新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2010年 9月 1日

其の三十五 従軍看護婦の召集令状

招集状

 戦時中、日赤の看護婦さんたちには、兵士と同じように召集令状が届きました。戦場でケガや病気をした兵士の看病をするため、救護班として出征したのです。通称「赤紙」と呼ばれ、東浅井郡浅井町野瀬出身の妹尾とみさん(77歳。現在は長浜市在住)が保存しておられたもの(写真)も兵士の場合とは書式や大きさが異なりますが、淡い赤色をしています。

 昭和19年3月、京都第二赤十字病院看護婦養成所(現・京都第二赤十字病院)を卒業したばかりの同年4月にこの紙を受け取ったとみさんは、任地先となった広島県の呉海軍病院(現・独立行政法人国立機構呉医療センター)へと向かいました。とみさんは、戦地へ行くことを「お国のために役に立ちたいという一心で、こわいとは思わなかった」と振り返ります。呉海軍病院では、ひたすら傷病兵の看護にあたりました。サイパン島玉砕後の負傷兵は、大半が熱傷で、顔面手足の皮膚はひきつり、耳の中にはウジがわき、それは悲惨な状態だったそうです。

 しかし、暗いことばかりではなく、病院で患者慰問演芸会が催され、とみさんは、同室の看護婦平井さんに教えてもらった「白頭山節」(中国と北朝鮮の国境にある白頭山を讃えた民謡)を披露しました。「白頭御山に積もりし雪は溶けて流れて……可愛い乙女の 化粧の水」。今では、とみさんの十八番になっています。 同じく召集を受けた浅井町谷口の清水コシズさん(78歳。旧姓北川)は、昭和18年3月に召集、4月には中国済南病院の看護婦として勤務することになりました。病院には毎日毎日トラック何台分もの負傷兵が運ばれ、手術のない日はありませんでした。瀕死の兵士が寝ずの看病で回復して喜んだのもつかの間、再び前線へ送ることにはむなしさを感じたそうです。

 翌年にはコシズさんも遺書を書き、遺髪とともに故郷へ送っています。「御母様 最後に一言御礼を述べさせて戴きます」と始まる遺書は便箋3枚(11ページ写真)。終戦の翌年、昭和21年4月になって、ようやく故郷に帰り着きました。そこには、軍服を着て、髪を短くしたコシズさんの姿がありました。2年後に結婚したコシズさんは、嫁ぎ先でも遺書と遺髪を大切に保管し続けてきました。

お市の里 浅井町歴史民俗資料館 冨岡有美子

2010年 9月 1日

其の三十四 城跡をつなぐ「のろし」

のろし

 一部で、近江が「城の国」と呼ばれるようになって久しい。県教育委員会の分布調査では、琵琶湖畔や平野、山上に1300を超える城郭が確認された。確かにその中には、日本の五大山城のうち「小谷城」と「観音寺城」があり、日本の城郭の歴史を大きく変えた「安土城」が築かれ、国宝「彦根城」がある。しかし、ほとんどはわたしたちが住む裏山にひっそりと残る城跡である。昨今近江では、その存在すら忘れ去られてきた身近な城跡を再びよみがえらせようという活動が盛んである。遺跡の保存整備は、多くの場合、行政側から住民に働きかけるパターンが多かったが、近年の事情は住民自らが遺跡をどう活かすかを考え、さらにネットワークが広がっているのが特徴である。その発信源は鎌刃城(米原町)。そして、伊吹山麓の京極氏遺跡(伊吹町)に飛び火した。両遺跡は相次いで国の史跡となった。住民パワーが呼び込んだのだ。

 伊吹山麓のひっそりとした山里が上平寺地区(15戸)である。2キロほど東へ行くと、もう岐阜県関ケ原町になる県の北東端の集落だ。この小さな集落と京極氏の館跡を舞台に、秋の1日ここでひとときの戦国浪漫に浸ろうと、600人を超える人たちが集うイベントが行われている。平成14年(2002)からはじまった「上平寺戦国浪漫の夕べ」である。遺跡の概要については、サンライズ出版の本を見ていただくとして、イベントは、午後の歴史講演会、薄暮がかかってからは恒例の京極軍団出陣太鼓、演能や雅楽、フルートのコンサートなどがあり、聴衆は森閑とした林に流れる音色に魅了される。圧巻は庭園跡や参道を幻想的に演出する、区民手作りの3000本の行灯である。参加者は、猪鍋のもてなしに身も心も満足して、帰路につかれる。しかし、たった15軒でここまでたどりつくのは並大抵ではない。ほとんどの住民の方は、京極氏や遺跡について知らなかったことから、数年前から講師を招いた勉強会が行われ、共通認識を培われた。背丈をこえる熊笹に覆われた庭園跡や山城への道を刈り払い、間伐林や竹でベンチや階段を作る。有志といいながら、ほとんど「総出」である。子どもたちに誇れるふるさとを残すことが大きな目的である。さらにイベントは交流の連鎖を呼んだ。京極氏のつながりで、江戸時代京極藩だった香川県丸亀市に招かれ、上平寺が京極氏のふるさとであることをアピールし、甲良町正楽寺地区との交流も続いている。

 交流の最たるものが「近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」である。鎌刃城跡を舞台にすでに活発な活動をされていた米原町番場地区の呼びかけで始まったイベントは、今年も30の城跡を戦国時代の通信手段「のろし」でつないだ。伊吹町では、弥高地区の若手グループが、近江を一望できる弥高寺跡からのろしを揚げ、新たなまちづくりの1ページを開いた。各城跡では、行政を巻き込んだ歴史講演会やウォーキングなどが行なわれた。今後、のろしは東へ向うという。「いざ、鎌倉!」

*写真:伊吹町弥高寺跡で揚げられた「のろし」

伊吹町教育委員会 文化財係長 高橋順之

2010年 9月 1日

其の三十三 ヨシと共生する付着微生物たち

顕微鏡で見た付着状況の概念図

近江舞子沼のヨシの付着状況 ヨシ群落は琵琶湖の原風景であり、水辺の環境を守る大切な植物です。ヨシ群落には色々な働きがありますが、その中のひとつに水質保全の働きがあります。水の流れをせき止めて水中の汚濁物質をより早く沈殿させたり、ヨシの水中茎の付着微生物による有機物の分解やヨシ自身の成長による窒素やりんの除去などです。

 ここではヨシの水質浄化作用にとって、大切な役割を荷なっている付着微生物を紹介します。水中のヨシ茎に付着する微生物は大別すると、三つのグループに分けられます。第一は水中の栄養塩(窒素やりん)をとって光合成をする藍藻、珪藻、緑藻などの微細藻類(生産者)、第二はそれを食べる原生動物、輪虫などの小動物(消費者)、そしてそれらの死骸や流入有機物を分解するバクテリアの仲間(分解者)です。出現する種類は水質や水流などの微環境の違いやヨシの生活活性によっても異なりますが、私が今までに見た代表的な種類をいくつか図で紹介しましょう。第一の優占種は緑藻のサヤミドロ。付着器がありしっかりヨシの茎に付着して糸状に伸びてゆきます。そのうえに柄のある珪藻、帯状の珪藻や他の糸状緑藻(アオミドロ)、藍藻などが絡まって付着し、ゆらゆら揺れながら生活しています(写真)。さらにヨシの茎を包んでいる葉鞘の表面には珪藻のコッコネイス、藍藻のプレウロカプサや緑藻のコレオケーテなど10ミクロン (1/100mm)ほどの小さな単細胞植物がぴったり付着して、いろいろな形の群体を作っています。さらにこの森の中を泳ぎまわってそれらを食べるワムシや原生動物のアメーバ、柄を持つツリガネムシの仲間など多種多様の生物たちが生活しています。時には大型のヒメタニシがそれらをなめてしまうこともありますが、最後にはバクテリアによって分解され、一部は底泥に沈積して再びヨシの栄養となり、一部はその場で再利用、一部は流れによってこの森の外へ出て行きます。生活の場を提供してくれるヨシと共にこのような付着微生物たちの生命の絶え間ない物質代謝のサイクルによっても水は浄化されるのです。ちなみに私の調べた琵琶湖の内湖の一つ、安曇川町にある五反田沼では、10cmの長さの茎に約0.5cc(1昼夜殿量)の微生物が付いていました。もし琵琶湖のヨシの全茎付着微生物量を積算すればおそらくすごい量になることでしょう。今日はほとんど知られることもなくひっそりと、しかし、相互にかかわりを持つ小宇宙の中で生命の営みを続けながら役立っている微生物たちが存在することを紹介しました。

*写真:近江舞子沼のヨシの付着状況
*図 :顕微鏡で見た付着状況の概念図

滋賀県琵琶湖研究所 客員研究員 巌 靖子

2010年 9月 1日

其の三十二 大津市千町の里山

里山

 いま「里山」の人気が高い。「里川」とか「里海」という新語ができるほど、この言葉は人の暮らしと自然との関係をたくみに表現しているが、それが指す実体は使う人によって同じではない。

 初めて里山という語を広めた四手井綱英さん(京大名誉教授・林学)は、農村に近い二次林で、薪木や農地の肥料の給源として利用されてきた、いわゆる「農用林」を指してこう呼んだ。しかし最近は、さらに山奥の、おもに炭焼き用の「薪炭林」までも里山に含める人が多い。すると、植林以外の滋賀の森林のほとんどが里山ということになるが、この二つのタイプの林は生態的にかなり違うので、私は四手井さんのほうに賛成したい。 大津市の千町のあたりに住みついて、十数年になる。千町の最も山手にある集落は、もうなかば山村という感じで、周囲を里山の林にかこまれている。当時は、ちょうど松枯れ病の進行中で、それまでは高木の主役だったアカマツが一斉に枯れ始めていた。

 農用林としての利用は、もう全く行われていなかった。放置された林がどうなっていくかに興味を引かれて、まず定点をきめて定期的に記録写真を撮り、あたりの観察も続けてきた。まずコナラなどの落葉樹がぐんぐん成長して枯れたマツに取って代わり、やがて下生えのなかからアラカシやソヨゴなどの常緑樹も伸び上がり始めた。やがて、落葉樹林期を経て近畿低地の自然林であるカシやシイの常緑照葉樹林へと移行していくだろう。ここまでは通説通り、予想通りだったが…。事態は、この路線からはずれた。定点の林の片隅にあった小さな竹林が急に拡大し始め、まわりの木々を枯らして、林全体を占領しそうな勢いになったのだ。見まわすと、あたりの里山の各所で同じことがおこっている。お気づきの方も多いだろうが、実はこれは、南西日本の里山で広く起こっている現象の一端にすぎないのである。

 里山にはどこでも、ふつう個人所有の小規模な竹林が点在している。マダケ・モウソウ・ハチクと種類はちがっても、どれも長く地下茎を延ばして広がる性質をもつ。地下茎は、まわりが農地・雑木林、植林、なんであろうと遠慮なく侵入して筍(タケノコ)を出す。筍は、伸びきるまでは地下茎から供給される養分で成長するので、暗い林内でも平気で育つ。もし成竹の高さが周囲の木々をしのげば、日射をさえぎって先住者を枯らしてしまう。

 その勢いは非常なもので、スギやヒノキの植林でも、そうとうな高さに成長した林でないとやられてしまう。今は、里山林と竹林のどちらも利用されずに放置されているので、竹林がとめどもなく拡大しているのが現状である。里山固有の多様な生物も、変化に富んだ景観も、どんどん滅びていくだろう。

 この現象は、例えば東海道線の山崎付近などでは、数十年前から顕在化しており、一部の先覚者たちが警告していたが、里山と竹の利用が急激に衰えるとともに、それが杞憂でなくなった。「里山を守れ」という声は高いが、今もっとも必要なのは、春に竹林のまわりの筍をもぎにいくボランティア活動ではないだろうか。残念ながら、その努力をしておられる方々はまだごく少ないようだ。

*写真:里山林を浸食中の竹林

滋賀県琵琶湖研究所 顧問 吉良竜夫

2010年 9月 1日

其の三十一 早崎干拓地における生物相の変化

湛水した早崎干拓地の一部

 東浅井郡びわ町には、かつて「早崎内湖」と呼ばれた入江がありました。琵琶湖でも有数の内湖で、91・9haもの面積を有し、固有種ゲンゴロウブナの琵琶湖最大の産卵場でもありました。1963~70年に全面干拓された後は、長らく水田稲作が行われてきました。
 滋賀県では、地元の協力のもと、2001年11月より干拓地の一部17haを借り上げ、周年湛水し、水質および生物相の変化を調査するとともに、内湖再生手法の検討を現在行っています。最深部でも数十cmと水深は極めて浅いものの、常時湛水された状態で2年以上が経過しました。湖北地域振興局田園整備課が2年間行った調査から、生物相の変遷が明らかになってきました。
 植物では湛水後、半年が経過した2002年春には、水田雑草、特に乾性の雑草が優占しましたが、2003年春にはヨシ等湿地性植物や湿性雑草が優占する群落へと遷移が進みました。またタコノアシ、シャジクモ等の貴重植物がのべ9種も出現しました。これは干拓地で眠っていた埋土種子や胞子等が発芽したものと考えられます。
早崎干拓地の地図 飛翔力の大きい鳥類では、湛水後すぐにサギ類が飛来しました。湛水後2年を経過した現在、のべ59種が確認され、湖北野鳥センター(2003)が調査した湖北町尾上近傍の琵琶湖岸で出現する種数(139種)の半数近くに上りました。ただ、サギ科では8種のうち7種が確認された一方、ガンカモ科、シギ科、チドリ科、カモメ科、ワシタカ科、ホオジロ科、ヒタキ科の種数は琵琶湖岸に比して著しく少なく、その理由として干拓地には深い水域や発達した湖岸、水辺林等の環境要素が欠けていることが考えられます。
 魚類ではのべ13種が確認されましたが、ほとんどが周辺水路との共通種でした。周辺水路に生息する魚種の一部が侵入、生息していたと考えられますが、特にコイ科魚類の種数が周辺水路より少なく、放流種と考えられるニゴロブナ以外、琵琶湖固有種は出現しませんでした。固有魚種には、生活史の中で琵琶湖と内湖、水路や水田を往来するものが多く、琵琶湖と水系で繋がっていないため、干拓地に入り込めなかったのだと考えられます。
 このように早崎干拓地では、湛水後、水辺に生息する鳥類が飛来し、徐々に湿地性植物や水辺植物への遷移が進みつつあります。植物相の遷移の速さは、埋土種子やヨシ等の地下茎の存在が大きいと考えられますが、鳥類による種子等の運搬も寄与している可能性があります。早崎干拓地は、地域本来の植物相、鳥類相などの生物多様性回復のポテンシャルが極めて高い地域だといえるでしょう。しかし魚類相は貧弱なままで、現状では在来魚の種数増加は望めません。
 漁獲量の激減などに現れているように、琵琶湖の生物多様性は今、危機的な状況にあります。琵琶湖の生物多様性を保全するためには、内湖の復元など、劣化した湿地環境を積極的に回復する施策が必要です。これまでの調査結果は、早崎干拓地が内湖復元の有力な候補地であることを示しています。ただ現状を維持しても、琵琶湖本来の野生動物が生息可能な環境になるわけではありません。今後、内湖を復元するにあたっては、水辺林や発達した湖岸、一定の水深、琵琶湖との水系の連続性、季節的な水位変動などの環境要素を加える方策を検討する必要があります。

*写真:湛水した早崎干拓地の一部。(南北に走る湖岸道路の東側、2003年8月撮影)

滋賀県琵琶湖研究所 総括研究員 西野麻知子

2010年 9月 1日

其の三十 琵琶湖から失われた水草

ガシャモク

 日本最大の湖である琵琶湖では水草についても古くから調査研究が行われており、内湖を含めて43種類の水草がこれまでに記録されている。しかし近年の調査で発見できる水草は20種類程度しかなく、琵琶湖から絶滅したと考えられる水草は決して少なくない。その代表的なものとして、ヒルムシロ属のガシャモクやアイノコヒルムシロが挙げられる。

 ガシャモクは、現在でも琵琶湖に多く生育する同じヒルムシロ属のササバモによく似ているが、ガシャモクには葉の付け根の葉柄がほとんどないという明瞭な違いがある。しかしなんと言っても、薄い葉と白く浮き出た葉脈から透明感を持つ美しい水草で、一目見ただけでササバモとの違いに気づく。

 滋賀女子師範学校の教諭であった橋本忠太郎氏は、大正末から昭和30年にかけて滋賀県の植物の調査をされ、多くの植物標本を収集された。その植物標本は「滋賀県植物誌」(北村四郎編、1968)の重要な基礎資料となった。標本と採集地点が明記された地形図とが琵琶湖博物館に保管されており、ガシャモクが堅田内湖そばの水路で採集されたことがその地形図に明記されている。 今日のガシャモクは、日本では千葉と福岡の生育地が知られるだけで、環境庁の絶滅危惧種(絶滅危惧・A類)に指定されている。2003年7月に、水草研究会会員の大野睦子さんらにガシャモクの自生する北九州市内の溜め池を案内していただいた。写真は、その際に入手したガシャモクを栽培したものである。この溜め池には、ガシャモクとササバモとの雑種でインバモと呼ばれる、短い葉柄を持つものも生育していた。

 千葉県の産地の情報は十分に持ち合わせていないが、1カ所は千葉県の手賀沼の流出河川である手賀川の陸地部分が掘削され池状になった場所で、埋土種子を起源とする群落である。1998年の秋に大量に生育している状態を観察し標本の採取を行ったが、その後は藻類の繁茂などにより、群落の生育状況が良くないと聞いている。その時に採取したガシャモクが草津市立水生植物公園みずの森で展示されているので、是非一度ご覧になっていただきたい。北九州市では農業用水路で生育していたアイノコヒルムシロも採取することができた。この個体についてもみずの森で預かっていただいたので、いつか見ていただける日が来るかもしれない。

 手賀川でのガシャモクの例は、土中に埋もれた種子(埋土種子)からの再生の可能性を示している。早崎内湖や津田内湖などの跡地で、内湖の復元実験や調査が最近行われているが、琵琶湖から失われた植物をよみがえらせるという観点からも注目している。

*写真:2003年7月に北九州市で採取したガシャモク

滋賀県琵琶湖研究所 専門研究員 浜端 悦治

2010年 9月 1日

其の二十九 琵琶湖の泥について

琵琶湖の泥

 湖底に溜まった泥の下を更に掘ってゆくと何が出てくるか。また、琵琶湖が泥で埋まってしまうことはないのか。こういった質問に答えるための材料は幾つかある。既に先人達の努力により、多い場所では過去6300年間に12mの厚さで泥が溜まったこと、これを平均すると年間2mmの厚さで泥が溜まることなどが知られていた。しかしそれらは、湖底を掘り返して確かめたのではない。圧倒的な量で溜まっている泥の中に、「泥じゃないモノ(すなわち火山灰)」が埋没していれば、それは音波探査で見つけることができるので、今から6300年前に鹿児島南方から西日本一帯に飛来して琵琶湖にも堆積したアカホヤ火山灰を探すことで確かめたという。

 ここに紹介したのは、筆者が2年前に湖底を音波探査した結果の図である。上段地図中の白丸を結んだ線上を航行した。下段の断面図の白い部分は水深約 90mまでの水域である。湖底面を黒線で示したが、それより下側の灰色部分が、いわゆる泥の溜まっている部分である。水深が40mよりも深いところで、アカホヤ火山灰が約10m下に埋没しているという音波探査の結果だったので、それを黒塗りの下端として、それより上側に溜まった泥の部分を黒塗りで示した。琵琶湖のどこでもが年間2mmの厚さで泥が溜まっている訳ではなく場所によりけりであることが、この図から分かる。

 なお上の図は、筆者が琵琶湖の泥について分担執筆した『琵琶湖流域を読む 下』(サンライズ出版)にも登場したものであるが、深さが誇張して描いてあり、琵琶湖がこのように激しく窪んでいる訳ではない。では、読者に真の姿をイメージして頂くためにはどのような説明方法があるだろうか。また同書籍中で、「東京ドーム約2杯分の泥が毎年琵琶湖に溜まる」との説を紹介したが、この規模がどの程度のものかをイメージして頂くための説明方法はあるだろうか。

 「琵琶湖に畳が何枚敷けるか?」というなぞなぞがあるが、答えは約4億枚だ。琵琶湖と畳の大小関係はおよそ2万倍であるから、この縮尺で琵琶湖を畳に縮めてやると、「平均水深40m・貯水量275億t」は「水深2mm・貯水量3リットル」に縮んでしまう。そして畳の上に置いたボタン1個。それが東京ドームだ。琵琶湖は予想外に浅く平べったい。また毎年溜まる泥の量は、広さの割にあまり大した量ではないようだ、というように見ることもできる。

*図:アカホヤ火山灰層の探査航路(上)および層厚(下)

滋賀県琵琶湖研究所 主任研究員 横田喜一郎

2010年 9月 1日

其の二十八 日吉山王二十一社本地仏(ひえさんのうにじゅういっしゃほんじぶつ)

小禅師宮 彦火々出見尊

  「あなたは日本の国教をご存知ですか?」

 こう尋ねられて、即座に明快に正解を答えられる人は少ないのではないでしょうか。今、日本に国教はありません。憲法で「信教の自由」を認めているからです。江戸時代は仏教が国教でした。寺檀制度は幕藩支配体制の一翼を支える役割をも果たしていました。

 かわって明治政府は伊勢神道を頂点とする神道国教化政策をはかり、明治元年(1868)以降、一連の神仏分離令を発布しました。これは神社の中から仏教的色彩を排除することを目的としたものです。「別当」「社僧」と呼ばれた神社にいた僧侶はいったん還俗し「神主」「社人」に名称変更すること、神社から仏像・本地仏*・鰐口・梵鐘を取り払うことなどが命じられました。しかし、それにとどまらず廃仏毀釈運動につながり、堂塔・伽藍や仏像・仏画・経典などが破却や焼却されました。本県においても、坂本の日吉大社では仏像・仏具などおびただしい数のものが取り上げられ焼却されるなど、各地で数多くの貴重な文化財が失われる残念な結果となりました。

 さて、今回紹介する資料は、廃仏毀釈の時代をくぐり抜けてきた「日吉山王二十一社本地仏」(室町時代、高月町井口・日吉神社所有)です。中世の本地垂迹思想により造られた小像群で、21躯のうち19躯が伝存します。

日吉山王二十一社本地仏 彫像としてあらわされた「日吉山王二十一社本地仏」は全国的にも例がなく、これをほぼ揃えた本小像群は学術上貴重であり、数少ない神仏習合時代の遺品として、また湖北地方の中世史を考える上でかけがえのない資料といえます。

 写真の童子の姿の像は「小禅師宮 彦火々出見尊」です。袍衣を着て髪を角髪に結い、左手に宝珠をかかげ右手には錫杖をもちます。約20cmの小像ながら、明るくあどけない可憐さと神々しい森厳さをあわせもつすぐれた彫刻といえます。

*「本地垂迹説」は、「日本の神は、仏教のホトケが人々を救うため仮に神の姿をとってあらわれたもの(垂迹身)であって、

  各神々にはそれぞれ呼応する本地(本体・本来)の仏教尊がある」というもの。
 「本地仏」は、この思想によって造像された各神々に対応する仏像。

高月町立観音の里歴史民俗資料館 学芸員 佐々木悦也

2009年 10月 1日

番外 豊郷小学校のウサギとカメ

ウサギとカメ
▲ 階段手すりの起点部分でスタート間近のウサギとカメ(豊郷小学校の歴史と未来を考える会 提供)

本誌78号(昨年1月発行)から1年余り、全国的に知られる存在となってしまったウサギとカメである。

Duet編集部

2009年 10月 1日

其の二十七 やってきた御本尊 ―永正寺 阿弥陀如来立像―

阿弥陀如来立像

 ここにとりあげるのは、栗東市上鈎(かみまがり)にある浄土真宗大谷派永正寺の本尊阿弥陀如来立像です。

 このあたりは長享元年(1487)に、六角高頼(ろっかくたかより)征伐のため室町幕府九代将軍足利義尚が自ら出陣した鈎の陣の故地とも伝えます。しかし、現在の永正寺に直接つながる存在が確認されるのは永正(1504~1521)頃以降のことです。寺伝によると、永正7年(1510)に本願寺第9世実如(じつにょ)より十字名号(帰命尽十方旡碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の10字を書いた掛軸)等をさずけられ、道場となす許しを得ました。当初は「鈎郷道場」と称したようです。のちに、東本願寺を建立したことで知られる教如(きょうにょ)より寺号(○○寺と名乗ること)と木仏安置(木造の阿弥陀像をまつること)の許可を得ています。

 天下統一を目指した織田信長は、その過程で本願寺を中心とする一向一揆と対立しました。湖南でも金森・三宅(現守山市)を中心に一向一揆が活発な活動を見せます。最終的に一向一揆は平定され、その後、政権側の支援をうけていくつかの寺内町・村の再建が進められました。永正寺のある上鈎寺内もそのひとつです。

 本像について、永正寺に伝わる文書に次のような話が記されています。世は徳川に定まり、寺内としての体勢も整ってきた元和2年(1615)3月15日、ひとりの見慣れぬ僧が当地を訪れ、阿弥陀如来像を授けるといずくともなく去っていきました。皆はこの僧を「応僧」(神や仏が姿を変えた僧)かと思い、像は比叡山の慈覚(じかく)大師(円仁、794~864)の彫刻した霊仏とされたことから、「当寺に因縁あるをもってこれを安置し本尊と為」したというのです。木仏をまつる許しを得ても、いまだ本尊となすべき仏像を用意できていなかったところに、本像が迎えられたのかもしれません。

 さて本像は像高 81.3cm、凛とした顔立ちで、姿のととのった堂々たる作品です。鎌倉時代初頭の高名な仏師である運慶や快慶の流れを引く仏師によって造られたと思われます。製作時期は鎌倉時代の13世紀半ば過ぎ頃と推測されます。慈覚大師とは時期があいませんが、このあたりは平安時代半ばから天台の影響を受けており、天台は宗教風土にしっかりと根付いていたのです 中世末の動乱は、多くのほとけたちの運命をもてあそびました。しかし戦火を生き延びたほとけたちは、やがてそれぞれに場所を得て大切に守られていったのです。 

栗東歴史民俗博物館 学芸員 松岡久美子

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