新撰 淡海木間攫

其の三十五 従軍看護婦の召集令状

招集状

 戦時中、日赤の看護婦さんたちには、兵士と同じように召集令状が届きました。戦場でケガや病気をした兵士の看病をするため、救護班として出征したのです。通称「赤紙」と呼ばれ、東浅井郡浅井町野瀬出身の妹尾とみさん(77歳。現在は長浜市在住)が保存しておられたもの(写真)も兵士の場合とは書式や大きさが異なりますが、淡い赤色をしています。

 昭和19年3月、京都第二赤十字病院看護婦養成所(現・京都第二赤十字病院)を卒業したばかりの同年4月にこの紙を受け取ったとみさんは、任地先となった広島県の呉海軍病院(現・独立行政法人国立機構呉医療センター)へと向かいました。とみさんは、戦地へ行くことを「お国のために役に立ちたいという一心で、こわいとは思わなかった」と振り返ります。呉海軍病院では、ひたすら傷病兵の看護にあたりました。サイパン島玉砕後の負傷兵は、大半が熱傷で、顔面手足の皮膚はひきつり、耳の中にはウジがわき、それは悲惨な状態だったそうです。

 しかし、暗いことばかりではなく、病院で患者慰問演芸会が催され、とみさんは、同室の看護婦平井さんに教えてもらった「白頭山節」(中国と北朝鮮の国境にある白頭山を讃えた民謡)を披露しました。「白頭御山に積もりし雪は溶けて流れて……可愛い乙女の 化粧の水」。今では、とみさんの十八番になっています。 同じく召集を受けた浅井町谷口の清水コシズさん(78歳。旧姓北川)は、昭和18年3月に召集、4月には中国済南病院の看護婦として勤務することになりました。病院には毎日毎日トラック何台分もの負傷兵が運ばれ、手術のない日はありませんでした。瀕死の兵士が寝ずの看病で回復して喜んだのもつかの間、再び前線へ送ることにはむなしさを感じたそうです。

 翌年にはコシズさんも遺書を書き、遺髪とともに故郷へ送っています。「御母様 最後に一言御礼を述べさせて戴きます」と始まる遺書は便箋3枚(11ページ写真)。終戦の翌年、昭和21年4月になって、ようやく故郷に帰り着きました。そこには、軍服を着て、髪を短くしたコシズさんの姿がありました。2年後に結婚したコシズさんは、嫁ぎ先でも遺書と遺髪を大切に保管し続けてきました。

お市の里 浅井町歴史民俗資料館 冨岡有美子

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