近江旅支度
2009年 11月 30日

鳥居本から始まった「花緒の生産」

 現在では、長浜が花緒の生産額で全国でも優位にありますが、長浜での花緒の製造の嚆矢は鳥居本の寺村信次さんの努力が影響しています。『鳥居本の姿』には「大正時代末期に始まった湖北三郡のビロード生産の大部分が花緒の原材料として、東京、京都、大阪などに移出されていました。昭和初期は大変な不況の時代で滋賀県では産業振興と失業対策として、都会の花緒技術者を招聘して花緒製造の講習会を開催しましたが、短期間で習熟する事ができず、当初の計画は挫折しましたが、この講習会を受講していた寺村信次さんが、昭和2年から数年、先進地大阪で花緒生産の技術を学び、技術を鳥居本に持ち帰り、滋賀県で初めて花緒の生産を始めた」と記されていますが、滋賀県市町村沿革史によると明治13年に甲田村では12件の製造業者があり、年間に700足が生産され彦根に販売されています。寺村さんは、大阪に出張所を設け、新しい技術の習得と職人の養成をおこない、昭和12年には大阪から長浜に本拠を移していることから、今の長浜の花緒生産の始まりに大きな影響を与えたといえるでしょう。昭和25年には、鳥居本の花緒生産は年間約2万足を数えています。当時、10名で鳥居本花緒工業協同組合を組織していましたが、産地を控えた強みのある滋賀県全体で600以上の業者によって滋賀県の重要な特産品の一つとなっていたのです。戦後には、馬場イサブロウさん。寺村信次さん、西山の武田さん、物生山の北村さんが生産を続けていましたが、その後の全国的な和装離れにより、下駄の使用が激減し、すっかり姿を消しました。

 
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