近江旅支度
2010年 3月 30日

街道を行き交った人々

<皇女の下向道>

 江戸時代、東西を結ぶ幹線として重要な東海道や中山道は、参勤交代の行列など多くの人々が行き交いましたが、東海道と違って大きな川を越えることがない中山道は川留めに遭うことがなく計画的な旅ができるメリットがあり、とくに江戸への姫君の婚礼の下向は中山道が利用されました。とりわけ中山道史上例を見ない大行列は、孝明天皇の妹和宮親子内親王の徳川家茂への輿入れで、総勢3万人に及ぶ大規模なものでした。各宿場では、幕府の役人によって事前に綿密な見分が行われ、人足の準備や建物の修復や新築、道路の改修などその対応には莫大な費用を要しています。

<朝鮮通信使>

 百々の道標から彦根城下に入る道は彦根道と呼ばれますが、一方、朝鮮人街道とも呼ばれます。朝鮮通信使一行は、大坂から淀川をさかのぼって、淀に上陸し、京都から大津で昼食、草津から中山道に入り、守山で宿泊し、野洲町小篠原から朝鮮人街道を利用しました。守山で宿泊後は近江八幡で休息し、彦根宗安寺で宿泊後、鳥居本からふたたび中山道、美濃路を経て江戸にむかいました。前日宗安寺を出発した一行は翌日に摺針峠の望湖堂で休憩しています。

<商いの道>

 江戸時代中期から全国を商圏に、近江商人の活躍がはじまります。日野や近江八幡、五個荘などから発祥した近江商人は、御代参街道や中山道を通り、江戸や関東・東北をめざして行商の旅にでかけました。街道沿いで生産された野洲晒や高宮上布は近江商人の重要な商品となり、そして、各地からまた中山道などの街道を通じて近江や上方に持ち帰る「諸国産物回し」は近江商人独特の商法でした。近江商人が全国で活躍した背景には、近江を通過していた東海道や中山道の存在が大きく影響していました。

<文人たちと鳥居本宿>

 鳥居本宿には歴史上著名な人物が逗留したことは、現存する絵や書で知ることができます。有名な芭蕉については別途記載しますが、江戸中期の画家で、円山派の祖である円山応挙(1733~17951)の鶴の画が有川家に残り、国学者本居宣長の書簡は岩根家に残ります。多くの人が鳥居本に逗留したようです。

芭蕉昼寝塚
原八幡神社境内の芭蕉昼寝塚(左)と祇川の句を記した白髪塚

芭蕉と森川許六の終の住処「五老井の跡」

 「行く春を近江に人と惜しみける」と詠んだ俳聖松尾芭蕉は、近江に縁が深く滋賀県内の各地に芭蕉に関わる話が残ります。原八幡神社の境内には、「ひるかほに 昼ねせうもの床のやま はせを」という芭蕉の句碑が立ち、昼寝塚と呼ばれています。この芭蕉の句は森川許六著の『韻塞』に収録されたものです。芭蕉が東武吟行の際に美濃路あたりから、彦根城下、明照寺の住職李由のあてた手紙の中に詠まれたもので「美濃路を歩いていると昼顔があちこちに咲いています。李由さんの近くには床の山がありますが、私も昼寝したいものです」という意味があります。
 李由や許六は芭蕉の弟子の中でもとりわけ優れた俳人で、ことに許六は芭蕉十哲の一人で、俳句のほかに画をよくしたことで知られ、芭蕉に絵を教えたといわれます。原東山霊園事務所の横には、許六が晩年を過ごした住居跡を示す「五老井跡」の井戸が残り、傍に「水筋を尋ねてみれば柳かな」という許六の句碑が建っています。この句碑は許六と同じ彦根藩士であった谷鉄臣の筆により明治30年頃に建てられたということです。

 

目次

ページの上部へ