近江旅支度
2010年 5月 30日

佐和山城の歴史と変遷

佐和山城の築城

 石田三成の居城として知られる佐和山城ですが、その築城は鎌倉時代にさかのぼります。古くはサホ(佐保・棹)山と呼ばれ、鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男、六朗時綱が佐和山付近の山麓に館を構えたのが始まりとされます。15世紀中頃には六角氏の支配のもと小川左近太夫を城主として犬上郡、坂田郡の境目の城となりました。やがて佐々木氏は京極と六角に分かれ、京極の臣下の中から勢力を伸ばしてきた浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまります。そして、勢力の境に位置する佐和山が攻撃の目標となり、次第に要害の地として城塞が築かれ、強固なものになってきたと考えられます。関ヶ原の合戦後に井伊直政が入城し、慶長8年(1603)彦根城築城と同時に廃城となりましたが、おおよそ400年の間、近江の北と南の境目に位置する重要な城塞でした。
 この城の重要性に着目したのが織田信長です。京極、六角、浅井の勢力争いに加わり、そして終止符を打った信長は、安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたことが『信長公記』などの記録に残ります。当時、佐和山山麓には入江内湖・松原内湖が広がり、東山道が走る立地は、天正7年(1579)に安土城が完成されるまでの間、信長の居城的性格を持つ重要な城郭とされていました。

元亀元年の佐和山合戦

 信長が美濃の斉藤氏を討ち、稲葉城を岐阜城に改め、足利義昭を擁して上洛の準備を始め、妹のお市を浅井長政の妻とした頃、浅井長政の臣下の磯野員昌が永禄11年(1568)に入城し、観音寺城を攻略しました。その後長政が反旗を翻し、姉川の合戦が起こります。9時間におよぶ激しい戦いの末、破れた長政は、小谷城と佐和山城に分かれ再起を図ります。一方信長は小谷城に秀吉を配し、佐和山城に対しては、東の百々屋敷に丹羽長秀を、北の山(磯山または物生山)に市橋長利、南の山(平田山または里根山)に水野信元を布陣させて長政を封じる方策を講じました。これが「元亀元年の佐和山合戦」です。佐和山に籠城した磯野員昌は、坂田郡内の土豪今井氏、嶋氏、河口氏らとともに家中の結束を固め約8ヶ月にわたって奮戦したのですが、長政への援軍が聞き入られず、食糧・武器もなくなり、なすすべを失った員昌はついに信長に降伏し佐和山城を明け渡しました。後に佐和山城が「難攻不落」の城といわれる所以です。

佐和山城の歴史

 佐和山合戦後の佐和山城は、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と引き継がれていきます。
 近江を制定した信長は比叡山を焼き討ち、北に横山城、東に佐和山城、南に坂本城を配した近江の街道を見据えながら、湖上の交通も視野においていました。そして佐和山城主、長秀に命じて長さ30間の大船を作らせ琵琶湖の水路も確保しましたが、非業の最期を遂げました。
 その後秀吉が天下を平定すると、佐和山城には秀吉臣下の堀尾吉晴が入り、軍事拠点を守りながら、秀吉に従って各地を転戦しました。
 関白になった秀吉のもとで五奉行に名を連ねていた石田三成が佐和山の城主となったのは、文禄4年(1595)、堀尾吉晴が佐和山から浜松に移って以来、5年が経過し、城内は相当荒廃していたので、三成は直ちに城郭を大改修しています。残存する佐和山城の遺構は多くはありませんが、ほとんどが三成が大改修した当時のものです。城内は三成の合理性を示すような質素な造作でしたが、本丸を中心に、周囲に西の丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの楼閣がそびえる城郭に整備しました。多賀大社に残る絵図には、佐和山城の当時の偉容を見ることができます。三成は城郭の整備とともに、領内の統治にも細やかな配慮を示したと伝わりますが、詳細な記録は多くはありません。

佐和山城の廃城

 関ヶ原の合戦で敗北した石田三成は山間に逃亡し、三成の父正継と兄正澄が留守を守る佐和山城は、小早川秀秋・井伊直政・田中吉政らの攻撃を受けます。執拗な攻撃に石田勢はよく戦ったのですが、一族は自刃し、塩硝蔵に火が放たれると城郭はすべて灰となりました。逃げまどった婦女の多くが東の崖から身を投じたことから、後にこの崖は「女郎ヶ谷」と呼ばれるようになりました。
 落城した城は家康の家臣によって管理されていましたが、慶長6年(1601)に井伊直政が城主として赴任、その後新しく彦根城の築城が始まると佐和山城の石や用材が建設のために運びだされましたので、佐和山城の多くの遺構は姿を消しました。ただ鳥居本側にあった大手門は彦根市内の夢京橋キャッスルロード中央に位置する宗安寺の表門に移築されたと伝わります。

 

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