Archive for 2010

2010年 8月 30日

奈良時代の製鉄遺跡と鳥居本

 かつて、鳥居本の地名で呼ばれていた地域は、現在の旧鳥のことで、江戸時代に中山道の宿場町が誕生すると、佐和山山麓の村々が街道沿いに移転し、現在のように街道を中心とした鳥居本宿場町が形成されてきました。国宝彦根城を有する旧彦根町は井伊家が彦根藩主となった近世に誕生したまちですが、彦根市の中でも旧犬上・愛知郡に属していた集落や、坂田郡に属していた鳥居本村などは、旧市内地より早くから人々が住まいしていたとされます。
 彦根市の歴史を語る史料でもっとも古いものが、鳥居本から琵琶湖に注ぐ矢倉川下流域から出土した縄文土器で、彦根周辺には縄文時代からの歴史が残ります。霊仙山麓の扇状地である鳥居本には、古来より人々の生活があったと考えられる遺跡の存在が確認されていますが、残念なことに十分な調査が行われていません。唯一、1996年に最終処分場建設に際して行われた調査から、中山町キドラ遺跡が奈良時代の製鉄遺跡であったことが判明し、近くには鍛冶に関係すると考えられる遺構が検出されました。
 飛鳥時代、奈良時代頃には男鬼・武奈・仏生寺・荘厳寺など霊仙山麓の集落に寺院があり、東山道の街道に面していた原や小野には古い時代からの多くの伝承が伝わるなど、鳥居本の地は600年頃からの歴史や文化が残る地域です。当時、鳥居本の大部分は「小野庄」に、武奈・明幸は「箕浦庄」に属していました。
 
中山道の宿場町

有川家
江戸時代は鳥居本がもっとも栄えた時代で、中山道の宿場として街道沿いには商家や旅籠が連なった。宝暦年間に建ったといわれる有川家は当時の繁栄を物語る

 豊かな田園が広がる鳥居本の平野部もかつては、琵琶湖の内湖で、山田神社付近まで内湖が迫っていたようです。鳥居本村であった頃の地形は、今と大きく異なり、鳥居本は山々と内湖に挟まれた狭い土地でした。こうした地形的な要因によって、東西文化が行き交う重要な交通の要衝として発展してきました。そして、また壬申の乱をはじめ、幾たびも戦火にまみえることにもなりました。中世になって佐和山城が築かれると、よりその傾向は顕著となりましたが、佐和山城が落城し、彦根の城下町が整備されると彦根藩の支配下で明治維新まで大いに繁栄しました。宿場町鳥居本には、街道を行き交う人々相手の旅籠や商家が生まれ、赤玉神教丸や合羽など鳥居本の名産も誕生しています。

 
鳥居本村の成立
 明治維新後の廃藩置県によって鳥居本を支配していた彦根藩は消滅し、新たに彦根縣が設置され彦根知事に井伊直憲が任命されます。そして明治7年(1874)に百々、西法寺、上矢倉の3ヶ村が旧鳥居本と合併して鳥居本村が誕生し、明治22年(1889)には下矢倉、甲田、古西法寺、宮田、中山、荘厳寺、仏生寺、武奈、男鬼、小野、原の各村が合併して坂田郡鳥居本村になり、昭和27年に彦根市に合併するまで60年間続きました。
 明治以降、新しい交通機関の発達は鳥居本に大きな影響を及ぼし、交通の重要地点が米原に移ると、鳥居本のかつての繁栄は見る影もなく寂れましたが、地域内の結束は堅く、活発な青年団活動や協同経営による産業振興策が展開されました。
 
 
郡域を超えて彦根市の合併 
 昭和6年、近江鉄道鳥居本駅の誕生は村民の大きな喜びでした。そして新しい交通手段の登場は、当時の鳥居本の産業振興に大きな成果がありました。しかし、鉄道から道路輸送中心の時代が到来すると、鳥居本村は大きな岐路を迎えることとなります。国道建設をも視野において彦根市との合併問題が発生し、単独中学校の建設の問題を抱えて、合併の是非を問う住民投票の結果、昭和27年(1952)に彦根市に合併しました。彦根市の面積の25%を占める鳥居本は、豊かな自然に恵まれた地域ですが、合併後50年を迎えた今、新たな将来展望の計画の必要性に迫られています。
  
 
鳥居本小学校
 明治19年11月1日小学校令が実施され、今まで各集落ごとにあった学校が廃止され鳥居本尋常科小学校、鳥居本簡易小学校として開校しました。明治24 年4月1日小学校令が改正され、原、荘厳寺、武奈、男鬼の学校が廃止され、鳥居本全村を通学区域とする鳥居本尋常小学校となりました。明治31年4月には高等科を設置し鳥居本尋常高等小学校と改称。昭和16年4月1日国民学校令により鳥居本国民学校と改称。昭和22年の新教育制度6・3・3制の学制実施により昭和23年4月1日から鳥居本小学校と改称され現在に至っています。
 

2010年 8月 26日

サーバ不具合のお詫び

 当サイトの表示は一部復旧しておりますが、サーバトラブルにともなう不具合は続いており、ご迷惑をお掛けしております。誠に申し訳ございません。
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 復旧に努めておりますので、もうしばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。

2010年 8月 25日

座談会:『菩提寺歴史散歩』編集中

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2010年 8月 23日

サーバ不具合のお詫び

小社のホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
ただいまサーバのトラブルのため、当サイトの表示に不具合が発生しております。
皆様にはご迷惑をお掛けいたしますことをお詫び申し上げます。

社会福祉法人百丈山合掌会 発行
20*20 23ページ ホッチキス
奥付の初版発行年月:2010年08月

びわ湖検定実行委員会  編集
A5判 84ページ 並製 ISBN978-4-88325-422-4 在庫僅少
奥付の初版発行年月:2010年08月 書店発売日:書店発売日:2010年08月10日
600円+税

渡辺 佐
A5判 219ページ 上製 ISBN978-4-88325-423-1 在庫僅少
奥付の初版発行年月:2010年07月 書店発売日:書店発売日:2010年08月09日
2000円+税

2010年 7月 30日

『昭和17年、戦時学生の日誌』新聞各紙で紹介

昭和17年戦時学生の日誌
廠営訓練、麦刈手伝い、実包射撃、連合演習…。
戦時中の学生はいかに過ごしたのか。
当時のありのままの日常を克明に記録した
『昭和17年、戦時学生の日誌』が各紙で紹介されました。
 
1942年、16歳の著者が滋賀県立八幡商業学校5年生として
6月から11月まで記した約半年間の肉筆日誌を、
プロ顔負けのイラストとともにオールカラーで再現しています。
 
著者の筈見時男さんは、彦根市田原町出身で、現在は大津市螢谷在住。
打ち合わせなどで何度かご自宅におじゃましたのですが、
なんとこのご自宅、大工さんではなく、筈見さんご自身が自力で建てたものだそうです。
 
絵や書、そして現在は創作「面陶」がライフワークの筈見さん、
失礼ながら84歳とは思えないほどエネルギッシュ!
私もずいぶんエネルギーをいただいたような気がしますので、
「昭和」を振り返りながらこの夏を乗り切りたいと思います。
みなさんはどんな夏を過ごされるのでしょうか。(Y)

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■7/27京都新聞「戦時の学生生活リアルに 麦刈り、軍事訓練での緊張 大津の男性 日誌再現、出版」
■7/29滋賀報知新聞「戦時学生の漫画入り日誌出版 昭和17の肉筆日誌よみがえる」
■7/30読売新聞「戦時学生の日常 出版 射撃訓練、麦刈り…日誌克明に」
■筈見時男著昭和17戦時学生の日誌
■水谷孝信著『湖国に模擬原爆が落ちた日 滋賀の空襲を追って』
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2010年 7月 30日

本陣と脇本陣

 慶長8年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村(現在の蒲生町)に所領があったことから寺村の姓を名乗るようになり、六角氏の配下の武士でしたが、六角氏の滅亡後に、寺村行隆・規行親子が小野に住まいし、ここで本陣を務めるようになったと当家の系図が伝えています。病身であることから武士を捨てて本陣を務めるようになった規行には2人の兄弟があり、ともに長浜城主であった山内一豊に仕えています。規行から数えて10代目の義貴の時に、本陣は廃止となりました。
 本陣は、大名や公家・幕府の役人などが宿泊や休息をとった施設で、利用頻度が多かった守山や草津には2軒の本陣がありましたが鳥居本には1軒の本陣が定められていました。鳥居本本陣は合計201帖もある広い屋敷でしたが、昭和12年にはヴォーリズの設計によって和風洋館に建て替えられました。この建物は、和風様式を取り入れたヴォーリズ独特の建築様式を持つ近代化遺産として高く評価されています。本陣の面影は、母屋横の倉庫の門として現存する本陣の門扉に残されています。
 寺村家から一軒おいた隣には脇本陣と問屋を務めた高橋家があります。屋敷は昭和45年に建て替えられていますが、道路沿いの塀にはかつての脇本陣の趣が残ります。脇本陣は高橋家の他に本陣の前にもう1軒ありましたが、早くになくなっています。
 高橋家の表は問屋場としての機能を持ち、街道輸送に必要な馬や人足を常備して、宿場間の物流をスムーズに行うシステムの中に決められた機能を果たしていました。中山道では各宿場に50人の人足と50匹の馬を常備するように決められ、脇本陣の間取り図からは、人足たちがいろりを囲んで暖をとったであろうと想像できる10坪の広い広間が入り口近くにありました。問屋の仕事はかなりの重職で、これを補佐する年寄や庄屋・横目などと呼ばれる人が補佐していました。
 寺村家の文政12年(1829)から天保12年(1841)までの大福帳によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3594人が宿泊しています。1年間の利用回数にばらつきがありますが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3人であったことがわかります。また1回の利用者数の最多は80人で、最小は2人で、実際は50~60人がその収容限度でした。参勤交代の大名の供揃のように200~300人に達すると、全部を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になったようです。
 宿場町時代からの屋号はいまも生活の中にいきていますが、本陣や問屋を務めた寺村家、高橋家は「ホンジ」「トイヤ」と呼ばれ、宿場町ならの呼び名が今に伝わります。

2010年 7月 30日

中山道から彦根城下への道

 百々に立つ道標で分岐した彦根道(朝鮮人街道)は佐和山の切り通しと呼ばれる道を越えて彦根の城下にはいりました。現在では佐和山トンネルが貫通し、旧道は国道に遮断されていますが、山を越え古沢町に続いていました。大正時代に鳥居本から彦根の女学校に通学していた人の話では、常に履き物(当時のことでわら草履であったと思われる)を余分に携行していたと聞きます。また帰宅が遅くなったり、雪が降った時には、当家の下男が送り迎えをしたとのことです。トンネルが開通していちばん喜んだのは、鳥居本を顧客としていた彦根側の麓の商人であったという話も伝わります。
 それはともかく、この切り通しは戦国時代に佐和山城太鼓丸の防御施設であった切り通しを利用したとの説があり、その後井伊直孝の時代に整備され、元和年間(1615~24)に彦根城下町の整備と並行して鳥居本の施設が整う過程で道路が整備されたようです。
 中山道と城下を結ぶ脇街道は、鳥居本宿から切通峠を越え、外船道を通り、現在のキャッスルホテル近くの切通口御門に入り、一方高宮からは大堀町の分岐を示す道標から東沼波をとおり七曲がりを通過し高宮口御門(現在のあさひ銀行)に入ります。現在の中央町には、城下町の宿駅機能をもった伝馬町があり、脇街道は、国内の幹線道路と城下町を結ぶバイパスの機能を果たしていました。

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