新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2012年 12月 10日

其の五十一 江若鉄道沿線名勝案内

高島市教育委員会事務局文化財課 山本晃子

「江若鉄道沿線名勝案内」(部分、高島市蔵)


 大正10年(1921)3月15日、大津市内の三井寺下~叡山間で営業を開始した江若鉄道は、その名が示すとおり、近江と若狭をつなぐ鉄道となることを目指して、路線を徐々に北へ延ばしていった。沿線住民から株主を募り、資金繰りをしながらの工事ではあったが、大正12年4月には叡山~雄琴間、12月には雄琴~堅田間、13年4月には堅田~和邇間、15年4月には和邇~近江木戸間、8月には近江木戸~雄松間、昭和2年4月には雄松~北小松間、12月には北小松~大溝間、昭和4年6月には大溝~安曇間、そして昭和6年1月には安曇~近江今津間と延伸し、新しく駅が開業するたび、その周辺では、地元住民らによる開通祝賀行事が繰り広げられた。湖西地方に初めて走る鉄道を、地域住民が大きな期待と喜びで迎え入れたことは想像に難くない。
 そうした沿線住民の歓迎ムードにあわせて、会社側が力を入れたのが観光を目的とした乗客の増加をはかることで、そのため沿線の史跡や名勝を紹介する数種類のパンフレットが作られた。滋賀県一円には言うまでもなく多くの風光明美な名勝地等があるが、鉄道の通っていなかった湖西地方のそれは、これまで他地域にくらべて紹介されることも少なかったであろう。
 江若鉄道株式会社が作成した沿線名勝案内パンフレットは、カラー刷りの鳥瞰図的な地図に路線と駅名をおとし、裏面には史跡・名勝の案内文章が記されたものである。同様の形式のものが、路線の延長のたびに発行されたようで、発行年の古いものから順に見比べてみると、路線が延伸されていった様子がよくわかる。
 今回紹介しているものは、昭和12年の省営バス(国営バス)若江線の開通を記念して江若鉄道が発行した沿線名勝案内で、すでに鉄道の全線は開通している時期のものである。パンフレットには江若鉄道の路線だけでなく、乗り継ぎのできる京阪・国鉄線、さらに福井県を含めた地図が掲載されており、このときに近江今津駅から小浜までのバス路線が開通したことにより、近江と若狭をつなぐ江若鉄道の当初の計画が実現したと考えられたことがわかる。
 沿線の名勝としては、大正末に創設された安曇駅近くの藤樹神社や、昭和初期に賑わった近江今津駅近くの饗庭野スキー場などが紹介されており、この時期の町の様相を伝える貴重な資料にもなっている。

2012年 6月 1日

其の五十 太陽の塔背面の「黒い太陽」

滋賀県教育委員会文化財保護課 畑中英二

近江化学陶器で制作されたタイルを敷きつめた「黒い太陽」(大阪府吹田市・万博記念公園)


 2011年、生誕100年を迎えた岡本太郎。没後10年以上経っているとは思えないほどの盛り上がりをみせたことは記憶に新しいところである。
 その中で、知られざる太郎と信楽の関係に光をあてたのが滋賀県立陶芸の森産業展示館にて行われた「岡本太郎と信楽展」であった。
 では、やきものの町である信楽と岡本太郎がどのような関係にあったのだろうか。
 実は、1970年の大阪万博の際につくられた太陽の塔の背面を彩る「黒い太陽」は、近江化学陶器でつくられた信楽焼なのである。それだけではなく、1964年の東京オリンピックの際につくられた国立代々木競技場の壁面を飾る「競う」「足」「手」などの陶板レリーフや1963年につくられて以降も人気を博して増産された「坐ることを拒否する椅子」をはじめとして太郎の陶作品の大半は信楽の近江化学陶器・大塚オーミ陶業・陶光菴でつくられていたのだ。
 これらの大半は、コレクターが秘蔵するようなものではなく、多くの人が自由に見、ふれることの出来るパブリックアートである。とりわけ大型の陶板レリーフは北海道から大分県まで、12件におよび、さまざまなところで信楽生まれの太郎作品に出逢うことが出来るのである。
 この展覧会を機に、知られざる太郎と信楽の関係を発掘したことにより、信楽の魅力を増やすこととなった。ただし、信楽という町で紡がれた歴史はことのほか深い。今後、「岡本太郎」以外の知られざる事実が発掘されるであろうことを心待ちにしていただきたい。

2012年 1月 5日

其の四十九 水底の株

滋賀県立大学名誉教授 林 博通

下坂浜町沖で発見された株(上端は資料採取のため切断している)


 これは一見どこにでも見かける何の変哲もない小さな木の株です。「いったい、これに何の意味があるというのだ」と思われる方も多いでしょう。ところが、この株には過去の人たちの生活に重大な影響を与えた歴史が秘められているのです。
 この株は長浜港のすぐ南にある、下坂浜町の沖合118m、水深2m(標高82・37m)の湖底で見つかったスギの株で、今でも湖底にしっかりと根を張ったまま立っています。
 元は陸上に生えていたはずの木が、なぜ現在湖底にあるのでしょう。スギは水につかるとすぐに枯死します。放射性炭素年代測定でこの木の枯死した年代を割り出すと、西暦1470年頃から1660年頃の間であることが判明しました。琵琶湖の水位は坂本城など湖岸に築かれた「水城」の石垣などの調査や膳所藩の水位記録などから、15世紀以降今日まで標高84m代~85m前半代だったことがわかり、現在とほぼ同じ高さでした。とすると、この木の生えていた土地は湖底に陥没したことを意味するのです。
 では、なぜ118mもの沖合の土地が沈んだのでしょう。その原因は大地震によるものとしか考えられません。枯死した年代ころ近江国で起きた大地震を調べると三つほどありますが、長浜に甚大な被害を及ぼした大地震は天正13年(1586)長浜城下を襲った地震で、震源地は岐阜県中北部、マグニチュードは7・8と推定されるものです。記録によると、長浜城下の家屋はことごとく潰れ、城主山内一豊の娘も圧死したと伝えられます。口伝では湖岸にあった集落も沈んで、人々は北北東にある地福寺町に逃れ、その人たちは「水あがり組」と呼ばれて、現在もその子孫たちは地福寺町に住んでいます。
 一帯の湖底に地震で陥没した痕跡はあるのでしょうか。滋賀県立大学・京都大学防災研究所・大阪市立大学が共同で調査したところ、湖岸や湖底の地盤には大地震の液状化にともなう地すべり(側方流動)の痕跡が広範に存在することが判明しました。
 この何の変哲もない水底の株は、天正13年の大地震の悲劇を、いま私たちに語りかける貴重な「証人」なのです。

2011年 9月 27日

其の四十八 コウモリのおっぱい

多賀町立博物館学芸員 阿部勇治

モモジロコウモリの乳頭


 夏の夕暮れ時、たそがれの街でふと顔を上げると忙しく飛び回る黒い影が目に飛び込んできた。コウモリたちが、エサの昆虫を追いかけているのだ。気に留めなければツバメが飛んでいるのと大して違っては見えないが、彼らはれっきとした哺乳類である。翼にはちゃんと5本の指の骨が備わっており、頭には立派な耳介もある。そして、「赤ちゃんを産んで母乳で育てる」という哺乳類ならではの習性が、彼らにも受け継がれている。
 6月~8月にかけて、コウモリたちは出産と子育ての季節を迎える。彼らの多くは洞窟や木の洞をねぐらにしており、毎年この時期になるとメスたちは決まった場所へ集まってきて子どもを産む。生まれたばかりの子どもは毛のない丸裸の状態で、目は見えず飛ぶこともできない(キクガシラコウモリの仲間は、成長が進み毛の生えた子どもを産む)。子どもの数は種によって異なるが、大半は1回の出産で1頭、多くても2頭が普通だ。ネズミなど他の小型哺乳類では10頭近く産む者も少なくないので、この数はとりわけ少ないように感じられるだろう。でも、妊娠中もエサを求めて飛び回らなければならないという宿命を背負っていることを考えると、むやみに子どもの数を増やせない事情に納得がゆく。「子どもの数に合わせて」という理由なのだろうか。コウモリの多くは左右の脇腹に1つずつ合計2つの“おっぱい”を持っている。授乳中のコウモリのおっぱいは、その迫力はともかくとして乳頭の周りの毛が抜け立派に自己主張している。コウモリの母乳は、人間のそれと比べ乳糖が少なく脂肪や蛋白質が多い。生まれた子どもはわずか40日ほどで自立するが、栄養価の高い母乳が短期間での著しい成長を支えているのだろう。
 子育て中でも、母親は夜になるとエサを食べに子どものもとから離れてねぐらの外へ飛び立ってゆく。残される子どもたちは数百~数千頭にもなるが、母親はわが子の声をちゃんと聞き分けてそこへ帰ってくるというのだから驚くばかりだ。さらに、コウモリの母子は、時に信じられないような行動を見せることがある。モモジロコウモリの集団を調査中、体に巨大なイボのようなものを付けている個体が目にとまった。目を凝らしてよく見ると、乳首に吸いついた子どもをぶら下げて母親が飛び回っていたのだ。子どもの体重は母親の半分近くもあり、飛翔による空気抵抗を含めると小さな乳首にはものすごい力が加わっていることになる。ぶら下がっている子どもの吸いつく力も相当なものだ。
 コウモリの知覚している世界も身体的な能力も人間とはまったく異なるのだし、こうした行動は本能に従っているだけと割り切って考えることもできる。しかし、コウモリの母と子の間には、人間の親子にも負けない強い絆があるように思えてならない。夏の夕暮れ時、もしコウモリを見かけることがあったら、子どもを育てながら一生懸命に生きているお母さんコウモリのことをぜひ思い出してほしい。

2011年 4月 26日

其の四十七 横井金谷筆 山居図

右はローマ字の印章


 山居図は、深い谷間にひっそりと建つ庵の中で、静かな時を過ごす隠士の姿を描いたものです。背後の山々は高くそびえ、その間から滝水が流れ落ちています。世間の雑踏から逃れ、聞こえてくるのは滝の音と鳥の声ぐらい、文人たちが強くあこがれた理想郷ともいえる風景です。
 作者は、江戸時代後期の文人画家横井金谷(1761〜1832)。金谷といえば、自らが挿画入で綴った自伝『金谷上人御一代記』により、一躍有名になりましたが、ようやく作品が追いついてきたようです。金谷は、現在の草津市下笠町に生まれ、9歳で出家し、21歳の若さで京都北野の金谷山極楽寺の住職になりました。この頃から本格的に絵を描いたようで、寺の山号を画号とし、ほぼ生涯を通して絵に「金谷」と署名しています。一般に金谷は、与謝蕪村の門人として扱われていますが、直接師事したことはなかったようです。しかし、その画風を慕い、画題、画面構成など、多くを学んでいます。この山居図も蕪村画を参考にしたもので、細墨線を用いて、丁寧に描いています。岩や土坡の皺の表現などに、蕪村画の影響が顕著です。画中の墨書により、金谷38歳の時の作であることがわかります。金谷画初期の初々しさが残る優品です。
 ここで注目されるのは、「KINKOK」とローマ字で彫られた印章を使用していることです。金谷は『御一代記』の中で、長崎に旅行した時の様子として、オランダ人や船をスケッチしたり、外国語にも非常に興味を持ったことを書いており、何事にも好奇心旺盛な金谷が、自らを「KINKOK」と彫っても不思議ではなく、むしろ自然な感じがします。不思議といえば、数ある金谷画の中にあっても、この印を捺した作品は他には見つかっていません。
 金谷は生前、「余の画を評するのは宜しく死後に於いてすべし」と言いました。その時が来たようです。今日画家としてとみに注目されるようになった横井金谷です。

滋賀県立琵琶湖文化館学芸員 上野良信

●上野良信著『淡海文庫 横井金谷伝─放浪の画僧─』(サンライズ出版)が近日発行予定。

2010年 11月 1日

其の四十六 琵琶湖文化館所蔵 両界曼荼羅

琵琶湖文化館所蔵 両界曼荼羅

右…修理前、左…修理後



 琵琶湖文化館が所蔵している仏画の一つに鎌倉時代に製作された両界曼荼羅があります。形あるものがいずれ形を失っていくという道理にしたがい、こうした掛軸などの文化財も徐々に傷んでいきます。この曼荼羅は絵絹に描かれていましたが、絵絹は折れ、絵の具も落ち、公開に支障をきたす状況にまで陥っていました。

 平成4年(1992)、琵琶湖文化館ではこの曼荼羅の修理を行うことにしました。大切な文化財ですので、当時県内に発足したばかりの文化財修理工房へ修理をお願いしました。国宝や重要文化財を修理する工房におられた方が独立開業されたもので、当然文化財修理についても相当の実績がある修理技術者でした。

 平成4~6年度の3か年をかけて、曼荼羅は無事に修理されました。この修理にあたり、琵琶湖文化館では一つの試みに挑戦しました。それは掛軸の表具です。

 掛軸の表具は色とその取り合わせが様々にあることはご承知の方も多いかと思いますが、実は形も色々あります。この曼荼羅では、大きな掛軸にのみ使用されるという表装のスタイルを採用しました。通常の紐で吊りさげるものではなく、表装裂で輪をつくり、そこに棒を通し、取り付けた金具で吊り下げるというものです。

 こうしたスタイルの掛軸は京都の東寺に伝わる両界曼荼羅の表装にみられるものですが、全国的にもとても珍しいもので、数えるほどしかありません。琵琶湖文化館の両界曼荼羅はただ修理するだけでなく、途絶えてしまう可能性がある表装の文化までもを同時に後世に伝えようとした事業でもありました。

 文化財修理は、今では大変専門的なものとなってしまいました。私も学芸員としての活動の中で、残念な結果となってしまった修理をいくつも見てきました。だからこそ、そうなる前に地域の博物館や教育委員会などに気軽に相談していただけたら、と思っています。

滋賀県立琵琶湖文化館学芸員  井上ひろ美

●井上ひろ美著『淡海文庫 継承される文化財─模写・模造・修理─』(サンライズ出版)が近日発行予定。

2010年 9月 1日

其の四十五 廃少菩提寺閻魔像

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 この閻魔さんは「血噴き地蔵」と呼ばれています。江戸時代に土砂流でうつ伏せに倒されていた石を石屋さんが、これはよい石だと思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなって、石から血が流れている夢を見ました。翌朝早く、石を見に行ってひっくり返してみたところ石像が彫ってあったといういわれによるものです。

 地蔵菩薩は子供を救うとか災難を救うという意味で彫られます。また、地獄に送るとか極楽へ導くためにいろいろ諭され、修行を助けられるのが閻魔さんですが、地蔵さんの化身が閻魔さんです。

 閻魔さんは、ほとんどが絵に描いてあるか木彫りです。石彫りは国内にほとんどなく珍しいものです。右側3分の1は別石で修復されています。いわれのように石を割ってしまったので、残る部分に合うように彫ったものですが、修復に用いた石の質も厚さも元の物とは異なり、近くで見ると時代の違いがはっきりとわかります。これらは離れないようにくさびが打ってあり、裏には穴が開いていて、鉄の股釘を差し込めるようにしてあります。

 写真の右側の像は、合掌している僧形、左側が阿弥陀仏です。下の段には、右側に錫杖と宝珠を持った地蔵、左側は袈裟を斜めにかけ数珠を持った僧形です。全体の形として将棋の駒形というのは珍しいものです。

 下段中央には
  浄西院秀阿弥陀仏行大徳宗舜  敬白

と彫られています。裏に「延長二年甲申」(西暦では924年)とあったそうですが、今は読めません。

 在所の一番下の村を寺村町といいますが、ここの人たち、特にお婆さんたちが掃除や花を供えたりしています。毎年、菩提寺の四つの寺が協力して、年番で小学生たちに白い象の姿をした甘茶の山車を引かせて花祭りの行事を行い、供養しています。

 閻魔像の辺り一円は、花崗岩の土砂が流れ込んでいて今はなだらかな傾斜になっていますが、元は平坦地だったところです。これは、古絵図に示されているように少菩提寺の施設があったということで、閻魔像より上の方にも多くの平坦地が残っています。

儀平塾主宰 鈴木儀平

●この文章は、生前の鈴木さんの講義を録音したテープから起こしたものです。

2010年 9月 1日

其の四十四 消えゆくヤナ

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 10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ますヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息するサケ科の魚である。

 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られているが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズや構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのところがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者でその時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」である。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。

 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナはほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。

 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るためにどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなって、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。

滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘

2010年 9月 1日

其の四十三 獣の侵入を防ぐためのシシ垣

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 シシ垣は、漢字で「猪垣」、「鹿垣」、「猪鹿垣」と書く。シシとは、肉がとれる獣類の古い呼称である。古くから、イノシシやシカは山間の住民にとって貴重なタンパク源であったが、一方で農作物に多大の被害を与える害獣でもあった。シシ垣は、これらの獣が田畑に侵入してこないように築かれた垣のことである。江戸時代などに築かれた石積みや土盛りのシシ垣の遺構が、今でも各地に残っている。

 滋賀県内にも、もちろんみられる。しかしこれまで、豪族や武士にまつわる古墳や城郭といった遺構が脚光を浴びてきたのにくらべ、農民の汗の結晶ともいうべきシシ垣が注目されることはなかった。

 たとえば比良山地の山麓には、地元でとれる花崗岩の石を積んだり、土を盛ったシシ垣がみられ、北部の高島市周辺には、長さが8にもおよぶものがある。また、「ヤマトタケルと白イノシシ」の神話が残る伊吹山にも、石灰岩を積んでイノシシやシカの畑への侵入を防ごうとしたシシ垣が残っている。さらに特徴的なものとして、大津市(旧志賀町)の荒川地区には、イノシシやシカの侵入に加え河川の水害・土石流災害に備えたシシ垣が残っている。

 シシ垣と道が交わるところには木戸口といわれるものがみられ、朝夕において、通行人は戸締りを厳重に行う必要があった。戸締りとは、木戸口からイノシシやシカが入ってこないように頑丈な板などをはめることであった。
 シシ垣はこれまで注目度が低かったが、注目される必要がある。地域の財産であり、子供や大人の学習の教材にもなる。先祖がどのようにして獣と向き合ってきたのか、その苦労に思いをはせ、今日の獣害への対応の教訓にすることができる。シシ垣に関心があるかたは、私がつくっている左記のシシ垣ネットワークのホームページにもアクセスしていただければ幸いである。
(http://homepage3.nifty.com/takahasi_zemi/sisigaki/sisimein.htm)

奈良大学文学部地理学科 教授 高橋春成

2010年 9月 1日

其の四十二 ふぞろいな鹿角たち

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 山歩きには、景色や花を愛でる、山菜を味わうなど、楽しみがいろいろとある。いささかマニアックではあるが、哺乳類に興味を持つ者にとっては、ニホンジカの落角拾いも楽しみの一つである。
 ご存知のようにニホンジカの角は雄にしかなく、毎年春には根元からはずれて落ち生えかわる。かつて湖東の霊仙山に通っていた頃、この時期にここに行けば角が拾えるという秘密の場所が何カ所かあった。角の長さから持ち主の体重を推定できるなど、標本として活用するのが目的ではあるが、収穫の楽しみもあった気がする。
 ふつう鹿角はどれでも同じ形と思われがちだが、意外やこれが不揃いなのである。太さ長さはもちろんのこと、曲がり具合、分岐している枝角の数や間隔など同じものがない。袋角の時期の傷が原因とも言われるが、頭骨ごと拾った角(落頭というべきか?)でも左右で形がわずかに違っている。闘いの最中にぽっきりと折れたようなものもある。持ち主たちは、他個体に対して見栄えがすれば、不揃いでも問題ないのかもしれない。哺乳類の体は左右対称であるとはいうものの、実際には揃っていることの方が不自然なことなのかもしれない。
 ニホンジカの角は年ごとに落角するものの、加齢とともに大きくなり、枝角の数も増えていく。1、2歳の雄はゴボウに似た一本角をもち、「ゴンボサン」と呼ばれることがある。成獣になると枝角は2本、3本と増えていき4本の枝角となる。さらに歳を重ねると、枝角が四本以上となったり、変形したりすることもある。単純に何歳なら枝角は何本と言えないが、角は時間とともに変化し、ますます不揃いさを増していく。
 一方で落角は哺乳類にとっての大事な栄養源となる。まれに先端が削られた落角を拾うことがある。どうも他の哺乳類がかじった跡のようだ。誰が何のために……なんと犯人はニホンジカご本人のこともあるようだ。半年後に再び立派な角を持つためには、カルシウムの固まりである落角を見逃す手はない。落ちている角を少しずつかじって自分の角を再生する、みごとなリサイクル術といえる。
 落角を見つけるとうれしくてすぐ拾ってしまうが、その前に写真を撮り観察することをすすめしたい。ニホンジカの生活を想像させてくれる静かなひとときを過ごすことができる。これも山歩きの楽しみの一つといえるかもしれない。

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