近江旅支度
2010年 6月 30日

戦国時代と百々氏

 「彦根道」との分岐点を示す道標の立つ百々の集落は、室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠としたところです。
 百々氏の祖である百々盛通は伊予の国(現在の愛媛県)出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441~44)に当地に居住したことに始まるといわれます。盛通の母は、近江守護大名の京極氏一族の京極高経の娘でした。高経が京極氏から戦功として小野庄と百々村を賜り、これが縁で、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では、摺針峠に置かれた関所を守りました。
 戦国時代、古西法寺村や百々村は佐和山の城下町として発展し、浅井氏に属した百々隠岐守は佐和山城にいたことが知られています。元亀元年(1570)6月姉川の合戦で勝利した織田信長は、佐和山城が落城した翌年2月までの間、丹殿前にあったと思われる百々屋敷に丹羽長秀を配しています。その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監督を務め、さらに羽柴秀吉の臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降、時の名将に仕えてきました。江戸時代末期には7軒の百々姓の人が鳥居本に居住していましたが、その一人百々彦右衛門元信は、長野義言(主膳)の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っています。祖盛通から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれてきました。天台宗の百々山本照寺が盛通の菩提寺と伝わりますが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶しました。その後梅本坊という人が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきました。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、地元の人に守られています。

 

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