Archive for 2010

2010年 7月 30日

小町伝承が残る中世の宿場「小野宿」

 鎌倉時代に阿仏尼(藤原定家の子)が書いた『十六夜日記』や『太平記』『実暁記』では宿場としての小野の地名を見ることができます。中山道の原型は古代最大の幹線道路「東山道」であったと推測されており、小野は早い時代から宿場の機能を果たしていました。原から小野の集落に入る街道の傍にたたずむ小さな祠の中には小町地蔵とよばれる1体の地蔵さまが安置されています、この祠は小町塚と称され小野小町伝承を伝えています。京都から北陸・関東へ往復していた当時の公人たちが小野宿にたびたび宿泊していたことから生まれた伝承であろうと考えられます。小野小町に関する伝承地は全国に25ヶ所以上存在し、絶世の美女であったといわれるだけにその伝承も多いのです。
 小野町に伝わる話では、小野好実が奥州最上・出羽の郡司の任期を終えて京に帰る途中、小野に滞在し、ここの住人から1人の娘をもらい受け、京につれて帰り、養育して養女にしたのが、後の小町であったというものです。出羽守小野好実は、滋賀郡志賀町に祀られる小野 篁 の二男ですが、好実の娘が小町であるという真偽のほどは不確かであると考えられています。
 小野小町地蔵付近には、明治の中頃まで茶屋があったと伝わりますが、現在は、名神高速道路と新幹線そして旧中山道がもっとも接近する所です。文明の喧噪の中にひっそりたたずむ美女伝承は、旧道ならではの趣といえましょう。
 小野宿がいつ頃から宿場の機能を果たしていたのかは不明ですが、大堀あるいは原周辺の鳥籠駅と山東町の横川駅の間に位置した中世以来の駅(宿場)であったことは確かです。このような小野宿も、関ヶ原の戦い後には、攻撃を受けた佐和山城の影響で、集落ごと焼き払われてしまいました。小野で本陣を務めていた寺村家はその後旧鳥に移り、引き続き本陣を務めました。

2010年 7月 30日

中山道の宿場町

有川家
江戸時代は鳥居本がもっとも栄えた時代で、中山道の宿場として街道沿いには商家や旅籠が連なった。宝暦年間に建ったといわれる有川家は当時の繁栄を物語る

 豊かな田園が広がる鳥居本の平野部もかつては、琵琶湖の内湖で、山田神社付近まで内湖が迫っていたようです。鳥居本村であった頃の地形は、今と大きく異なり、鳥居本は山々と内湖に挟まれた狭い土地でした。こうした地形的な要因によって、東西文化が行き交う重要な交通の要衝として発展してきました。そして、また壬申の乱をはじめ、幾たびも戦火にまみえることにもなりました。中世になって佐和山城が築かれると、よりその傾向は顕著となりましたが、佐和山城が落城し、彦根の城下町が整備されると彦根藩の支配下で明治維新まで大いに繁栄しました。宿場町鳥居本には、街道を行き交う人々相手の旅籠や商家が生まれ、赤玉神教丸や合羽など鳥居本の名産も誕生しています。

2010年 7月 29日

自費出版あれこれ


(続きを読む…)

2010年 7月 24日

すもも酒

姉が先週、町内会で醒ヶ井に行き買ってきたスモモの親戚、1週間冷蔵庫に入っていた。
ひとつ食べたけど、ちょっと酸っぱい。
そこで、スモモ酒にすることにした。
スモモもどき5個にザラメを適当に入れて、ホワイトリカーの残っていたのを全部入れた。
メチャクチャ適当です。

でも、あまりものを有効に活用してあげれば、また食することができるのです。

筈見 時男
B5 158ページ 並製 ISBN978-4-88325-420-0 在庫僅少
奥付の初版発行年月:2010年07月 書店発売日:書店発売日:2010年07月17日
2400円+税

Susumu Okumura 編集, Tadao Kawai 編集, Peng Chen 編集, Raj B. K. N. Rao 編集
228×150 948ページ 上製 ISBN978-4-88325-419-4 品切
奥付の初版発行年月:2010年06月 書店発売日:書店発売日:2010年07月12日
15000円+税

2010年 7月 8日

東京国際ブックフェア2010に出展します。

7月8日から11日まで開催される東京国際ブックフェアに今回も出展します。
といっても「版元ドットコム」ブースの一角なので、そんなに多くの本は置けないのですが、新刊本を始め、お城シリーズ、びわ湖の生き物シリーズなどを置いています。
お時間がございましたら、ご来場ください。

2010年 6月 30日

街道のなりわい

現在の矢倉付近
現在の矢倉付近

 鳥居本宿のまちなみの裏には田畑が広がり、住民は農業のほかに人馬継立や旅人の宿泊、飲食物の販売に従事し、旅籠屋は旅人の休泊をうけ、または食物を商う茶店があり、そのほかに商人・職人が少々いたようです。総数35軒の旅籠の中には、江戸湯島天神表通り大城屋良助が組織した全国組織の東講商人定宿に3軒の旅籠が加盟しています。
 当時の代表的な産業は「鳥居本の三赤」と称され、合羽・赤玉神教丸そして鳥居本すいかでした。太田南畝が享和2年(1802)に著した『壬戌紀行』では、「この駅にまた雨つつみの合羽をひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書しあり。江戸にて合羽屋といへるものの看板の形なり」と記され、当時、現存するような合羽の看板を掲げていたようです。また赤玉神教丸本舗は『近江名所絵図』に店頭での販売の様子が描かれています。鳥居本の三赤も今では、赤玉神教丸だけがその歴史を伝えています。

大正時代の鳥居本の商いのようす

〈矢 倉〉雨傘製造、生糸製造、塩屋、豆腐屋、薬屋、塩乾物販売店、荒物屋、大工
〈旧 鳥〉提灯屋、米屋、柿渋屋、牛宿、たばこ製造、菓子屋2軒、豆腐屋、材木屋、駐在所、旅籠2軒、合羽屋5軒、人力車屋5軒、指物師、鍋釜屋、おもちゃ屋、あんま、傘製造、麹屋、わらじ屋、茶販売、八百屋、日用品店、郵便局、小学校
〈下 町〉麹屋、酒屋、箱屋、表具屋、合羽屋5軒、玉突き屋、写真屋、

〈中 町〉役場、合羽5軒、呉服屋、あんま、理髪店、髪結い、人力車屋、大工、指物師、産婆、桶屋、米屋
〈上 町〉合羽4軒、料理屋、麻製造、医院、髪結い、豆腐屋、米屋、下駄屋、表具師、あんま、玉突き
〈百 々〉菓子屋、仕出し、理髪店、髪結い、日用品店、人力車、臼製造、竹箒、油屋、米屋、写真屋、玉突き、網製造
〈南甲田〉三味線糸張り、太鼓張り
〈下矢倉〉休み宿、餅屋

上記は、残された記録を転載したもので、確証はないが鳥居本にも多くの商いがあったことを示しているといえよう。(明治生まれの人の「覚え書帳」より転載)

2010年 6月 30日

北国街道との分岐点

 天保年間の宿村大概帳によると鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4キロメートル)と記されています。戦後に米原内湖は干拓されましたが、旧北国街道は湖岸にそった道で、中山道は摺針峠を越えて番場宿にむかいました。米原町内には、北国街道と中山道の分岐点を示す道標がありますが、北国街道の起点は下矢倉村であり、当地杉本さん宅には北国街道の起点を示す道標があったことを裏付ける貴重な写真が残っています。現在新幹線が走る田園地帯は、かつては内湖でした。鳥居本は鈴鹿の山と内湖に挟まれた狭隘な地形であったのです。

2010年 6月 30日

戦国時代と百々氏

 「彦根道」との分岐点を示す道標の立つ百々の集落は、室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠としたところです。
 百々氏の祖である百々盛通は伊予の国(現在の愛媛県)出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441~44)に当地に居住したことに始まるといわれます。盛通の母は、近江守護大名の京極氏一族の京極高経の娘でした。高経が京極氏から戦功として小野庄と百々村を賜り、これが縁で、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では、摺針峠に置かれた関所を守りました。
 戦国時代、古西法寺村や百々村は佐和山の城下町として発展し、浅井氏に属した百々隠岐守は佐和山城にいたことが知られています。元亀元年(1570)6月姉川の合戦で勝利した織田信長は、佐和山城が落城した翌年2月までの間、丹殿前にあったと思われる百々屋敷に丹羽長秀を配しています。その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監督を務め、さらに羽柴秀吉の臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降、時の名将に仕えてきました。江戸時代末期には7軒の百々姓の人が鳥居本に居住していましたが、その一人百々彦右衛門元信は、長野義言(主膳)の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っています。祖盛通から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれてきました。天台宗の百々山本照寺が盛通の菩提寺と伝わりますが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶しました。その後梅本坊という人が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきました。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、地元の人に守られています。

目次

ページの上部へ