近江旅支度
2010年 3月 30日

鳥居本合羽の歴史

 馬場弥五郎の工夫で、良質の合羽製造を行ってきた鳥居本合羽は、戦後まで、鳥居本の重要な産業でした。元文、寛保年間(1736~1742)の製造業者数は10戸を数え、寛延・宝暦(1749~1763)になると13戸、文化・文政(1804~1829)には15戸に増加したとされます。店頭販売の他、行商、諸候の用達などもおこない、販路の開拓に努めています。維新以降、明治20 年(1887)には同業組合を結成し、時代に即応した規約を設けて事業の振興に努力してきました。
 彦根市史では、「大正初期には同業者20戸従業員数200人を超えるに至った」と記載されていますが、明治20年に設立された日本油脂加工製造組合の資料から、昭和初期の業者数や従業員数を鑑みると従業員が200名に登ったという事実は信じられません。最盛期でも40~50名の従業員で、多くの合羽製造業者は家内従事者を主とした形態であったと考えられます。原材料の協同購入や品質管理などを行ってきた組合も、戦争中の物資統制によって、昭和17年には解散し、日本油紙工業会近畿支部として丸田屋ら数名が加盟しています。
 文化2年(1805)に坂田屋から分家した丸田屋の生産高は鳥居本での首位の座を確保していましたが、昭和31年の火災後には生産が中止となり、丸田屋に次いで昭和32年には住田屋も廃業し、鳥居本合羽の生産は終焉したようです。昔ながらの合羽の看板を掲げる松屋は、文政8年(1825)に丸田屋から分家し、昭和の時代には縄などの製造販売に転じましたが、作業所をはじめ、詳細な家屋配置図が彦根市の調査報告書や上田道三氏の記録画に残りました。

 
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