新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の六十 伊吹山学校登山の写真

米原市伊吹山文化資料館 髙橋順之

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち(昭和初期か、伊吹山頂の測候所前にて)

「十一時が近づいた時、私達はあたりの静寂を破って宿を立った。(中略)登山者の群れは多かった。山はまるでお祭り気分だった」(昭和4年〈1929〉大垣高等女学校交友会誌)。
 明治時代、ヨーロッパから近代登山が伝わり、大正時代には、余暇時間を充足する一方途として登山ブームが到来、「登山の大衆化」が始まります。伊吹山の登山口の上野(米原市)では入山料を取り、希望者には案内人を付けて、多くの人を伊吹山に誘いました。
 「対山館」は、大正14年(1925)に上野に設立された、タイル張りの百草風呂を売り物にした旅館です。伊吹山文化資料館には、対山館宛の書簡類が約1700点保存されています。このなかに、戦前・戦中の学校登山に関するものがたくさんあり、この時期の学校登山のようすがわかります。
 彦根高等女学校(現、県立彦根西高等学校)は、明治19年(1886)創立の全国的にも古い女学校で、大正3年(1914)7月29日・30日に第1回伊吹登山を実施しています。校長以下職員5人は生徒12人を引率して山麓の春照(米原市)に1泊して夜間登山をおこないました。以後、大正7年、昭和2年、10年から18年まで、終業式終了後、第5学年百数十名が恒例の夜間登山をおこないました。伊吹山には、夏季休暇が始まる7月下旬に、愛知・岐阜・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫各府県の学校が訪れています。そのほとんどが夜間登山です。
 学校登山は、当初、野外学習や夏季休暇の有効な利用法として導入されましたが、日中戦争(昭和12年)が勃発すると、登山の目的が戦争遂行のための心身鍛錬や忠君愛国精神の高揚に変容していきます。やがて、旧制中学校などの男子生徒は、軍要員となるべく軍隊宿泊調練などに明け暮れ、登山の主役は、銃後を守る婦女子の心身鍛錬等を目的とした高等女学校になっていきました。伊吹登山が戦争に利用されたのです。
 最寄の近江長岡駅はいち早く明治22年(1889)に開業しており、交通至便なことから、古くから多くの学校が学年単位で訪れ、それを受け入れる登山環境も充実していました。伊吹山は、夜間登山を中心にいまでは想像できないほどの多くの登山者で賑わっていたのです。

新撰 淡海木間攫 | 一覧

ページの上部へ