近江旅支度
2010年 5月 30日

赤玉神教丸

赤玉神教丸
現在製造販売されている赤玉神教丸

 鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年(1658)と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりです。そしてこのことから「神教丸」という名がつきました。多賀の坊宮が全国を巡廻して、多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。
 有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったといわれます。神教丸は、胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や実胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されていました。
 有川家では『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとりませんでしたから、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めたのです。別の販売所としては、享保15年(1730)には大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。 神教丸の評判が高まると、まがい物が登場する事となり、文化12年(1815)に刊行された『近江名所図会』では、有川家の店頭のようすとともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売した業者がいたことを示しています。有川家では、明和3年(1766)以降に、類似薬の販売差し止め訴訟を起こしています。最初の事件は大津の出店から情報が寄せられたようで、藤屋久兵衛という人が15ヶ所の「取次所」を通じて薬の販売を行ったというのです。鳥居本と大津でしか販売していないはずの神教丸を各地で販売するのはまさに営業妨害であると、当主有川市郎兵衛は病をおして江戸に出向き、交渉の末、営業を差し止め、贋薬や看板・引札などを没収しました。その後明和8年(1771)にも大津に住む油屋庄右衛門との間に訴訟が起こっていますが、京都奉行所から「赤玉 神教丸」は鳥居本の有川市郎兵衛の製法する薬であり、紛らわしい類似の看板や薬銘をいっさい禁じるという決定が下っています。それでも手を変え品を変え、類似品が登場しましたが、その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。「神教丸 鳥本一朗右衛門製」「江州鳥居本本家 神教丸」「鳥居本本家 神教丸」「延命神教丸」「江州播磨田福岡自右衛門製」など紛らわしい薬を見ることができます。
 有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合せると、その数は40人を超え盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫』によると、小野村の「小野丸」や、百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。有川家の建物は寛暦年間(1751~1764)に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手に別棟の建物が増築され御休憩所になりました。

 
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