新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の七十一 出征のぼり

滋賀県平和祈念館 専門員 伊庭 功
出征のぼり

 今年1月から6月3日まで開催している企画展示『野洲郡 北里村』では、多数の「出征のぼり」を展示しています。太平洋戦争がはじまるまでは、こうしたのぼりを立てて出征者を見送りました。のぼりの大きさは、竹竿につるす4m前後のものと、旗竿につるす1~2m程度のものがあります。短いのぼりは色彩やデザインを凝らし、下縁に飾り紐をつけた、派手なものが多いです。
 こうしたのぼりは祝儀と激励の意味を込めて出征者に贈られました。中央には出征者の氏名を大書して、両脇下部に贈った人や組織の名が書かれています。氏名の上には、祝・尽忠報国・出征・応召・入営・入団などの文字や、国旗や鷲の絵をあしらっています。こうしたのぼりは既製品が準備されていて、名前だけが墨で手書きされています。
 展示品には旧北里村(昭和30年に近江八幡市に編入)の方の寄贈品がありませんが、当館はご寄贈いただいた出征のぼりを多数所蔵しています。
 戦前・戦中、成人した男性には徴兵検査を受けることが義務づけられていました。そのなかから入隊したのは、平時においては25%程度です。軍隊へ入隊したことは、お国の役に立てる立派な成人男性になったと認定された、と受けとめられていました。
 昭和12年(1937)、北京近郊の盧溝橋で武力衝突がおこり、5か月後には首都南京が陥落しましたが、紛争は終結せず、全面戦争へと拡大しました。この日中戦争の拡大とともに入隊者の比率は急上昇し、予備役として在郷する人にも大動員がかけられました。
 開催中の企画展示では、日中戦争が拡大した昭和13年に応召・入隊した方とそのご家族の記念写真を多数展示しています。地元の晝田英杉さんが撮影されたこれらの写真からは、出征のぼりを立てて盛大に見送ったようすがうかがえます。お国の役に立てる機会がめぐってきたことを祝い、戦場で手がらを立てることを期待して励ましたのです。「支那事変」と呼ばれたこの戦争は早いうちに勝てるつもりでいましたから、出征者やご家族の表情にも余裕がうかがえます。
 やがて太平洋戦争が始まるころには、防諜と倹約のため、出征のぼりの見送りはひかえられました。そして戦況が悪化していくと、出征者はほんとうに死を覚悟して戦場へゆかねばなりませんでした。

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