2010年 6月 3日
さよならバンクーバー、こんにちはバンクーバー
弊社も含む164社の版元(出版社)による、サイトでの本の販売、書誌情報提供や流通改善を追求する団体「版元ドットコム」のホームページ内で「版元日誌」(2010.6.2)を寄稿しました。
いつもの「キシダ式」と変わらない内容です。お読みください。
http://www.hanmoto.com/diary/
弊社も含む164社の版元(出版社)による、サイトでの本の販売、書誌情報提供や流通改善を追求する団体「版元ドットコム」のホームページ内で「版元日誌」(2010.6.2)を寄稿しました。
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これを読む大学生、高校生などゼロに等しいだろうことは承知だが、滋賀会館シネマホールの最終上映作品の一つが『動くな、死ね、蘇れ!』(1989年、ソビエト、ヴィターリー・カネフスキー監督)だと知ったので書いておく。上映は、3月30日(火)(12:20~)と31日(水)(14:20~)の2回、つまり平日の昼間。春休み中の大学生や高校生が観に来なければ、席が埋まらないではないか。京都みなみ会館で2月に観てしまった学生ももう一度観に行け。
私自身は? 悪いが、2月24日アマゾンで、この作品を含むカネフスキー監督三部作DVD-BOXを予約注文してしまった(監督が行方不明だったため権利関係からずーっとDVD化されていなかった。4月24日発売)。
妻曰く「思い出のない男」の私ですら、日本初公開時の1995年4月1日(土)に渋谷のユーロスペース2で観ての帰り道、興奮状態の頭で映画館から地下鉄の駅へ向かって歩きながら、前方に見えていた夜空と陸橋を覚えている。今の大学生や高校生も、主人公ワレルカとガリーヤの顔といっしょに、滋賀会館のオンボロエレベーターもしくはエレベーター待ちが面倒になって駆け降りる階段をあと15年ぐらい記憶に刻みつけてほしい。
[前回からのつづき]
前回分で戦前期最大のエピソードを「琵琶湖」にからめてまとめられたのはよいのだが、この『中井正一伝説』の本文と年譜には、私が知っている出来事が抜けている。1937年のたぶん7月、中井たち『土曜日』の同人とその家族は、琵琶湖周辺へ出かけて『「土曜日」の一周年ピクニック』という映画を撮影しているのである。
1995年(平成7)10月3~9日、山形市内を会場に開催された「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の4日目、6日(金)午後6時30分から山形中央公民館大会議室でこの映画が上映された。上映前には、監督を務めた能勢克男の息子・協氏(美術家)によるお話もあった。
この映画祭で上映された作品は278本、6つの上映会場で平行して上映されていくのですべてを観ることは不可能。私は1泊2日で6日と7日に14本観ただけ。最初に観はじめた『サタンタンゴ』(ハンガリー)が450分(7時間30分!)もあり、面白かったのだが、さすがにこれでは1日1本で終わってしまいまずいというので、第1部が終了して休憩になったところで退席。短編作品ばかりをテーマ別にまとめて上映していた別会場(中央公民館)に移動して、たまたま観ることになったのが、能勢克男監督作品『飛んでいる処女』(7分)と『「土曜日」の一周年ピクニック』(12分)だった。
『飛んでいる処女』の方は、走行する市電の窓から頭上に網の目のように張りめぐらされた架線を撮影したカットは覚えている。琵琶湖疏水による水力発電で動く市電は当時の科学技術の象徴なのだろうし、溌剌とした女性車掌の姿=女性の社会進出と合わせて先端風俗に関心をいだく中井の好みも反映されているように思う。テーマは決まっているわけで、まとまりはこちらの方がよい。
それに対して『「土曜日」の一周年ピクニック』はタイトルどおり、内輪向けのホームムービーである。同人とその家族が参加した公園へのピクニック、原っぱでのダンス、琵琶湖でのヨットクルージングのようすを撮影して編集したもので、「土よう日」と書かれた旗がはためくカットが何度もインサートされ、見ていて少し恥ずかしかった。同映画祭のパンフレットによれば、ベレー帽をかぶった中井正一も写っていたそうだが記憶にはない。夕暮れ近く陽が傾いて、デッキにいる男性2人の背後で湖面が輝くところだけがきれいで記憶に残った。
上映された大会議室はイスなしのカーペット敷き(畳だったか?)、ビニール袋に靴を入れて座って(左右に余裕があれば寝ころんで)観る形で、観客は 40~50人だったか。私の前に、平日だというのに母親と来ていた少女がバレエを習っているのだろう、広げた足の間に上半身を下ろして床につける柔軟体操を作品と作品の間の待ち時間になるとやっていたのを覚えている。提供者・能勢協氏の話の内容は何も覚えていない。治安維持法違反での検挙時にフィルムが没収されたことなどが中心だったのではないかと思う。ピクニックの撮影地が琵琶湖だという話は出なかったはずで、私は後でパンフレットによって知った。とするとダンスを踊った原っぱのある公園は、長等公園(大津市)ではないかと思うのだが…。
どうしても知りたいというわけではないけれど、10年余りにわたってもやもやとしつづけている疑問にようやく回答が…と、期待して図書館で本を手に取ったのだが、そうはならなかったわけである。
11月のことだが、京都を拠点に活動しているバンド、モーモールルギャバンのファーストアルバム『野口、久津川で爆死』を買ったら、1曲目が「琵琶湖とメガネと君」という曲だった。メロディは全10曲の中で一番今のロックバンド風、キャッチーな曲にあたるのだろうが、歌詞はというと、岸辺にしゃがんで水面を眺めながら、彼女の視力を奪おうとたくらむ男の妄想。アルバム最後の「サイケな恋人」はさらに過激に女の子目線で彼氏を「あなたはゴミ 消えればいい」と歌うアンチ・ラブソング。
メンバーは群馬出身2人、奈良出身1人とのことだが、京都の住人の創作物に現れた琵琶湖ということで、12月に読んだ本とで、二つまとめて紹介しておく。
彦根市立図書館の新刊コーナーで見つけたのは、馬場俊明著『中井正一伝説─二十一の肖像による誘惑─』(ポット出版)。その後、アマゾンで購入(3500円+税)。美学者・中井正一の、日本初の帝王切開手術とされる特異な生誕の経緯から、戦後、国立国会図書館の副館長として法整備等に活躍し、52歳の若さで没するまでの生涯をたどった454ページの労作。
広島県尾道に生まれた中井は、広島県高等師範学校付属中学校を卒業して、1917年(大正7)、京都第三高等学校に入学。ボート部に入部。三高ボート部といえば、「琵琶湖周航の歌」を生んだところ。中井と琵琶湖のつながりが生まれる。
1922年(大正11)、京都帝国大学文学部哲学科に入学。やはり、ボート部に入部。
翌年と翌々年には文学部のコックス(舵手)として、瀬田川で行われた同大水上大会に出場。琵琶湖畔にあったダンスホールにも出入りしたモダンボーイ。
1926年、大学院に進み、結婚。
1930年(昭和5)、『京都帝大新聞』に「スポーツの美的要素」を寄稿。
これは、長田弘編『中井正一評論集』(岩波文庫)に収められた主要論文のうちで最初期のもの。
「(ボート競技のクルーが)敵艇の接近を一櫂一櫂とのがれゆく心境は、その進行する一艇に自分が乗れる意味で、蓋然より必然へと自らの艇を引きずる意味において、この外的現象は彼等クリュー(クルーのこと)の内面判断構造を具象化する。内なるものを外に見出す意味で深い象徴である」
といった、中井自身が瀬田川や琵琶湖の上で経験したことから導き出されたスポーツに対する考察は、その後も映画やジャズ、探偵小説、フォード車の最新モデルを率先して対象としていった彼にふさわしいものであるだろう。
1932年、貴志康一らと前衛映画を制作。巻末年譜によると、同年7月、友人や息子とともに近江舞子(大津市)で水泳をしている。
1935年(昭和10)2月、同人雑誌『世界文化』を創刊。
1936年(昭和11)7月、能勢克男(京都在住の弁護士)らと月2回刊の文化新聞『土曜日』を創刊。
1937年11月、治安維持法違反で中井ら4名が検挙(翌年6月に能勢ら2名も)。
内務省警保局の記録によると、「(これらの雑誌・新聞は)表面合法を装うも其の真目的は所謂人民戦線戦術に依る共産主義社会の実現を企図しつゝ活動し居るものなること」が判明したので検挙したとなっている。
1938年、警察の取り調べ。
取り調べ検事が、検挙者のうち中井と和田洋一の2人は「どう考えてもマルクス主義者ではないので、起訴したのはまちがいだった」と言ったと後に和田は書いているそうだが、では中井は何主義者だったかといえば、いい意味でのモダニストだろう。
1939年、保釈直前にジフテリアにかかり入院、自宅軟禁(療養)中に、次男4歳が病没。
濡れ衣といってよい罪で自宅を留守にしていた間にさらなる不幸におそわれた中井は、釈放され保護観察生活を送るようになると、琵琶湖へおもむいた。子供を連れてヨットで琵琶湖に出ては、「遠くにかすむ近江富士(滋賀県野洲市の三上山。標高432m)に向かって、いつも『バカヤロー』と叫んでいた」と書かれている。
[小ネタ二つのつもりで書き始めたのだが、片方が予想外に長くなった。次回にもつづく]
住んでいる大字の会議所が改装されることになった。厚生労働省だったかが、高齢者を集めて健康指導をする施設を作るためなら補助金を出すというので、それに乗っかった形である。耐震補強が施されて、1階部分がバリアフリーになる。大急ぎで年内中に完成させるスケジュールである。
10月24日(土)、朝8時から建物内の備品の引っ越しが行われた。ちょうど隣の元洋服店が空き家になっているのでそこへ移動するということで、今年組長があたっている私も駆り出された。燃えるゴミに出す分として山積みになっていた平成以降のプリント類の山に目をやると、毛筆の文字が並んだシミだらけの古い紙があった。2枚の紙が紙縒(こより)で綴じられている。「本村ノ大橋」「普請」「浅井郡第十区 種路村」「板四十八枚」などの文字が素人の私にも読み取れる。
「ちょっとちょっと、こんなもん捨てたらあかんでぇ」。「○○○(うちの屋号)、ほういうのが趣味か、興味があるならもろて帰れ。他にもぎょうさんあったけど、こないだ燃やしてもた」。この日の前に、役員(40代後半~60代前半)だけで中に保存されていた文書類を整理した時、明治初期の文書類などをほとんど焼却処分してしまったのだそうだ。
さっき出てきた「種路村」と「市場村」「河原村」の3村が明治7年に合併して、今の大字「山本」の範囲の集落になった。なので、日付はなかったが、「本村ノ大橋」の文書はそれ以前のものということになる。
何も私の住んでいる大字には学問的に貴重が記録があったはずだと言っているわけではない。そんなものはないだろう。
にしても、「趣味」かどうかの問題ではないだろう。会議所ができた昭和40年代の時点でも、すでに書かれてから100年ぐらい過ぎていたのに、当時の役員らはそれらを保存したわけだから。
県内博物館で、地方史家のさきがけとして中川泉三を顕彰する展覧会が行われているけれど、まぁ来年には長浜市になる湖北町の一大字の実状はこんなものである。今週ずっとうんざりした気分が続いている。
もうひと月近く前に出た単行本だから、新刊コーナーからは移動されてしまっているかもしれないが、原作:長谷川伸/脚色・構成・作画:小林まこと『関の弥太ッペ』(講談社)が出た。
今年の初めぐらいだかに、『イブニング』で連載が始まったとき表紙を飾っていて、書店の棚でたまたま目にとまったのである。最近、名作文学の漫画化は増えてるけど、「長谷川伸」ときたか、人情股旅ものでタイトルが「関の弥太ッペ」、どこに需要があるんだと思わずにいられないが、初回はとても丁寧に描かれているのがわかった。3~4回目まで立ち読みで追っかけたが、まったくダレなかった(失礼ながら、小林まことは「手をぬく人」のイメージがあるので)。
今の40歳前後が、小林まとこの代表作『1・2の三四郎』や『柔道部物語』にはまった世代にあたるのだろうが、私自身はまったくだった。プロレスを見ない男子だったし。単行本を買ったこともなく、床屋や喫茶店に置いてあれば、時間つぶしに読むという程度の漫画家でしかなかった。
なのに、『関の弥太ッペ』は買った。巻末に架空対談をこしらえていることからも、小林まことが長谷川伸の戯曲に入れ込んでいることがわかるが、客観的に見てもこの二人は相性がよい。他の漫画家が思いつかないぐらいよい。
主人公の「関本の弥太郎」に『柔道部物語』の主人公・三五十五、というように、これまでの小林作品のキャラクターが『関の弥太ッペ』の登場人物を演じるという形をとっているのだが、
「え~い、めんどくせえ!! 年三両の食いぶちで、むこう十年あずかってくれ!!」
といった威勢のよい啖呵というか、よせばいいのに勢いあまって言っちゃった感じのセリフが、小林の絵柄にはとても似合う。
そうなると、時代がかったセリフ回しも新鮮。「てめえ、もう一度ぬかしてみろ、アゴのちょうつがいひっ外すぞ」なんていう言葉は、同時代の漫画家の頭からは出てこない。
ストーリーの半ばほどで、特別ゲストとして、『1・2の三四郎』の主人公・東三四郎演じる番場の忠太郎が、関の弥太ッペとすれ違う。
「あっしは江州(ごうしゅう)阪田の郡(こおり)番場という処の生まれの忠太郎と申します。」
単行本巻末の予告広告によると、次の連載は「沓掛時次郎」に決まっており、「瞼の母」はまだその先のよう。楽しみに待ちます。
[続けて二つアップしています。一つ前の「映画『窯焚 -KAMATAKI-』評」も読んでください。]
6月23日、今年の第12回日本自費出版文化賞大賞を受賞した『シベリアに逝きし人々を刻す ─ソ連抑留中死亡者名簿─』の著者、村山常雄さんのインタビューに新潟県のご自宅にうかがった。インタビューは『自費出版年鑑2009』に掲載されている。ここでは、インタビュー記事では載せなかった「滋賀」関係の話を紹介しておこう。村山さんが地元の水産学校を出てすぐ、その給料のよさ(内地に比較して)から就職なさった満州国立水産試験場は、内陸部で主に淡水魚の養殖技術を研究する機関だったので、滋賀県の水産試験場にいた人が大勢来ていたそうだ。同僚だった人の出身地として、滋賀県の地名がいくつも村山さんの口から出てきた。
弊社からも、第二次世界大戦を題材にした『別冊淡海文庫17 湖国に模擬原爆が落ちた日 ─滋賀の空襲を追って─』が発行された。7月16日、長浜市役所で行われた著者の水谷孝信さん(長浜市内の高校の社会科教諭)による記者発表に同行した。すでに5紙ぐらいの地方版に紹介記事が載ったが、どこも書いていない、記事に組み込みにくい少し突飛な発言をこの場で書いておくと、水谷さんは自身の立場を、手塚治虫の後を受けて『PLUTO(プルートゥ)』を描いた浦沢直樹、あるいは同作のプロデューサー長崎尚志みたいなものと語っておられた。戦中世代ではなく、戦後世代が戦争体験を語り継ぐ時代になっているということ。
ついでに、水谷さんからさらに一回り下の世代である私が思い出すことも書いておこう。「夏」「学校の先生」「死者の名前」で連想される三題噺みたいになるが、中学の頃に長浜市の市民会館で見た映画『対馬丸 ~さようなら沖縄~』(1982年)のことである。映画館ではなく、公民館などで巡回上映が行われた、アニメーションのいわゆる教育映画である。中学2年か3年の夏休みとしか覚えていなかったが、ネットで調べてみると、制作年は1982年=昭和57年だから私は中3である。言われてみれば確かに部活を気にせず見に行ったように思う。うわぁ、27年も前だ。サブタイトルはついていたことすら覚えていなかった。
上映があるということを教えてくれたのは、理科のY先生だったと記憶しているが、担任のクラスではなかったし、違うかもしれない。チラシか割引券をもらって、その中に「作画監督/芝山努」と印刷されていたことだけは確かだ。テレビアニメ『ど根性ガエル』とかの芝山努さん、その絵を目当てに私は見に行った。第二次世界大戦末期、沖縄から九州への疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷で沈められてしまった実話に基づくお話。アクションシーン=子供が死ぬ場面は容赦なしに恐いわけで、「さすが芝山努」な出来だった。
のだが、この映画で一番記憶に残っているのはエンドロールだ。国民学校名(もあったように思う)と判明している死者の名前が下からダーッとあがってきて、いつまでたっても終わらないのである。もう終わるかなと思ってもまだあって、まだあって、まだあって……3回ぐらいは「うゎ、まだある」と思った。
4月5日付毎日新聞の書評欄で三浦雅士さんが紹介していた、揖斐高(いびたかし)さんの新刊『近世文学の境界—個我と表現の変容』(岩波書店)には、江戸時代初期の漢詩人で、彦根藩士だった石井元政(もとまさ)[出家後は、同じ字で「げんせい」]のことを書いた論文が収録されています。
揖斐さんの江戸時代の漢詩に関する本は、文化史としておもしろく読めます。ご本人も今度の本の「あとがき」でお書きになっているとおり、従来の文化史や文学史ではこぼれ落ちていたものが拾い集めてあるから。私が編集補助で関わった『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』に載せさせてもらった大溝藩(高島市)藩士・前田梅園の漢詩も、揖斐さんの本がなければ、私のような門外漢が目にすることは永遠になかっただろうと思います。
また、前置きが長くなりました。
毎日新聞の書評でもかなり長い引用(現代文になおしたもの)があったとおり、元政を特徴づけるものとして揖斐さんが拾い上げてきたのは、同じ彦根藩士だった重仲という男性に宛てて書かれた長い長い恋文(長さ2m余り)です。
「かたみに分けし袖の俤(おもかげ)も、昔の空には似るべくもあらず。ひたぶるの思ひのつまなく、さめがたき床の上に、暁かけて露むすばぬ夢の浮橋も、明わたる空に絶はてぬ。いく夜もいく夜もかく明かす中に、ものにたぐふべくもあらぬ悲しび、思ひやるべし」
「かたみに分けし袖」というのは、二人が別れの時に交換したお互いの着物と帯のことで、元政は重仲の着物を身につけて彼を思いつづける日々を江戸詰の時代に過ごしたわけです。手紙の末尾の二人の名前にはそれぞれ「布雲」「長山」という一種の号が記されていて、元政はいわゆるウケ(であるから、たぶん年少)、重仲はセメだったようです。夜明けには消えてしまう「夢の浮橋」という言葉が出てきますが、元政は『源氏物語』の研究者でもあり、松永貞徳から学んだ和歌にもかなりの才能を発揮しました。近江の文学史の上では、ちょうど北村季吟の先輩格(実際に季吟に教えたこともある)にあたります。
歌集には、重仲と交わした和歌も収められています。
佐和へかへりけるに 重仲
うたかたのあはれかはらぬ契(ちぎり)哉むかしにかへる鳰(にほ)のうら波
返し
としへても鳰のうら波立かへり深きよるへときみをたのまん
重仲へつかはしける
みし夢の俤(おもかげ)まてもしほれきぬなきぬらしつる袖の枕に
「佐和」というのは、彦根市佐和町、城下町建設の初期に町割された内町4町の一つ「佐和町」のことでしょうか。
「江戸時代の日本では男色が一般的だった」というのは、例えば朝鮮通信使一行の一人として来日した申維翰(シンユハン)が残した紀行文『海游録』の付篇「日本聞見雑録」の中でもはっきり記されています。「(日本では14~15歳の男娼を)国君をはじめ、富豪、庶民でも、みな財をつぎこんでこれを蓄え、坐臥出入のときは必ず随わせ、耽溺(たんでき)して飽くことがない」と記し、気軽に話せる仲になっていた雨森芳洲に「あなたの国の風俗習慣は奇怪きわまる」と言ったところ、芳洲に「君はまだその楽しみを知らないからさ」と笑って返され、「彼のような人格者ですらこんなことを言うありさまだ」と書いています。
そんなわけで、室町、安土桃山、江戸時代の日本の場合、実際がそうだったのですから、パロディの一種としてのボーイズラブはなりたたないともいえます。と同時に、男色抜きの時代小説は、現代男性作家によるある種の「妄想の産物」でしかないようです。
元政の業績については、1997年に彦根城博物館でテーマ展「深草元政—彦根ゆかりの詩僧—」が開催され、図録も刊行されています。じつの姉が2代藩主井伊直孝の側室となり、3代藩主直澄を生んだこともあって、経済的には何も不自由はしていないようです。母が石山(大津市)生まれだったことから、幾度も石山寺を訪れており、石山の地でつくられた漢詩(五言律詩の中に近江八景が読み込まれています)も残されているそうです。これは『源氏物語』好きにも影響しているでしょう。非常に筆まめな性格があれこれの資料からうかがえます。
制作中の寺本憲之さん著『ドングリの木はなぜイモムシ、ケムシだらけか?』(11月下旬発行予定。以下『イモムシ、ケムシ』)のせいで、私の頭は「ドングリ」という言葉に強く反応します。
なので、10月12日(日)付毎日新聞の書評欄にあったウィリアム.B.ローガン著『ドングリと文明―偉大な木が創った1万5000年の人類史』(日経BP社)の養老孟司さんによる書評も読みました。
その一節には、
本書の原題は「オーク」、つまり「カシ」と翻訳するのが普通である。カシの実がドングリである。ただしここはちょっと厄介で、カシ類には常緑と落葉がある。欧米でいうオークは落葉樹のカシ類を指し、日本でいうならナラやクヌギに相当する。
とあるわけですが、これはかなり支離滅裂な説明です(まあ、養老さんの書くものや発言がかなり大雑把なことは皆さんご存じでしょうが)。本の方を買って開いてみると、ちゃんと目次前の冒頭に1ページを用いて、「オーク(英:Oak)=ナラ/カシ/ドングリの木について」というタイトルで、翻訳者による日本の読者向けの説明がありました。
(前略)
日本においては、落葉樹のオークを「ナラ(楢)」と呼び、常緑樹のオークを「カシ(樫)」と呼ぶ。ナラの仲間には、コナラ、ミズナラ、クヌギ、アベマキ、、カシワ、ナラガシワなどがある。カシの仲間には、アカガシ、シラカシ、ウバメガシ、アラカシ、ウラジロガシなどがある。
(中略)
ちなみに、かつてオークは日本において「カシ」と訳されたが、実際に「オーク」という場合、ヨーロッパにおいては(中略)いずれも落葉性高木であるため、「カシ」と訳すのは適当ではない。むしろ、日本の山岳地帯に産するミズナラに見かけは似ており、「ナラ」と訳すのがより正確である。
こちらが植物学的に正しい説明です。ややこしいのですが、前記書評の説明は誤りだらけであることがわかると思います。
・「カシ」と翻訳するのが普通である → 本の方では「カシ」と訳すのは適当ではないと断っているので、いまさら誤りをくり返すことはない。(『イモムシ、ケムシ』の原稿でも、「オークを『カシ』と訳している翻訳書をみかけることがあるが誤りである」と書かれています。)
・カシ類には常緑と落葉がある → カシ類は常緑だけです。
・日本でいうならナラやクヌギに相当する → コナラやクヌギなど落葉樹の総称が「ナラ」です。
これによって何がわかるかというと、大概の人は「ドングリの木=ブナ科コナラ属」の分類がいまいちわかっていない(それぞれの名称は、なんか、どこかで聞いたことはあるものばかりなのですが)ということです。
じつは、『イモムシ、ケムシ』の原稿を読んで私もちんぷんかんぷんとなり、分類図を入れてもらいました。最終章の後半では、滋賀県における縄文時代からの人間とドングリの木の関わりについてもまとめた内容になる予定です。
前回6月16日以来、間があきましたが続きの「その4」です。
まず、前々回にあたる「その2」で書いた「信長・秀吉・家康のホトトギスの句に似たのが京極導誉の連歌の発句にありますよ」の件で、出典とされる『甲子夜話』全6巻(平凡社の東洋文庫に入っている)を図書館で借りてきて、ザーッと目を通しました。
連歌関係では、巻三の21にこんな話が記されています。本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀がおこなった連歌の時の懐紙は、その山房に伝来していた。ところが、今年、幕府付きの連歌師・阪昌成に尋ねてみると、寛政の末に焼失してしまったと言っていた。 「貴むに足ざるものなれど、旧物なれば惜むべきなり」と感想を記しています。
それから、巻三十五の8に、知人が「北村氏は流石、今江戸の宗匠ほどありて朗吟す」と言ったといって、北村季文の和歌が2首記されています。
ふみも見ぬをどろがおくの住かたに
おやにつかふる道はありけり
露さむきさゝのしのやのおきふしも
おやをぞ思ふ身をばおもはず
北村季文は、近江出身の国学者・北村季吟の5代後(季吟―湖春―湖元―春水―季春―季文)にあたります。
そして、巻五十三の8に例の話が記されていました。全文引用すると以下のとおり。
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く?[りっしんべんに力3つ](表示できず、読みも不明)へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様
このあとに二首を添ふ。これ憚(はばか)る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
後の2首はあまり面白くないですが、当時の役人の名前をあてて無能さを揶揄したものだったのでしょうか。
話は変わりますが、ベストセラーとなっている和田竜さんの小説『のぼうの城』に登場する、のぼう様こと主人公・成田長親の従兄弟で、成田家当主・忍(おし)城城主だった成田氏長は、連歌好きなのですね。といいつつ、新聞の一段取りの広告欄で書名をよく目にするだけで、小説自体は未読です。『ビッグコミックスピリッツ』で連載が始まった漫画版の方の、第1回最終ページのセリフで知って書いています。
これは歴史的な事実で、HP「家紋World by 播磨屋」で「成田氏」を見ると以下のようにあります。
氏長は連歌に親しみ在京の連歌師(里村)紹巴に連歌の合点を請い、『源氏物語廿巻抄』を贈られている。また、和歌を冷泉明融に学び、古今伝授を受けるなど、かなり教養の深い武将でもあった。氏長の連歌の友に豊臣秀吉の右筆山中長俊がいた。天正十八年(1590)、小田原籠城中の氏長に長俊が再三開城を促す書状を送ったことは有名である。
前述の『甲子夜話』でも話題にのぼった明智光秀の愛宕百韻に、宗匠として招かれた連歌師が里村紹巴です(この連載「その1」でも書いたとおり)。
冷泉明融は、『源氏物語』の藤原定家による自筆本を文字の配列や字形に至るまで忠実に写し取った臨模本を残した歌人として知られているそうです。
氏長の妻は太田資正(太田道灌の曾孫)の娘だそうですが、最近出た小川剛生著『角川叢書40 武士はなぜ歌を詠むか』(角川書店)[こちらは一応ザッと読みました]には、太田道灌が東国にくだった冷泉為和(明融の父)を師匠として和歌を学んだことが書かれています。
要するに、公家文化に憧れる関東の戦国大名たちも連歌や和歌、その基礎として源氏物語を愛好したというわけです。
