新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2019年 5月 31日

其の75 縄文時代のスギ埋没木

滋賀県立琵琶湖博物館 林 竜馬

 2018年11月に琵琶湖博物館に新しく造られた空中遊歩道「樹冠トレイル」は、屋外展示の「縄文・弥生の森」の中に建っています。この森は、人が自然に大きく手を入れる前の原生的な植生を再現しています。神社やお寺の周囲に残された社寺林と呼ばれる植生や、琵琶湖の周りから見つかるさまざまな植物の化石を参考にして、縄文時代や弥生時代の森を復元しています。

 今回紹介する資料は、「縄文・弥生の森」の復元に一役かった大きな木の化石です。この大きな根株は、1992年に大津市木戸にある木戸小学校の工事の際に地中から大量に掘り出された埋没木のうちの一つです。今から約3000年前に生きていた針葉樹、スギの埋没木で、その幹直径は1m以上、根ばりは3m以上あります。琵琶湖の周りでは、穴太遺跡や余呉湖周辺の低地などでも、このような巨木の埋没木が見つかっています。地層の中に眠る巨木が、私たちに太古の森の記憶を語りかけてくれるのです。

 縄文時代の人々は、このような巨木のスギの森を見つめながら、琵琶湖の周りで暮らしていました。当時から、スギを木材として利用していたことも、考古学の研究成果から明らかになっています。滋賀県における縄文時代の遺跡からは、丸木舟と呼ばれるボートが30艘近く発見されています。丸木舟は、大きな丸太をくりぬいて作られたもので、古くから人々が湖や川に漕ぎ出すのに欠かせない道具でした。

 滋賀県で出土した丸木舟の材料となる樹木は、その約半数をスギが占めていたことが樹種同定の結果から示されています。縄文時代の人々は、この埋没木資料のようなスギを伐採して、丸木舟をはじめとしたさまざまな道具を作っていたのです。

 2020年にリニューアルオープンする琵琶湖博物館のB展示室では、琵琶湖と森で暮らした縄文時代の人々の生活について、実物資料と等身大ジオラマで紹介する展示コーナーができます。

 その中で、遺跡から発掘された丸木舟の実物標本とともに、このスギの埋没木も展示する予定です。また、屋外展示の一角には、今回の資料と同じ場所で見つかった、より大きなスギの根株も展示していますので、一度探してみてください。

2019年 4月 24日

其の74 山内ふるさと絵屛風

甲賀市土山歴史民俗資料館 駒井文恵

山内ふるさと絵屛風 山中(部分)

山内ふるさと絵屛風 山中(部分)  中央を走る東海道を中心に、虫取りや川遊びなど懐かしい情景。牛の仲買人がぞろぞろと牛を引くさまは、当時の街道の様子を彷彿とさせる。


 昨年(2018年)、土山町山内6地区のふるさと絵屛風が完成しました。これは地域住民の暮らしの記憶を形にして未来へつなげる取り組みで、市民団体の山内エコクラブの活動の一環として行われたものです。

 ふるさと絵屛風は、完成までの過程が重要とされます。聞き取り、下絵の制作、絵屛風への清書を進めていく中で、人々のつながりが生まれ、日に日に高齢者が生き生きしていく様子が見られました。描かれた内容はふるさとへの思いにあふれています。年上の子が年下の子の面倒を見たこと、屋根の萱葺きの手伝い合いをしたこと、川をせき止めて泳いだこと、ササユリの咲き誇る風景など、人と人の豊かなつながりや人が自然とともに暮らしてきたことを再認識させるものとなっています。現在、土山歴史民俗資料館では、山内ふるさと絵屛風とそこに描かれた民具を紹介していますが、制作過程にも注目しながらご覧ください(会期:1月27日まで)。

 さらに今年度から、市民協働事業で「記憶文化財を活用した地域博物館プロジェクト」に取り組んでいます。これは、絵屛風と市内の資料館の保管民具を使った事業を中心に展開していくもので、今後は「昔の暮らし」授業や「お出かけ回想法」など子どもから高齢者まで幅広い人を対象にした事業を進めていきます。このように絵屛風は、歴史文化だけでなく、学校教育、福祉医療、観光、人権など、幅広い分野での活用が期待できます。

 関連事業として、2月10日13時30分から、あいこうか市民ホール展示室でフォーラムを開催します。絵屛風提唱者の上田洋平氏をコーディネーターに、健康福祉医療や観光などの専門家、地域の絵師をパネラーに迎え、絵屛風のまちづくりへの活かし方について県内の絵屛風先進地の事例も参考にしながら深め会う機会とします。思い出がつまった記憶の玉手箱、一緒に開けてみませんか。

2018年 10月 30日

其の73 兵主大社伝来の太刀 一口

野洲市歴史民俗博物館 齊藤慶一
兵主大社伝来の太刀
 近江を代表する古社、兵主大社は滋賀県野洲市五条に鎮座しています。
 この兵主神については、慶長9年(1604)の「兵主大明神縁起」(同社蔵)などによると、今から1300年前の養老2年(718)10月上旬に、琵琶湖を渡ってきた神として記されています。
 当館では、平成30年10月20日㈯から12月2日㈰にかけて開館30周年特別展「遷座一三〇〇年記念 兵主大社展─琵琶湖を渡って来た神さま─」を開催し(月曜休館)、同社ゆかりの文化財を紹介します。同社伝来の文化財の特徴の一つとして、数多くの武具が伝わっていることがあげられます。
 これは、兵主神が、古代中国において「莵尢」と呼ばれる兵器創造神であり、軍神として信仰されていたこと、さらに「兵主」が「つわものぬし」と読めることから、武士から崇敬された歴史の影響と考えられます。
 今回は、その伝来品のなかから、初公開となる太刀を紹介します。
 太刀は、刃を下に向けて腰につり下げる刀剣で、刃長(刃の長さ)がおおむね2尺(約60㎝)以上のものです。紹介する太刀は作風上から、小反物の刀工によると考えられます。小反物の意味は明確ではありませんが、南北朝時代後期の備前長船刀工の一派を指す呼称です。備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)は主要な刀剣産地でした。同社伝来の太刀の銘は、「宀」(うかんむり)1字のみ判読でき、小反物一般に共通する銘振りであることから南北朝時代から室町時代初期の作と考えられます。発見当初、太刀は錆びていましたが、創建1300年に合わせて研ぎ磨かれ、ふたたび、その美しさを鑑賞できるようになりました。
 11月13日㈫から12月2日㈰にかけて公開する太刀(刃長73・0㎝)をご観覧ください。

2018年 9月 11日

其の72 ヤンソン「日本・蝦夷図」

(公財)日本習字教育財団 観峰館 寺前公基

 当館は、教育資料として、西洋古地図コレクションを所蔵しています。平成28年には、栗東歴史民俗博物館との共催で「琵琶湖誕生─日本・世界が見聞した琵琶湖─」を開催し、古地図に描かれる琵琶湖に注目した稀少な展覧会となりました。
 ご紹介する地図は、オランダ・アムステルダムの地図作者ヤン・ヤンソン(1588~1664)が作った日本・蝦夷図の代表的な地図です。ヤンソンは、アムステルダムにおいて出版を生業としていた地図作家です。ヤンソンは、1650年に『世界地図帳』を出版し、後世に「最初の海図地図帳」として高い評価を得ることになる優れた人物でした。
 本図は、同じくヤンソン編著『新地図帳』(1658年)に収載されたものです。その構図は、著名なゲラルドゥス・メルカトルの世界地図帳『アトラス』を受け継いだ、メルカトル=ホンディウス版の日本地図を元にしています。特筆すべきは、フリース(?~1647)の蝦夷地探検の成果を忠実に生かしたことで、初めて北海道の一部が描かれた地図の一つとして知られています。しかし、朝鮮半島を「半島」ではなく「島(INSVLA)」として描き、また縮尺を大きくしたために地名がずれてしまい、江戸が東北地方にまで移動するなど、不備がみられます。そしてテイセラ版世界地図の影響からか、四国を「Tokoesi」、九州を「Cikoko」と表記するなど、地名にも誤りがみられ、17世紀半ばのヨーロッパのアジア地理認識の限界を示しているといえるでしょう。
 とはいえ、九州、四国、中国地方、関西地方と、非常に多くの地名が記されており、特に太平洋、瀬戸内海の地名は、その位置関係が正しく把握されています。近畿地方に目を向けると、京(Meaco)の南方に小さく、琵琶湖らしき湖が描かれています。当時の地図に描かれる琵琶湖は2種に分かれ、瀬戸内海からの延長上の海と認識しているものと、本図のように京都の南方の湖としているものがあります。ともに、豊臣秀吉による、巨椋池や大坂へと続く淀川の整備が影響を与えたと考えられます。この後、琵琶湖は京の東方に位置する湖として認識され、「鮭の多くとれる湖」などとも表記されますが、それは17世紀末頃になってからのことです。

古地図コレクションの詳細は、中川敦之・寺前公基共著『琵琶湖ブックレット9 ヘン!?な琵琶湖(仮)』(平成30年9月発行予定)にまとめられていますので、あわせてご参照ください。

2018年 6月 18日

其の71 出征のぼり

滋賀県平和祈念館 専門員 伊庭 功
出征のぼり

 今年1月から6月3日まで開催している企画展示『野洲郡 北里村』では、多数の「出征のぼり」を展示しています。太平洋戦争がはじまるまでは、こうしたのぼりを立てて出征者を見送りました。のぼりの大きさは、竹竿につるす4m前後のものと、旗竿につるす1~2m程度のものがあります。短いのぼりは色彩やデザインを凝らし、下縁に飾り紐をつけた、派手なものが多いです。
 こうしたのぼりは祝儀と激励の意味を込めて出征者に贈られました。中央には出征者の氏名を大書して、両脇下部に贈った人や組織の名が書かれています。氏名の上には、祝・尽忠報国・出征・応召・入営・入団などの文字や、国旗や鷲の絵をあしらっています。こうしたのぼりは既製品が準備されていて、名前だけが墨で手書きされています。
 展示品には旧北里村(昭和30年に近江八幡市に編入)の方の寄贈品がありませんが、当館はご寄贈いただいた出征のぼりを多数所蔵しています。
 戦前・戦中、成人した男性には徴兵検査を受けることが義務づけられていました。そのなかから入隊したのは、平時においては25%程度です。軍隊へ入隊したことは、お国の役に立てる立派な成人男性になったと認定された、と受けとめられていました。
 昭和12年(1937)、北京近郊の盧溝橋で武力衝突がおこり、5か月後には首都南京が陥落しましたが、紛争は終結せず、全面戦争へと拡大しました。この日中戦争の拡大とともに入隊者の比率は急上昇し、予備役として在郷する人にも大動員がかけられました。
 開催中の企画展示では、日中戦争が拡大した昭和13年に応召・入隊した方とそのご家族の記念写真を多数展示しています。地元の晝田英杉さんが撮影されたこれらの写真からは、出征のぼりを立てて盛大に見送ったようすがうかがえます。お国の役に立てる機会がめぐってきたことを祝い、戦場で手がらを立てることを期待して励ましたのです。「支那事変」と呼ばれたこの戦争は早いうちに勝てるつもりでいましたから、出征者やご家族の表情にも余裕がうかがえます。
 やがて太平洋戦争が始まるころには、防諜と倹約のため、出征のぼりの見送りはひかえられました。そして戦況が悪化していくと、出征者はほんとうに死を覚悟して戦場へゆかねばなりませんでした。

2018年 6月 14日

新撰淡海木間攫 其の七十 ローリエの枝 ルネ・ラリック

成田美術館 副館長 成田充代

 1921年にシールペルデュ(蠟型鋳造)で制作されたこの花瓶は、ちょうど手のひらに収まる大きさで、一見シンプルな小品にも見えますが、手には天然石のようなあたたかな感触が伝わります。裾文様にやわらかに溜まった光が木漏れ日のようにきらめきローリエ(月桂樹)の葉に生命感が溢れ、シャンパーニュの風にそよぐ葉音が聞こえてくる感覚にとらわれます。当代一流の蒐集家を感嘆させた才能の懐の深さを感じさせられる一点です。眼と手で愛でるオブジェ・ダールの喜びを知り尽くしたコレクターのための逸品と言われています。
 この作品は、19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍し、エミール・ガレ、ドーム兄弟と並びガラス工芸家の中で五本の指に入ると言われているルネ・ラリック(1860〜1945)の作品です。
 フランスの北東部シャンパーニュ地方(マルヌ県)アイに生まれたルネ・ラリック、彼が生を受け母の故郷であるこの地は、シャンパン(シャンパーニュ)の産地として知られ、丘陵に見渡す限りブドウ畑が広がる自然豊かな村でした。パリに居を構える一家は、しばしば母の郷里を訪れ休暇を楽しんだと言われています。
 フランス、シャンパーニュの恵まれた自然の中で幼少期を過ごし、豊かな感性を育んだルネ・ラリックは、アール・ヌーヴォー期には宝飾作家、アール・デコ期にはガラス工芸作家として二つの異なる分野で頂点を極めた人物として知られています。時代の流れ、芸術の分野が変わっても、「自然」は彼の生涯のテーマでした。ラリックの作品には、その頃出会った自然界のモチーフが数多く登場します。
 彼の愛した「自然」、この作品をご覧いただきながら永遠のテーマとして自然とその神秘に対する畏敬の念を抱き続けたルネ・ラリックを思いおこしていただければ幸いです。

2018年 6月 14日

新撰淡海木間攫 其の六十九 ヒトエグモ Plator nipponicus (Kishida, 1914) クモ目ヒトエグモ科 

甲賀市みなくち子どもの森自然館 河瀬直幹

ヒトエグモ

重ねた植木鉢の内側に潜むヒトエグモ雄 (2017年3月、大津市、清水良篤氏撮影)

 ヒトエグモは、頭部先端から腹部後端までが5~8㎜(脚を含めた横幅は約20㎜)と小型のクモ類です。しかし、その特異な形態と、生態の謎から、日本のクモ関係者の間で注目されています。
 まず、ヒトエグモの体形は、クモ類で最も扁平と言われており、厚さが1㎜に満たない体です。「ヒトエ」は“単衣=裏地がない薄い和服”に由来します。この体で、屋外の石垣や土塀の狭い隙間に潜んだり、家屋内では本の間から発見されたりして驚かれます。人に見つかっても、完璧に平たい姿勢のまま、ゆっくり横歩きで逃げる様子は本当に奇妙です。
 つぎに生態ですが、非常に稀なクモで、既知のほとんどの記録は京都府と大阪府の旧市街地で、単発的なものでした。しかも寺社や古民家の家屋周辺にのみ発見され、野外の森林などで見つからないことが謎を深めます。このため、日本蜘蛛学会元会長の吉田真氏は、ヒトエグモが韓国各地に分布することから、古い時代に朝鮮半島から渡来した荷物に潜んで、京都や大阪の市街地に侵入した外来種でないか!?との仮説を提起しています。
 このヒトエグモの1雄が、2017年1月、甲賀市水口町京町の民家で古本を整理中の男性により発見され、みなくち子どもの森自然館に届けられました。“極めて珍しいクモ発見”のニュースが広がると、滋賀県内の長浜市、近江八幡市、大津市、甲賀市から予想を上回る新情報が届きました。そのうち、長浜市尊勝寺町と大津市札の辻のお寺からは、各1雄の標本が得られ、滋賀県内における分布が明白となりました。また同年、関西クモ研究会の藤野義人氏により京都市街のヒトエグモ生息分布調査の結果が会誌に掲載され、市街広域の寺社の石垣や物置等から多数記録が報告されました。
 以上のとおり、これまでクモ研究者が家屋を積極的に調査しなかったために稀だったようです。古くからの市街地がある京都や滋賀には、このクモが確実に生息しています。意外に身近かもしれないヒトエグモに、ちょっと注目してみては?

2017年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の六十八 絵絣の見本

大津市歴史博物館副館長 和田光生
絵絣の見本/図柄は異なるが、織りあげられた木綿絣/柄の見本とともに販売された綛糸

 田上郷土史料館には、衣生活資料が多数収蔵されています。なかでも女性が腰に巻いていた「三幅前垂れ」(7ページ写真)は、さまざまな絵絣で織られており、華やかな印象を与えます。絵柄は、年齢によって使い分けていたそうで、若者は大柄で一幅に1列で4つほどの絵柄が見られる「四ツ絣」、高齢になるほど小柄となり「十六絣」など、年齢に合わせて使い分けていました。
 古くは綛糸を数か所しばって藍染した「ククリ絣」が織られていたようです。そのころは十字や井形など簡単な図柄だったようですが、明治時代後期以降に絵絣が拡がるようになります。もちろん自家製で絵絣を織り出すことは難しく、絵絣糸を購入して織っていました。田上地方には、湖東から絣糸を売りに来ていたようです。麻絣が盛んだった湖東地方の技術を生かし、木綿絣用の糸を作成し、販売に来たのです。手機で織るので、緯絣ばかりでした。
 絣糸は綛にして売られますが、それがどのような模様の糸か見ただけではわかりません。そこで糸と一緒に織り上がりの図案を添えて販売されていました。織る時は、この図案を見ながら織り上げたのです。田上郷土史料館には、織り上げた三幅前垂れやその端切れなどとともに織り上がり見本の図案も収集されています(7ページ左下写真)。絵絣は、紺地に白で絵柄を表す黒絣と白を地として、紺で絵柄を表現する白絣があり、上田上牧町では白絣が好まれました。
 三幅前垂れなど伝統的な服装も、戦後大きく変貌し、その多くは廃棄され、資料として残ることも稀でした。田上郷土史料館は、こうした失われやすい衣生活資料を意識して収集し、その調査研究も重ねてこられました。絵絣の問題も、田村博望氏の「郡田新蔵創案の板締絣」(『民俗文化』第381号、平成7年、滋賀民俗学会)でまとめられています。

2017年 4月 12日

新撰淡海木間攫 其の六十七 「日本藩史」草稿 北川舜治著 静里文庫蔵書

草津市立草津宿街道交流館館長 八杉 淳

「日本藩史」は、日本各地の藩主について記した歴史書で、静里文庫の蔵書として10冊の自筆草稿と、15冊の自筆校本があります。草稿は、マス目や縦罫入りの用紙に記されています。一方の校本は、舜治が開いた私塾「修文館蔵」の文字が刷られたマス目入りの用紙に漢文体で記され、校合の際の訓点など朱書が施されています。また、15冊に分冊され、それぞれが表紙を付して製本、調えられています。
 この「日本藩史」は、明治12年(1879)12月に版権免許、同17年4月に「六書堂」から全8巻で出版されています。
「日本藩史」を著した北川舜治は、天保12年(1841)栗太郡部田村(草津市青地町)生まれ。幼少期から祖父である浄光のもとで教えを受け、8歳のときには四書(儒学の基本となる4つの書物)を暗唱するなど、周囲からは奇童と呼ばれていました。安政6年(1859)、19歳で京都に遊学。山本榕堂の門に入り、経史や博物学を、その翌年には山本主善のもとで医学を、そして伊藤輶斎に儒学、高島晋斎、遠山雲如からは詩文を学んでいます。
 文久3年(1863)、郷里に帰り、私塾を開くとともに、医者として開業。医師としての仕事に励むとともに、生徒を集め、和学や儒学を教えました。その傍らで自らも修史の志を立て、国詩や経史、西洋訳書を書写しています。
 私塾を開いたのち、明治8年(1875)に滋賀県に出仕。史誌編纂兼学務担任や文書掛を務め、明治15年(1882)に、家庭の事情で県の仕事を辞職するまでの間、「日本文学志」全8巻、「日本外交志」全4巻、「経典彙纂」全4巻などを編著。明治20年には大阪住友吉左衛門の委嘱を受け、住友家歴代の家記をまとめた「垂裕明鑒」全31巻を編纂しています。その後も「滋賀県沿革志」「近江名所記」「瀬田川浚渫工事(瀬田川浚渫沿革記)」4巻などを滋賀県の委嘱を受けて著すなど、多忙な職務の合間に、自ら「柳暗花明舎」や「読我書屋」と名付けた書斎で、精力的に著作活動を続けました。そして、明治31年(1898)には、これまでの著作活動の集大成ともいうべき、「私撰国史」175巻を編纂し、宮内省に献納しています。
 北川舜治が生涯62年にわたり、自身が著した草稿・著作や収集した蔵書数百冊が、戦後、彼の郷里に鎮座する小槻神社に寄託され、舜治が号とした「静里」を冠し「静里文庫」と名付けられて今日に至っています。

2017年 1月 27日

新撰淡海木間攫 其の六十六 日野祭礼之図 渡辺雪峰

近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸
岡井健司
日野祭礼之図 渡辺雪峰

 渡辺雪峰は、山梨県富士吉田出身の日本画家・書家。明治元年、幕末の志士新徴隊の一員であった父平作の次男として、山形県庄内で生まれました。明治6年(1873)、郷里の富士吉田に父とともに帰郷し、絵を嗜んだ父の影響を受けて幼少期から画業を志しました。画を渡辺小華、書を長三洲に学び、明治35年(1902)に東京へ出て日本文人画協会を主宰し画家としての地位を確立しました。山水画のうち文人画の系譜をひく南画を得意とし、明治・大正・昭和にわたって活躍、昭和24年(1949)、富士吉田の福源寺にて没しました。

 本図は、箱裏書により、明治26年晩春に雪峰が湖東日野渓を訪れた折、偶然に綿向神社の祭典を見る機会を得、北浦雅契氏の求めに応じて描かれたものであることがわかります。

 雪峰が目にした祭典は、日野町村井に鎮座する馬見岡綿向神社の春の例大祭・日野祭のことで、5月3日の本祭には、綿向神社と御旅所である雲雀野の間を3基の神輿や神子・神調社の行列が渡御し、16基ある曳山が巡行する湖東地方最大の春祭りです。

 本図には、多くの見物人で賑わう祭りの日の御旅所の様子が、力強く大らかな筆致で活き活きと描かれています。図中を詳細に観察すると、御旅所に集結した曳山(現在、御旅所へは1基のみが巡行)、奉納が廃止されて久しいホイノボリ(和紙と竹で作った幟・図中央右)や、現在とはデザインの異なる神輿舁き・神調社の衣装が精緻に描き込まれるなど、古式の日野祭の様子をうかがい知ることができ、民俗資料としても価値の高い作品と言えるでしょう。

 絵を所望した北浦氏とは、御旅所が位置する日野町上野田に本宅を構え、東京八王子にて酒造業を営んだ日野商人北浦権平氏のこと。江戸時代中期から明治の頃、多くの画人たちが日野商人の財力と文化力を頼って日野を訪れました。日野近郷の蒲生郡桜川村(東近江市)には山梨県甲府で酒造業を営んだ近江商人野口忠蔵家があり、当代当主の夫人は女流南画家として著名な野口小蘋でしたから、雪峰は野口家との縁を頼りに日野の地を訪れたのかもしれません。

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