新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2015年 8月 3日

新撰淡海木間攫 其の六十 伊吹山学校登山の写真

米原市伊吹山文化資料館 髙橋順之

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち(昭和初期か、伊吹山頂の測候所前にて)

「十一時が近づいた時、私達はあたりの静寂を破って宿を立った。(中略)登山者の群れは多かった。山はまるでお祭り気分だった」(昭和4年〈1929〉大垣高等女学校交友会誌)。
 明治時代、ヨーロッパから近代登山が伝わり、大正時代には、余暇時間を充足する一方途として登山ブームが到来、「登山の大衆化」が始まります。伊吹山の登山口の上野(米原市)では入山料を取り、希望者には案内人を付けて、多くの人を伊吹山に誘いました。
 「対山館」は、大正14年(1925)に上野に設立された、タイル張りの百草風呂を売り物にした旅館です。伊吹山文化資料館には、対山館宛の書簡類が約1700点保存されています。このなかに、戦前・戦中の学校登山に関するものがたくさんあり、この時期の学校登山のようすがわかります。
 彦根高等女学校(現、県立彦根西高等学校)は、明治19年(1886)創立の全国的にも古い女学校で、大正3年(1914)7月29日・30日に第1回伊吹登山を実施しています。校長以下職員5人は生徒12人を引率して山麓の春照(米原市)に1泊して夜間登山をおこないました。以後、大正7年、昭和2年、10年から18年まで、終業式終了後、第5学年百数十名が恒例の夜間登山をおこないました。伊吹山には、夏季休暇が始まる7月下旬に、愛知・岐阜・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫各府県の学校が訪れています。そのほとんどが夜間登山です。
 学校登山は、当初、野外学習や夏季休暇の有効な利用法として導入されましたが、日中戦争(昭和12年)が勃発すると、登山の目的が戦争遂行のための心身鍛錬や忠君愛国精神の高揚に変容していきます。やがて、旧制中学校などの男子生徒は、軍要員となるべく軍隊宿泊調練などに明け暮れ、登山の主役は、銃後を守る婦女子の心身鍛錬等を目的とした高等女学校になっていきました。伊吹登山が戦争に利用されたのです。
 最寄の近江長岡駅はいち早く明治22年(1889)に開業しており、交通至便なことから、古くから多くの学校が学年単位で訪れ、それを受け入れる登山環境も充実していました。伊吹山は、夜間登山を中心にいまでは想像できないほどの多くの登山者で賑わっていたのです。

2015年 3月 31日

新撰淡海木間攫 其の五十九 鍾馗(しょうき)

かわらミュージアム館長 小森健行

鍾馗(しょうき)

飾り瓦「鍾馗(しょうき)」 各高さ:80㎝ 幅:105㎝

 かわらミュージアムに展示されている飾り瓦「鍾馗」は、江戸時代後期の文政11年(1828)に作られました。八幡瓦の元祖である寺本家の寺本仁兵衛五代目兼武とその弟・西塚宗三郎の兄弟合作の作品です。
 鍾馗は、主に中国や日本の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡よけや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりされました。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屛風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりします。
 鍾馗の図像は、必ず長い髪を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな目で何かをにらみつけている姿です。
 鬼瓦(飾り瓦)は、棟の端に取り付ける飾り瓦であり、奈良時代には一般に蓮華文が用いられましたが、8世紀以降、獣面、鬼面へと変化しました。江戸時代の初めころより実にさまざまな形のものが出現しています。例えば、家を建てる際には吉相を選び、鬼門を避け、さらに鬼門の方向に向かって猿面の瓦を用いて難を避けるとか、頭巾飾りのある鬼面瓦をつけて災難を防ぐために飾られたと記されています。
 この鍾馗も上述した祈願のもとで作られたものであり、今日では鬼面以外のさまざまの意匠も用いられています。

2015年 3月 31日

其の五十八 佐川美術館所蔵 国宝・梵鐘

佐川美術館学芸員 井上英明

国宝・梵鐘

 平山郁夫や佐藤忠良、樂吉左衞門といった現代作家の作品を収蔵公開している佐川美術館ですが、収蔵する作品の中で、唯一国宝に指定されている梵鐘があるのをご存知でしょうか。滋賀県内に所在する梵鐘の中でも、国宝に指定されているのは、佐川美術館のものだけで、今回その梵鐘を約3年ぶりに一般公開します。
 そもそも、梵鐘とは仏教寺院で用いる釣鐘のことで、時刻を告げたり、諸行事の合図に用いたりする仏教法具の一つになります。私たちにとっては、12月31日に撞かれる除夜の鐘が最も馴染み深いでしょう。また、梵鐘にはそれ自体にまつわる伝説や伝承も多く、ここ滋賀県でも近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られる三井寺(園城寺)の梵鐘や、同寺にある武蔵坊弁慶によって比叡山に引き摺り上げられたとされる梵鐘(「弁慶の引き摺り鐘」)などが好例と言えます。
 佐川美術館に収蔵されている梵鐘は、もともと比叡山延暦寺の西塔地区にあった宝幢院(現在は廃絶)の鐘として鋳造されたもので、天安2年(858)に造られたことがわかる銘文が鐘身内に見られます。紀年銘が入った梵鐘としては、国内で6番目に古いものとなり、銘文は「比睿山延暦寺西寳 幢院鳴鐘天安二年 八月九日至心鋳甄」の3行24文字が左文字(逆文字)で鋳たためられています。この左文字になった理由は、中型(鋳物を造る時に空洞にあたる部分の鋳型)に正字で陰刻したために生じた技術的な誤算とも、梵鐘を外側正面から拝したときに、正しく透かし読めるようにあらわされているとも言われています。「至心鋳甄」という文字を「心をこめて鐘を見る」と解釈をすれば、技術的な誤算というよりも、意図的に文字を逆さに刻んだと考える方が自然ではないでしょうか。
 いずれにしても格調高い洗練された書体、簡潔な文章は名だたる人物の手によるものと推察され、宝幢院が嘉祥年間(848〜850)に創建されていることを鑑みれば、本鐘鋳造の発願者を創建に関った初代院主恵亮を含めたその周辺に求めることも可能でしょう。
 改めて梵鐘を見ていくと、口径に比べて丈が著しく高く、肩から下が口縁部にかけてほとんど直線で鐸状(裾開きの円筒状)をなした極めて狭長な形姿となり、装飾性を抑えた簡潔な造りの竜頭、簡素な8弁の蓮華形となる撞座など、他に類を見ないスタイリッシュな形をしています。

●本鐘は、当館で2015年1月18日㈰まで、平山郁夫が描いた世界遺産シリーズとともに公開していますので、ぜひこの機会にご覧ください。

2014年 8月 26日

其の五十七 木造狛犬

MIHO MUSEUM 髙梨純次

木造狛犬

 神社の参道や社殿の前、左右に分かれて、にらみつけるように険しい表情で座っているのが狛犬、ということは、多くの方がご存知でしょう。神様をお守りする守護獣ということは、座っている場所や表情からもわかります。現在まつられている一般的な狛犬は、口を明けて咆哮する阿形像は獅子、口を閉じてにらみつける吽形像には頭上に角がある一角獣として狛犬、というように、獅子と狛犬が一対として配置されている例が多いのです。「獅子・狛犬」と、いちいち繰り返すこともわずらわしいということでしょうか、単に「狛犬」と呼んでいます(ここでも慣例に従って「狛犬」と呼びます)。

 そもそも、獅子は基本的に、百獣の王ライオンに起源するとすれば、日本列島にライオンがいたわけではありませんから、これは、西方から伝来したものということになります。獅子が一対として祀られる事例は、インドや中国にありますから、その風習が渡来したものであると想像がつきます。しかし、そのうちの1体が、一角獣として祀られる事例は、平安時代にみられるようですが、果たして日本で生み出された形式なのかどうかも、今回MIHO MUSEUMの秋期展「獅子と狛犬」の論点の一つとなるでしょう。

 滋賀県には、あまり知られてはいませんが、優れた狛犬像が伝えられています。全国的にみても、鎌倉時代を代表する狛犬として、この大宝神社に伝えられ、重要文化財に指定される像は秀逸です。細身で筋肉質の精悍な姿は、すべての魔を追い払い、神と神域を守護するにふさわしい形です。造形作品としての完成度も抜群で、優れた作者、おそらく仏像や神像を作っていた仏師のなかでも、高い技量の手になったものと思われます。大宝神社が鎮座する地には、鎌倉時代には延暦寺の庄園や、有力な門跡である青蓮院に関わる寺領などが確認されていますから、やはりこの優れた狛犬の造像には、延暦寺が呼び込む、高い技量の作者の洗練度がみてとれます。また、阿形の金箔、吽形の銀箔という色分けも、見所の一つでしょう。


栗東市綣・大宝神社
2軀 木造・彩色 
像高:阿形47.3㎝
   吽形46.7㎝
重要文化財 鎌倉時代

2014年 3月 19日

其の五十六 雷雲蒔絵鼓胴 (銘 初音)

MIHO MUSEUM 桑原康郎

雷雲蒔絵鼓胴 (銘 初音)

1口 室町時代 15世紀 高27.5㎝ 口径12.5㎝


 雷光を螺鈿と高蒔絵、渦巻く雲を高蒔絵と截金で表わした豪華な鼓胴で、白拍子であった静御前が所用し、雨乞いの鼓として知られる「初音の鼓」との伝承を持つ。また、鼓の受にある朱漆の銘文より、永享2年(1430年)源左京大夫持信が琵琶湖の竹生島に奉納したことがわかる。竹生島には水に関係のある弁財天様や龍神様が祀られており、雷雲の蒔絵はまさに相応しい。雷鳴のような鼓の迫力ある音が聞こえてくるようだ。
 この鼓胴には織田信長の書状が2通付随している。その内の1通は信長から竹生嶋惣山中宛の朱印状で「青葉の笛は到来した。まことに見事な名物である。しばらく手元において見たのち返す。この笛を当山へ寄進したのは誰で、その子細はどのようなことか、これに添う小笛の由来についても知りたい。また静所持という小鼓の胴は雷の蒔絵と聞く。ぜひ見たいものである。磯野に申しておくのでよろしく頼む」とある。ここから、信長が竹生島に寄進されていた「青葉の笛」と共に、この「雷の蒔絵の小鼓」を見たであろうことが読み取れる。
 「青葉の笛」にもさまざまな伝承があるが、その一つとしてまず平家の笛の名手・平敦盛の名が思い浮かぶ。「敦盛」といえば信長が好んで舞ったと伝えられる能の演目であり、「青葉の笛」や「雷の蒔絵の小鼓」をぜひ見たいと所望した信長の執心ぶりを彷彿とさせる。この「青葉の笛」は弘化2年(1845)、当時の彦根藩主・井伊直亮の要望により竹生島から献上され、現在は彦根城博物館の所蔵となっている。
 本作は、蒔絵技法や寄進銘からみて、製作年代は静御前の生きていた時代まで遡らないと考えられるものの、天正年間には静御前所用の鼓として伝えられた名器である。


参考文献
灰野昭郎「雷雲蒔絵鼓胴」
  『学叢』第五号 京都国立博物館 1983
加藤 寛『日本の美術No. 477 蒔絵鼓胴』 至文堂 2006
『MIHO MUSEUM 北館図録』 MIHO MUSEUM 1997

2013年 10月 11日

其の五十五 近江鉄道高宮─八日市間路線地図

愛荘町立歴史文化博物館 三井義勝

「近江鉄道高宮─八日市間路線地図」(部分)㈶近江商人郷土館蔵


 明治27年(1894)7月26日、近江鉄道株式会社は仮免状が下付されたのと同時に路線用地と停車場用地買上のための仮測量に着手したといわれている。
 高宮―八日市間の路線については、明治26年(1893)11月15日付け、逓信大臣宛の「近江鉄道株式会社創立願」に「別紙図面ニ記スル如ク官線彦根停車場ヲ起点トナシ高宮愛知川八日市桜川日野水口ノ各地ヲ経テ」(傍点加筆)とあるように、愛知川(愛知川村)を経由することが明記されていた。
 近江鉄道創業期に取締役として奔走した四代小林吟右衛門の鉄道関係史料のなかに、高宮から八日市に至る路線と停車場を検討したとみられる地図がある(近江鉄道高宮─八日市間路線地図)。東方位を天とする画面には、縦に3本の河川(北から犬上川・宇曽川・愛知川)と横に2本の街道(東から中山道・朝鮮人街道)を強調して表しているほか、中山道以東の愛知郡とその周辺の村々や大字の位置などが描かれている。また、図中には中山道の東側を並行する路線と5カ所の停車場が書き込まれており、路線は愛知川村を経由する計画路線と同村を経由しない2本が引かれている。
 愛知川村を経由しない路線は、「高宮」と記された停車場よりさらに東側に記された楕円形の印を起点とする。これは高宮停車場の候補地を意味するのだろうか。この印から南の西甲良村(甲良町)内や豊郷村(豊郷町)大字雨降野を通過、さらに秦川村・八木荘村・豊国村といった現在の愛荘町東部の村々を横断し、愛知川を渡って旭村(東近江市)大字奥に至る。停車場の印は大字雨降野と秦川村大字深草との間、そして豊国村大字東円堂と同村大字苅間の間の2カ所に記されている。
 この路線地図には作成年やタイトルが記されていないため詳細については不明である。しかし、路線用地の測量や買上時に作成されたと仮定すると、2本の路線が引かれた背景として中山道近辺の用地買上が容易に進まなかった事情などを推測することができる。

2013年 8月 14日

其の五十四 打下古墳の被葬者

高島歴史民俗資料館学芸員 白井忠雄

箱形石棺の検出状況・被葬者復顔模型

箱形石棺の検出状況(撮影:寿福滋氏)と、被葬者復顔模型(右上)


 平成13年(2001)秋、琵琶湖西岸中央に位置する白鬚明神崎の北山麓(高島市打下)で、上水道排水施設工事が行なわれていました。11月7日早朝、工事現場から石棺が現れ、棺内から人の頭蓋骨が発見されました。ただちに、発見地点は発掘調査に切り替えられ、約1ヶ月にわたる調査が実施されました。調査の結果、この古墳の年代は古墳時代中期。主体部は箱形石棺で、棺内および天井石の内側は赤色顔料が塗られてありました。副葬品としては、鉄刀1本・鉄剣1本それに伴う鹿角装具が納められていました。また棺外の西側には、鉄鏃が14本程度1束にして置かれてありました。
 出土古人骨の調査については、骨考古学の権威である京都大学の片山一道先生に依頼しました。被葬者は小柄な体形で、25~50歳の男性であろうと鑑定され、頭蓋骨から写真にある復顔がされました。顔の特徴は、のっぺりした顔立ちで現代の関西圏に住む中年男性のルーツの一つとして考えられます。出土人骨の名称は出土地名を取り「打下人」と呼んでいます。
 古代遺跡からこのような古人骨が発見されることは、非常に稀なことであり貴重です。と、思っていたら、平成22年初夏、大津市神宮町・宇佐山古墳群第13号墳の箱式石棺(古墳時代中期前半)から、赤色顔料が塗布された頭蓋骨が発見され、大変驚きました。滋賀県内における原始・古代の出土人骨の資料は、縄文時代の磯山城遺跡【成人男性2体。米原市】・粟津湖底遺跡【人骨出土。大津市】・滋賀里遺跡【土壙墓で48体・甕棺墓で17体内新生児1体・幼児2体。大津市】・石山貝塚【5体内成人男性2体・女性2体・小児1体。大津市】、古墳時代の塚原古墳群【2号墳で7体内女性1体・3号墳で5体。米原市】などが検出されています。
 これらの古人骨を復顔する機会が巡ってくれば、我々現代人は、原始・古代人をもっと身近に感じることができるでしょう。ぜひ、高島歴史民俗資料館を訪れていただいて、「打下人」と交信してみてください。

2013年 4月 25日

其の五十三 平安ビューティー 西教寺の阿弥陀如来坐像

大津市歴史博物館学芸員 寺島典人

西教寺の阿弥陀如来坐像

撮影:筆者


 日本の歴史をみると、どの時代にもその時代を表す雰囲気や美というものがあります。それをもっとも端的に表しているのが仏像です。我が国には膨大な質量の仏像が現存し、それらをみることで各時代に流行した様式を我々は今感じることができます。今回紹介する大津市坂本の天台真盛宗総本山西教寺の本尊、木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、その最たる像といえます。
 その顔は丸くぺったりとしていて、肉体も起伏が少なく温和な感じです。着衣もあっさりで、衣文は浅く「さらっ」としています。体の奥行きも少なく平板で、全体的に平面的な印象を与えます。鑿さばきが鋭く、木彫美を強調する平安初期や、躍動的な写実を感じさせる鎌倉初期との狭間で、これらとはまったく違う「ほわぁ~」っとした作風です。
 11世紀中頃から無仏時代の末法の世の中となり、人々は不安だらけの生活を送ります。そんな中、平安貴族はこのような上品で安穏とした作風を愛したのです。まさに平和を夢見た、優美な平安ビューティー。特に極楽浄土の阿弥陀如来は、このようなお姿であるに違いないと彼らは信じたのでしょう。
 本像のすごいところは、飛天と化仏を表した「飛天光背」をも具備しているところです。左右に6体ずつ、計12体配された飛天は、雲と天衣とで形作られた光背のなかに、透かし彫りで浮き上がっています。軽快に楽器を奏でるなど、楽しそうな仕草でやさしくふるまう姿からは、典雅な魅力を感じることができます。また、本尊と同じ姿の「化仏」も12体付属しており、全体としてゴージャスな12世紀の荘厳を体感することができます。
 本像のように丈六の阿弥陀如来像で、平安時代の飛天と化仏を残す例は、全国的に見ても稀有なことです。それぞれ相貌も表情豊かで、かなり技量の高い都の仏師の造像であることをうかがわせます。平安時代の極楽のイメージを、現代の我々にしっかりと伝えてくれているのです。

2012年 12月 14日

其の五十二 70年前の学習机の引き出し

滋賀県平和祈念館学芸員 北村美香

70年前の学習机の引き出し
 この学習机の引き出しは、持ち主が引き出しを閉めてから、時間が止まっています。中には時計や鉛筆などの、いろいろな物が入っています。
 持ち主の髙橋亮一さんは、大正11年(1922)に東浅井郡湯田村(現在の長浜市)で生まれました。幼いときに父を亡くし、父親の顔を知らずに育った亮一さんは、虎姫中学(現在の虎姫高校)に進みますが、昭和13年(1938)4月の卒業まであと1年の4年生を修了した16歳の時、海軍航空隊に志願し、入隊します。
 軍隊での生活はそれまでとはまったく違い、一人前の飛行兵となるべく、厳しい訓練の日々でした。昭和15年、飛行練習生偵察員として航空母艦「蒼龍」に乗り込んだ亮一さんは、実戦を想定したより厳しい訓練を、繰り返しするようになりました。そのような厳しい生活の中でも、母親思いの亮一さんは、母の政栄さんに多くの手紙を出し続けました。
 昭和16年(1941)12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日、亮一さんは戦死されました。ハワイ真珠湾攻撃に艦上爆撃機に乗って出撃、激しい攻防の中、敵の攻撃を受け被弾し、敵の戦艦に突っ込んだのでした。真珠湾攻撃の戦果とともに同時に亡くなった亮一さんは世間から軍神扱いされ、政栄さんは「軍神の母」としてもてはやされました。しかし、戦後亮一さんを軍神扱いしていた世間の対応がまったく変わり、今度は戦犯扱いをされるようになりました。亮一さんに対する態度の変わりように、それ以降政栄さんは亮一さんのことについては心を閉ざしてしまいました。平成15年に101歳の長寿を全うされるまで、家族の間でもほとんど亮一さんのことを語られることはなかったそうです。
 いつの時代も、息子を亡くした母の悲しみは想像を絶するものがあります。亮一さんを亡くされた政栄さんの心にも大きな傷を残しました。その傷を癒すものが亮一さんの形見の品々だったのかも知れません。(一人息子だった亮一さんを亡くした、母の政栄さんの悲しみは大変大きなものでした。)亮一さんが亡くなられたあとも、辞世の句の掛け軸や写真はいつまでも部屋に飾られ、学生時代の成績表や学用品などは当時のまま残されていました。政栄さんの心の中には亮一さんの所縁の品々とともに亮一さんが生き続けていたようです。
 戦後70年近く経ち、戦争の記憶が薄れ行く中で、語ることはなくても、政栄さんの中で生き続けた亮一さんの姿が、この引き出しにはあったのだといえないでしょうか。

2012年 12月 10日

其の五十一 江若鉄道沿線名勝案内

高島市教育委員会事務局文化財課 山本晃子

「江若鉄道沿線名勝案内」(部分、高島市蔵)


 大正10年(1921)3月15日、大津市内の三井寺下~叡山間で営業を開始した江若鉄道は、その名が示すとおり、近江と若狭をつなぐ鉄道となることを目指して、路線を徐々に北へ延ばしていった。沿線住民から株主を募り、資金繰りをしながらの工事ではあったが、大正12年4月には叡山~雄琴間、12月には雄琴~堅田間、13年4月には堅田~和邇間、15年4月には和邇~近江木戸間、8月には近江木戸~雄松間、昭和2年4月には雄松~北小松間、12月には北小松~大溝間、昭和4年6月には大溝~安曇間、そして昭和6年1月には安曇~近江今津間と延伸し、新しく駅が開業するたび、その周辺では、地元住民らによる開通祝賀行事が繰り広げられた。湖西地方に初めて走る鉄道を、地域住民が大きな期待と喜びで迎え入れたことは想像に難くない。
 そうした沿線住民の歓迎ムードにあわせて、会社側が力を入れたのが観光を目的とした乗客の増加をはかることで、そのため沿線の史跡や名勝を紹介する数種類のパンフレットが作られた。滋賀県一円には言うまでもなく多くの風光明美な名勝地等があるが、鉄道の通っていなかった湖西地方のそれは、これまで他地域にくらべて紹介されることも少なかったであろう。
 江若鉄道株式会社が作成した沿線名勝案内パンフレットは、カラー刷りの鳥瞰図的な地図に路線と駅名をおとし、裏面には史跡・名勝の案内文章が記されたものである。同様の形式のものが、路線の延長のたびに発行されたようで、発行年の古いものから順に見比べてみると、路線が延伸されていった様子がよくわかる。
 今回紹介しているものは、昭和12年の省営バス(国営バス)若江線の開通を記念して江若鉄道が発行した沿線名勝案内で、すでに鉄道の全線は開通している時期のものである。パンフレットには江若鉄道の路線だけでなく、乗り継ぎのできる京阪・国鉄線、さらに福井県を含めた地図が掲載されており、このときに近江今津駅から小浜までのバス路線が開通したことにより、近江と若狭をつなぐ江若鉄道の当初の計画が実現したと考えられたことがわかる。
 沿線の名勝としては、大正末に創設された安曇駅近くの藤樹神社や、昭和初期に賑わった近江今津駅近くの饗庭野スキー場などが紹介されており、この時期の町の様相を伝える貴重な資料にもなっている。

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