新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2010年 9月 1日

其の四十一 雛(ヒナ)のいるイヌワシの巣

雛のいるイヌワシの巣

 今から約30年前、その当時、滋賀県にイヌワシが生息しているとは誰も知らなかった。野鳥を観察する者にとって、イヌワシは「高山の幻の鳥」以外の何者でもなかった。

 長野県のアルプス以外の東中国山地の氷ノ山(鳥取県と兵庫県の県境にあり、標高1510m)にもイヌワシが生息していることを知った私は、その近くの鳥取大学に入学することを決めた。1973年5月5日、生まれて初めてイヌワシの姿を見た。真っ青な青空を切り裂くように流れる漆黒の流体。それがイヌワシだった。あくまでも力強く無駄のない飛翔、生態が未知であることに衝動を覚え、イヌワシを観察するために中国山地に通う日々が続いた。

 もしかして、滋賀県にもイヌワシは生息しているかもしれない。3年近く中国山地でイヌワシを観察して、そう思った。なぜなら、同じような環境は滋賀県の山岳地帯にもあるからだ。5万分の1の地図を穴が開くほど見つめ、イヌワシがいる確率の最も高い場所を絞り込んだ。1976年3月24日、快晴。鈴鹿山脈の奥深い山中を腰まである積雪をラッセルし、見晴らしの聞く尾根にたどり着いた。そして13:00、ついに三角形をした黒い流体が尾根上を流れるのを発見。これが、滋賀県で初めてのイヌワシの生息確認の瞬間だった。

 しかし、滋賀県でイヌワシが繁殖していることを確認するのには時間がかかった。その年に抱卵中の巣が見つかったものの、雛は孵化しなかった。翌年もこのペアは繁殖には成功しなかった。何とか雛を育てていることを証明したい。地図をたよりに新たなペアを探した。そして、ついに1978年5月7日、雛のいる巣を発見。

 調査を進めていくうちに、イヌワシの生息地に住む人の中には、イヌワシという名前は知らなくてもイヌワシの存在を知っている人がいることがわかった。またイヌワシがよく止まる岩には天狗岩という名前がついているし、天狗伝説が各地にあることもわかった。イヌワシは漢字で書くと「狗鷲」。琵琶湖の源流である滋賀県の森林には、古くからイヌワシが棲み、人々は山岳地帯の守護神や超能力を持つ生き物として、イヌワシを見つめ続けてきたのだ。

アジア猛禽類ネットワーク 山崎 亨

2010年 9月 1日

其の四十 天蚕(ヤママユ)の雌雄型

 ヤママユはヤママユガあるいは天蚕とも呼ばれ、ヤママユガ科に属する大型の蛾の仲間で、日本、台湾、韓国、中国、ロシア、スリランカ、インドおよびヨーロッパに分布し、滋賀県の里山にも多く棲息しています。幼虫は、里山に生えているクヌギ、アベマキ、コナラなどのいわゆるドングリの木の葉を食べて育ちます。1年に1回だけ発生する蛾で、卵の状態で越冬します。近畿地方では、餌となるクヌギなどが萌芽する4月中・下旬頃に孵化し、4回の脱皮を経て終齢幼虫となり、6月上・中旬頃、孵化から50~60日で葉を数枚綴り合わせて営繭(繭づくり)を開始し、葉と同色の繭をつくります。

 この繭は高価な緑に輝く天蚕糸の原料になります。長野県穂高地方では江戸時代の天明年間(1781~89)から天蚕の飼育が始められました。美しい光沢をもつ天蚕糸は、今も「繊維のダイヤモンド」と呼ばれて珍重されており、長浜市力丸町(旧浅井町)では1982年に浅井町天蚕組合を発足させ、天蚕繭の生産から天蚕糸を用いた加工品づくりまでの一環した事業に取り組んできましたが、現在は活動を休止しています。しかし、新たに東近江市上二俣町(旧永源寺町)でもクヌギを植栽して天蚕の大量飼育の準備を始めています。

 天蚕の交配組合せの中から、左半分がメス、右半分がオスの奇妙な蛾が出現してきました。天蚕の生きたままの雌雄型は、世界で初めての写真です。天蚕の雌雄型の報告は、今までで2~3例しかありませんが、すべてが死んだ標本の写真です。

 昆虫には、細胞分裂の際の生殖細胞の異常によって体の雌雄の特徴が混じり合ったものが生まれることがあります。オスとメスの混ざり方は、左右半分、上下半分など様々で、これは細胞分裂のいつの時期に起こるかによって決まります。これを雌雄型または雌雄モザイクといい、専門用語でジナンドラモルフォといいます。生殖器が雌雄型になると、蛾の体の中で、精子と卵の両方をつくります。

 天蚕のメス蛾は、前翅の先が丸く、触角が細くなっています。一方、オス蛾は、前翅の先がとがり、触角が太く、櫛状になっています。雌雄型では、左では前翅の先が丸くなり、触角が細くなり、右では前翅の先がとがり、触角が太い櫛状になっています。今回2頭の雌雄型が出現しましたが、1頭はメス腹で卵巣が発達していましたが、もう1頭はオス腹で卵巣が発達していませんでした。

 昆虫の雌雄型の報告は、クワガタムシやカブトムシなどの甲虫類やアゲハチョウなどの蝶類などで若干あり、その出現率は一般に1万分の1程度であると言われています。

東近江地域振興局農産普及課 寺本憲之

2010年 9月 1日

其の三十九 増えたコアシナガバチ

コアシナガバチ

 滋賀県内に生息しているアシナガバチ類は、大きいほうからキアシナガバチ、セグロアシナガバチ、ヤマトアシナガバチ、キボシアシナガバチ、コアシナガバチ、フタモンアシナガバチ、ホソアシナガバチ、ヒメホソアシナガバチの8種です。これらのうちコアシナガバチは、どちらかといえば高原性の種類で、長野県などでは人家周辺に普通ですが、西日本では平地にはほとんど見られません。

 これまで、滋賀県内のコアシナガバチの記録は少なくて、とりわけ平地では愛知川河辺林(東近江市五個荘)にすぎないようです。ところが2004年以降の3年間に、野洲市(農地に接した住宅地)、近江八幡市(住宅地および宮ヶ浜湖岸)にて相次いで成虫が採集され、野洲市では巣も確認されました。 コアシナガバチはさらに分布を広め、滋賀県の平地に定着するのでしょうか。もし、高原性のコアシナガバチが本県平地に定着するなら、とても興味深い例となるかもしれません。なぜなら近年の、ナガサキアゲハやツマグロヒョウモンのような、暖地性昆虫の北進とはむしろ逆の現象だからです。今後、さらに注意深く県内での動向を調べたいと思っています。

 コアシナガバチの体は全体に濃い褐色で、多くのアシナガバチ類に比べ黄色部がわずかです。最もよく似たキボシアシナガバチとの区別点は、腹部背面やや後寄りに黄色班をもつことなどです。

 写真は、2006年5月28日、畑に残るチンゲンサイについた青虫を捕らえ、噛み切った肉片に前脚を添えて飛び立とうとするコアシナガバチの女王です。そう遠くないところにこのハチの巣があるはずですが、見つけることはできませんでした。

滋賀県立八幡高校教諭 (滋賀県生きもの総合調査専門委員) 南 尊演

2010年 9月 1日

其の三十八 ツバメの不思議

ツバメ

 「ツバメ」はどこでも普通に見られる鳥ですが、実は夏の琵琶湖を代表する鳥です。3月末にオスがメスより先に来て「なわばり争い」をし、少し遅れてメスが渡ってきます。ツバメは主に人家の玄関あたりに巣を作りますが、これは人をうまく利用し、天敵から守ってもらいながら子育てをする、非常にめずらしい習性を持った鳥です。

 巣は泥と草やわらを唾液で固めて作り、卵は5個ほど産みます。約2週間後にかえったヒナは、ハエやガガンボ、トンボなどの虫をもらって育ちます。成長は非常に早く約3週間で独立します。よく子供たちに「ツバメのエサは何?」と聞くと、ほとんど「ミミズ」と答えますが、本当は飛んでいる虫たちで、水を飲むのも飛びながら飲みます。虫を取るエサ場は「田んぼ」で、稲につく害虫を駆除してくれる益鳥(有益な鳥)として、昔から人々はツバメを大事にしてきました。それで今でも人家を子育ての場所として利用していますが、最近は住宅難で非常に苦労しています。

 ところでツバメのさえずりを聞いたことありますか。巣材の土を口で運び、虫をエサとして食べていますので「土食って虫食ってシブーイ」と鳴いています。ぜひ注意して聞いてみてください。

 ツバメにはあまり知られていない習性が他にもあります。それは巣立った若いツバメや繁殖を終えた親ツバメは、琵琶湖岸の大きなヨシ原に集まって集団で寝ることです。県内には4ヶ所のネグラがあり、野鳥センター近くの湖岸にもたくさんのツバメが集まってきます。夕方薄暗くなるころ、何千、何万というツバメが飛び交い、最後はヨシ原に降るように降りて集団で寝る様子は、感動すること間違いなしです。時期は7月から9月中旬まで、皆さんもぜひ一度「ツバメの大乱舞」をご覧ください。

湖北野鳥センター 清水幸男

2010年 9月 1日

其の三十七 井戸とツルベ(釣瓶)

井戸とツルベ

 上水道が普及するまで水の確保は各家の務めであった。どの家にも深い井戸が掘られ、湧き水を汲み上げて飲料水をはじめ風呂や洗濯に用いたが、住宅の改築に伴い今ではすっかり姿を消した。

 写真の井戸は、現在ダム建設が計画されている多賀町水谷の若宮八幡宮境内にある。年3回の祭りに、湯立て神楽が奉納される際に用いる釜の湯はこのツルベを使って汲む。八幡宮のあるところは急傾斜地で、隣接する民家の屋根の高さほどに位置する井戸であるにもかかわらずきれいな水が涌くので、今も使われている。

 井戸の底が浅いのでツルベの竹竿の長さは175cmしかない。ツルベは口径が21cm、底径が19cm、高さ17cmのブリキ製のバケツで、約5リットルの水が汲める。ツルベの口縁部に鉄輪を巻き強度を高めるとともに一種の錘の役目をおわせ、ツルベが早く沈むようにしてある。

 ツルベがブリキのバケツに代わる前は、おそらく桶が付いていたものと推測されるが、桶は木製のため水に浮く。口縁部に鉄輪(かなわ)を巻く知恵はそのころからのものかもしれない。井戸は内法(うちのり)76cm四方、厚さ12.5cmのコンクリートの枠で囲われ、地べたから62cm立ち上げてある。コンクリートの枠になる前は、木枠が設えてあったであろう。地面から下の井戸の内壁は石を組んであり、古い井戸の形式が伺われる。

 井戸の近くには大きな石をくり抜いて作った手水鉢が据えてある。幅55cm、長さ83cm、高さ46cmの石の真ん中に、水を溜める池を彫りくぼめてある。これに用いる水も当然のことながら井戸から汲んだものと思われる。横に「御大典紀念」「大正六年七月/上水谷宮世話」とあり、大正天皇の即位を記念して当時の宮世話が寄進したものと思われる。

滋賀県教育委員会文化財保護課 長谷川嘉和

2010年 9月 1日

其の三十六 千代ゆかりの鏡箱

鏡箱

 来年(2006年)のNHKの大河ドラマ「功名が辻」は北近江(湖北)が舞台となります。物語の主役、戦国武将・山内一豊は、尾張(愛知県)で父を織田信長に討たれて、一家で近江へやってきます。 その落ち着き先になったという伝承をもつ米原市宇賀野(うかの)の長野家には、一豊や妻千代ゆかりの品々が伝わっています。 よく知られたエピソードで、馬揃えで参内することになった夫に、駿馬を用意してあげたいと思った千代が、購入資金として黄金10両が入った金子を取り出したのが、この鏡箱(ただし、長野家では、黄金5両を千代の母・法秀院が取り出したと伝わっています)。蓋の表面には宮中を描いた蒔絵が施されており、箱の内側は朱塗りです。鏡は青銅製で、裏面には松の木と鶴の柄が彫られています。その他にも長野家には、法秀院が使ったとされる一升桝、一豊が馬に乗るときに使ったという鉄製の轡も伝わっています。 宇賀野の南隣にある米原市飯(い)は千代の出生地、虎姫町唐国(からくに)は一豊の初の知行地となった場所とされます。小谷城落城後、秀吉に従ってきた一豊は、1000石(実際には400石だったとされる)分にあたるこの地をもらったのでした。 また、千代が名馬を手に入れたのは、中世から牛馬市が盛んに行われていた木之本町木之本の馬市だったと伝わっています(安土の城下町とする説もあり)。

Duet編集部

2010年 9月 1日

其の三十五 従軍看護婦の召集令状

招集状

 戦時中、日赤の看護婦さんたちには、兵士と同じように召集令状が届きました。戦場でケガや病気をした兵士の看病をするため、救護班として出征したのです。通称「赤紙」と呼ばれ、東浅井郡浅井町野瀬出身の妹尾とみさん(77歳。現在は長浜市在住)が保存しておられたもの(写真)も兵士の場合とは書式や大きさが異なりますが、淡い赤色をしています。

 昭和19年3月、京都第二赤十字病院看護婦養成所(現・京都第二赤十字病院)を卒業したばかりの同年4月にこの紙を受け取ったとみさんは、任地先となった広島県の呉海軍病院(現・独立行政法人国立機構呉医療センター)へと向かいました。とみさんは、戦地へ行くことを「お国のために役に立ちたいという一心で、こわいとは思わなかった」と振り返ります。呉海軍病院では、ひたすら傷病兵の看護にあたりました。サイパン島玉砕後の負傷兵は、大半が熱傷で、顔面手足の皮膚はひきつり、耳の中にはウジがわき、それは悲惨な状態だったそうです。

 しかし、暗いことばかりではなく、病院で患者慰問演芸会が催され、とみさんは、同室の看護婦平井さんに教えてもらった「白頭山節」(中国と北朝鮮の国境にある白頭山を讃えた民謡)を披露しました。「白頭御山に積もりし雪は溶けて流れて……可愛い乙女の 化粧の水」。今では、とみさんの十八番になっています。 同じく召集を受けた浅井町谷口の清水コシズさん(78歳。旧姓北川)は、昭和18年3月に召集、4月には中国済南病院の看護婦として勤務することになりました。病院には毎日毎日トラック何台分もの負傷兵が運ばれ、手術のない日はありませんでした。瀕死の兵士が寝ずの看病で回復して喜んだのもつかの間、再び前線へ送ることにはむなしさを感じたそうです。

 翌年にはコシズさんも遺書を書き、遺髪とともに故郷へ送っています。「御母様 最後に一言御礼を述べさせて戴きます」と始まる遺書は便箋3枚(11ページ写真)。終戦の翌年、昭和21年4月になって、ようやく故郷に帰り着きました。そこには、軍服を着て、髪を短くしたコシズさんの姿がありました。2年後に結婚したコシズさんは、嫁ぎ先でも遺書と遺髪を大切に保管し続けてきました。

お市の里 浅井町歴史民俗資料館 冨岡有美子

2010年 9月 1日

其の三十四 城跡をつなぐ「のろし」

のろし

 一部で、近江が「城の国」と呼ばれるようになって久しい。県教育委員会の分布調査では、琵琶湖畔や平野、山上に1300を超える城郭が確認された。確かにその中には、日本の五大山城のうち「小谷城」と「観音寺城」があり、日本の城郭の歴史を大きく変えた「安土城」が築かれ、国宝「彦根城」がある。しかし、ほとんどはわたしたちが住む裏山にひっそりと残る城跡である。昨今近江では、その存在すら忘れ去られてきた身近な城跡を再びよみがえらせようという活動が盛んである。遺跡の保存整備は、多くの場合、行政側から住民に働きかけるパターンが多かったが、近年の事情は住民自らが遺跡をどう活かすかを考え、さらにネットワークが広がっているのが特徴である。その発信源は鎌刃城(米原町)。そして、伊吹山麓の京極氏遺跡(伊吹町)に飛び火した。両遺跡は相次いで国の史跡となった。住民パワーが呼び込んだのだ。

 伊吹山麓のひっそりとした山里が上平寺地区(15戸)である。2キロほど東へ行くと、もう岐阜県関ケ原町になる県の北東端の集落だ。この小さな集落と京極氏の館跡を舞台に、秋の1日ここでひとときの戦国浪漫に浸ろうと、600人を超える人たちが集うイベントが行われている。平成14年(2002)からはじまった「上平寺戦国浪漫の夕べ」である。遺跡の概要については、サンライズ出版の本を見ていただくとして、イベントは、午後の歴史講演会、薄暮がかかってからは恒例の京極軍団出陣太鼓、演能や雅楽、フルートのコンサートなどがあり、聴衆は森閑とした林に流れる音色に魅了される。圧巻は庭園跡や参道を幻想的に演出する、区民手作りの3000本の行灯である。参加者は、猪鍋のもてなしに身も心も満足して、帰路につかれる。しかし、たった15軒でここまでたどりつくのは並大抵ではない。ほとんどの住民の方は、京極氏や遺跡について知らなかったことから、数年前から講師を招いた勉強会が行われ、共通認識を培われた。背丈をこえる熊笹に覆われた庭園跡や山城への道を刈り払い、間伐林や竹でベンチや階段を作る。有志といいながら、ほとんど「総出」である。子どもたちに誇れるふるさとを残すことが大きな目的である。さらにイベントは交流の連鎖を呼んだ。京極氏のつながりで、江戸時代京極藩だった香川県丸亀市に招かれ、上平寺が京極氏のふるさとであることをアピールし、甲良町正楽寺地区との交流も続いている。

 交流の最たるものが「近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」である。鎌刃城跡を舞台にすでに活発な活動をされていた米原町番場地区の呼びかけで始まったイベントは、今年も30の城跡を戦国時代の通信手段「のろし」でつないだ。伊吹町では、弥高地区の若手グループが、近江を一望できる弥高寺跡からのろしを揚げ、新たなまちづくりの1ページを開いた。各城跡では、行政を巻き込んだ歴史講演会やウォーキングなどが行なわれた。今後、のろしは東へ向うという。「いざ、鎌倉!」

*写真:伊吹町弥高寺跡で揚げられた「のろし」

伊吹町教育委員会 文化財係長 高橋順之

2010年 9月 1日

其の三十三 ヨシと共生する付着微生物たち

顕微鏡で見た付着状況の概念図

近江舞子沼のヨシの付着状況 ヨシ群落は琵琶湖の原風景であり、水辺の環境を守る大切な植物です。ヨシ群落には色々な働きがありますが、その中のひとつに水質保全の働きがあります。水の流れをせき止めて水中の汚濁物質をより早く沈殿させたり、ヨシの水中茎の付着微生物による有機物の分解やヨシ自身の成長による窒素やりんの除去などです。

 ここではヨシの水質浄化作用にとって、大切な役割を荷なっている付着微生物を紹介します。水中のヨシ茎に付着する微生物は大別すると、三つのグループに分けられます。第一は水中の栄養塩(窒素やりん)をとって光合成をする藍藻、珪藻、緑藻などの微細藻類(生産者)、第二はそれを食べる原生動物、輪虫などの小動物(消費者)、そしてそれらの死骸や流入有機物を分解するバクテリアの仲間(分解者)です。出現する種類は水質や水流などの微環境の違いやヨシの生活活性によっても異なりますが、私が今までに見た代表的な種類をいくつか図で紹介しましょう。第一の優占種は緑藻のサヤミドロ。付着器がありしっかりヨシの茎に付着して糸状に伸びてゆきます。そのうえに柄のある珪藻、帯状の珪藻や他の糸状緑藻(アオミドロ)、藍藻などが絡まって付着し、ゆらゆら揺れながら生活しています(写真)。さらにヨシの茎を包んでいる葉鞘の表面には珪藻のコッコネイス、藍藻のプレウロカプサや緑藻のコレオケーテなど10ミクロン (1/100mm)ほどの小さな単細胞植物がぴったり付着して、いろいろな形の群体を作っています。さらにこの森の中を泳ぎまわってそれらを食べるワムシや原生動物のアメーバ、柄を持つツリガネムシの仲間など多種多様の生物たちが生活しています。時には大型のヒメタニシがそれらをなめてしまうこともありますが、最後にはバクテリアによって分解され、一部は底泥に沈積して再びヨシの栄養となり、一部はその場で再利用、一部は流れによってこの森の外へ出て行きます。生活の場を提供してくれるヨシと共にこのような付着微生物たちの生命の絶え間ない物質代謝のサイクルによっても水は浄化されるのです。ちなみに私の調べた琵琶湖の内湖の一つ、安曇川町にある五反田沼では、10cmの長さの茎に約0.5cc(1昼夜殿量)の微生物が付いていました。もし琵琶湖のヨシの全茎付着微生物量を積算すればおそらくすごい量になることでしょう。今日はほとんど知られることもなくひっそりと、しかし、相互にかかわりを持つ小宇宙の中で生命の営みを続けながら役立っている微生物たちが存在することを紹介しました。

*写真:近江舞子沼のヨシの付着状況
*図 :顕微鏡で見た付着状況の概念図

滋賀県琵琶湖研究所 客員研究員 巌 靖子

2010年 9月 1日

其の三十二 大津市千町の里山

里山

 いま「里山」の人気が高い。「里川」とか「里海」という新語ができるほど、この言葉は人の暮らしと自然との関係をたくみに表現しているが、それが指す実体は使う人によって同じではない。

 初めて里山という語を広めた四手井綱英さん(京大名誉教授・林学)は、農村に近い二次林で、薪木や農地の肥料の給源として利用されてきた、いわゆる「農用林」を指してこう呼んだ。しかし最近は、さらに山奥の、おもに炭焼き用の「薪炭林」までも里山に含める人が多い。すると、植林以外の滋賀の森林のほとんどが里山ということになるが、この二つのタイプの林は生態的にかなり違うので、私は四手井さんのほうに賛成したい。 大津市の千町のあたりに住みついて、十数年になる。千町の最も山手にある集落は、もうなかば山村という感じで、周囲を里山の林にかこまれている。当時は、ちょうど松枯れ病の進行中で、それまでは高木の主役だったアカマツが一斉に枯れ始めていた。

 農用林としての利用は、もう全く行われていなかった。放置された林がどうなっていくかに興味を引かれて、まず定点をきめて定期的に記録写真を撮り、あたりの観察も続けてきた。まずコナラなどの落葉樹がぐんぐん成長して枯れたマツに取って代わり、やがて下生えのなかからアラカシやソヨゴなどの常緑樹も伸び上がり始めた。やがて、落葉樹林期を経て近畿低地の自然林であるカシやシイの常緑照葉樹林へと移行していくだろう。ここまでは通説通り、予想通りだったが…。事態は、この路線からはずれた。定点の林の片隅にあった小さな竹林が急に拡大し始め、まわりの木々を枯らして、林全体を占領しそうな勢いになったのだ。見まわすと、あたりの里山の各所で同じことがおこっている。お気づきの方も多いだろうが、実はこれは、南西日本の里山で広く起こっている現象の一端にすぎないのである。

 里山にはどこでも、ふつう個人所有の小規模な竹林が点在している。マダケ・モウソウ・ハチクと種類はちがっても、どれも長く地下茎を延ばして広がる性質をもつ。地下茎は、まわりが農地・雑木林、植林、なんであろうと遠慮なく侵入して筍(タケノコ)を出す。筍は、伸びきるまでは地下茎から供給される養分で成長するので、暗い林内でも平気で育つ。もし成竹の高さが周囲の木々をしのげば、日射をさえぎって先住者を枯らしてしまう。

 その勢いは非常なもので、スギやヒノキの植林でも、そうとうな高さに成長した林でないとやられてしまう。今は、里山林と竹林のどちらも利用されずに放置されているので、竹林がとめどもなく拡大しているのが現状である。里山固有の多様な生物も、変化に富んだ景観も、どんどん滅びていくだろう。

 この現象は、例えば東海道線の山崎付近などでは、数十年前から顕在化しており、一部の先覚者たちが警告していたが、里山と竹の利用が急激に衰えるとともに、それが杞憂でなくなった。「里山を守れ」という声は高いが、今もっとも必要なのは、春に竹林のまわりの筍をもぎにいくボランティア活動ではないだろうか。残念ながら、その努力をしておられる方々はまだごく少ないようだ。

*写真:里山林を浸食中の竹林

滋賀県琵琶湖研究所 顧問 吉良竜夫

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