新撰 淡海木間攫

其の十四 まつりの道具「銅鐸(どうたく)」

銅鐸

「銅鐸」。小学校の歴史の教科書にも登場し、最近の新聞紙上やテレビでもたびたび取り上げられることの多い名前ですから、皆さん一度くらいは耳にされたことがあるでしょう。(39個の銅鐸がまとまって出土した島根県の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡は、まだ記憶に新しいでしょう。)また、形もお寺の釣鐘に非常によく似ていますから、吊り下げて鳴らして使われたのではないかと容易に想像できるでしょう。

 では、銅鐸はいつの時代に、何に使われたものなのでしょうか。銅鐸は、弥生時代にまつりの道具として使われた青銅製のカネです。山や丘の斜面に穴を掘って埋められた状態で見つかる場合が多いのですが、最近の調査ではムラに近い所からも見つかっています。故意に埋められた理由や、多量に埋める理由はよくわかっていませんが、一つの解釈として稲作の豊作を願ったり、豊作への感謝のまつりの道具として使われ、必要のない時は土の中に埋めて保管したのではないかと考えられています。最初は、鳴らして音を「聞く」カネでしたが、新しくなると目で「見る」カネとなり、大型化し、飾り立てられました。中には、絵画銅鐸と呼ばれる当時の生活や動物の描かれたものもあります。

 銅鐸は、畿内地方を中心に全国で約480個余り見つかっていますが、滋賀県も出土例の多い地域です(34例)。特に野洲町大岩山(おおいわやま)遺跡では、二四個の銅鐸が山の斜面から隣接して見つかっています。この地域は、畿内地方の東の入口ともいうべき位置に相当することから、悪しきものを排除することを願って多量の銅鐸を埋めたのではないかとの解釈もあります。

 このような、土の中から発見される昔の資料を考古資料と呼びます。基本的には発掘調査によって発見されますが、偶然工事中などに見つかる場合もあります。これらは、文献によって知られている史実を裏付ける場合もあれば、文字からでは知り得ない全く新たな史実をも如実に伝えてくれます。ひとつの考古資料から事実を決定することは簡単ではありませんが、逆に様々な想像や解釈ができるのが考古学のおもしろさとも言えます。

安土城考古博物館 学芸課主任 吉田 秀則

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