近江旅支度
2009年 12月 30日

鳥居本と湖東焼き

現旧鳥集会所
現旧鳥集会所。元は「米屋」という旅籠、自然斎の窯があった

 彦根城下の呉服商絹屋半兵衛が始めた湖東焼きは、彦根藩窯となり多くの名作を生み出してきましたが、彦根藩主直亮・直弼の両名は藩窯としての湖東焼きの精度を高めると同時に、一方では領内の殖産振興の一貫として一般市場での販路開拓をめざしていました。
 百姓が農作業の余暇に行う内職として許されていた湖東焼き販売は、彦根藩の販売方法とは異なった手法で成果を上げるようになってきました。そして安政3年(1856)に民間で湖東焼きを行っていた原村の右平次(床山)、鳥居本村の治平(自然斎)、高宮村の善次郎、彦根白壁町(現本町)の松之介(賢友)が、株仲間を結成して彦根藩から鑑札を受けたい旨を願い出ました。松之介以外は、中山道沿いに暮らし、ここで旅人への土産物として湖東焼きの販売を積極的に展開していました。すでに中山道の街道沿いでは、湖東焼きは旅人に人気があり、評価が高まっていたのです。翌年に彦根藩は4人に「赤絵焼付窯元」の免許鑑札を与えました。
 井伊直弼の桜田門外での非業の最期とともに藩窯湖東焼きは終焉しましたが、鳥居本に住まいした自然斎、床山らによってその後も湖東焼きが受け継がれました。彼らが受けた鑑札は譲渡可能で子孫相伝ということになっていましたが、いずれも1代限りで終わり、時代の変遷とともに湖東焼きもその歴史を閉じることとなりました。
<自然斎>

現在の旧鳥集会所で旅籠「米屋」を営んでいた治平は号を自然斎といい、円山派の写実的な画風で達者な筆致の優れた作品を多く作りましたが、一方で贋作も多いといわれます。紀州の殿様から酒杯3個の注文に応じて小さな杯に100人の人物を描いたことで視力を害し、やがて街道の往来の減少は、旅籠や湖東焼き販売に大きな影響をおよぼし、やむなく西江州に移り、明治7年(1872)に高島郡安曇川町で亡くなりました。赤絵や色絵に独特な奔放さがみられる作品が多く残ります。
<床山>

床山の号を持つ石崎右平次は芹橋9丁目(現芹橋2丁目)の芹橋組の足軽でしたが、中島牧太安泰に狩野派の絵画を習い、湖東焼きの絵付けを覚えました。やがて病気が理由で隠居を願い出て原村に移り住み、ここで赤絵焼付を業としました。床山は自然斎に絵を教えたと伝わり狩野派の正統を踏む図柄は緻密で豪華で、精巧な作品を多く残します。彦根藩へのお抱えの要請もあったのですが、独立して終生、原村で焼き続け、慶応3年(1867)に病死しました。

 
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