎」
 登場人物はモデルがいる場合も仮名なのだが、この嘘っぽさ丸出しの役名を見た瞬間にどう反応すればよいのか。
 そんなことを考えていたら、別の映画を思い出した。
 また、丸いものが画面中央に現れる。
  シュルシュルシュルシュル……回転する金属製の円盤が徐々に速度を落として停止。
  中央の青い円に白い☆印、外周が赤、白、赤と3重の円で、メタリックな輝きを放つその物体は、アメコミのヒーロー、キャプテン・アメリカが持っている盾だ。これもDVDレンタルで観たのだが、ルッソ兄弟監督『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014年)は、「ブロマンス版雪の女王」(アナじゃない本来の。頭は「ラ」が抜けてるわけではない)と言いたい主人公&敵キャラの関係とよく練られたアクションシーンをとても楽しめた。
 この物語内のスミソニアン博物館(のうちの国立航空宇宙博物館)では、「キャプテン・アメリカ 生ける伝説&勇気のシンボル」展という企画展が開催されている。病弱で徴兵検査に落ちたスティーブ・ロジャースが政府の極秘計画の候補者に選ばれ、超人兵士としてナチスの極秘科学部門「ヒドラ」と戦った記録の展示を、キャプテン・アメリカであるところのロジャース本人が一般人の姿で見学するのは、彼が1945年ヒドラの爆弾とともに北極海に沈んで氷漬けとなり、70年の時を経て生き返った浦島太郎状態にあるから。続くシーンで、かつて想いを寄せた女性ペギーのもとを訪ねるも、彼女は老いた姿でベッドに寝たきりだ。
 博物館の展示はとても本物っぽい。国立航空宇宙博物館といえば、広島に原子爆弾を投下したB29「エノラ・ゲイ」をはじめ、各種兵器を展示した戦争博物館でもある。ペギーの老いた顔にいたっては、1940年代のキャプテン・アメリカ誕生を描いた前作に出演していたペギー役の女優が老けメイクなしで演じた顔の映像に75ヶ所ものトラッキングマーカーをつけ、似た風貌の60代女性の顔を撮影した映像をマッピング、そこへさらに高齢に見える処理を施したという。
 かたや、『この空の花』はといえば。山本五十六記念館には、どこまでが事実かわからない胡散臭さがつきまとう。長岡空襲で娘を亡くした女性を、当時のシーンでは寺島咲、現代のシーンでは富司純子が演じる。モデルとなった女性も一瞬映る。90歳ぐらいだから体が縮んだ老女だ。富司は撮影時60代後半とはいえ老けメイクなしだから、観る者は両者を結びつけるのに難儀する。花火師を演じた柄本明の場合もしかり。
 さて、映画では後者のようなスタイルもありなので、日米比較文化論を一席ぶとうというのではない。気づかされるのは、二つの作品がよく似ているということだ。『キャプテン…』のエンドロールでは、国際平和維持組織S.H.I.E.L.D(シールド)と悪の組織ヒドラの円形のマークがコインの裏表のごときものとして影絵で示される。まるで、花火と爆弾の対比のように。そして何より、両作の見せ場は、世界大戦から70年の時を経てよみがえった死者が、丸い回転体とともに画面を縦横に動き回るところにある。

2014年 8月 13日

夏の夜の 夢で逢えたら 硫黄島

 7月の金曜の夜は、小学3年の娘が風呂上りで湿ったままの髪をドライヤーで乾かすよう命じる妻の声を無視したまま、テレビの10チャンネル(ここは関西なので)で放送しているジブリ映画の画面を見つめている。2時間経って放映が終わった頃、娘の髪の毛は自然乾燥されている。
 それにつきあっていると、本編の合間に流れるジブリ最新作『思い出のマーニー』(米林宏昌監督)の予告映像を目にすることになる。
 少女が窓辺の少女に向かって叫ぶ。「あなたが好きよ!」
 前回からの流れで、私は考える。これは、ジブリ版『幻の朱い実』?
 岩波少年文庫の中でも名作とされているという原作を読む。……別種の「愛」でした。
 読み終わった頃に映画館での上映がスタートした。予告映像からわが身の欲するところのものではないとわかっているらしい娘は、妻同伴で『ポケモン・ザ・ムービーXY 破壊の繭とディアンシー』を見に行き、私は一人で『思い出のマーニー』を観る。
 前回(『風立ちぬ』に関して)、主人公がしげしげと見つめるヒロインの表情と動きを描いたらよかったのにと書いたら、まさにそういうシーンがあったのだが、いかんせんヒロインの容姿と服装に「古臭い」という感想しか抱けない。金髪はストレートでボリューム少なめでしょう。
 そして、現実パートと夢パートを明確に分けすぎ。原作でもその旨は律儀に書かれているので、改変ではないが、「彼女は現実なの……?」ぐらいでもっと引っ張ってほしいところ。
 ただし、随所に回想シーンを挿入したつくりよりも、主人公が過去を現在進行形で体験する本作のかたちの方が、魅力的であるのは確かだ。昨年1月に名古屋シネマテークで観た実写映画、『Playback』(三宅唱監督、2012年)を思い出した。
 俳優である主人公(村上淳)は自らの現在に行き詰まりを感じている。
  そもそも……俺が俳優になったきっかけって……。
 「普通」の映画であれば、過去の回想シーンになるところだ。それを『Playback』では、車中で居眠りしている間に過去にタイムスリップさせてしまう。主人公は、現在進行形で過去を再び体験する。30代半ばの容姿のまま、高校生を生きる。あわてることはない。主人公だけでなく、関わる男友達、その妹らはみな「現在」に登場した30代半ばの男女が学生服とセーラー服に身を包んだ姿だ。コメディーではない。主演の村上をはじめ主要キャストの大半はモデル出身の俳優が占めるスタイリッシュな作品だ。
 撮影地は、路面に東日本大地震の爪あとも残る茨城県水戸市。低予算映画だから、過去へさかのぼったからといって、1990年代の町並みのセットがあるわけでも、CGによる背景処理がほどこされるわけでもない。そのために選択されたものではないようだが、モノクロ作品であることは、時代的な違和感を緩和するのに一役買っている。
 唯一映画のセットが登場する場面がある。主人公が映画好きの同級生につきあって、時代劇用のセットが組まれた撮影現場を訪れ、以後現在まで世話になる映画プロデューサーと出会う。ストーリー上も、現在の疑念に解答を与えるはずの重要なシーンにあたる。
 その白壁に瓦屋根の葺かれたセットも、『Playback』のためにしつらえられたものではない。映画『桜田門外ノ変』(佐藤純彌監督、2010年)で、水戸浪士による大老・井伊直弼襲撃シーンを撮影するために江戸城桜田門前を再現して作られたオープンセットである。映画完成後も取り壊さずに、記念展示館とともに2013年3月まで有料公開されていた。
 なぜ、セットの話になっているかというと、弊社刊行の大石学・時代考証学会編『時代劇文化の発信地・京都』(2014年)に、『桜田門外ノ変』で美術を担当した東映京都撮影所スタッフが、同セット製作の過程を例に時代劇映画における美術部門の役割を解説した講演が収録されているから。同書の購入に結びつく話とは思えないが書いておこう。
 もう一つ、弊社刊行の書籍からつなげたい映像作品がある。こちらも本の売上に貢献しそうにはない話に飛ぶが、書いてしまう。
 太平洋戦争末期の滋賀県のありさまを掘り起こした水谷孝信著『本土決戦と滋賀 ―空襲・予科練・比叡山「桜花」基地―』(8月20日ごろ発売)の後半では、比叡山(大津市)の坂本ケーブル山頂駅のそば(標高800m余り)に建造された特攻機「桜花(おうか)」のカタパルトについて詳細に説明されている。グライダーか緊急時の脱出用機にしか見えない外観の「桜花」は、前部に爆弾を搭載し、搭乗員とともに敵艦に突っ込むという兵器だ。1945年3月には沖縄を攻撃中の米軍に対して、腹部に吊り下げた戦闘機から放たれるかたちで使用され、米軍から「BAKA BOMB(バカ爆弾)」と呼ばれたという。
 結局、比叡山のカタパルトには実機と練習機が到着しないまま敗戦を迎え、琵琶湖上空を飛行することはなかった。
 さて、同書では、このカタパルトの構造を、「レールは巡洋艦からの流用だが、形式としては潜水艦用のカタパルトが基になったと考えられる」(具体的には当時の最新鋭潜水艦・伊400などが装備した特S射出機)とし、潜水艦「伊400」の甲板上のカタパルトの写真を掲載している。潜水艦に戦闘機を射出するカタパルト? と思ったのは私も同じ。ネット検索してもらえばわかるとおり、艦橋下に設けられた格納筒に戦闘機3機を収納できる、いわゆる「潜水空母」なのだった。
 海なしの滋賀県に関する本をつくっていて、この時期に潜水艦「伊(イ)400」に関する記述に出会ったとなると、書かずにはいられない。
 そう、私はテレビアニメ『蒼き鋼のアルペジオ ―アルス・ノヴァ―』(2013年放映)にはまっている。
 突如、外観は第2次世界大戦時の艦艇のかたちをしているが、はるかに進んだ科学技術を備えた正体不明の艦隊群、通称「霧の艦隊」が出現し、人類は海洋から駆逐された近未来が舞台。主人公と唯一人類のもとに拿捕(だほ)された潜水艦「イ401」、そのメンタルモデル(ヒト型の意識体)による反撃はなるか!?
 つまり、巨大メカ(戦艦&潜水艦)と美少女(メンタルモデル)がグループ単位で襲来したわけだ。もう、私自身、数行前の特攻機「桜花」のカタパルトの件を忘れそうになるが、本作には主役のイ401と敵対関係にある姉妹艦としてイ400とイ402が登場する。イ400のメンタルモデルはチャイナ服で頭にお団子形の髪飾りが二つあるのが特徴である。
 本作が「全編ほぼ3DCGで制作されていながら、手書きアニメに近い仕上がりになっている」という点に興味を持って、本放送より半年遅れでDVDをレンタルした私は、ものすごく久しぶりにテレビアニメを全話見通した。
 まだシーズン前半なのに、敵方メンタルモデルの仕草・表情と戦闘シーンが劇場版アニメ並みに作り込まれた4話に感心した。6話と10話と12話(最終回)で目が潤んだ。キリクマが好き。きわめて標準的な反応だ。すでに本作に大量に与えられている視聴者の評、スタッフからのコメントにつけたすものはない。
 『思い出のマーニー』と『Playback』について書いたことにつなげるなら、回想シーンが生じそうな要素(過去の因縁話)をバッサリ削除して、現在進行形のメンタルモデルたちの成長物語に特化したことが成功の理由だろうということになるが、それもすでに監督らがインタビューでさんざ語っている。
 原作漫画(サブタイトルなしのタイトル)の重要キャラである主人公の父親や、ダブル、トリプルを上回る数になりそうなヒロインたちは登場しない。
 監督である岸誠二のプロフィールを調べてみると、「滋賀県出まれ」で、「多くの人気作を送り出してきた」方とのこと。あわてて過去作『瀬戸の花嫁』と『ペルソナ4』のDVD1巻を観たものの続きには興味がわかなかった私ですが、来年公開予定の「蒼き鋼」劇場版には大変期待しております。主人公は天涯孤独のままでいっちゃってください。何卒お願い申し上げます。

2014年 5月 25日

小波の世界――石井桃子と中野重治

 前回、曖昧な予告をした石井桃子の本について。
 最初に断っておくと、私は子供時代をテレビと漫画ばかりで過ごしたので、絵本や児童文学について語るものを持っていない。そもそも、私が小学生の頃に『くまのプーさん』を読んだとしても、あのプーたちの会話のおかしさをおもしろがることができたかは怪しい。石井桃子を読んだのは成人して以降だ。私が石井の生地である浦和に住んでいた頃。彼女の文章で繰り返し中山道の旧宿場の「北のはずれ」と書かれる生家があったあたりは、私がいた頃には市の中心部といってよく、私が暮らしたアパートはさらに北、もとは別の村の、たぶん麦畑だっただろうところ。
 石井が幼時を回想した『幼ものがたり』(福音館書店 1981年)が手元にある。1990年の9刷。ぺらぺら拾い読み。母に抱かれている自分の顔だけがぶれている家族写真を撮った時、函型のカメラの横に立つ「知らない男の人」が幼い彼女に「ほら、ここから、とと〔幼児語で鳥の意〕が出てきますよ」というようなことを盛んに語りかける。前々回の当ブログで書いたフランス語cui-cuiの使用法に近いではないか。彼女だけ動いて顔がぶれたことは覚えていたが、こんな部分は忘れていた。
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 さて、去年の夏に公開された宮崎駿監督『風立ちぬ』を観たら、石井桃子の小説『幻の朱い実』(岩波書店 1994年)が思い出されたので、再読した。
 両者とも時代設定は昭和初期、若い女性が結核で死ぬ物語。
 後者が前者の女性の側からのアンサーソングともとれる。
 「アンサーソング」なる言葉は、小説や映画の場合にも使ってよいものか自信がないが。
 かたや夫の負担にならぬよう告げもせずサナトリウムにもどることを選択する女性。
 かたや女友達の来訪を受けながら、恨み言もふくめた長い長い手紙のやりとりを続ける女性。
 『幻の朱い実』は20年近く前の作品だから、前後が逆だ。なら、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の方はというと、主人公の一人称の語りはあまりに「彼女」の存在がおぼろで(この場合は否定的な意味でなく)、それはそれで結びつかない。
 ちょっと脱線して、二つの『風立ちぬ』について。宮崎駿版は、堀の小説を「原作」とうたっていないが、小説の読者で好きな人は多いであろう「ただ彼女をよく見たいばかりに、わざと私の二、三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した」という一節は、シーンとして取り入れればよかったのに。
 2、3歩ひいた位置から女性をしげしげ見たいという欲求を実行すると、多くの場合、彼女に気持ち悪がられるから、やむを得ず間にキャメラを置いたのが映画である……と定義してもまったく嘘ではない。似たことを当サイトの「義仲寺には参ったのか?」の回でホセ・ルイス・ゲリン監督の言葉として引用したと思う。
 避暑地で再会した二人が歩く。菜穂子の顔かたちや手足の動きに見とれた(小説版の主人公ほど擦れていないから、自分の反応に自分で驚きつつ)二郎が少し距離を置いて、彼女を観察する(彼女にはいぶかしがられつつ)というふうであれば、キャラクターの性格上も可能だったのではないか。木漏れ日の下、二郎目線で菜穂子の表情と動きを追うカットを若手のアニメーターに好きに描かせたら記憶に残るシーンになったと思う。
 『幻の朱い実』でも、蕗子が明子の後ろ頭に見とれていた。冒頭の二人の出会い(正確には再会)の場面。蕗子は明子の髪に指を入れながら、「いつかこの髪にさわってみたいなあと思っていたんだ」と笑い、女子学生時代、校庭での朝の合同体操の時に、明子のとけた髪がゆっさゆっさゆれるようすが好ましく、見学組の席から「いつほどけるか、いつほどけるか」と楽しみにしながら眺めていたことを明かす。
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 去年の6月頃から3カ月おき程度の間隔で、河出書房新社から石井桃子の随筆集が計4冊出た。『家と庭と犬とねこ』、『みがけば光る』、『プーと私』、『新しいおとな』。単行本初収録の文章も多いので、読まざるをえない。
 石井桃子について、一般的な関心をひくなら、太宰治が死んだあと、井伏鱒二に「太宰君、あなたのことがすきでしたね」と言われて、「私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた女性ということになるのだろう。先の随筆集の中では『みがけば光る』に「太宰さん」という一文が収録されている。
 しかし、私は太宰治に興味がない。石井桃子もそうであることは、先の一文を読めばわかる(好意をいだいていたとすれば、井伏と太宰の関係に対してである)。小説の『幻の朱い実』でもわかる。同棲していた新進作家を評して蕗子が「訛(なまり)のあるひとって、同郷の人にしか恋がささやけないと思わない?」と言い、明子が大笑いする場面がある。この新進作家は横光利一がモデルとされるが、この口さがない女友達同士の会話のエピソードに関しては太宰をネタにしたものだろう。
 生涯(101年!)独身だった石井は、ある日出会ったバスの車掌(女性)について、「私には、その人の身のこなしや、話しかたが、――そして、顔が――あまり魅惑的に見えたものだから、ほかの人が、私とおなじように、その人に見とれていないのがふしぎだった」「私が、男なら、その人をおよめさんにもらいたくなったところではないかと考えると、おかしくなる」(『家と庭と犬とねこ』収録「思い出の車掌さん」)とも書いているが、そうした性的嗜好が理由でもない。
 私の頭の中で、石井桃子とつながる作家は中野重治だ。これは特段変わった見方ではなく、石井自身が「ある機縁」(『中野重治全集』月報に寄稿。のち『石井桃子集』「7 エッセイ集」に収録)という文章で、「中野重治さんは、私が、これまでに、自分から押しかけていってお会いした、ただひとりの作家である」とし、自分が訳した『クマのプーさん』(当時の題名は『熊のプーさん』)など数冊を渡すまでの経緯を書いている。
 その訪問のすぐあと(1941年)、中野は「子供の本雑談」という文章で、『熊のプーさん』など数冊の児童文学の書名と作者名、挿絵画家名をあげて、自分の素人目にも西洋の挿絵の方が質が上のように思えるから、日本の童話作家と挿絵画家に支払われる稿料をあげるべきだと書いた。
 今度の石井の4冊の随筆集でも、中野重治(のクセのある文体)が感染っている文章にいくつか出会う。それなのに、「ある機縁」が収録されていない。現在、『石井桃子集』「7 エッセイ集」は、岩波書店のホームページを見ると、「品切」(全7巻のうちで一番売れたからだろうが)で「重版未定」扱いになっている。かなりの割合で河出書房新社版4冊に再収録されてしまっているから、岩波はもう重版しないだろう。
 岩波少年文庫『クマのプーさん』の今も書店で出回っているはずの版の巻末には、1985年に加えられた〔付記〕で、挿絵を描いたアーネスト・H・シェパードが1976年に亡くなったことが報じられると、「シェパードの挿絵を愛していらしった故中野重治氏」から石井に便りがあったことが書きそえてある。
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 私が中野重治を読んだきっかけは、榧野八束著『近代日本のデザイン文化史 1868-1926』(フィルムアート社)に引用されていた中野の小説の文章を気に入ったからだ。同書の奥付を見ると発行は1992年(ついでに、ネットで著者の「榧野八束」を検索すると2年前に亡くなられていた。1927年以降の続編を待っていた時期もあるのでショック)。
 引用されていたのは中野の自伝的小説とされる『梨の花』(1959年)で、主人公の良平が一升徳利を下げて酒屋から帰る道すがら、彼の暮らす村の中が描写される冒頭。良平は、村のはずれに立つ板塀に貼られた広告看板を見つめる。人の顔の絵が入ったものが三つある。「仁丹」と「大学目薬」と「ダンロップタイヤ」の広告だ。良平には三つの顔のうちでダンロップタイヤの「おんさん〔おっさん〕が一番偉いような気がする」。
 こう要約してしまうと伝わらないが、広告看板に描かれた顔を子供の目線で仔細に説明しているのがおかしかった。時代は明治40年代、タイヤは自動車用ではなく自転車用である。
 例えば、先の『幻の朱い実』のゆれる髪や女性車掌に目を奪われる石井の文章から、私は中野の「髪の毛と愛人」という短文を思い出す。「愛人」は中国語で、恋人の意。
 1957年、文学者の中国訪問団に加わった中野は、オサゲの本場(?)中国で、美しいオサゲを見た。ここでも、まず列挙がある。草野心平、桑原武夫、中島健蔵の著書名とそれぞれに掲載されたオサゲの写真の撮影地をあげて、それぞれに美しいが、それ以上の美しいオサゲを見たという。「いったい、彼らには、それをひと目見るだけの仕合わせさえあたえられなかったのだろう。それをこの私が見た。いいことはしておくものだとさえ言いたくなる」とまで書くので、読むたび笑ってしまう。
 昼の街の通りをひと組の恋人たちが歩いてくる。19歳くらいに見える女性は2本のとても長いオサゲにしている。ふっさりしたそのオサゲが歩きながら揺れ、1本が男性の方へなびく。その端を「青年がつまんだ。つまんだが、つまんだことを青年は意識していない。娘の方も、つままれたことを、ほとんど意識しない」。「ふたりとも前向きのままで、青年はその弧の先をつまんで保って、そうやってふたりは話しながら歩いてきて、すれちがってから私はふり返った」。
 同じ頃に、それぞれ別の入口から読むようになって近しいものを感じていたら、本当に近かった二人なのだが、並べて語られた文章を読んだことがない。孤独になった時のgoogle検索。名前をスペースあきで入力して検索すると、東京子ども図書館の機関誌「こどもとしょかん」のバックナンバーがヒットした。同類を探そうと思ったのだが、直接の関わりが見つかる。
 『幻の…』で結核を患う蕗子のモデルとなった友人の死後、彼女が住んでいた家を譲り受けた石井は、そこを子供たちに読書の場として開放(「かつら文庫」)した。それら都内の4つの家庭文庫を母体に1974年に発足した「私立」図書館が、東京子ども図書館。
 「こどもとしょかん」1980年春発行の第5号と夏発行の第6号に「中野重治氏にきく」1と2が掲載されている。「在庫あり」の記号はついていないので、滋賀県立図書館のホームページで県内図書館蔵書の横断検索をかけてみる。県立図書館には、1985年秋発行の第27号以降しかない。県内で唯一、東近江市内の図書館のひとつ、湖東図書館に創刊号からすべてそろっていた。
 1の副題が「子供はけちな人間に育たねばならぬ義理はない」、2の副題が「子供に真実を与えるやり方にあんまり愛敬がなさすぎる」。1回目冒頭に「これは一九七七年六月十七日、東京世田谷の図書館会館の一室で、中野重治氏が約五十人の図書館員、編集者を前になさったお話の記録です」とある。中野は1979年8月没。2回目の記事の最後には、筑摩書房の『中野重治全集』全28巻から、子どもの文学や国語教育について書かれた文章27篇の巻数とページ、発表年月をつけた詳細な目録がついている。全集完結を待って、作成・掲載されたかたちだ。
 まず、講演前に図書館側から手渡された最近の児童書を読んで、それに対する感想を述べている。これが中野の鴎外や茂吉に関する書き物を読んだことのある者にはわかるだろうが、文章の一節ごとに気になるところをあげていくやり方なものだから、非常にまとめづらい。結論部分の発言をあげる。
 「子供がこういうふうなものを読んで育つことに、私は反対せざるを得ない。子供というものはもっと大きな可能性を持っているもので、非常にけちな人間に育たねばならん義理はないんだ」「この頃のけちな大人が並べる屁理屈なんてものは、まあたかが知れたものですよ」「子供にはもっと大ぼら話とか、大うその話とか、(中略)そんな話を聞かせてやりたいですね」。
 児童文学の研究書などにはすでに「歴史」として書き込まれているのかもしれないが、抽象的・情緒的でユーモアのない小川未明以降の児童書を嫌っていた石井は中野と共闘しようとしていたのだと思う。
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 話変わって、というか、ここからが今回タイトルに関わる滋賀がらみの本題。
 石井の随筆集4冊のうち、最後に出た『新しいおとな』収録の短文の一節に、
「〔小学校にあがると〕私は小波の世界のお伽噺などにうつつをぬかした」
とある(初出は東京子ども図書館発行『おしらせ』)。
 巻末には今回新たに読みにくい漢字にはふりがなをふったとあったが、「小波」にふりがなはない。若い読者に意味が通じるのか。「小波の世界」なる言い回しがあると了解して先に進みそうだと思ったあとで、「コナミ」でも意味が通ってしまうところがおかしくもある。けれど、石井が小学校に入学したのは1914年。
 小波は「さざなみ」と読み、巌谷(いわや)小波という人物をさす。つまり、「私は巌谷小波が著した『世界のお伽噺』という本などを読みふけった」ということだ。
 最初に紹介した『幼ものがたり』も石井は、小学校にあがると学級文庫の中にあった「小波山人(さざなみさんじん)〔小波の初期のペンネーム〕の再話になる『日本昔噺』や『世界昔噺』、また『アリス』の再話や『アラビアン・ナイト』」に出会ったところで終わらせている。
 巌谷小波は、本名巌谷季雄。近江国水口藩の医師で、維新後、明治政府の役人になった巌谷一六の三男として明治3年に誕生。明治24年、日本児童文学のさきがけとされる『こがね丸』を発表。3年後、雑誌「少年世界」主筆となり、『日本昔噺』全24篇の刊行開始――水口町(現、甲賀市)の教育委員会が編集・発行、弊社が制作・印刷を請け負った『日本のアンデルセン 巌谷小波』(2003年 非売品 町内の小中学校に配布)が手元にあるので、まだまだ書ける。
 生まれも育ちも東京だが、父祖の地にある琵琶湖にちなんでその別名を筆名とした。
 「さざなみ」は枕詞でもあって、
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
という平忠度(たいらのただのり)の歌が頭に浮かぶのはお定まり。
 ここに至って、『幻の朱い実』を読んだことのある者は驚かざるをえない。
 主人公・明子から結核療養中の慰めにと「愛すべき幼い動物たちの『お話』」を翻訳した原稿を与えられる親友・蕗子の姓が、遷都から壬申の乱までわずか5年の短命に終わったために往時をしのぶ歌がくり返しつくられた「志賀の都」と同じ「大津」であることに。
 山桜ならぬ家の門口にからみついた蔓からぶらさがるカラスウリの実に目をとめたことから、明子は大津蕗子と出会い、その死後も鈴なりのカラスウリの実とともに彼女との日々を思い出す。
 と、書いたそばから恐縮だが、以上は書かないのも惜しい気がするので書いた法螺話にもならぬ与太話。大津は、モデルとされる女性の姓、小里(おり)をひねったものだろう。
 一方、中野重治の『梨の花』では、10歳の時点の良平が巌谷小波のお伽噺と彼に関して書かれた記事を相手に長々と(文庫本で5ページほど)頭を悩ませ、時に怒る。村の大地主の家の三男から借りた『少年世界』のその号では、巌谷小波が腸チフスで入院したことが報じられ、全国の子供らからのお見舞状とそれに対する小波のお礼が掲載されている。良平には、子供らが「小波おじさん」という書き出しで、見舞状を書く感覚がわからない。それに対して、小波が「地獄の門のところまで行ったけれど、閻魔大王が、まだまだ、もう一ぺん帰って、坊ちゃん嬢ちゃんのお相手をしろということだったので、帰ってきました」と書いているのを読んで、「なんじゃい。嘘じゃろう……」と思う。10歳男子の反応として正しい。
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[追記]2014.7.5
6月末に尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)が出た。
書店で手にとって、まずは巻末の人名索引で「中野重治」の項をひいた。
カバーに使われているヘンリー・ダーガーは、石井と中野の趣味じゃないだろう。
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[追記]2014.11.24
 普通に考えて、プーさんの挿絵画家E.H.シェパードやピーターラビットのビアトリクス・ポターの系譜といえば、日本だと林明子(ある時期以降の)だろう。
 プーと仲間たちの姿について、ミルンが「(シェパードは、子ども部屋にあった)実物のモデルをもとに、動物たちを絵にしたわけです。(中略)この動物たちを発明したというより描写したのです」(『ぼくたちは幸福だった―ミルン自伝』研究社出版)という言葉に、律儀にしたがうかのように、林は『こんとあき』(福音館書店)の挿絵を描くにあたって、ぬいぐるみの「こん」を製作している。
 林には、瀬田貞二作で画を担当した『きょうはなんのひ?』があるし、宮崎駿はずっとファンだと公言している。
 林と宮崎の対談が収録されている『素直にわがまま』(偕成社)では、もう一つの対談の相手、五味太郎の「写生というのをしたことがない」という発言に対して、林は「その姿をうっとり視線でなぞるということもないわけ? たとえば、その首のなんと細いことか、あのふくらはぎの線のなんと美しいことか、とか……」と返す。
 そこから私は、先に引用した「髪の毛と愛人」という文章で、中野重治が中国滞在中に見た美しいオサゲについて「私はほんとは描きたいのだ」と書き添えていることを思い出す。
 『ひみつの王国 評伝石井桃子』によって、中野重治ファンだったことを知った瀬田貞二に興味がわき、非売品の『旅の仲間 瀬田貞二追悼文集』(1980年)を、古書店のネット通販で購入(「旅の仲間」という書名が、瀬田の翻訳した『指輪物語』に由来することぐらいはわかったが、私は『ナルニア国物語』も含めて、瀬田訳のファンタジーを読んだことがない)。
 『ひみつの王国』によれば、「センチメンタルな書き方をしている人が多かったから」、石井はこの追悼文集を「気にいらなかった」そうで、「私が死んでも、こういう文集は絶対に作らないように!」と周囲に申し送りしたという。それは事実なのだろうが、実際に『旅の仲間』を読んでみると、「センチメンタルな書き方」が鼻につく文章は思いのほか少なく、執筆者個々が接した瀬田にまつわるエピソードの数々によって、文集全体の印象はとても明るい。
 例えば、陸軍病院の衛生兵となっていた頃、定時制中学の教え子たちが訪ねていくと、屋外で談笑の最中、瀬田はむしった一本の草を両手で曲げたり引っ張ったりして離さない。理由をきかれると、ニコリと笑い、「軍隊ではね、両手に物を持っている時は、敬礼をしなくてもよいのだよ」と答えたとか。
 瀬田が愛唱していたという中野重治の詩「あかるい娘ら」を、平凡社勤務時代の後輩が引いている。「わたしの心はかなしいのに/ひろい運動場には白い線がひかれ/あかるい娘たちがとびはねている(中略)そのきやしやな踵なぞは/ちようど鹿のようだ」。
 今月下旬、石井桃子が1950年代に発表した童話と少女小説をまとめた『においのカゴ』(河出書房新社)が出た。収録作の一つ、「心臓に書かれた文字」(1958年)は、長編『幻の朱い実』のプロトタイプだと誰もが思う設定だ。次のようにある。
  だれが若い日に、美しい少女を快くながめなかったろう。
 もちろんながめました。――というわけで、若い女性に見とれるのはよいとして、ヘンリー・ダーガーではないだろう。描かれた対象が幼女であることを問題にしているのではない。新潮文庫の『中野重治詩集』に詩人の小野十三郎が寄せた解説の中にちょうどよい一節があった。「(中野の詩に希薄な)非情とか冷酷さということもセンチメンタリズムの一変態である場合が多い」。ダーガー本人については知らないが、その作品にはこの手合いをひきつけるところがある。

2014年 3月 30日

眠りこんだ冬

 しばらく月一更新が続けられたなと思ったら、5ヶ月も間があいてしまった。
 前回ネタにしたテレビドラマ「ゴーイング マイ ホーム」をなぞるように、父が救急車で搬送され、そのまま40日間ほど入院したまま他界、四十九日が明けるまで休日に書いている時間がとれなかった。こういうのをなんと言うのか。
  物言えば唇寒し 秋の風
というのとは明らかに違うな。批判したわけでなく、ほめていたし。
  物言わぬ唇見つめ 冬の夜
というのは写生。病室で、このヒト、あたしのことわかってるのかといぶかしがる娘(私からすると姉)の姿を改めて見ることになるとは。
  ゴマホ語らば我が身にデジャヴ
  あまちゃん語らば誰もがじぇじぇじぇ
 2行目はついで。考えたのが1月なもので。
 なぞるといっても、父とは同居していたので、阿部寛演じる主人公・良太のような感慨はない。失踪した夫役の加瀬亮が会いに来た妻役の宮﨑あおいに発した残酷な言葉「後悔はしてないんだ」にむしろ近い。低視聴率ドラマの一度かぎりの台詞をひいてみてもわからないな。
………………………………………………………………………………
 父の入院から間もなく、パソコンでアマゾンをのぞいていると、おすすめ商品として、彦根出身のSSW(この略表記になれない世代だが、使ってみた)・徳永憲の2ndアルバム『眠りこんだ冬』(2000年)が表示される。中古が出品されたのだ。7月の当ブログでは「現在入手困難。」としていたもの。うれしい。購入して、久しぶりに徳永憲公式サイトをのぞいてみると、
  「2014年1月7日火曜日
   父が亡くなった。
   はじめは当惑したが、
   今は葬儀もすませ、少しずつ整理できてきた。」
 その前の「2013年12月28日土曜日」の更新では、
  「締め
   更新少なくてすいません。
   そのうち元気になって復活します。」
………………………………………………………………………………
 40代の冬は、あちらもこちらもこんな感じ。
 あつらえたようなアルバムタイトルの『眠りこんだ冬』。ただし、アルバムタイトル曲は、軽快なメロディーに少しばかり不敵な歌詞がのり、パンキッシュな演奏で終わる、タイトルからイメージされるものとは真逆のナンバー。
 4曲目「読書のポーズ」は、本好きは苦笑せざるをえない。
 その一節。
 「ふぁふぁふぁ いーま なにをー 読んでいらーっしゃーるの?」
 答えとして、原曲ではイタロ・カルヴィーノ(イタリアの作家)の名が歌いこまれる。
 私のこの冬について答えるなら、
 「ふぁふぁふぁ イーシイモモコさーん イシイモモコさ~ん~」
 字数がたりないので敬称をつけた。ポーズでなく、実際に読んでしまっているので、石井桃子ネタは次回に続くかもしれない。
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 なんだかfacebookみたいな近況報告になってしまったので、1週間前に拾った映画のネタをくっつけておく。
 3月22日(土) 草津市にある滋賀県立琵琶湖博物館で行われた日中共同博物館・大学講演会「魚米之郷(ぎょまいのさと)を語る」(入場無料)へ。
 2つのテーマが混在した内容。
1)中国の太湖と洞庭湖の現状と課題について。湖畔の近代化にともなう環境汚染への対策には、琵琶湖の経験が活かせるだろうという話。
2)稲作の起源と養魚の関わりについて。確かに、映し出された長江流域の最古級の田んぼ跡は形も不統一な水溜まりを水路で結んだようなもので、養魚池も兼ねていたように見えなくもない。
 2は、以前に同館で開催されたシンポジウム(2007年にアップした当ブログ「キーワードは『家畜』」参照)で示された中国の「農業生産に家畜(牛・豚・鶏と魚)を複雑に組み込んだシステム」に関する話題の継承。
 聞いていて、昨年8月に京都の映画館で観たワン・ビン監督のドキュメンタリー『三姉妹~雲南の子』(2012年)で印象に残った場面の一つを思い出した。
 撮影地は、雲南省の3000mを超す高地にある村。そこに暮らす10歳・6歳・4歳の三姉妹をカメラは見つめ続ける。ときには走り出した彼女らを追いかける。現金収入を得るために父親は町へ出稼ぎで出てしまっている。母はその前に村を出て行方不明。
 長女のインインは妹たちの世話だけでなく、家畜の世話もしなければならない。豚のエサであるジャガイモをエサ箱の中でふみつけて柔らかくする。人間の主食も新大陸原産のジャガイモなので、入植は時代的にそう古くはないのだろう(清代までに中国東部から漢民族が移民してきた地域だと、映画パンフレットに解説あり)。いわゆる民族誌的な視点では撮られていない。そうした視点で語るには姉妹たちの日常は過酷すぎる。すでに低地への全村移住が決まっている。よかった、よかった。つまり、以下はあえて。
 三姉妹の次女とその従姉だったかが、ヤギの世話をしている。ササが群生している場所に来ると、彼女らは全身で覆いかぶさり頬も手も擦り傷だらけにしながら、ササの幹をしならせる。バサバサバサバサ。すると、低い位置まで降りてきたササの葉をヤギがモシャモシャと食む。なるほど、こんな給餌法(きゅうじほう)が……と感心。
 さて、映画パンフレットに掲載されているインタビューで、監督は次作以降、河口の上海から長江をさかのぼりながら、中国で最もめざましい経済発展をとげた流域の姿を記録したいと述べている。まさに太湖と洞庭湖を含む地域なので期待。

2013年 11月 4日

そして Cui Cui になる――是枝裕和著『歩くような速さで』

 私も知らなかったので、タイトルに含まれる横文字(フランス語)の意味をまず説明しておく。
 近所の図書館にあった三省堂の『クラウン仏和辞典』によると、
  cui-cui [kɥikɥi] 小鳥のさえずり;チッチッ,ピッピッ.
 ハンディータイプの辞典の説明はこれだけ。ネットで検索したところ、フランス語で小鳥の鳴き声を表すと同時に、写真を撮る際のかけ声、「はい、チーズ!」の意味で使うらしい。発音記号の部分をカタカナ書きにすると、キュイキュイ。
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 昨年8月26日付の当ブログを、「加えたくなるエピソード――細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』」という題で書いた。アップしてしまった後でも、つらつら考える。
 お花畑にたたずむ彼(おおかみおとこ)は、やっぱ顔を出しすぎ。あんな長身のイケメン、どうやって人目を忍んで生きてきたのさ。
 小学生のツッコミかといわれそうだが、もっと存在の影を薄く、人間姿の場面では一度も目や顔全体を見せない構図で通してしまい、その死も社会的には何の影響も及ぼさず、ヒロイン・花の中でも、現実に彼は存在したのか、曖昧になっていく。彼が存在したことを強く記憶しているのは、花の指先に残るおおかみ姿の彼のつややかな毛並みの感触だけ……といった感じの方がよくないか。通りすがりの大型犬に出会い、毛並みをなでていると、やがて花は……連想されるエピソードは、またしても二次創作向きだが。
 クライマックスの一つで、台風の中、山中で気絶している花が息子の雪に助けられるシーンも、人間姿の雪が花を抱きかかえて麓の駐車場へ運ぶのではなく、現実の体長を無視してでも、おおかみ姿の雪の背に花をのせるべきだろう。雪の毛並みに触れた指と風を受けた頬の感触から、おおかみ姿で山野を駆ける彼の姿が頭の中に浮かぶ……というだけでも、息子の旅立ちを祝福する気持ちへの移行を観客は納得できるのでは。少なくとも私は見ていて恥ずかしくない。
 そんな考えが片隅に残った頭で、同年12月に放送された関西テレビの連続ドラマ『ゴーイング マイ ホーム』(以下『ゴマホ』)の最終回を観ていると、阿部寛演じる主人公・坪井良多が指先を「毛」に触れることで、過去の記憶をまざまざとよみがえらせる場面があった。さすが、是枝裕和、わかってる。
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[以下、お急ぎの向きは、次の区切り線まで跳ばしても可]
 このドラマとの出会いは日付がわかる。その次の回(11月13日放送)から録画してあるから、逆算して第4回放送の11月6日(火)だ。その夜、22時15~20分ごろ、私は台所で夕飯の食器洗い(私の担当)にとりかかるため、とりあえずテレビをつけ、なにげに8チャンネルのドラマを映しておいた。観ていたのではない。台所の洗い場に向かうと、テレビ画面に対しては背面になるから、音が聴こえるだけ。洗っている間のBGMだから、その場に妻がいると、「観てへんのやかい、消しいな」と叱られる。
 蛇口からの水音もあって、背中越しの音声はとぎれとぎれにしか聴き取れない。それでも、このドラマの会話とそのテンポに私はひかれた。急いで食器洗いをすますと、テレビに向かう。
 山の木立の中で腰を下ろしている西田敏行の背後を数十年前の回想場面の人物3人が横切っていく。同一フレームの中で。テレビで許されるんだ、これ。
 脚本家の名前を確認しようとエンドロールを見つめる。下から上へ流れていた名前たちは、最後に「監督・脚本・編集 是枝裕和」で止まった。
 阿部寛とYOUが姉弟って、映画『歩いても歩いても』(2008年)のまんまじゃん。
 以後、私は毎週火曜日の夜を待ち望み、食器洗いも早めにすますか後に回して、残りの全話をリアルタイムで観た。
 問題は、初回から第3回と半ば以上見逃している第4回放送である。放送中からテレビ局の動画配信サービス「フジテレビオンデマンド」を検討していたが、面倒くさい気がしてやめた。その翌年、つまり今年の3月に全話のDVDボックスが発売されたが、先に述べたとおり、家のDVDデッキのハードには放送第5回から第10回(最終回)までの映像、要するに半分以上はあるから購入がためらわれた。そもそも、そのうちレンタルDVDに並ぶのだろうと思っていた。ところが、低視聴率だったためか、田舎町だからか、私の行動範囲のレンタルショップにはいっこうに並ばない。
 そうこうしているうち5月、是枝監督の新作映画『そして父になる』が、第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。その効果で『ゴマホ』がレンタルショップに並ぶことを期待したが、そういうものではないらしかった。なので、初めてDMM.com(「ネットで予約、自宅へお届け、ポストへ返却」というやつ)を使ってみた。これは便利だ。ところが、1枚2話収録の1と2を借りたところ、偶然の出会いに驚いたはずの第4話をひとつも記憶していない。ネットで調べたところ、初回が1話・2話連続の2時間スペシャルだったそう。つまり私の観た放送第4回は、DVDでは第5話にあたる。再び、DVD3をネットで予約。ようやく全11話を視聴。
 ついでに、主人公の名前が『ゴマホ』と同じ「良多」である映画、『そして父になる』について、一点だけ書いておこう。良多(福山雅治)に向かって、妻のみどり(尾野真千子)が寝入った血のつながりがある方の息子の髪をなでながら言う、この子の髪もあなたとそっくりという意味の言葉が、みどりの台詞の中では一番艶かしかった。もひとつついでに、一つ前の映画『奇跡』(2011年)の場合、おばあさんが少女の髪をとかすシーンが忘れがたい。
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 9月に出た是枝監督の初エッセイ集『歩くような速さで』(ポプラ社)を手にとる。
 「映画とテレビとはどこが違うと思いますか」というよくある質問について、「一番簡単な答えはこうだ。写真が動いたのが映画で、ラジオに画がついたのがテレビ。出自(DNA)はまるで違うが進化?の過程で似てしまったのだ」。
 そう。簡単なことなのだが、世の常識にはなっていないので、わかりやすく言い換えると、テレビドラマで人気の脚本家・某や演出家・某が何本映画をつくろうがそれらは「映画」にならないが、表情とアクションの連なりに音は銃声だけでもよいコメディアン・某の映画は確かに「映画」だということだ。
 いや、訂正。上記の説明だと映画が格上のようにとられるか。是枝は、『ゴマホ』シナリオ本(ポプラ社)巻末のあとがきでも力説しているとおり、テレビドラマも愛している。
 第2話(放送は第1回)のラストシーン、倒れて意識が戻らないまま病室のベッドに寝ている父・栄輔(夏八木勲)を見下ろした良多が、「本気ですか…あなたらしくもない。どうせあれでしょ…何か別のこと企んでたんでしょ…お金とか…女とか…」、さらに寄って耳元で「女とか」と詰め寄るシーンは、往年の山田太一ドラマを思い出した。
 一方で、先にあげた「毛」に触れるクライマックス(第1話の伏線を回収するシーンでもある)に台詞はなく、画面を観ていなければ何が起っているかわからない。
 双方の違いを明確に意識した上で、映画もテレビの連ドラもこなしてしまう手腕に感心する。
 その創作スタンスとからめて理屈をこねようと思えばこねられそうだなという点で、このエッセイ集のキモは、是枝監督が子供の頃の是枝家特有の家族写真の撮り方を明かした文章だろう。時を経るほど真実味を増すフェイク写真。1枚現物が掲載されており、笑わせてもらったが、怖ろしい。
 本書の終盤に、2歳の頃に観たテレビのスポーツ中継の記憶をめぐる一文があり、『ゴマホ』最終回の例の場面が、是枝監督の実体験をもとにしたものだということがわかる(ただし、文中には、その点への言及はない)。
 その次の次に、「再会」と題して、写真家・川内倫子の写真集『Illuminance』出版を記念する書店イベントで対談した話が掲載されている。是枝監督の依頼で、川内が映画『誰も知らない』(2004年)のスチール写真を担当した縁だそう。対談前の予習に、是枝監督は川内の写真集をデビュー作から順に改めて見ていった。
 「その中の一冊に『Cui Cui(キュイキュイ)』という、川内さん自身の家族を13年にわたって記録したものがある。彼女の実家である滋賀県で畑仕事をしながら暮らす祖父母を中心に、そこに集まる両親や親戚の姿を追ったプライベートな写真たちが時間軸に沿って並べられている」。
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 さて、滋賀で撮影された、日本語の擬音に訳せば「チッチッ」という小鳥のさえずりをタイトルにもつ写真集にたどりついた。刊行年は2005年(発行フォイル)。
 まず頭に、「あぁ、リトルモア的な写真ね」と浮かんだのは、調べてみると2002年に木村伊兵衛写真賞を受賞した写真集『うたたね』と『花火』の発行元がリトルモアだったからまとはずれではなかったが、失礼ながら私は彼女の写真集を1冊も通して見たことがない。
 彼女の作品は、高い抽象化の域に達しているからこそ、パリで個展が開かれ、ニューヨーク国際写真センターの賞を受賞した。だからこそ、どこの何を、誰を撮影したかがすべての私ども地方出版社とは無縁だと思っていた、と、ひとまず説明しておこう。
 さて、写真集『Cui Cui』を購入。
 表紙は、皿にのったスイカひと切れの皮と種の写真。
 ページをめくる。野暮な見方だというのは承知である。ここは滋賀県のどこだ?
 以下手がかりとなった写真と考察。順番は一部が掲載順とは異なる。
[1]テーブルに並ぶお札(ふだ)。「寿」の字の下に「◇◇神社」。
[2]墓地の入口にある六地蔵の前にしゃがんで菓子と花を供える女性たち。
 神社名と同じ名の集落の自治会が1999年に発行した字史をめくってみる。なぜ手元にあるかといえば、組版・印刷を小社が受注し、私が原稿整理と校正を担当したからだ。その245ページ左下にほぼ同じ角度から撮影された六地蔵の写真が掲載されている。6体のうち左端の地蔵だけ、光背上部が欠けている点も同じ。本文には、墓地の名称と周辺6集落の共同墓地で、各集落ごとに区画されていることなどの説明あり。
 同字史の巻末422ページからは、「平成八年(一九九六)四月一日現在」の全戸の世帯主名が掲載されている。256戸(人)のうち、川内姓は男性名で1人のみ。では、おじいさんの方の名前はかなり高い確率で……って、この早さは自分でも予想外。
 まだ、2枚だ。野暮を続けよう。
[3]仏壇前の書見台の上に置かれた浄土宗の経本「日常勤行式」の表紙左下に「滋賀県/△△郡/△△町/△△寺」とある。
 こちらは郡(平成の大合併前)が異なる県内の別地域だから、おばあさんあたりの親元の寺か。
[4]杖を手にアスファルト道路に立つ背中向きのおじいさん。
 反対歩道側の電柱の中ほどに設置された小さい看板に、現在も近くにある博物館の名前がぼんやり読み取れる。
[5]おばあさんが入院している病室の窓とその向こうの景色。
 地理的には、A病院かB病院が考えられる。片方は、私の義母が骨折したときに入院したので、娘も連れて3人で見舞いに行ったことがある。窓の外のコンクリート壁のさらに向こうに見える建造物は、東海道新幹線の高架の防音壁だろうか。食堂兼談話室のテーブルで義母と話していると、10分おきかというぐらいの頻度で病院の東側を通過する新幹線の音と振動が感じられた。新幹線に隣接している点は、もう一方の病院も同じ。
 この病室からの眺めが1枚の写真ではなく、15分程度のムービーだったら、この場を特徴づける音と振動が記録されただろう。そもそも、この写真を写したさいのカメラは、音と振動に反応して向けられたもののようにも見える。
 ここで、妻に協力をあおぐ。彼女は、[1][2]で予想をつけた集落と一部が隣り合っている集落で生まれ育った。偶然にも!
 「なんか、見覚えのあるとこ、ない?」と私。
 「………どこにでもあるような風景ばっかやんか」と妻。
[6]障子の前にぶらさがっている3種のカレンダー。そのうちの日めくりカレンダーの日付は平成11年(1999)1月2日(土曜日)。
 そう、『ゴマホ』視聴者にはおなじみ、「日めくりカレンダー」が出てきた。そこに印刷された思わずメモしたくなるような格言をここに書き写すことができれば、きれいに終われるのだが、そこまで偶然は重ならない。「土曜日」の横に「胃」の1字があって読み取れない小さな字で豆知識らしきものが書かれているのみ。下の段は大阪に本社がある鋼材会社の広告で、社名の上に「徹底された品質・納期管理で信頼される!」とある。
 その下には、日めくりカレンダーで上半分以上が隠れて用をなさなくなっている縦長の月めくりカレンダー(見えているのは、23日以降)がある。その下段に印刷されている商店の広告を見て、妻。
「この▽▽▽▽▽▽▽商店て、うちでも修理とか来てもろてたよ」。
 「もう1回言うて」と私。
 写真集から顔をあげた妻が、「うちのプロパンもここやった。この▽▽▽▽▽▽▽▽▽。私らは、この小さい字の▽▽▽▽▽▽を▽▽▽の後ろにつけて呼んでた」と、長ったらしい店の名をそらで言うので私は笑い出した。

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