新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の八十九 徳川家康画像

 滋賀県立安土城考古博物館 学芸課主幹 髙木叙子

徳川家康画像

 安土城考古博物館では、織田信長だけでなく、その周辺の人物の資料も収蔵しています。今年、大河ドラマで注目を集めている徳川家康もその一人です。家康は、桶狭間合戦で今川義元が討たれたのを機に信長と同盟を結び、信長に対して戦国大名や家臣たちが次々と敵対し謀反を起こしていく中で、最後までよい関係を保持した人物でした。
 その家康を描いた画像が、こちらです。しかしこの画像、信長や明智光秀・浅井長政など、他の人物の肖像画とは、明らかに違う点があることにお気づきでしょうか。一般的に歴史上の人物の肖像画は、亡くなった後に供養や礼拝のため描かれることが多く、たいていが最も晩年の姿で描かれます。そして当たり前ですが、「人間」の姿です。この家康像も、朝廷での正装である黒色の束帯をまとって右手に笏を持ち、上畳に坐る老人の姿なのですが、坐っている場所が特殊です。周囲は3面の鏡を備えた御簾や華やかな幕と紐で飾られ、前面は階段のある朱塗りの高欄に囲われた拝殿で、そこに狛犬が鎮座しています。建物には蟇股も見え、まさに神殿の建物。この家康は、そこに鎮座する「神様」なのです。
 家康は、大坂夏の陣で豊臣秀頼母子を滅ぼした翌年の元和2年(1616)に亡くなりますが、遺言に従って遺体はその日のうちに駿府城から久能山(ともに静岡市)に移され、追って朝廷より「東照大権現」の神号が授けられました。一周忌の後に、遺体は日光(栃木県)に遷座します。これが日光東照宮の始まりです。
 この家康を神とするもう一つの理由は、「金」の使い方です。鏡や金具などに表側から金箔や金泥が用いられて輝いているだけでなく、背景の水墨画や拝殿床面などは絵絹裏から金箔が施されています。このような手法は仏画や神像ではよく見られますが、基本的には「人間」を描く場合には用いられないものなのです。
 この春に開催される、信長と家康を扱った特別展でも展示する予定ですので、実際にその違いを見に来ていただければと思います。

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