新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2010年 9月 1日

其の三十 琵琶湖から失われた水草

ガシャモク

 日本最大の湖である琵琶湖では水草についても古くから調査研究が行われており、内湖を含めて43種類の水草がこれまでに記録されている。しかし近年の調査で発見できる水草は20種類程度しかなく、琵琶湖から絶滅したと考えられる水草は決して少なくない。その代表的なものとして、ヒルムシロ属のガシャモクやアイノコヒルムシロが挙げられる。

 ガシャモクは、現在でも琵琶湖に多く生育する同じヒルムシロ属のササバモによく似ているが、ガシャモクには葉の付け根の葉柄がほとんどないという明瞭な違いがある。しかしなんと言っても、薄い葉と白く浮き出た葉脈から透明感を持つ美しい水草で、一目見ただけでササバモとの違いに気づく。

 滋賀女子師範学校の教諭であった橋本忠太郎氏は、大正末から昭和30年にかけて滋賀県の植物の調査をされ、多くの植物標本を収集された。その植物標本は「滋賀県植物誌」(北村四郎編、1968)の重要な基礎資料となった。標本と採集地点が明記された地形図とが琵琶湖博物館に保管されており、ガシャモクが堅田内湖そばの水路で採集されたことがその地形図に明記されている。 今日のガシャモクは、日本では千葉と福岡の生育地が知られるだけで、環境庁の絶滅危惧種(絶滅危惧・A類)に指定されている。2003年7月に、水草研究会会員の大野睦子さんらにガシャモクの自生する北九州市内の溜め池を案内していただいた。写真は、その際に入手したガシャモクを栽培したものである。この溜め池には、ガシャモクとササバモとの雑種でインバモと呼ばれる、短い葉柄を持つものも生育していた。

 千葉県の産地の情報は十分に持ち合わせていないが、1カ所は千葉県の手賀沼の流出河川である手賀川の陸地部分が掘削され池状になった場所で、埋土種子を起源とする群落である。1998年の秋に大量に生育している状態を観察し標本の採取を行ったが、その後は藻類の繁茂などにより、群落の生育状況が良くないと聞いている。その時に採取したガシャモクが草津市立水生植物公園みずの森で展示されているので、是非一度ご覧になっていただきたい。北九州市では農業用水路で生育していたアイノコヒルムシロも採取することができた。この個体についてもみずの森で預かっていただいたので、いつか見ていただける日が来るかもしれない。

 手賀川でのガシャモクの例は、土中に埋もれた種子(埋土種子)からの再生の可能性を示している。早崎内湖や津田内湖などの跡地で、内湖の復元実験や調査が最近行われているが、琵琶湖から失われた植物をよみがえらせるという観点からも注目している。

*写真:2003年7月に北九州市で採取したガシャモク

滋賀県琵琶湖研究所 専門研究員 浜端 悦治

2010年 9月 1日

其の二十九 琵琶湖の泥について

琵琶湖の泥

 湖底に溜まった泥の下を更に掘ってゆくと何が出てくるか。また、琵琶湖が泥で埋まってしまうことはないのか。こういった質問に答えるための材料は幾つかある。既に先人達の努力により、多い場所では過去6300年間に12mの厚さで泥が溜まったこと、これを平均すると年間2mmの厚さで泥が溜まることなどが知られていた。しかしそれらは、湖底を掘り返して確かめたのではない。圧倒的な量で溜まっている泥の中に、「泥じゃないモノ(すなわち火山灰)」が埋没していれば、それは音波探査で見つけることができるので、今から6300年前に鹿児島南方から西日本一帯に飛来して琵琶湖にも堆積したアカホヤ火山灰を探すことで確かめたという。

 ここに紹介したのは、筆者が2年前に湖底を音波探査した結果の図である。上段地図中の白丸を結んだ線上を航行した。下段の断面図の白い部分は水深約 90mまでの水域である。湖底面を黒線で示したが、それより下側の灰色部分が、いわゆる泥の溜まっている部分である。水深が40mよりも深いところで、アカホヤ火山灰が約10m下に埋没しているという音波探査の結果だったので、それを黒塗りの下端として、それより上側に溜まった泥の部分を黒塗りで示した。琵琶湖のどこでもが年間2mmの厚さで泥が溜まっている訳ではなく場所によりけりであることが、この図から分かる。

 なお上の図は、筆者が琵琶湖の泥について分担執筆した『琵琶湖流域を読む 下』(サンライズ出版)にも登場したものであるが、深さが誇張して描いてあり、琵琶湖がこのように激しく窪んでいる訳ではない。では、読者に真の姿をイメージして頂くためにはどのような説明方法があるだろうか。また同書籍中で、「東京ドーム約2杯分の泥が毎年琵琶湖に溜まる」との説を紹介したが、この規模がどの程度のものかをイメージして頂くための説明方法はあるだろうか。

 「琵琶湖に畳が何枚敷けるか?」というなぞなぞがあるが、答えは約4億枚だ。琵琶湖と畳の大小関係はおよそ2万倍であるから、この縮尺で琵琶湖を畳に縮めてやると、「平均水深40m・貯水量275億t」は「水深2mm・貯水量3リットル」に縮んでしまう。そして畳の上に置いたボタン1個。それが東京ドームだ。琵琶湖は予想外に浅く平べったい。また毎年溜まる泥の量は、広さの割にあまり大した量ではないようだ、というように見ることもできる。

*図:アカホヤ火山灰層の探査航路(上)および層厚(下)

滋賀県琵琶湖研究所 主任研究員 横田喜一郎

2010年 9月 1日

其の二十八 日吉山王二十一社本地仏(ひえさんのうにじゅういっしゃほんじぶつ)

小禅師宮 彦火々出見尊

  「あなたは日本の国教をご存知ですか?」

 こう尋ねられて、即座に明快に正解を答えられる人は少ないのではないでしょうか。今、日本に国教はありません。憲法で「信教の自由」を認めているからです。江戸時代は仏教が国教でした。寺檀制度は幕藩支配体制の一翼を支える役割をも果たしていました。

 かわって明治政府は伊勢神道を頂点とする神道国教化政策をはかり、明治元年(1868)以降、一連の神仏分離令を発布しました。これは神社の中から仏教的色彩を排除することを目的としたものです。「別当」「社僧」と呼ばれた神社にいた僧侶はいったん還俗し「神主」「社人」に名称変更すること、神社から仏像・本地仏*・鰐口・梵鐘を取り払うことなどが命じられました。しかし、それにとどまらず廃仏毀釈運動につながり、堂塔・伽藍や仏像・仏画・経典などが破却や焼却されました。本県においても、坂本の日吉大社では仏像・仏具などおびただしい数のものが取り上げられ焼却されるなど、各地で数多くの貴重な文化財が失われる残念な結果となりました。

 さて、今回紹介する資料は、廃仏毀釈の時代をくぐり抜けてきた「日吉山王二十一社本地仏」(室町時代、高月町井口・日吉神社所有)です。中世の本地垂迹思想により造られた小像群で、21躯のうち19躯が伝存します。

日吉山王二十一社本地仏 彫像としてあらわされた「日吉山王二十一社本地仏」は全国的にも例がなく、これをほぼ揃えた本小像群は学術上貴重であり、数少ない神仏習合時代の遺品として、また湖北地方の中世史を考える上でかけがえのない資料といえます。

 写真の童子の姿の像は「小禅師宮 彦火々出見尊」です。袍衣を着て髪を角髪に結い、左手に宝珠をかかげ右手には錫杖をもちます。約20cmの小像ながら、明るくあどけない可憐さと神々しい森厳さをあわせもつすぐれた彫刻といえます。

*「本地垂迹説」は、「日本の神は、仏教のホトケが人々を救うため仮に神の姿をとってあらわれたもの(垂迹身)であって、

  各神々にはそれぞれ呼応する本地(本体・本来)の仏教尊がある」というもの。
 「本地仏」は、この思想によって造像された各神々に対応する仏像。

高月町立観音の里歴史民俗資料館 学芸員 佐々木悦也

2009年 10月 1日

番外 豊郷小学校のウサギとカメ

ウサギとカメ
▲ 階段手すりの起点部分でスタート間近のウサギとカメ(豊郷小学校の歴史と未来を考える会 提供)

本誌78号(昨年1月発行)から1年余り、全国的に知られる存在となってしまったウサギとカメである。

Duet編集部

2009年 10月 1日

其の二十七 やってきた御本尊 ―永正寺 阿弥陀如来立像―

阿弥陀如来立像

 ここにとりあげるのは、栗東市上鈎(かみまがり)にある浄土真宗大谷派永正寺の本尊阿弥陀如来立像です。

 このあたりは長享元年(1487)に、六角高頼(ろっかくたかより)征伐のため室町幕府九代将軍足利義尚が自ら出陣した鈎の陣の故地とも伝えます。しかし、現在の永正寺に直接つながる存在が確認されるのは永正(1504~1521)頃以降のことです。寺伝によると、永正7年(1510)に本願寺第9世実如(じつにょ)より十字名号(帰命尽十方旡碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の10字を書いた掛軸)等をさずけられ、道場となす許しを得ました。当初は「鈎郷道場」と称したようです。のちに、東本願寺を建立したことで知られる教如(きょうにょ)より寺号(○○寺と名乗ること)と木仏安置(木造の阿弥陀像をまつること)の許可を得ています。

 天下統一を目指した織田信長は、その過程で本願寺を中心とする一向一揆と対立しました。湖南でも金森・三宅(現守山市)を中心に一向一揆が活発な活動を見せます。最終的に一向一揆は平定され、その後、政権側の支援をうけていくつかの寺内町・村の再建が進められました。永正寺のある上鈎寺内もそのひとつです。

 本像について、永正寺に伝わる文書に次のような話が記されています。世は徳川に定まり、寺内としての体勢も整ってきた元和2年(1615)3月15日、ひとりの見慣れぬ僧が当地を訪れ、阿弥陀如来像を授けるといずくともなく去っていきました。皆はこの僧を「応僧」(神や仏が姿を変えた僧)かと思い、像は比叡山の慈覚(じかく)大師(円仁、794~864)の彫刻した霊仏とされたことから、「当寺に因縁あるをもってこれを安置し本尊と為」したというのです。木仏をまつる許しを得ても、いまだ本尊となすべき仏像を用意できていなかったところに、本像が迎えられたのかもしれません。

 さて本像は像高 81.3cm、凛とした顔立ちで、姿のととのった堂々たる作品です。鎌倉時代初頭の高名な仏師である運慶や快慶の流れを引く仏師によって造られたと思われます。製作時期は鎌倉時代の13世紀半ば過ぎ頃と推測されます。慈覚大師とは時期があいませんが、このあたりは平安時代半ばから天台の影響を受けており、天台は宗教風土にしっかりと根付いていたのです 中世末の動乱は、多くのほとけたちの運命をもてあそびました。しかし戦火を生き延びたほとけたちは、やがてそれぞれに場所を得て大切に守られていったのです。 

栗東歴史民俗博物館 学芸員 松岡久美子

2009年 9月 1日

其の二十六 井戸村与六作職書付(さくしきかきつけ)  戦国時代の土豪と家臣

作職書付

 この文書は、坂田郡箕浦(みのうら)(現在の近江町箕浦)の土豪井戸村氏が、天正19年(1591)に「おころ彦三郎」以下28名の家臣に対し、扶持(ふち)(領地)として与えた土地を列挙したもので、計81筆が記され細長い史料となっている(写真は冒頭部分)。この年に行われた太閤検地に際して、扶持している土地が家臣の名前で検地帳に登録され、所有権が失われることを恐れた井戸村氏が、あくまでも井戸村氏の土地であることを確認させた文書である。文書の最後には、これらの土地が井戸村氏によって、いつ召し上げられても、支障なき旨を記した誓約文まで付けられている。

 井戸村氏は、湖北の戦国大名浅井氏の家臣。『嶋記録』という史料にも見えるように姉川合戦にも参陣した。当然、合戦には土豪本人のみでなく家臣を連れていくが、その家臣がここで扶持を与えられている人々であった。多くは、箕浦周辺の百姓たちである。彼らは、井戸村氏への戦時「奉公」の見返(みかえり)に、「御恩」として土地を与えられていた。大名と家臣の関係―そのミニ版が戦国の村でも行われていたと考えたらよい。

 この時の井戸村家の当主は、文書名にもある井戸村与六。一般にはまったく無名な人物であるが、中・近世を専攻する歴史学者の間では、これ程有名な人物はいない。というのは、昭和28年以降、豊臣秀吉による太閤検地の意義を左右する史料として、一時期本書は盛んに取り上げられたからだ。

 『井戸村家文書』65点(県指定文化財)の中の一通で、平成2年に逝去された長浜の地方史研究家・中村林一氏のコレクションの一部である。平成6年にその遺族のご好意で、市立長浜城歴史博物館へ寄贈された。井戸村家からは、この文書群はクズとして出され、中村氏はこれを給料の2倍半の金をはたいて古物商から購入したという「近代の伝説」付きの代物でもある。 

市立長浜城歴史博物館 学芸員 太田浩司

2009年 8月 1日

其の二十五 羽柴秀吉朱印状 長浜町惣中宛 秀吉も食べた鮒鮓

秀吉朱印状

 この秀吉朱印状は、長浜町衆が贈った陣中見舞の食品への礼状である。年号はないが、「筑前守」という受領名と、秀吉の署名の下に押された鮮やかな朱印から、天正十二年(一五八四)四月十五日に記されたものであることが判る。この時秀吉は、楽田城(大垣市楽田町)に滞在していた。この年の三月に始まった小牧合戦のために、小牧城(愛知県小牧市小牧町)一帯に布陣していた徳川家康・織田信雄連合軍と対峙していたのである。長浜町衆は、この対戦中の秀吉に陣中見舞として、近江名産の「鮒鮓」一折を贈った。

 鮒鮓は、腹開きにして浮き袋などを出した雌のニゴロ鮒を、塩漬けの後に酢飯に漬けて長期間熟成して自然発酵させたなれずしである。一種独特の臭気があり、好き嫌いが分かれる食物でもある。奈良時代の『養老令』(七一八年)の賦役令の中に税として納めるべき、近江鮒の量 が規定されており、これが鮒鮓の最古の資料であるといわれる。その製法は、古代からほとんど変わることがない。

 鮒鮓は、徳川家康からの礼状も残っており、贈答品として使用されているため、貴重な蛋白源の保存食として、戦国大名をはじめ当時の人々の食卓に上ったと推定される。

 また秀吉が贈られた「一折」は、薄く削った板を折り曲げて作った折箱「一箱」ではなく、檜の薄板を折り曲げて作った「折櫃」一合と推定される。形は四角形・六角形・円形・楕円形とさまざまで、檜葉を敷いて魚などを入れ、隅に作り花などを立てて飾りとしたという。

 この朱印状は、本文は右筆という秘書官が書いたものだが、「秀吉」の署名は秀吉自身が書き、自ら朱印を押したものであろう。秀吉と長浜町衆の密接な関係がよく伺える。

 もと長浜町年寄保管文書と推定され、明治時代に長浜町長をつとめ、汽船「湖龍丸」と「長運丸」の船主で、長浜小船町に居住した「尾板家」に伝来したもの。

市立長浜城歴史博物館 学芸員 森岡栄一

2009年 7月 1日

其の二十四 河内のゴー(牛玉宝印ごおうほういん)

牛玉宝印

 滋賀県の湖北地域では、一月から三月にかけて五穀豊穣・村内安全を祈願して、餅をつき、お鏡や餅花をこしらえ、村の寺社に奉納するオコナイという村をあげての行事が繰り広げられる。これに、主人公というべきトウヤが四っ足の動物を食べないなどの精進潔斎(しょうじんけっさい)、神仏に供えるための特別 の食事(特殊神饌)などが垣間見られ、まさに民俗の宝庫というべき行事内容を誇っている。

 ここで紹介するゴーは、オコナイの際、村の人たちに配布された護符(ごふ)である。正式の呼称は、牛玉宝印といい、牛の腸・肝・胆に生じる結石を、すりつぶして朱とあわせ印を捺したもので厄除けの護符として社寺から発行された。畿内の大社寺では現在も修正会(しゅしょうえ)・修二会(しゅにえ)などで参詣者が牛玉 宝印をいただいたり、額に朱をもらって帰途につく。

 オコナイが改正されるまでは、坂田郡山東町河内でも同様に、トウワタシ(次のトウシュへ当番をひきわたす式)の際にゴーの先に墨を塗り、次のトウシュの額に捺していた。ゴーは、オコナイのトウヤがこれを作り、本日に拝殿へ供えたのち、村の人たちにわたしていた。ゴーは大切に持ち帰り、四月の末から五月の初めにかけて、水苗代(みずなわしろ)の際、水口に立て、害虫防除の護符とした。ゴーの木は、元来は河内の川岸にはえている柳であった。

 河内のゴーは、修正会・修二会などに登場する牛玉宝印と同様の物である。ただし立てられるように木に挟んだり、神霊の籠る特別の木である柳を選んでいる。柳は実りの象徴である餅花の材料にもよく使われている。この河内の例から判るように寺社から出される以外の護符が、民間ではどのような形態をとるのか。これを詳細に検討することで民俗の変遷のパターンを把握すると同時に、村のひとたちの、護符へ期待する祈りの姿が浮かび上がってくる。

市立長浜城歴史博物館 学芸員 中島誠

2009年 6月 1日

其の二十三 大蛇の作り物―下阪本の雨乞―

大蛇

 嘉永6年(1853)、黒船の来航の年、近江の農村は、日照りで苦しめられていました。

 かつての農村では、日照りが続くと雨乞を行います。一口に雨乞といっても土地ごとにそのやり方は、様々で、ここで紹介する比叡山山麓の湖岸に面した農村下阪本の場合は、大蛇の作り物を中心に行列し、雨を祈っていました。その内容が下阪本村の年々の記録を綴った「下坂本記録」(本館蔵)に見えています。それによると、下阪本は、比較的水に苦労することは少なかったようですが、嘉永6年の日照りは、こうした村も、雨乞をしなければならない状況に追い込まれていました。5月下旬から一向に雨が降らず、7月中旬には前例を調べながら、雨乞の準備がすすめられ、7月24日から3日間雨乞が行われました。雨乞い行列は、大幟(のぼり)を先頭に、御幣(ごへい)、大蛇、そして太鼓や半鐘を打ち鳴らす連中が続き、近江八景で有名な唐崎まで行って、龍神と唐崎明神にお神酒(みき)を献上しています。

 この記録で興味深いことは、大蛇が彩色で、その作り方も図で描かれていることです。長さ12間(約22m)、閏年の場合は13間とあって12ヶ月と対応しています。顔は、木を軸に古箕(み)や古イカキなどの民具で骨格を作り、全体は、麦わら、そこに古い反物を巻いて彩 色していました。ここに描かれた図像は、まさに龍というほかないのですが、蛇と言っています。近辺の正月行事で作る大きな藁縄をジャと呼ぶ所が見られ、蛇と龍の区別 は、不明確だったのかもしれません。

 この蛇を含む行列が、湖岸の唐崎を目指していることも注意されます。周辺の湖岸農村で行われる雨乞は、琵琶湖に向かって祈るスタイルだったようです。目の前にある水を、田に入れたくても入れられない、それを湖の龍神に頼み、雲に変え、雨を降らしてもらうほかなかった、そんな苦しい時代の祈りの姿が読み取れます。

大津市歴史博物館 学芸員 和田光生

2009年 5月 1日

其の二十二 古写真を読み解く―湖岸風景

湖岸風景

 大津市の風景は、昭和30年代後半から急激な変化を見せています。その要因としては、湖岸の埋め立てや湖西線の開通、住宅開発、流通革命以降の大型店舗の進出、道路網の整備などを挙げることができるでしょう。

 なかでも、著しく変貌を遂げたのは、浜大津一帯の湖岸でした。掲載した写真は、戦時中に撮影された、現社会教育会館付近の風景です。この建物は、昭和9年(1934)の建築になり、当初は大津市役所の一部と商工会議所が同居する施設で、3階のホールは、公会堂としても使用されていました。そして戦後、占領軍の指示により、昭和22年5月3日の新憲法施行の日、全国に先駆けて、大津公民館が開館しますが、そのとき使用されたのが、この建物だったのです。

 この建物は今も健在で、かつての位置にそのまま建っていますが(浜大津一丁目4―1)、建物の向かって右手に伸びる、枕木の付いた線路(当時は国鉄・江若鉄道供用)の外側が、すぐ湖であったことが、写真でお分かりでしょうか。この湖岸は、昭和20年代中頃から、湖岸道路のために埋め立てられましたが、さらに平成3年度には、大規模な埋め立てが実施されています。現在、同方向から写真をとれば、湖岸道路の向こうに、浜大津アーカスが見え、さらにその向こうに、新しい大津港に停泊している琵琶湖汽船の船舶が写ることでしょう。そして、今年度、湖岸道路をまたぐ陸橋の工事が始まっています。現在撮影された写真も、やがて歴史の一コマとなるはずです。たんに古写真を収集、整理するだけでなく、現状写真も、未来に渡って定期的に撮影していくことが、今後は必要となるのでしょう。それらの試みを、現在、大津市歴史博物館で開催している企画展「写された大津の20世紀」のなかで行っています。なお展示は、6月10日(日)までです。

 

大津市歴史博物館 学芸員 樋爪 修

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