新撰淡海木間攫 其の六十七 「日本藩史」草稿 北川舜治著 静里文庫蔵書
草津市立草津宿街道交流館館長 八杉 淳
「日本藩史」は、日本各地の藩主について記した歴史書で、静里文庫の蔵書として10冊の自筆草稿と、15冊の自筆校本があります。草稿は、マス目や縦罫入りの用紙に記されています。一方の校本は、舜治が開いた私塾「修文館蔵」の文字が刷られたマス目入りの用紙に漢文体で記され、校合の際の訓点など朱書が施されています。また、15冊に分冊され、それぞれが表紙を付して製本、調えられています。
この「日本藩史」は、明治12年(1879)12月に版権免許、同17年4月に「六書堂」から全8巻で出版されています。
「日本藩史」を著した北川舜治は、天保12年(1841)栗太郡部田村(草津市青地町)生まれ。幼少期から祖父である浄光のもとで教えを受け、8歳のときには四書(儒学の基本となる4つの書物)を暗唱するなど、周囲からは奇童と呼ばれていました。安政6年(1859)、19歳で京都に遊学。山本榕堂の門に入り、経史や博物学を、その翌年には山本主善のもとで医学を、そして伊藤輶斎に儒学、高島晋斎、遠山雲如からは詩文を学んでいます。
文久3年(1863)、郷里に帰り、私塾を開くとともに、医者として開業。医師としての仕事に励むとともに、生徒を集め、和学や儒学を教えました。その傍らで自らも修史の志を立て、国詩や経史、西洋訳書を書写しています。
私塾を開いたのち、明治8年(1875)に滋賀県に出仕。史誌編纂兼学務担任や文書掛を務め、明治15年(1882)に、家庭の事情で県の仕事を辞職するまでの間、「日本文学志」全8巻、「日本外交志」全4巻、「経典彙纂」全4巻などを編著。明治20年には大阪住友吉左衛門の委嘱を受け、住友家歴代の家記をまとめた「垂裕明鑒」全31巻を編纂しています。その後も「滋賀県沿革志」「近江名所記」「瀬田川浚渫工事(瀬田川浚渫沿革記)」4巻などを滋賀県の委嘱を受けて著すなど、多忙な職務の合間に、自ら「柳暗花明舎」や「読我書屋」と名付けた書斎で、精力的に著作活動を続けました。そして、明治31年(1898)には、これまでの著作活動の集大成ともいうべき、「私撰国史」175巻を編纂し、宮内省に献納しています。
北川舜治が生涯62年にわたり、自身が著した草稿・著作や収集した蔵書数百冊が、戦後、彼の郷里に鎮座する小槻神社に寄託され、舜治が号とした「静里」を冠し「静里文庫」と名付けられて今日に至っています。