新撰 淡海木間攫

其の二十三 大蛇の作り物―下阪本の雨乞―

大蛇

 嘉永6年(1853)、黒船の来航の年、近江の農村は、日照りで苦しめられていました。

 かつての農村では、日照りが続くと雨乞を行います。一口に雨乞といっても土地ごとにそのやり方は、様々で、ここで紹介する比叡山山麓の湖岸に面した農村下阪本の場合は、大蛇の作り物を中心に行列し、雨を祈っていました。その内容が下阪本村の年々の記録を綴った「下坂本記録」(本館蔵)に見えています。それによると、下阪本は、比較的水に苦労することは少なかったようですが、嘉永6年の日照りは、こうした村も、雨乞をしなければならない状況に追い込まれていました。5月下旬から一向に雨が降らず、7月中旬には前例を調べながら、雨乞の準備がすすめられ、7月24日から3日間雨乞が行われました。雨乞い行列は、大幟(のぼり)を先頭に、御幣(ごへい)、大蛇、そして太鼓や半鐘を打ち鳴らす連中が続き、近江八景で有名な唐崎まで行って、龍神と唐崎明神にお神酒(みき)を献上しています。

 この記録で興味深いことは、大蛇が彩色で、その作り方も図で描かれていることです。長さ12間(約22m)、閏年の場合は13間とあって12ヶ月と対応しています。顔は、木を軸に古箕(み)や古イカキなどの民具で骨格を作り、全体は、麦わら、そこに古い反物を巻いて彩 色していました。ここに描かれた図像は、まさに龍というほかないのですが、蛇と言っています。近辺の正月行事で作る大きな藁縄をジャと呼ぶ所が見られ、蛇と龍の区別 は、不明確だったのかもしれません。

 この蛇を含む行列が、湖岸の唐崎を目指していることも注意されます。周辺の湖岸農村で行われる雨乞は、琵琶湖に向かって祈るスタイルだったようです。目の前にある水を、田に入れたくても入れられない、それを湖の龍神に頼み、雲に変え、雨を降らしてもらうほかなかった、そんな苦しい時代の祈りの姿が読み取れます。

大津市歴史博物館 学芸員 和田光生

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