Archive for 2010

2010年 5月 31日

生物多様性って何?

2010年は「国際生物多様性年」ということで、10月には名古屋で国際会議「COP10」が開催される。

ところがこの難しそうな言葉、意味がよくわからない。
しかし、身近なところでさまざまな異変が起きている。中日新聞ではミツバチの事情が連載され、当社のご近所の滋賀県米原市醒ヶ井にある梅花藻で有名な地蔵川という清流に棲息する「ハリヨ」が混血種になり、純潔は皆無だと聞く。

とても大切な問題だという意識はあるが、よく理解できていなかったのだが、先般当社から発行した『中小企業の環境経営-地域と生物多様性』の著者のお一人の香坂玲先生から、以下のご案内が届いた。
なんでもわかりやすく楽しむ「生物多様性」について紹介されるらしい。

6月4日(金) 午後7時30分~8時43分
SAVE THE FUTURE いきものピンチ! SOS生物多様性

香坂玲先生のコメントもついてきた。

2010年は「国際生物多様性年」。10月に名古屋で生物多様性をテーマにした国際会議「COP10」が開かれるなど、今年は“生物多様性”に大きな注目が集まります。でも、なんだか堅苦しい言葉だし、「生物多様性ってそもそも何?」「なぜ、多様性を守らなくっちゃいけないの?」「人間にどんなメリットがあるの?」などなどギモンが続出!
そこで、「SAVE THE FUTURE」では、オリジナル人気コンテンツ「科学者ライブ」をさらにパワーアップして、楽しくわかりやすーく、こうしたギモンにお答えしていきます。日本を代表する科学者たちが、なるほどそうだったのか!とナットクのプレゼンを熱くおもしろく繰り広げます。

香坂玲先生の著者『中小企業の環境経営』では、中京地域の中小企業への聞き取り調査から、環境保全・教育、資源循環の利活用という広い意味での企業のsy会貢献と社会的な責任(CSR)に関わる活動の事例を紹介し、分析されている。
CSRの理念の源流は近江商人の三方よしにあるといわれるが、移入された観念ではなく、非常に日本的な考え方だと言える。大企業ではCSは定着しつつあるが、中小企業では・・・とされがちだが、本書では、果敢な取り組みが紹介されている。フットワークがいいだけに、実際は中小企業に歩があるのではないかと思うがいかがでしょう。

それはさておき、生物多様性について一緒に考えましょう。

2010年 5月 30日

赤玉神教丸

赤玉神教丸
現在製造販売されている赤玉神教丸

 鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年(1658)と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりです。そしてこのことから「神教丸」という名がつきました。多賀の坊宮が全国を巡廻して、多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。
 有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったといわれます。神教丸は、胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や実胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されていました。
 有川家では『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとりませんでしたから、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めたのです。別の販売所としては、享保15年(1730)には大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。 神教丸の評判が高まると、まがい物が登場する事となり、文化12年(1815)に刊行された『近江名所図会』では、有川家の店頭のようすとともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売した業者がいたことを示しています。有川家では、明和3年(1766)以降に、類似薬の販売差し止め訴訟を起こしています。最初の事件は大津の出店から情報が寄せられたようで、藤屋久兵衛という人が15ヶ所の「取次所」を通じて薬の販売を行ったというのです。鳥居本と大津でしか販売していないはずの神教丸を各地で販売するのはまさに営業妨害であると、当主有川市郎兵衛は病をおして江戸に出向き、交渉の末、営業を差し止め、贋薬や看板・引札などを没収しました。その後明和8年(1771)にも大津に住む油屋庄右衛門との間に訴訟が起こっていますが、京都奉行所から「赤玉 神教丸」は鳥居本の有川市郎兵衛の製法する薬であり、紛らわしい類似の看板や薬銘をいっさい禁じるという決定が下っています。それでも手を変え品を変え、類似品が登場しましたが、その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。「神教丸 鳥本一朗右衛門製」「江州鳥居本本家 神教丸」「鳥居本本家 神教丸」「延命神教丸」「江州播磨田福岡自右衛門製」など紛らわしい薬を見ることができます。
 有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合せると、その数は40人を超え盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫』によると、小野村の「小野丸」や、百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。有川家の建物は寛暦年間(1751~1764)に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手に別棟の建物が増築され御休憩所になりました。

2010年 5月 30日

摺針峠の由来

百々の道標
百々の道標
「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」「文政十丁亥秋建立」と刻まれる道標。狭い道路角に立つことからたびたび、災難を受けてきたが平成14年には一部修復され、自動車などが当たらない工夫が施された。文政10年(1827)に建立され、朝鮮人街道との分岐点を示している

木曾街道六十九次
木曾街道六十九次(岩根豊秀孔版画)

望湖堂の全景
焼失前の望湖堂の全景。左に弘法杉が見える

 摺針峠は、中山道随一の名勝として知られ、ここからの眺望は「眼前好風景なり。山を巡て湖水あり。島あり。船あり。遠村あり。竹生島は乾の方に見ゆる。画にもかかまほしき景色なり」(『近江輿地志略』)と記されているように多くの絵画の題材になっています。摺針峠の名前の起こりは、「京都で学んでいた学生が学業半ばで帰路に就いている途中、この地を通り、一人の老婆が一生懸命に斧を研いでいる光景にであい、『斧を研いで針にする』という言葉を聞いて、自分の志が足りないことを恥じて再び京都に戻り学業に励んだ。この学生が後の弘法大師である」という話に由来すると伝わります。大津市出身の日本画家小倉遊亀氏はこのテーマを題材に大作を仕上げたことで有名ですが、峠には、このときに弘法大師が植えたという「弘法杉」が大きく枝を伸ばしていました。

 峠にはかつて多くの茶店がならび、「するはり餅」という名物に人気が集まったといわれます。望湖堂は、茶店とはいえ本陣を思わすような構えの建物で、明治天皇や皇女和の宮さまがご休憩され、大いに繁栄しましたが、鳥居本宿や番場宿からは寛政7年(1795)に本陣紛いの営業を慎むようにとの抗議がでています。朝鮮通信使の一行が、江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていましたが、惜しくも平成3年の火災で建物とともに消失しました。現在の建物はその後建設されたものです。

2010年 5月 30日

佐和山城の歴史と変遷

佐和山城の築城

 石田三成の居城として知られる佐和山城ですが、その築城は鎌倉時代にさかのぼります。古くはサホ(佐保・棹)山と呼ばれ、鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男、六朗時綱が佐和山付近の山麓に館を構えたのが始まりとされます。15世紀中頃には六角氏の支配のもと小川左近太夫を城主として犬上郡、坂田郡の境目の城となりました。やがて佐々木氏は京極と六角に分かれ、京極の臣下の中から勢力を伸ばしてきた浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまります。そして、勢力の境に位置する佐和山が攻撃の目標となり、次第に要害の地として城塞が築かれ、強固なものになってきたと考えられます。関ヶ原の合戦後に井伊直政が入城し、慶長8年(1603)彦根城築城と同時に廃城となりましたが、おおよそ400年の間、近江の北と南の境目に位置する重要な城塞でした。
 この城の重要性に着目したのが織田信長です。京極、六角、浅井の勢力争いに加わり、そして終止符を打った信長は、安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたことが『信長公記』などの記録に残ります。当時、佐和山山麓には入江内湖・松原内湖が広がり、東山道が走る立地は、天正7年(1579)に安土城が完成されるまでの間、信長の居城的性格を持つ重要な城郭とされていました。

元亀元年の佐和山合戦

 信長が美濃の斉藤氏を討ち、稲葉城を岐阜城に改め、足利義昭を擁して上洛の準備を始め、妹のお市を浅井長政の妻とした頃、浅井長政の臣下の磯野員昌が永禄11年(1568)に入城し、観音寺城を攻略しました。その後長政が反旗を翻し、姉川の合戦が起こります。9時間におよぶ激しい戦いの末、破れた長政は、小谷城と佐和山城に分かれ再起を図ります。一方信長は小谷城に秀吉を配し、佐和山城に対しては、東の百々屋敷に丹羽長秀を、北の山(磯山または物生山)に市橋長利、南の山(平田山または里根山)に水野信元を布陣させて長政を封じる方策を講じました。これが「元亀元年の佐和山合戦」です。佐和山に籠城した磯野員昌は、坂田郡内の土豪今井氏、嶋氏、河口氏らとともに家中の結束を固め約8ヶ月にわたって奮戦したのですが、長政への援軍が聞き入られず、食糧・武器もなくなり、なすすべを失った員昌はついに信長に降伏し佐和山城を明け渡しました。後に佐和山城が「難攻不落」の城といわれる所以です。

佐和山城の歴史

 佐和山合戦後の佐和山城は、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と引き継がれていきます。
 近江を制定した信長は比叡山を焼き討ち、北に横山城、東に佐和山城、南に坂本城を配した近江の街道を見据えながら、湖上の交通も視野においていました。そして佐和山城主、長秀に命じて長さ30間の大船を作らせ琵琶湖の水路も確保しましたが、非業の最期を遂げました。
 その後秀吉が天下を平定すると、佐和山城には秀吉臣下の堀尾吉晴が入り、軍事拠点を守りながら、秀吉に従って各地を転戦しました。
 関白になった秀吉のもとで五奉行に名を連ねていた石田三成が佐和山の城主となったのは、文禄4年(1595)、堀尾吉晴が佐和山から浜松に移って以来、5年が経過し、城内は相当荒廃していたので、三成は直ちに城郭を大改修しています。残存する佐和山城の遺構は多くはありませんが、ほとんどが三成が大改修した当時のものです。城内は三成の合理性を示すような質素な造作でしたが、本丸を中心に、周囲に西の丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの楼閣がそびえる城郭に整備しました。多賀大社に残る絵図には、佐和山城の当時の偉容を見ることができます。三成は城郭の整備とともに、領内の統治にも細やかな配慮を示したと伝わりますが、詳細な記録は多くはありません。

佐和山城の廃城

 関ヶ原の合戦で敗北した石田三成は山間に逃亡し、三成の父正継と兄正澄が留守を守る佐和山城は、小早川秀秋・井伊直政・田中吉政らの攻撃を受けます。執拗な攻撃に石田勢はよく戦ったのですが、一族は自刃し、塩硝蔵に火が放たれると城郭はすべて灰となりました。逃げまどった婦女の多くが東の崖から身を投じたことから、後にこの崖は「女郎ヶ谷」と呼ばれるようになりました。
 落城した城は家康の家臣によって管理されていましたが、慶長6年(1601)に井伊直政が城主として赴任、その後新しく彦根城の築城が始まると佐和山城の石や用材が建設のために運びだされましたので、佐和山城の多くの遺構は姿を消しました。ただ鳥居本側にあった大手門は彦根市内の夢京橋キャッスルロード中央に位置する宗安寺の表門に移築されたと伝わります。

2010年 5月 30日

郡域を超えて彦根市の合併

 昭和6年、近江鉄道鳥居本駅の誕生は村民の大きな喜びでした。そして新しい交通手段の登場は、当時の鳥居本の産業振興に大きな成果がありました。しかし、鉄道から道路輸送中心の時代が到来すると、鳥居本村は大きな岐路を迎えることとなります。国道建設をも視野において彦根市との合併問題が発生し、単独中学校の建設の問題を抱えて、合併の是非を問う住民投票の結果、昭和27年(1952)に彦根市に合併しました。彦根市の面積の25%を占める鳥居本は、豊かな自然に恵まれた地域ですが、合併後50年を迎えた今、新たな将来展望の計画の必要性に迫られています。

仲井 みさゑ
B5判 128ページ 並製
奥付の初版発行年月:2010年05月

2010年 5月 24日

ジュンク堂名古屋店でサンライズフェア

5月24日(月)から6月30日(水)まで、ジュンク堂名古屋店でサンライズフェアを開催中です。淡海文庫、近江旅の本、彦根城博物館叢書、びわ湖の森の生き物……。
もちろんお城の本は安土城、彦根城、小谷城を始め、山城ベスト50シリーズも並んでおります。
秋には『愛知の山城ベスト50を歩く』や浅井三姉妹をテーマにした本も発刊予定です。ご期待ください。

201005231838000.jpg

岸田 眞代 編著, 香坂 玲 編著
A5判 98ページ 並製 ISBN978-4-88325-416-3 在庫あり
奥付の初版発行年月:2010年05月 書店発売日:書店発売日:2010年05月20日
1200円+税

2010年 5月 18日

読売新聞で『近江東海道を歩く』紹介

 
本日5月18日付の読売新聞地方版で近江東海道を歩く.jpg
近江東海道を歩く』が紹介されました。

 
著者の八杉淳先生は、草津宿街道交流館の館長を務めておられ、
今年度からは国指定史跡草津宿本陣の館長も兼任されています。
 
専門研究者による、見て楽しい(風景写真と浮世絵)、
読んでためになる(コラム)、歩くときに便利(コース図)と、

三拍子そろったガイドブックに仕上がりました。
 
前著『近江の宿場町』ともども、ぜひご覧ください。(Y)
  
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『近江東海道を歩く』八杉淳著
『近江の宿場町』八杉淳著
『近江路を歩いた人々 旅日記にみる』 江竜喜之著

『伊勢路に道しるべを訪ねて』武藤善一郎著
『近江中山道』淡海文化を育てる会編
『中山道名物今昔』中山道近江路連合会企画
『北国街道と脇往還 街道が生んだ風景と文化』長浜城歴史博物館編
「北国脇往還をゆく」(「み~な びわ湖から」104号)
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2010年 5月 17日

NHKで『邪馬台国近江説』紹介

NHK(大津放送局)で『邪馬台国近江説』が以下のとおり紹介されますので、取り急ぎお知らせします。
 
 5月20日(木)午後6:10~7:00
 番組名「おうみ発610」
 
番組内の「610特集」というコーナーで、
著者・後藤聡一氏のインタビューなどが放送される予定です。
前回のBBCと同じく県内限定番組ですので滋賀県民必見!(Y)
 
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610特集 古代ロマン 邪馬台国が近江に?
NHKに出ます(邪馬台国とイケナミ三昧な日々)
『邪馬台国近江説 纒向遺跡「箸墓=卑弥呼の墓」説への疑問』後藤聡一著
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