新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2010年 9月 1日

其の四十四 消えゆくヤナ

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 10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ますヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息するサケ科の魚である。

 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られているが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズや構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのところがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者でその時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」である。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。

 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナはほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。

 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るためにどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなって、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。

滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘

2010年 9月 1日

其の四十三 獣の侵入を防ぐためのシシ垣

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 シシ垣は、漢字で「猪垣」、「鹿垣」、「猪鹿垣」と書く。シシとは、肉がとれる獣類の古い呼称である。古くから、イノシシやシカは山間の住民にとって貴重なタンパク源であったが、一方で農作物に多大の被害を与える害獣でもあった。シシ垣は、これらの獣が田畑に侵入してこないように築かれた垣のことである。江戸時代などに築かれた石積みや土盛りのシシ垣の遺構が、今でも各地に残っている。

 滋賀県内にも、もちろんみられる。しかしこれまで、豪族や武士にまつわる古墳や城郭といった遺構が脚光を浴びてきたのにくらべ、農民の汗の結晶ともいうべきシシ垣が注目されることはなかった。

 たとえば比良山地の山麓には、地元でとれる花崗岩の石を積んだり、土を盛ったシシ垣がみられ、北部の高島市周辺には、長さが8にもおよぶものがある。また、「ヤマトタケルと白イノシシ」の神話が残る伊吹山にも、石灰岩を積んでイノシシやシカの畑への侵入を防ごうとしたシシ垣が残っている。さらに特徴的なものとして、大津市(旧志賀町)の荒川地区には、イノシシやシカの侵入に加え河川の水害・土石流災害に備えたシシ垣が残っている。

 シシ垣と道が交わるところには木戸口といわれるものがみられ、朝夕において、通行人は戸締りを厳重に行う必要があった。戸締りとは、木戸口からイノシシやシカが入ってこないように頑丈な板などをはめることであった。
 シシ垣はこれまで注目度が低かったが、注目される必要がある。地域の財産であり、子供や大人の学習の教材にもなる。先祖がどのようにして獣と向き合ってきたのか、その苦労に思いをはせ、今日の獣害への対応の教訓にすることができる。シシ垣に関心があるかたは、私がつくっている左記のシシ垣ネットワークのホームページにもアクセスしていただければ幸いである。
(http://homepage3.nifty.com/takahasi_zemi/sisigaki/sisimein.htm)

奈良大学文学部地理学科 教授 高橋春成

2010年 9月 1日

其の四十二 ふぞろいな鹿角たち

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 山歩きには、景色や花を愛でる、山菜を味わうなど、楽しみがいろいろとある。いささかマニアックではあるが、哺乳類に興味を持つ者にとっては、ニホンジカの落角拾いも楽しみの一つである。
 ご存知のようにニホンジカの角は雄にしかなく、毎年春には根元からはずれて落ち生えかわる。かつて湖東の霊仙山に通っていた頃、この時期にここに行けば角が拾えるという秘密の場所が何カ所かあった。角の長さから持ち主の体重を推定できるなど、標本として活用するのが目的ではあるが、収穫の楽しみもあった気がする。
 ふつう鹿角はどれでも同じ形と思われがちだが、意外やこれが不揃いなのである。太さ長さはもちろんのこと、曲がり具合、分岐している枝角の数や間隔など同じものがない。袋角の時期の傷が原因とも言われるが、頭骨ごと拾った角(落頭というべきか?)でも左右で形がわずかに違っている。闘いの最中にぽっきりと折れたようなものもある。持ち主たちは、他個体に対して見栄えがすれば、不揃いでも問題ないのかもしれない。哺乳類の体は左右対称であるとはいうものの、実際には揃っていることの方が不自然なことなのかもしれない。
 ニホンジカの角は年ごとに落角するものの、加齢とともに大きくなり、枝角の数も増えていく。1、2歳の雄はゴボウに似た一本角をもち、「ゴンボサン」と呼ばれることがある。成獣になると枝角は2本、3本と増えていき4本の枝角となる。さらに歳を重ねると、枝角が四本以上となったり、変形したりすることもある。単純に何歳なら枝角は何本と言えないが、角は時間とともに変化し、ますます不揃いさを増していく。
 一方で落角は哺乳類にとっての大事な栄養源となる。まれに先端が削られた落角を拾うことがある。どうも他の哺乳類がかじった跡のようだ。誰が何のために……なんと犯人はニホンジカご本人のこともあるようだ。半年後に再び立派な角を持つためには、カルシウムの固まりである落角を見逃す手はない。落ちている角を少しずつかじって自分の角を再生する、みごとなリサイクル術といえる。
 落角を見つけるとうれしくてすぐ拾ってしまうが、その前に写真を撮り観察することをすすめしたい。ニホンジカの生活を想像させてくれる静かなひとときを過ごすことができる。これも山歩きの楽しみの一つといえるかもしれない。

2010年 9月 1日

其の四十一 雛(ヒナ)のいるイヌワシの巣

雛のいるイヌワシの巣

 今から約30年前、その当時、滋賀県にイヌワシが生息しているとは誰も知らなかった。野鳥を観察する者にとって、イヌワシは「高山の幻の鳥」以外の何者でもなかった。

 長野県のアルプス以外の東中国山地の氷ノ山(鳥取県と兵庫県の県境にあり、標高1510m)にもイヌワシが生息していることを知った私は、その近くの鳥取大学に入学することを決めた。1973年5月5日、生まれて初めてイヌワシの姿を見た。真っ青な青空を切り裂くように流れる漆黒の流体。それがイヌワシだった。あくまでも力強く無駄のない飛翔、生態が未知であることに衝動を覚え、イヌワシを観察するために中国山地に通う日々が続いた。

 もしかして、滋賀県にもイヌワシは生息しているかもしれない。3年近く中国山地でイヌワシを観察して、そう思った。なぜなら、同じような環境は滋賀県の山岳地帯にもあるからだ。5万分の1の地図を穴が開くほど見つめ、イヌワシがいる確率の最も高い場所を絞り込んだ。1976年3月24日、快晴。鈴鹿山脈の奥深い山中を腰まである積雪をラッセルし、見晴らしの聞く尾根にたどり着いた。そして13:00、ついに三角形をした黒い流体が尾根上を流れるのを発見。これが、滋賀県で初めてのイヌワシの生息確認の瞬間だった。

 しかし、滋賀県でイヌワシが繁殖していることを確認するのには時間がかかった。その年に抱卵中の巣が見つかったものの、雛は孵化しなかった。翌年もこのペアは繁殖には成功しなかった。何とか雛を育てていることを証明したい。地図をたよりに新たなペアを探した。そして、ついに1978年5月7日、雛のいる巣を発見。

 調査を進めていくうちに、イヌワシの生息地に住む人の中には、イヌワシという名前は知らなくてもイヌワシの存在を知っている人がいることがわかった。またイヌワシがよく止まる岩には天狗岩という名前がついているし、天狗伝説が各地にあることもわかった。イヌワシは漢字で書くと「狗鷲」。琵琶湖の源流である滋賀県の森林には、古くからイヌワシが棲み、人々は山岳地帯の守護神や超能力を持つ生き物として、イヌワシを見つめ続けてきたのだ。

アジア猛禽類ネットワーク 山崎 亨

2010年 9月 1日

其の四十 天蚕(ヤママユ)の雌雄型

 ヤママユはヤママユガあるいは天蚕とも呼ばれ、ヤママユガ科に属する大型の蛾の仲間で、日本、台湾、韓国、中国、ロシア、スリランカ、インドおよびヨーロッパに分布し、滋賀県の里山にも多く棲息しています。幼虫は、里山に生えているクヌギ、アベマキ、コナラなどのいわゆるドングリの木の葉を食べて育ちます。1年に1回だけ発生する蛾で、卵の状態で越冬します。近畿地方では、餌となるクヌギなどが萌芽する4月中・下旬頃に孵化し、4回の脱皮を経て終齢幼虫となり、6月上・中旬頃、孵化から50~60日で葉を数枚綴り合わせて営繭(繭づくり)を開始し、葉と同色の繭をつくります。

 この繭は高価な緑に輝く天蚕糸の原料になります。長野県穂高地方では江戸時代の天明年間(1781~89)から天蚕の飼育が始められました。美しい光沢をもつ天蚕糸は、今も「繊維のダイヤモンド」と呼ばれて珍重されており、長浜市力丸町(旧浅井町)では1982年に浅井町天蚕組合を発足させ、天蚕繭の生産から天蚕糸を用いた加工品づくりまでの一環した事業に取り組んできましたが、現在は活動を休止しています。しかし、新たに東近江市上二俣町(旧永源寺町)でもクヌギを植栽して天蚕の大量飼育の準備を始めています。

 天蚕の交配組合せの中から、左半分がメス、右半分がオスの奇妙な蛾が出現してきました。天蚕の生きたままの雌雄型は、世界で初めての写真です。天蚕の雌雄型の報告は、今までで2~3例しかありませんが、すべてが死んだ標本の写真です。

 昆虫には、細胞分裂の際の生殖細胞の異常によって体の雌雄の特徴が混じり合ったものが生まれることがあります。オスとメスの混ざり方は、左右半分、上下半分など様々で、これは細胞分裂のいつの時期に起こるかによって決まります。これを雌雄型または雌雄モザイクといい、専門用語でジナンドラモルフォといいます。生殖器が雌雄型になると、蛾の体の中で、精子と卵の両方をつくります。

 天蚕のメス蛾は、前翅の先が丸く、触角が細くなっています。一方、オス蛾は、前翅の先がとがり、触角が太く、櫛状になっています。雌雄型では、左では前翅の先が丸くなり、触角が細くなり、右では前翅の先がとがり、触角が太い櫛状になっています。今回2頭の雌雄型が出現しましたが、1頭はメス腹で卵巣が発達していましたが、もう1頭はオス腹で卵巣が発達していませんでした。

 昆虫の雌雄型の報告は、クワガタムシやカブトムシなどの甲虫類やアゲハチョウなどの蝶類などで若干あり、その出現率は一般に1万分の1程度であると言われています。

東近江地域振興局農産普及課 寺本憲之

2010年 9月 1日

其の三十九 増えたコアシナガバチ

コアシナガバチ

 滋賀県内に生息しているアシナガバチ類は、大きいほうからキアシナガバチ、セグロアシナガバチ、ヤマトアシナガバチ、キボシアシナガバチ、コアシナガバチ、フタモンアシナガバチ、ホソアシナガバチ、ヒメホソアシナガバチの8種です。これらのうちコアシナガバチは、どちらかといえば高原性の種類で、長野県などでは人家周辺に普通ですが、西日本では平地にはほとんど見られません。

 これまで、滋賀県内のコアシナガバチの記録は少なくて、とりわけ平地では愛知川河辺林(東近江市五個荘)にすぎないようです。ところが2004年以降の3年間に、野洲市(農地に接した住宅地)、近江八幡市(住宅地および宮ヶ浜湖岸)にて相次いで成虫が採集され、野洲市では巣も確認されました。 コアシナガバチはさらに分布を広め、滋賀県の平地に定着するのでしょうか。もし、高原性のコアシナガバチが本県平地に定着するなら、とても興味深い例となるかもしれません。なぜなら近年の、ナガサキアゲハやツマグロヒョウモンのような、暖地性昆虫の北進とはむしろ逆の現象だからです。今後、さらに注意深く県内での動向を調べたいと思っています。

 コアシナガバチの体は全体に濃い褐色で、多くのアシナガバチ類に比べ黄色部がわずかです。最もよく似たキボシアシナガバチとの区別点は、腹部背面やや後寄りに黄色班をもつことなどです。

 写真は、2006年5月28日、畑に残るチンゲンサイについた青虫を捕らえ、噛み切った肉片に前脚を添えて飛び立とうとするコアシナガバチの女王です。そう遠くないところにこのハチの巣があるはずですが、見つけることはできませんでした。

滋賀県立八幡高校教諭 (滋賀県生きもの総合調査専門委員) 南 尊演

2010年 9月 1日

其の三十八 ツバメの不思議

ツバメ

 「ツバメ」はどこでも普通に見られる鳥ですが、実は夏の琵琶湖を代表する鳥です。3月末にオスがメスより先に来て「なわばり争い」をし、少し遅れてメスが渡ってきます。ツバメは主に人家の玄関あたりに巣を作りますが、これは人をうまく利用し、天敵から守ってもらいながら子育てをする、非常にめずらしい習性を持った鳥です。

 巣は泥と草やわらを唾液で固めて作り、卵は5個ほど産みます。約2週間後にかえったヒナは、ハエやガガンボ、トンボなどの虫をもらって育ちます。成長は非常に早く約3週間で独立します。よく子供たちに「ツバメのエサは何?」と聞くと、ほとんど「ミミズ」と答えますが、本当は飛んでいる虫たちで、水を飲むのも飛びながら飲みます。虫を取るエサ場は「田んぼ」で、稲につく害虫を駆除してくれる益鳥(有益な鳥)として、昔から人々はツバメを大事にしてきました。それで今でも人家を子育ての場所として利用していますが、最近は住宅難で非常に苦労しています。

 ところでツバメのさえずりを聞いたことありますか。巣材の土を口で運び、虫をエサとして食べていますので「土食って虫食ってシブーイ」と鳴いています。ぜひ注意して聞いてみてください。

 ツバメにはあまり知られていない習性が他にもあります。それは巣立った若いツバメや繁殖を終えた親ツバメは、琵琶湖岸の大きなヨシ原に集まって集団で寝ることです。県内には4ヶ所のネグラがあり、野鳥センター近くの湖岸にもたくさんのツバメが集まってきます。夕方薄暗くなるころ、何千、何万というツバメが飛び交い、最後はヨシ原に降るように降りて集団で寝る様子は、感動すること間違いなしです。時期は7月から9月中旬まで、皆さんもぜひ一度「ツバメの大乱舞」をご覧ください。

湖北野鳥センター 清水幸男

2010年 9月 1日

其の三十七 井戸とツルベ(釣瓶)

井戸とツルベ

 上水道が普及するまで水の確保は各家の務めであった。どの家にも深い井戸が掘られ、湧き水を汲み上げて飲料水をはじめ風呂や洗濯に用いたが、住宅の改築に伴い今ではすっかり姿を消した。

 写真の井戸は、現在ダム建設が計画されている多賀町水谷の若宮八幡宮境内にある。年3回の祭りに、湯立て神楽が奉納される際に用いる釜の湯はこのツルベを使って汲む。八幡宮のあるところは急傾斜地で、隣接する民家の屋根の高さほどに位置する井戸であるにもかかわらずきれいな水が涌くので、今も使われている。

 井戸の底が浅いのでツルベの竹竿の長さは175cmしかない。ツルベは口径が21cm、底径が19cm、高さ17cmのブリキ製のバケツで、約5リットルの水が汲める。ツルベの口縁部に鉄輪を巻き強度を高めるとともに一種の錘の役目をおわせ、ツルベが早く沈むようにしてある。

 ツルベがブリキのバケツに代わる前は、おそらく桶が付いていたものと推測されるが、桶は木製のため水に浮く。口縁部に鉄輪(かなわ)を巻く知恵はそのころからのものかもしれない。井戸は内法(うちのり)76cm四方、厚さ12.5cmのコンクリートの枠で囲われ、地べたから62cm立ち上げてある。コンクリートの枠になる前は、木枠が設えてあったであろう。地面から下の井戸の内壁は石を組んであり、古い井戸の形式が伺われる。

 井戸の近くには大きな石をくり抜いて作った手水鉢が据えてある。幅55cm、長さ83cm、高さ46cmの石の真ん中に、水を溜める池を彫りくぼめてある。これに用いる水も当然のことながら井戸から汲んだものと思われる。横に「御大典紀念」「大正六年七月/上水谷宮世話」とあり、大正天皇の即位を記念して当時の宮世話が寄進したものと思われる。

滋賀県教育委員会文化財保護課 長谷川嘉和

2010年 9月 1日

其の三十六 千代ゆかりの鏡箱

鏡箱

 来年(2006年)のNHKの大河ドラマ「功名が辻」は北近江(湖北)が舞台となります。物語の主役、戦国武将・山内一豊は、尾張(愛知県)で父を織田信長に討たれて、一家で近江へやってきます。 その落ち着き先になったという伝承をもつ米原市宇賀野(うかの)の長野家には、一豊や妻千代ゆかりの品々が伝わっています。 よく知られたエピソードで、馬揃えで参内することになった夫に、駿馬を用意してあげたいと思った千代が、購入資金として黄金10両が入った金子を取り出したのが、この鏡箱(ただし、長野家では、黄金5両を千代の母・法秀院が取り出したと伝わっています)。蓋の表面には宮中を描いた蒔絵が施されており、箱の内側は朱塗りです。鏡は青銅製で、裏面には松の木と鶴の柄が彫られています。その他にも長野家には、法秀院が使ったとされる一升桝、一豊が馬に乗るときに使ったという鉄製の轡も伝わっています。 宇賀野の南隣にある米原市飯(い)は千代の出生地、虎姫町唐国(からくに)は一豊の初の知行地となった場所とされます。小谷城落城後、秀吉に従ってきた一豊は、1000石(実際には400石だったとされる)分にあたるこの地をもらったのでした。 また、千代が名馬を手に入れたのは、中世から牛馬市が盛んに行われていた木之本町木之本の馬市だったと伝わっています(安土の城下町とする説もあり)。

Duet編集部

2010年 9月 1日

其の三十五 従軍看護婦の召集令状

招集状

 戦時中、日赤の看護婦さんたちには、兵士と同じように召集令状が届きました。戦場でケガや病気をした兵士の看病をするため、救護班として出征したのです。通称「赤紙」と呼ばれ、東浅井郡浅井町野瀬出身の妹尾とみさん(77歳。現在は長浜市在住)が保存しておられたもの(写真)も兵士の場合とは書式や大きさが異なりますが、淡い赤色をしています。

 昭和19年3月、京都第二赤十字病院看護婦養成所(現・京都第二赤十字病院)を卒業したばかりの同年4月にこの紙を受け取ったとみさんは、任地先となった広島県の呉海軍病院(現・独立行政法人国立機構呉医療センター)へと向かいました。とみさんは、戦地へ行くことを「お国のために役に立ちたいという一心で、こわいとは思わなかった」と振り返ります。呉海軍病院では、ひたすら傷病兵の看護にあたりました。サイパン島玉砕後の負傷兵は、大半が熱傷で、顔面手足の皮膚はひきつり、耳の中にはウジがわき、それは悲惨な状態だったそうです。

 しかし、暗いことばかりではなく、病院で患者慰問演芸会が催され、とみさんは、同室の看護婦平井さんに教えてもらった「白頭山節」(中国と北朝鮮の国境にある白頭山を讃えた民謡)を披露しました。「白頭御山に積もりし雪は溶けて流れて……可愛い乙女の 化粧の水」。今では、とみさんの十八番になっています。 同じく召集を受けた浅井町谷口の清水コシズさん(78歳。旧姓北川)は、昭和18年3月に召集、4月には中国済南病院の看護婦として勤務することになりました。病院には毎日毎日トラック何台分もの負傷兵が運ばれ、手術のない日はありませんでした。瀕死の兵士が寝ずの看病で回復して喜んだのもつかの間、再び前線へ送ることにはむなしさを感じたそうです。

 翌年にはコシズさんも遺書を書き、遺髪とともに故郷へ送っています。「御母様 最後に一言御礼を述べさせて戴きます」と始まる遺書は便箋3枚(11ページ写真)。終戦の翌年、昭和21年4月になって、ようやく故郷に帰り着きました。そこには、軍服を着て、髪を短くしたコシズさんの姿がありました。2年後に結婚したコシズさんは、嫁ぎ先でも遺書と遺髪を大切に保管し続けてきました。

お市の里 浅井町歴史民俗資料館 冨岡有美子

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