新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2020年 12月 11日

其の81 柴

 滋賀県立琵琶湖博物館 渡部圭一

柴

 リニューアルオープンした滋賀県立琵琶湖博物館の歴史展示室(B展示室)で、新たに展示される資料のひとつに「柴」があります。細い木の枝を丸く束ね、縄でしばっただけの簡単なつくりですが、過去の近江の人びとと自然環境との関わりをふりかえる上では、この柴の束は欠かせない存在です。
 柴とは植物の名前ではなく、山からとる燃料の種類をさす言葉です。おもにツツジの仲間やコナラなどの広葉樹の枝を、カマやナタで刈ってつくります。「おじいさんは山へシバ刈りに……」という昔話の定型句の正体のひとつが、こうした燃料用の柴であったことはあまり知られていません。
 写真の柴は、近江八幡市南津田町にすむ大正12年(1923)生まれの古老、西川新五良さんの手で、展示用に復原制作されたものです。あえて復原としたのは、柴のような日用の燃料は作製から消費までのライフサイクルがあまりに早く、いわゆる「民具」として今日に残される機会がないからです。
 津田内湖に面した南津田は、八幡山の西麓に広い共有山をもっていました。ところが聞き取りや古写真、また近世~近代の絵図や文書にさかのぼって調べると、この山には高い木はあまりなく、背丈ほどの高さの雑木が中心でした。柴をとる仕事は「シバシ」といい、秋の収穫の終わった人から山にいき、競って雑木を刈り取り、束を斜面の上から転がり落として運びました。
 新五良さんからの聞き取りによれば、高度経済成長期より前の南津田のふだんの燃料は、稲の藁、アカマツの落ち葉、そしてこの柴であったといいます。炭や薪(割り木)は貴重品で、割り木を使うのは正月用に搗くもち米を蒸すときくらい、あとは人が亡くなったときには火葬をする燃料として、山のアカマツを1本伐ることができた程度でした。
 「里山」の産物を代表する柴。そこには近江の森と人との関わりが凝縮されています。柴の形には地域ごとの違いもあり、その取り方や運び方もさまざまです。新装されたB展示室では、ジオラマや実物資料を駆使して、柴をめぐる人びとの営みを伝えています。

2020年 12月 10日

其の80 信楽海鼠釉火鉢

 甲賀市信楽伝統産業会館 館長 奥田琢也
信楽海鼠釉火鉢
 日本六古窯の一つである信楽焼は可塑性に秀でた信楽の土を生かしての大物陶器づくりを得意としており、その一つである火鉢は江戸時代後半から生産が始まりましたが、当時は他産地製品に圧されて販路は思うように伸びなかったようです。そのような中、それまで中国から輸入された火鉢などに美しく揃った白萩釉の斑点が紺色の釉薬に散りばめられた「志那海鼠」と呼ばれた釉薬に注目しました。すでに国内の各産地では、この海鼠釉を発色させる研究に取り組んでいましたが、失敗の連続であったようです。
 信楽でも明治の初めから、この釉薬の開発に取り組み、試行錯誤を重ねた結果、明治20年(1887)ごろにほぼ完成しました。また、大正9年(1920)には石膏型による機械ロクロ成型法が生み出され、正確にそろった形の量産が可能になります。同時にエアーコンプレッサーを使った吹き付けによる海鼠釉の施釉方法も考案され、白萩釉の斑点が美しい火鉢は信楽の主製品として国内外に市場を拡大していきました。
 そして、戦争の時代を経て、昭和20年(1945)からは戦後復興の波に乗って信楽の火鉢が飛ぶように売れ、好景気に沸きました。世の中が安定し始めた昭和20年代中ごろから石油ストーブが普及しはじめると、次第に火鉢の需要は減り、昭和30年代からは観葉植物の普及もあって、信楽焼の主産品は火鉢から主に海鼠釉を施した植木鉢へと移りました。
 余談ですが、私は、昭和32年(1957)に小さな焼屋の子として生まれました。当時はもう火鉢の全盛期は過ぎていましたが、母親が吊り下げたタンクからゴム管を通して落ちてくる釉薬とエアーコンプレッサーを巧みに使って真っ黒になりながら火鉢や植木鉢へ海鼠釉を吹き付け、それを父親や職人さんが釉薬がこすれて落ちないように気を付けながら窯詰をしていたことを覚えています。
 また、家の客間には海鼠釉の大きな火鉢があって、鉄瓶にはいつも湯が沸き、そのかたわらで秋になれば栗を、冬になれば餅を焼いたことも遠い思い出です。

2020年 12月 9日

其の77 大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状

 大津市歴史博物館 副館長 和田光生
大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状
 元亀2年(1571)9月2日付で明智光秀が雄琴の土豪和田秀純に宛てた書状は、比叡山焼き討ちの10日前、宇佐山城にいた光秀の動向を伝える史料として注目されてきました。内容は、和田と仰木の土豪八木氏が織田方に味方すると伝えたことへの礼状です。和田の書状とともに八木氏が宇佐山城に行って直接伝え、光秀はその決断を「感涙を流し」と表現しています。おそらく前年の志賀の陣で、和田・八木氏は浅井長政方に与していたようで、今回、織田方になると伝えたことから、このような言葉となったのでしょう。また、「堅田よりの加勢の衆、両人衆親類衆たるべく候か」とあるのは、前年の志賀の陣で織田方として活躍した堅田の土豪、猪飼野・居初・馬場を指すのでしょう。猪飼野の系図によれば、和田とは姻戚関係にあったようですし、居初氏についても、近世・近代には和田とつながりを持っていました。つまり前年は、堅田衆が織田方、和田・八木氏が浅井方に分かれていたわけですが、互いのつながりは続いており、その中で、光秀の働きかけ、また堅田衆の働きかけもあったと思われ、和田・八木氏は織田方につく決断をします。戦国の不安定な状況の中で、地域土豪が生き延びるためには、血縁を基盤としたネットワークが、頼るべき術の一つだったのでしょう。もちろん、この決断は、地域の命運をかけたものになります。
 光秀の書状には、「仰木のことはぜひともなで斬りにつかまつるべく候、やがて本意たるべく候」という物騒な言葉が見られます。これを比叡山焼き討ちを前提とした指示と考えると、横川山麓の仰木に逃げてくる者を皆殺しにするように、指示しているのではないでしょうか。織田に味方することは、人質を出し、比叡山焼き討ちに加担することを意味しており、それは殺戮をともなうものでした。こうして雄琴の土豪和田は、明智光秀に付き、行動を共にしますが、山崎の合戦には従軍しなかったようです。その後、和田は地元に帰農し、子孫は雄琴で暮らし続け、私は、その末裔ということになります。

2020年 12月 8日

其の79 家訓「先義後利」 西川利右衛門

 近江八幡市文化観光課 烏野茂治

家訓「先義後利」 西川利右衛門

 現在近江商人の屋敷として公開している重要文化財旧西川家住宅は、西川利右衛門家の本宅です。同家は、畳表や蚊帳を扱った八幡商人のひとつで、江戸日本橋や大坂、京都などに出店を持ちました。現在、旧西川家住宅の床の間に1幅の掛軸が掛けられています。同家を本家とする大文字屋西川家一統に伝わる「先義後利」と呼ばれる家訓が記されています。
「先義後利者栄/好富而施其徳」
「義を先にし、利を後にするは栄え、好く富みて其の徳を施せ」と読み、その内容は(先ず利益を求めるのではなく)人として、道義をわきまえた行いをしていれば、利益は後からついてきて、栄える。よく富み、その富に見合った徳すなわち善行を(社会に)施せというものです。
家訓の前半部分は、中国の儒学者、荀子の言葉で、現在でも老舗と呼ばれる企業の経営方針として代々伝えられているところもいくつかあります。例えば、百貨店の老舗大丸は、初代当主である下村彦右衛門によって、元文元年(1736)よりこの言葉を事業の根本理念として定めています。
 一方、後半部分は漢詩などからの引用は確認できないことから、大文字屋一統によるオリジナルの文言ではないかと考えられます。その文面から「其の徳を施せ」といういわゆる社会貢献を謳う部分に目にいきがちではありますが、例えば日野の商人中井源左衛門の「金持一枚起請文」にある「始末と吝き」と同様、「好く富みて」部分も含め利益に対する支出や消費への理念も含まれていると考えられます。
 大文字屋一統では、奉公人が別家するとき、当主より「お墨付き」と呼ばれる支度金と家訓が書かれた掛軸を与えられます。「お墨付き」については、その後当主預かりとなり、別家には利息が与えられますが、掛軸は別家が大切に保管し、その理念は継承していくのです。

2020年 11月 28日

其の78 金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 愛荘町立歴史文化博物館 三井義勝
金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 天台の名刹として著名な金剛輪寺に伝わる「豆の木太鼓」。見た目は太鼓そのものですが、鼓面に皮ではなく朱漆で剣形左三ツ巴文が描かれた檜の板材を張るのが特徴です。寺には太鼓とともに、それにまつわる説話が伝えられています。
 昔、寺の小僧のひとりが庫裏を掃除していると、床下に一升ほどのそら豆が入った箱を発見しました。お腹をすかせた小僧たちは和尚の留守を幸いに、そら豆を全部食べてしまいました。
 時は過ぎ、秋を迎える頃、和尚はそら豆を蒔こうと床下に保管していた箱の中を覗いたところ、中身が空であることに驚きました。和尚は小僧たちを問い詰めると、小僧たちはすべて食べたことを白状しました。反省した小僧たちは、そら豆が残っていないか床下をくまなく探したところ、一粒だけ見つけることができました。
 小僧たちは、その一粒を畑に蒔き、大きく育つよう観音さまに一心に祈りました。やがて芽を出した豆は大木に成長し、たくさんのそら豆がなり、ご利益となって現れた豆の木で太鼓の胴が造られました。
 金剛輪寺の「豆の木太鼓」は打楽器ではなく、太鼓形の酒樽(漆塗太鼓形酒筒、室町時代)です。前出の説話とは異なり、木理の美しい胴は欅材で、胴頂には円い孔が穿たれています。また、孔の周囲には注口を取り付けた際に接着剤として使用された漆あるいは膠が、付近には栓を固定するための座金具の痕も確認できます。中世の絵巻物では、酒宴の席や陣営などの場面で同様の太鼓樽が酒肴や酩酊する人々とともに描かれていますが、おそらく金剛輪寺の太鼓樽も宴席などで使用されたものと考えられます。
 太鼓樽と同時代で金剛輪寺本堂の「下倉」で管理されていた算用状「金剛輪寺下倉米銭下用帳」(滋賀県指定有形文化財)に「七百文 京極殿様千手寺御陣時御礼樽酒代」という記述があります。金剛輪寺は出陣あるいは帰陣の際の見舞品として、酒で満たされた太鼓樽を京極殿(京極政経、1453–没年不詳)に贈ったのでしょうか。

2019年 12月 25日

其の76 アケボノゾウ化石

 多賀町立博物館 糸本夏実
アケボノゾウ化石

 今回紹介する資料は、当館のシンボル的存在のアケボノゾウ化石です。この化石は1993(平成5)年に多賀町四手にある、びわ湖東部中核工業団地の造成にともなう工事で見つかりました。木々に覆われていた丘陵地が開発されたこと、第一発見者である工事関係者が化石を見逃さなかったことなど、いくつもの偶然が重なって現在展示室の中で見ることができます。この化石の発見がなければ、多賀町古代ゾウ発掘プロジェクトが発足することもなければ、多賀町立博物館が建設されることもなかったのかもしれません。
 アケボノゾウはゾウの進化の歴史の中で古い種類だと考えられていたことに由来して、夜明けを意味する名前がつけられたのでしょう。その後、各地で発掘された近縁種の化石と比較した研究から、アケボノゾウは大陸から渡ってきたゾウが日本で進化した種だということがわかりました。「あけぼの」のゾウではなかったようですが、名前にはそのような歴史が隠されています。
 全国各地で見つかっているアケボノゾウ化石と比べて、多賀町のものは全身の骨がよくそろっている貴重な標本です。工事中に見つかり、大急ぎで発掘したため、その時には詳しい調査ができませんでした。詳細に調査をするべく、アケボノゾウ化石の発掘から20周年を契機に多賀町古代ゾウ発掘プロジェクトが発足しました。その発掘調査では、アケボノゾウと同じ時代を生きた生物たちの化石が多数見つかり、当時の沼や周辺の森の様子が明らかになってきました。
 化石は人類が見たことのない遠い昔を探る手掛かりとなります。過去を解く鍵はまだまだ私たちの足元に眠っており、まだ日の目を見ない地中のアケボノゾウたちが掘り起こされるのを待っているのかもしれません。多賀町古代ゾウ発掘プロジェクトの合言葉でもある「2頭目のアケボノゾウ全身化石」はまだ見つかっていないものの、プロジェクトのメンバーたちが諦めずに発掘し続ける原動力となっています。

2019年 5月 31日

其の75 縄文時代のスギ埋没木

滋賀県立琵琶湖博物館 林 竜馬

 2018年11月に琵琶湖博物館に新しく造られた空中遊歩道「樹冠トレイル」は、屋外展示の「縄文・弥生の森」の中に建っています。この森は、人が自然に大きく手を入れる前の原生的な植生を再現しています。神社やお寺の周囲に残された社寺林と呼ばれる植生や、琵琶湖の周りから見つかるさまざまな植物の化石を参考にして、縄文時代や弥生時代の森を復元しています。

 今回紹介する資料は、「縄文・弥生の森」の復元に一役かった大きな木の化石です。この大きな根株は、1992年に大津市木戸にある木戸小学校の工事の際に地中から大量に掘り出された埋没木のうちの一つです。今から約3000年前に生きていた針葉樹、スギの埋没木で、その幹直径は1m以上、根ばりは3m以上あります。琵琶湖の周りでは、穴太遺跡や余呉湖周辺の低地などでも、このような巨木の埋没木が見つかっています。地層の中に眠る巨木が、私たちに太古の森の記憶を語りかけてくれるのです。

 縄文時代の人々は、このような巨木のスギの森を見つめながら、琵琶湖の周りで暮らしていました。当時から、スギを木材として利用していたことも、考古学の研究成果から明らかになっています。滋賀県における縄文時代の遺跡からは、丸木舟と呼ばれるボートが30艘近く発見されています。丸木舟は、大きな丸太をくりぬいて作られたもので、古くから人々が湖や川に漕ぎ出すのに欠かせない道具でした。

 滋賀県で出土した丸木舟の材料となる樹木は、その約半数をスギが占めていたことが樹種同定の結果から示されています。縄文時代の人々は、この埋没木資料のようなスギを伐採して、丸木舟をはじめとしたさまざまな道具を作っていたのです。

 2020年にリニューアルオープンする琵琶湖博物館のB展示室では、琵琶湖と森で暮らした縄文時代の人々の生活について、実物資料と等身大ジオラマで紹介する展示コーナーができます。

 その中で、遺跡から発掘された丸木舟の実物標本とともに、このスギの埋没木も展示する予定です。また、屋外展示の一角には、今回の資料と同じ場所で見つかった、より大きなスギの根株も展示していますので、一度探してみてください。

2019年 4月 24日

其の74 山内ふるさと絵屛風

甲賀市土山歴史民俗資料館 駒井文恵

山内ふるさと絵屛風 山中(部分)

山内ふるさと絵屛風 山中(部分)  中央を走る東海道を中心に、虫取りや川遊びなど懐かしい情景。牛の仲買人がぞろぞろと牛を引くさまは、当時の街道の様子を彷彿とさせる。


 昨年(2018年)、土山町山内6地区のふるさと絵屛風が完成しました。これは地域住民の暮らしの記憶を形にして未来へつなげる取り組みで、市民団体の山内エコクラブの活動の一環として行われたものです。

 ふるさと絵屛風は、完成までの過程が重要とされます。聞き取り、下絵の制作、絵屛風への清書を進めていく中で、人々のつながりが生まれ、日に日に高齢者が生き生きしていく様子が見られました。描かれた内容はふるさとへの思いにあふれています。年上の子が年下の子の面倒を見たこと、屋根の萱葺きの手伝い合いをしたこと、川をせき止めて泳いだこと、ササユリの咲き誇る風景など、人と人の豊かなつながりや人が自然とともに暮らしてきたことを再認識させるものとなっています。現在、土山歴史民俗資料館では、山内ふるさと絵屛風とそこに描かれた民具を紹介していますが、制作過程にも注目しながらご覧ください(会期:1月27日まで)。

 さらに今年度から、市民協働事業で「記憶文化財を活用した地域博物館プロジェクト」に取り組んでいます。これは、絵屛風と市内の資料館の保管民具を使った事業を中心に展開していくもので、今後は「昔の暮らし」授業や「お出かけ回想法」など子どもから高齢者まで幅広い人を対象にした事業を進めていきます。このように絵屛風は、歴史文化だけでなく、学校教育、福祉医療、観光、人権など、幅広い分野での活用が期待できます。

 関連事業として、2月10日13時30分から、あいこうか市民ホール展示室でフォーラムを開催します。絵屛風提唱者の上田洋平氏をコーディネーターに、健康福祉医療や観光などの専門家、地域の絵師をパネラーに迎え、絵屛風のまちづくりへの活かし方について県内の絵屛風先進地の事例も参考にしながら深め会う機会とします。思い出がつまった記憶の玉手箱、一緒に開けてみませんか。

2018年 10月 30日

其の73 兵主大社伝来の太刀 一口

野洲市歴史民俗博物館 齊藤慶一
兵主大社伝来の太刀
 近江を代表する古社、兵主大社は滋賀県野洲市五条に鎮座しています。
 この兵主神については、慶長9年(1604)の「兵主大明神縁起」(同社蔵)などによると、今から1300年前の養老2年(718)10月上旬に、琵琶湖を渡ってきた神として記されています。
 当館では、平成30年10月20日㈯から12月2日㈰にかけて開館30周年特別展「遷座一三〇〇年記念 兵主大社展─琵琶湖を渡って来た神さま─」を開催し(月曜休館)、同社ゆかりの文化財を紹介します。同社伝来の文化財の特徴の一つとして、数多くの武具が伝わっていることがあげられます。
 これは、兵主神が、古代中国において「莵尢」と呼ばれる兵器創造神であり、軍神として信仰されていたこと、さらに「兵主」が「つわものぬし」と読めることから、武士から崇敬された歴史の影響と考えられます。
 今回は、その伝来品のなかから、初公開となる太刀を紹介します。
 太刀は、刃を下に向けて腰につり下げる刀剣で、刃長(刃の長さ)がおおむね2尺(約60㎝)以上のものです。紹介する太刀は作風上から、小反物の刀工によると考えられます。小反物の意味は明確ではありませんが、南北朝時代後期の備前長船刀工の一派を指す呼称です。備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)は主要な刀剣産地でした。同社伝来の太刀の銘は、「宀」(うかんむり)1字のみ判読でき、小反物一般に共通する銘振りであることから南北朝時代から室町時代初期の作と考えられます。発見当初、太刀は錆びていましたが、創建1300年に合わせて研ぎ磨かれ、ふたたび、その美しさを鑑賞できるようになりました。
 11月13日㈫から12月2日㈰にかけて公開する太刀(刃長73・0㎝)をご観覧ください。

2018年 9月 11日

其の72 ヤンソン「日本・蝦夷図」

(公財)日本習字教育財団 観峰館 寺前公基

 当館は、教育資料として、西洋古地図コレクションを所蔵しています。平成28年には、栗東歴史民俗博物館との共催で「琵琶湖誕生─日本・世界が見聞した琵琶湖─」を開催し、古地図に描かれる琵琶湖に注目した稀少な展覧会となりました。
 ご紹介する地図は、オランダ・アムステルダムの地図作者ヤン・ヤンソン(1588~1664)が作った日本・蝦夷図の代表的な地図です。ヤンソンは、アムステルダムにおいて出版を生業としていた地図作家です。ヤンソンは、1650年に『世界地図帳』を出版し、後世に「最初の海図地図帳」として高い評価を得ることになる優れた人物でした。
 本図は、同じくヤンソン編著『新地図帳』(1658年)に収載されたものです。その構図は、著名なゲラルドゥス・メルカトルの世界地図帳『アトラス』を受け継いだ、メルカトル=ホンディウス版の日本地図を元にしています。特筆すべきは、フリース(?~1647)の蝦夷地探検の成果を忠実に生かしたことで、初めて北海道の一部が描かれた地図の一つとして知られています。しかし、朝鮮半島を「半島」ではなく「島(INSVLA)」として描き、また縮尺を大きくしたために地名がずれてしまい、江戸が東北地方にまで移動するなど、不備がみられます。そしてテイセラ版世界地図の影響からか、四国を「Tokoesi」、九州を「Cikoko」と表記するなど、地名にも誤りがみられ、17世紀半ばのヨーロッパのアジア地理認識の限界を示しているといえるでしょう。
 とはいえ、九州、四国、中国地方、関西地方と、非常に多くの地名が記されており、特に太平洋、瀬戸内海の地名は、その位置関係が正しく把握されています。近畿地方に目を向けると、京(Meaco)の南方に小さく、琵琶湖らしき湖が描かれています。当時の地図に描かれる琵琶湖は2種に分かれ、瀬戸内海からの延長上の海と認識しているものと、本図のように京都の南方の湖としているものがあります。ともに、豊臣秀吉による、巨椋池や大坂へと続く淀川の整備が影響を与えたと考えられます。この後、琵琶湖は京の東方に位置する湖として認識され、「鮭の多くとれる湖」などとも表記されますが、それは17世紀末頃になってからのことです。

古地図コレクションの詳細は、中川敦之・寺前公基共著『琵琶湖ブックレット9 ヘン!?な琵琶湖(仮)』(平成30年9月発行予定)にまとめられていますので、あわせてご参照ください。

1 / 812345...最後 »

新撰 淡海木間攫 | 一覧

ページの上部へ