新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2016年 7月 7日

新撰淡海木間攫 其の六十四 五百井神社 木造男神坐像

栗東歴史民俗博物館学芸員 中川 敦之

木造男神坐像

 冠をかぶり袍(上衣)を着ける貴族の姿をし、瞋怒相をあらわすこの神像は、栗東市下戸山の五百井神社の主神像です。10世紀後半から11世紀初めの作品と考えられています。

 木俣神を祭神とする五百井神社は、延長5年(927)成立の延喜式神名帳に「蘆井神社」と記される式内社として知られていますが、平成25年9月、台風18号がもたらした豪雨によって発生した山崩れに本殿や拝殿が呑み込まれ、一帯が土砂と倒木に覆われるという壊滅的な被害を受けました。被災後、神社の関係者や地元の人たちが中心となって、土砂に埋もれた神像を探し出す作業が行われ、2週間ほどのちに発見されました。なお、同時に14世紀末から15世紀初めの木造獅子・狛犬も発見されています。

 発見された神像と獅子・狛犬は、神社の関係者や地元の人たちの要望により、平成26年1月に栗東歴史民俗博物館に寄託されました。その後、平成26年9月から12月にかけて、MIHO MUSEUM(甲賀市信楽町)で開催された「獅子と狛犬」展にそろって出品され、修復作業も行われています。
 ところで、この神像の袍には緑青や朱の彩色が残されています。社伝によれば、五百井神社は仁寿元年(851)に正六位上、永治元年(1141)に従五位下の神位をそれぞれ授けられており、六位の朝服として定められた深緑色や五位の朝服として定められた浅緋色と、袍に残された彩色の一致がみられる点が注目されます。
 この神像は、平成27年12月に滋賀県指定有形文化財の指定を受けました。五百井神社の地元・下戸山では、毎年5月5日の五百井神社の例大祭の継承や社殿の再建に向けた取り組みが続けられていて、この神像の滋賀県指定有形文化財としての指定は、地元での取り組みに弾みをつける話題と言えるでしょう。

※本像は、10月8日(土)から11月23日(水・祝)まで滋賀県立近代美術館で開催される「つながる美・引き継ぐ心(仮称)」展に出品されます。

2016年 4月 12日

新撰淡海木間攫 其の六十三 「朝霧の川」中路融人

東近江市近江商人博物館学芸員 上平千恵

朝霧の川

 この絵は、湖国の原風景に心惹かれ、60余年もの間、その風景を追い求め、描き続けた日本画家・中路融人(文化功労者・日本芸術院会員)の作品です。
 その作品に向き合うと、画面からは不思議と肌寒い季節の凛とした空気や水辺の潤い、土や木々の匂いも感じるような気がします。

 東近江市の名誉市民でもある中路画伯の創作の原風景は、幼い頃、母に連れられて訪れた東近江市にありました。

 「大きな杉に囲まれた鎮守の森やコブナやモロコが釣れる曲がりくねった小川がたんぼの間を流れ、のどかな田園地帯が広がっていました」と当時を回想されています。

 今回ご紹介したこの絵のようなうねった小川や田園の中に榛の木が立ち並ぶ風景は、かつて滋賀県でよく見られましたが、県下では昭和50年代から急速に圃場整備がすすめられ、こういった風景が次々に消えていきました。

 その消えゆく風情を追いかけるように、何度も何度も湖国に足を運び、デッサンし続けたといいます。

 一枚の作品の創作をひもとくだけも、滋賀県の歩みの一端を顧みることができます。

 「水と木が私の創作の舞台装置だ」と語る中路画伯は、デッサンを大切にし、雪に輝く伊吹山や榛の木の立ち並ぶ田園風景、葦がゆれる琵琶湖畔など、自らが心ゆさぶられた一期一会の自然の表情を豊かに表現されています。

 このたび中路画伯から、長年にわたり制作された多数の日本画が東近江市に寄贈され、これらの作品を多くの人びとに鑑賞していただくために、平成28年4月17日に中路融人記念館をオープンすることになりました。

 日本画家・中路融人画伯が心惹かれた湖国の情景との出会いが、滋賀県の新たな魅力の発見につながるのではないかと期待しています。

●中路融人記念館開館 特別無料観覧会
 2016年4月16日㈯ 午後2時〜午後5時
 プレオープンとして、無料で入館していただけます。
●オープン記念展「中路融人の世界 ─湖国の風景に魅せられて─」
 2016年4月17日㈰〜7月24日㈰

2016年 2月 2日

新撰淡海木間攫 其の六十二 大津算盤

大津市歴史博物館学芸員 高橋大樹

大津算盤(宝永2年 個人蔵 大津市指定文化財)

 時は慶長17年(1612)、ある一人の男が、新たに長崎奉行に就任した長谷川藤広に同行して長崎に旅立ちました。その男の名は、大津一里塚町(現、大津市大谷町)の片岡庄兵衛。このとき庄兵衛は、長崎に舶来していた明国の商人から一つの算盤を入手し、あわせてその製造技術を伝授されたといいます。その後、帰郷した庄兵衛は改良を重ねて日本型ともいうべき算盤を初めて開発しました。「大津算盤」の誕生です。

 大津算盤は、裏小板をはめ込み、釘や金具を使わず、上2つ・下5つの玉は弾きやすいように菱形に削るなど、高度な技術・製法をもって製造されました。また、その需要は、片岡庄兵衛が幕府勘定方の御用を務めるなどして増加していき、一里塚町周辺には片岡家だけでなく多くの算盤屋が立ち並ぶようになりました。そして、江戸時代を通じて東海道は大谷・追分付近の土産物としても広く知れ渡りました。

 写真は、片岡庄兵衛が製造したものではありませんが、同じく一里塚町で大津算盤製造に携わっていた美濃屋理兵衛製作の算盤。現在確認されている大津算盤の中で、最も古い宝永2年(1705)の銘が刻まれています。美濃屋には、大津算盤製作道具も伝わっていて、その分業工程が、『滋賀県管下近江国六郡物産図説』などにも描かれていてよくわかります。

 そうした大津算盤職人たちの画期は、嘉永7年(1854)にやってきます。株仲間の結成です。この時、片岡庄兵衛は、算盤屋や職人を統制する取締役に就任しました。もちろん、結成以前から庄兵衛は算盤屋を主導する位置にありましたが、このとき改めて、仲間の名前や所在地、庄兵衛による算盤製作や買い入れ算盤のチェック体制、さらには職人や弟子の統制までもが仲間内で確認されました。

 その後、明治時代には内国勧業博覧会に出品されるなど、大津算盤が改めて注目されますが、東海道線敷設にともなって一里塚町の一部も用地買収の対象となり、大正初年頃には製造されなくなり廃れていってしまいました。
 読み・書き・そろばん、算盤パチパチの歴史の裏に、その製造にかかわった大津一里塚町の片岡庄兵衛をはじめ算盤職人たちのドラマが見えかくれします。


●片岡家に伝わった古文書・算盤等は、当館で平成28年3月6日㈰まで開催されるミニ企画展「大津算盤をつくった人々(大津の古文書9)」で展示中です。

2015年 10月 6日

新撰淡海木間攫 其の六十一 「生命の徴─滋賀と「アール・ブリュット」」について

滋賀県立近代美術館学芸員 渡辺亜由美

 滋賀県の福祉施設では、戦後間もない1948年から粘土による造形活動が行われていました。その活動は、障害のある子どもたちの教育的な営みとして、かつ職業訓練の場として、1946年に設立された近江学園(現:滋賀県立近江学園)でいち早く始まりました。粘土による製品づくりを推進する取り組みは、その後信楽寮(現:滋賀県立信楽学園)で生産された「汽車土瓶」(図1)へとつながっていきます。月に2万個の注文を得ていた汽車土瓶の大ヒットは、自分たちの仕事がさまざまな人の役に立っているということを強く実感できる取り組みでもあったのです。
 こうした製品づくりとともに、知的障害児たちの手による豊かな表現を守り・育む中でひろがった自由な造形活動も、滋賀の福祉施設の大きな財産です。粘土や絵画などの創造性溢れる活動は、自発的な成長を信じ、一方的な指導を行わないという温かな眼差しの中で行われてきました。そして、90年代以降、福祉施設で生まれた作品の一部がローザンヌのアール・ブリュットコレクションなどの国外の美術館でも紹介されるまでとなり、今日大きな注目を集めています。その中では、荒々しさと繊細さが共存する伊藤喜彦さんの「鬼の顔」(図2)、無数のトゲで覆われ愛嬌のある顔のついた澤田真一さんの作品(図3)などの粘土造形の他、ブルーの色が織り成す萩野トヨさんの刺繍作品(図4)など、滋賀の歴史ある土壌から誕生した豊かな作品たちも多数紹介されました。
 こうした独特の歴史を持つ滋賀県の福祉施設の造形活動の取り組みを中心にご覧いただける展覧会が、滋賀県立近代美術館で10月3日(土)から始まる「生命の徴─滋賀と「アール・ブリュット」」展です。本展ではその先進的な取り組みがどのように継承され、展開してきたのかを県外や国外の作品も含めた約150点の作品を通じてご覧いただきます。
 表現という可能性を知り、それによって広がった作り手たちの世界─。本展が、彼らの生命の徴である数々の作品とその魅力に出会う、すばらしい機会となれば幸いです。

2015年 8月 3日

新撰淡海木間攫 其の六十 伊吹山学校登山の写真

米原市伊吹山文化資料館 髙橋順之

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち

滋賀県立愛知高等女学校の生徒たち(昭和初期か、伊吹山頂の測候所前にて)

「十一時が近づいた時、私達はあたりの静寂を破って宿を立った。(中略)登山者の群れは多かった。山はまるでお祭り気分だった」(昭和4年〈1929〉大垣高等女学校交友会誌)。
 明治時代、ヨーロッパから近代登山が伝わり、大正時代には、余暇時間を充足する一方途として登山ブームが到来、「登山の大衆化」が始まります。伊吹山の登山口の上野(米原市)では入山料を取り、希望者には案内人を付けて、多くの人を伊吹山に誘いました。
 「対山館」は、大正14年(1925)に上野に設立された、タイル張りの百草風呂を売り物にした旅館です。伊吹山文化資料館には、対山館宛の書簡類が約1700点保存されています。このなかに、戦前・戦中の学校登山に関するものがたくさんあり、この時期の学校登山のようすがわかります。
 彦根高等女学校(現、県立彦根西高等学校)は、明治19年(1886)創立の全国的にも古い女学校で、大正3年(1914)7月29日・30日に第1回伊吹登山を実施しています。校長以下職員5人は生徒12人を引率して山麓の春照(米原市)に1泊して夜間登山をおこないました。以後、大正7年、昭和2年、10年から18年まで、終業式終了後、第5学年百数十名が恒例の夜間登山をおこないました。伊吹山には、夏季休暇が始まる7月下旬に、愛知・岐阜・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫各府県の学校が訪れています。そのほとんどが夜間登山です。
 学校登山は、当初、野外学習や夏季休暇の有効な利用法として導入されましたが、日中戦争(昭和12年)が勃発すると、登山の目的が戦争遂行のための心身鍛錬や忠君愛国精神の高揚に変容していきます。やがて、旧制中学校などの男子生徒は、軍要員となるべく軍隊宿泊調練などに明け暮れ、登山の主役は、銃後を守る婦女子の心身鍛錬等を目的とした高等女学校になっていきました。伊吹登山が戦争に利用されたのです。
 最寄の近江長岡駅はいち早く明治22年(1889)に開業しており、交通至便なことから、古くから多くの学校が学年単位で訪れ、それを受け入れる登山環境も充実していました。伊吹山は、夜間登山を中心にいまでは想像できないほどの多くの登山者で賑わっていたのです。

2015年 3月 31日

新撰淡海木間攫 其の五十九 鍾馗(しょうき)

かわらミュージアム館長 小森健行

鍾馗(しょうき)

飾り瓦「鍾馗(しょうき)」 各高さ:80㎝ 幅:105㎝

 かわらミュージアムに展示されている飾り瓦「鍾馗」は、江戸時代後期の文政11年(1828)に作られました。八幡瓦の元祖である寺本家の寺本仁兵衛五代目兼武とその弟・西塚宗三郎の兄弟合作の作品です。
 鍾馗は、主に中国や日本の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡よけや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりされました。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屛風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりします。
 鍾馗の図像は、必ず長い髪を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな目で何かをにらみつけている姿です。
 鬼瓦(飾り瓦)は、棟の端に取り付ける飾り瓦であり、奈良時代には一般に蓮華文が用いられましたが、8世紀以降、獣面、鬼面へと変化しました。江戸時代の初めころより実にさまざまな形のものが出現しています。例えば、家を建てる際には吉相を選び、鬼門を避け、さらに鬼門の方向に向かって猿面の瓦を用いて難を避けるとか、頭巾飾りのある鬼面瓦をつけて災難を防ぐために飾られたと記されています。
 この鍾馗も上述した祈願のもとで作られたものであり、今日では鬼面以外のさまざまの意匠も用いられています。

2015年 3月 31日

其の五十八 佐川美術館所蔵 国宝・梵鐘

佐川美術館学芸員 井上英明

国宝・梵鐘

 平山郁夫や佐藤忠良、樂吉左衞門といった現代作家の作品を収蔵公開している佐川美術館ですが、収蔵する作品の中で、唯一国宝に指定されている梵鐘があるのをご存知でしょうか。滋賀県内に所在する梵鐘の中でも、国宝に指定されているのは、佐川美術館のものだけで、今回その梵鐘を約3年ぶりに一般公開します。
 そもそも、梵鐘とは仏教寺院で用いる釣鐘のことで、時刻を告げたり、諸行事の合図に用いたりする仏教法具の一つになります。私たちにとっては、12月31日に撞かれる除夜の鐘が最も馴染み深いでしょう。また、梵鐘にはそれ自体にまつわる伝説や伝承も多く、ここ滋賀県でも近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られる三井寺(園城寺)の梵鐘や、同寺にある武蔵坊弁慶によって比叡山に引き摺り上げられたとされる梵鐘(「弁慶の引き摺り鐘」)などが好例と言えます。
 佐川美術館に収蔵されている梵鐘は、もともと比叡山延暦寺の西塔地区にあった宝幢院(現在は廃絶)の鐘として鋳造されたもので、天安2年(858)に造られたことがわかる銘文が鐘身内に見られます。紀年銘が入った梵鐘としては、国内で6番目に古いものとなり、銘文は「比睿山延暦寺西寳 幢院鳴鐘天安二年 八月九日至心鋳甄」の3行24文字が左文字(逆文字)で鋳たためられています。この左文字になった理由は、中型(鋳物を造る時に空洞にあたる部分の鋳型)に正字で陰刻したために生じた技術的な誤算とも、梵鐘を外側正面から拝したときに、正しく透かし読めるようにあらわされているとも言われています。「至心鋳甄」という文字を「心をこめて鐘を見る」と解釈をすれば、技術的な誤算というよりも、意図的に文字を逆さに刻んだと考える方が自然ではないでしょうか。
 いずれにしても格調高い洗練された書体、簡潔な文章は名だたる人物の手によるものと推察され、宝幢院が嘉祥年間(848〜850)に創建されていることを鑑みれば、本鐘鋳造の発願者を創建に関った初代院主恵亮を含めたその周辺に求めることも可能でしょう。
 改めて梵鐘を見ていくと、口径に比べて丈が著しく高く、肩から下が口縁部にかけてほとんど直線で鐸状(裾開きの円筒状)をなした極めて狭長な形姿となり、装飾性を抑えた簡潔な造りの竜頭、簡素な8弁の蓮華形となる撞座など、他に類を見ないスタイリッシュな形をしています。

●本鐘は、当館で2015年1月18日㈰まで、平山郁夫が描いた世界遺産シリーズとともに公開していますので、ぜひこの機会にご覧ください。

2014年 8月 26日

其の五十七 木造狛犬

MIHO MUSEUM 髙梨純次

木造狛犬

 神社の参道や社殿の前、左右に分かれて、にらみつけるように険しい表情で座っているのが狛犬、ということは、多くの方がご存知でしょう。神様をお守りする守護獣ということは、座っている場所や表情からもわかります。現在まつられている一般的な狛犬は、口を明けて咆哮する阿形像は獅子、口を閉じてにらみつける吽形像には頭上に角がある一角獣として狛犬、というように、獅子と狛犬が一対として配置されている例が多いのです。「獅子・狛犬」と、いちいち繰り返すこともわずらわしいということでしょうか、単に「狛犬」と呼んでいます(ここでも慣例に従って「狛犬」と呼びます)。

 そもそも、獅子は基本的に、百獣の王ライオンに起源するとすれば、日本列島にライオンがいたわけではありませんから、これは、西方から伝来したものということになります。獅子が一対として祀られる事例は、インドや中国にありますから、その風習が渡来したものであると想像がつきます。しかし、そのうちの1体が、一角獣として祀られる事例は、平安時代にみられるようですが、果たして日本で生み出された形式なのかどうかも、今回MIHO MUSEUMの秋期展「獅子と狛犬」の論点の一つとなるでしょう。

 滋賀県には、あまり知られてはいませんが、優れた狛犬像が伝えられています。全国的にみても、鎌倉時代を代表する狛犬として、この大宝神社に伝えられ、重要文化財に指定される像は秀逸です。細身で筋肉質の精悍な姿は、すべての魔を追い払い、神と神域を守護するにふさわしい形です。造形作品としての完成度も抜群で、優れた作者、おそらく仏像や神像を作っていた仏師のなかでも、高い技量の手になったものと思われます。大宝神社が鎮座する地には、鎌倉時代には延暦寺の庄園や、有力な門跡である青蓮院に関わる寺領などが確認されていますから、やはりこの優れた狛犬の造像には、延暦寺が呼び込む、高い技量の作者の洗練度がみてとれます。また、阿形の金箔、吽形の銀箔という色分けも、見所の一つでしょう。


栗東市綣・大宝神社
2軀 木造・彩色 
像高:阿形47.3㎝
   吽形46.7㎝
重要文化財 鎌倉時代

2014年 3月 19日

其の五十六 雷雲蒔絵鼓胴 (銘 初音)

MIHO MUSEUM 桑原康郎

雷雲蒔絵鼓胴 (銘 初音)

1口 室町時代 15世紀 高27.5㎝ 口径12.5㎝


 雷光を螺鈿と高蒔絵、渦巻く雲を高蒔絵と截金で表わした豪華な鼓胴で、白拍子であった静御前が所用し、雨乞いの鼓として知られる「初音の鼓」との伝承を持つ。また、鼓の受にある朱漆の銘文より、永享2年(1430年)源左京大夫持信が琵琶湖の竹生島に奉納したことがわかる。竹生島には水に関係のある弁財天様や龍神様が祀られており、雷雲の蒔絵はまさに相応しい。雷鳴のような鼓の迫力ある音が聞こえてくるようだ。
 この鼓胴には織田信長の書状が2通付随している。その内の1通は信長から竹生嶋惣山中宛の朱印状で「青葉の笛は到来した。まことに見事な名物である。しばらく手元において見たのち返す。この笛を当山へ寄進したのは誰で、その子細はどのようなことか、これに添う小笛の由来についても知りたい。また静所持という小鼓の胴は雷の蒔絵と聞く。ぜひ見たいものである。磯野に申しておくのでよろしく頼む」とある。ここから、信長が竹生島に寄進されていた「青葉の笛」と共に、この「雷の蒔絵の小鼓」を見たであろうことが読み取れる。
 「青葉の笛」にもさまざまな伝承があるが、その一つとしてまず平家の笛の名手・平敦盛の名が思い浮かぶ。「敦盛」といえば信長が好んで舞ったと伝えられる能の演目であり、「青葉の笛」や「雷の蒔絵の小鼓」をぜひ見たいと所望した信長の執心ぶりを彷彿とさせる。この「青葉の笛」は弘化2年(1845)、当時の彦根藩主・井伊直亮の要望により竹生島から献上され、現在は彦根城博物館の所蔵となっている。
 本作は、蒔絵技法や寄進銘からみて、製作年代は静御前の生きていた時代まで遡らないと考えられるものの、天正年間には静御前所用の鼓として伝えられた名器である。


参考文献
灰野昭郎「雷雲蒔絵鼓胴」
  『学叢』第五号 京都国立博物館 1983
加藤 寛『日本の美術No. 477 蒔絵鼓胴』 至文堂 2006
『MIHO MUSEUM 北館図録』 MIHO MUSEUM 1997

2013年 10月 11日

其の五十五 近江鉄道高宮─八日市間路線地図

愛荘町立歴史文化博物館 三井義勝

「近江鉄道高宮─八日市間路線地図」(部分)㈶近江商人郷土館蔵


 明治27年(1894)7月26日、近江鉄道株式会社は仮免状が下付されたのと同時に路線用地と停車場用地買上のための仮測量に着手したといわれている。
 高宮―八日市間の路線については、明治26年(1893)11月15日付け、逓信大臣宛の「近江鉄道株式会社創立願」に「別紙図面ニ記スル如ク官線彦根停車場ヲ起点トナシ高宮愛知川八日市桜川日野水口ノ各地ヲ経テ」(傍点加筆)とあるように、愛知川(愛知川村)を経由することが明記されていた。
 近江鉄道創業期に取締役として奔走した四代小林吟右衛門の鉄道関係史料のなかに、高宮から八日市に至る路線と停車場を検討したとみられる地図がある(近江鉄道高宮─八日市間路線地図)。東方位を天とする画面には、縦に3本の河川(北から犬上川・宇曽川・愛知川)と横に2本の街道(東から中山道・朝鮮人街道)を強調して表しているほか、中山道以東の愛知郡とその周辺の村々や大字の位置などが描かれている。また、図中には中山道の東側を並行する路線と5カ所の停車場が書き込まれており、路線は愛知川村を経由する計画路線と同村を経由しない2本が引かれている。
 愛知川村を経由しない路線は、「高宮」と記された停車場よりさらに東側に記された楕円形の印を起点とする。これは高宮停車場の候補地を意味するのだろうか。この印から南の西甲良村(甲良町)内や豊郷村(豊郷町)大字雨降野を通過、さらに秦川村・八木荘村・豊国村といった現在の愛荘町東部の村々を横断し、愛知川を渡って旭村(東近江市)大字奥に至る。停車場の印は大字雨降野と秦川村大字深草との間、そして豊国村大字東円堂と同村大字苅間の間の2カ所に記されている。
 この路線地図には作成年やタイトルが記されていないため詳細については不明である。しかし、路線用地の測量や買上時に作成されたと仮定すると、2本の路線が引かれた背景として中山道近辺の用地買上が容易に進まなかった事情などを推測することができる。

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