近江旅支度
2010年 1月 30日

鳥居本合羽ができるまで

鳥居本合羽製造の詳しい記録は残っていないが、製造に携わった川崎三郎さんや住田屋の子孫、角田稔さんからの聞き取りと存在する資料によって、概要をまとめることができた。しかし、時代によって材料や製法、用途は大きく異なったものと考えられるので、この資料は絶対的なものでないことをお断りしたい。

柿渋つくり

渋は土地の青柿を用いて、各家で柿渋を作り大きな桶に貯蔵していました。組合で一括青柿を仕入れていたようですが、正法寺あたりから、青柿を売りに来ていたという老人の証言もありました。鳥居本の運動会は青柿の収穫時期を避けておこなわれたという話も伝わります。合羽作りに不可欠な柿渋作りは、地域社会に大きな影響を及ぼす大切な仕事でしたが、周期的な豊作・不作への防止策に腐心したようです。合羽屋宅には大概、大量の柿渋を貯蔵するための渋倉がありました。
 渋作りに最適な小粒品種の柿は、8月中旬から下旬にかけて赤くなる前に採果され、石臼や米撞き臼で搗いて砕き、適量の水を加えて絞り、大きな桶に入れて貯蔵して発酵させます。発酵が進むほど渋は黒く変色し、長い時間醸成するほどに良質の渋となります。

用紙の選定

原材料の紙は、若狭や大阪、あるいは土佐、伊予国産の仙花、後には美濃産のもの購入し、用途に応じた原材料が使用されたようです。最適な紙は和紙ですがマニラ仙花などの洋紙も使用されています。購入した用紙の品質別に等級分けされます。用紙の大きさは1尺×1.5尺の小型と2尺×3尺の大型の2種があったようです。

小継

同じ等級の用紙を張り合わせる作業を小継ぎといいます。用途によって張り合わせて必要な大きさに仕上げます。32枚継ぎ、56枚継ぎなどの商品の存在が商品別原価票で確認できます。張り合わせは、大きさを確保すると同時に強度を高める効果もありました。糊の調合にも工夫があったようですが詳細は判明しません。美濃紙を1列に長く張り合わせる小継ぎ作業は1人で行えますが、必要な大きさに整える「大継」は1人では行う事ができず、女性が手伝うことがありました。56枚継ぎともなると306cm×205cmの大きさになりました。

仕上げ寸法に断裁

大継ぎ後は、仕上げ寸法どおりに断裁する作業に入ります。ヘラのような包丁で木製の定規を当てて、必要寸法に切り取り、四方は折り曲げられるので3cm程度の余裕を作っています。断裁用の包丁研ぎは子どもの仕事で回転式の砥石で頻繁に研磨しました。

糸いれ

仕上がりのサイズによって、糸の太さを変え、コヨリのような柔らかい糸や麻糸などを芯にして紙の四方を折り曲げ、糊で張り合わせます。糸入れは、紙の端をほつれにくくし、製品が破れにくくするための工夫です。大型シートには対角線に糸が入ったものもあります。

製造業者名の押印

用紙の準備が終わると墨を塗った版木で商標印を押します。木綿屋に残る仕掛品には「本揉み木綿屋 江州鳥居本宿」という15cm×10cmの捺印がありますが、自家名以外の卸業者名の版木もあり、製造卸をしていたことがわかります。木綿屋では、滋賀県南部から伊勢方面を主たる販売先としていましたが、住田屋では近江用と北陸用の製品を作っていました。押印は製造工程の中でも単純な作業なので、子どもが手伝わされました。

紙揉み

渋や油の吸収を良くするために、紙を揉んで皺を入れる作業は大変重要ですから熟練工が担当し、手揉み足揉みで用紙に皺を入れます。柿渋を含むと柔らかくなるので作業は容易になりますが、堅い紙は扱いにくいので、夜露にあててしんなりさせてから紙揉みを行います。十分な紙揉みができていないと最終の油の付着に大きく影響するので気が抜けない作業です。

渋引き

紙の準備が終わると渋が塗られます。渋汁に紅殻を入れると発色が赤くなりますが、北陸用合羽は濃い目、近江用は明る目が好まれました。渋引きは手で握る部分がついただけの簡素な20cm位の刷毛でまんべんなく渋を塗り、これを乾かして干すと渋紙の完成です。油を塗布しない渋紙は畳の合い敷きとして重宝されたものです。

油引き

渋紙に油を薄く引き、乾かす作業が何回も繰り返されると合羽が完成します。商品の等級によって回数が決められていたようですが、川崎さんの記憶では定かではありません。荏油が主に使用されましたが、戦時中には亜麻に油、松根油が補充用として使用されています。桐油、機械油の特徴を活かし、調合して使用されていました。

合羽干し

渋を塗っただけの紙は約1日で乾燥しますが、油引き後は容易には乾燥しません。油引き後2~3日はまだ油が十分浸透しないので、取り入れる時は十分注意をしないと自然発火する危険性があります。合羽屋の朝は早く、太陽が昇ると油引きした商品を干す作業が始まります。雨が降りそうになると急いで取り入れるなど、猶予のない作業が続きます。太陽の熱がある間に何枚も重ねると、余熱で夜間にも乾燥が進みますが、油引き直後だけは、直接重ねないで2つ折りを山形にして乾燥させ、自然発火を防止しました。干場は草を短く整えたり、石を敷き詰めるなど工夫され、風で飛ばされないための重し用の石ころも随所に用意されていました。地面に直接並べるほかに、稲の「はさ掛け」と同様に杭や竹で干場が作られることもありました。干場近くには収納のための小屋があり、夜間や降雨時の保管場所となっていましたが、発火性のある商品の貯蔵は油断できず、夜の見回りは欠かせなかったようです。鳥居本周辺の土地では十分な干場が確保できず大堀あたりに干場用の田畑を借りたり、川原を干場とした業者もありました。旧鳥や中町あたりの合羽屋では、自宅から山田神社までを他人の地所を通ることなく参詣できたという家もあり、広い干場の確保が生産力を左右しました。

仕上げ加工

販売地域によって同じ用途でも仕上げの方法が異なり、ひもやハトメの打ち方には変化があり、留め具などの附属品は完成直前に付けて製品が完成します。
 滋賀県油紙工業組合は昭和17年5月に解散、新たに日本加工紙組合に統合されましたが、解散時の組合員は11名。他に陸田屋、沢庄、角田屋らが合羽製造を行っていたようです。

元合羽屋の看板
屋根に掲げられる元合羽屋の看板(松本道昭宅)

解散時の業者名

松本弥太郎(丸田屋)、北村甚五郎(富田屋)、松本宇之輔(松屋)、鳥角田文右衛門(住田屋)、寺村真三(寺村商店)、岩根嘉右衛門(木綿屋)、成宮嘉右衛門(鳴海屋)、北澤半三郎、西山鉄次郎 ほかに愛知川西澤市治郎や大津市の田中末吉の名前が残ります。

 
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