近江旅支度
2010年 4月 30日

中山道の始まりと街道の整備

 中山道の原型とされる古代近江の東山道は、7世紀の中頃に駅制の整備にともない建設されたと考えられ、『延喜式』では、東から横川、鳥籠、清水、篠原、勢多に駅が置かれたことが確認されています。鎌倉幕府を開いた源頼朝は文治元年(1185)に駅制を制定し、京都鎌倉間を東海道としたことで、近江の東山道の利用も活発になりました。そして関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は京都と江戸を結ぶ重要なルートとして東海道・中山道の整備に着手しました。当時中山道は「中仙道」としるされましたが、享保元年(1716)に新井白石の進言で「中山道」を正式表記としましたが、その後も「中仙道」は使用されています。
 慶長7年(1602)7月に幕府の命により奈良屋市右衛門と樽屋三四郎が、中山道の宿々に駄賃銭を定め、小野村を伝馬継所として通告しましたが、翌慶長8年に宿場は小野村から旧鳥に変更され、上矢倉村、西法寺村、百々村の3ヶ村が加わり鳥居本宿が構成され、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が定められ、問屋の前には高札場が設置されました。
 天保年間(1830~44)の宿場の概要を示す宿村大概帳によると、鳥居本宿の経済状況は、鳥居本村の115石余のほか、西法寺村1112石余、百々村 207石余、上矢倉村237石余であり、下矢倉村境より小野村境まで13町余の長さがありました。また、総人口は1448人、家数は293軒でそのうち、旅籠屋が大小合せて35軒。宿場の役人として、年寄5人、庄屋役5人、横目役4人、馬差2人、人足肝煎2人、人足指4人が配置されていました。通常は、問屋1人ならびに馬指・人足肝煎・人足指各1人の役人が出勤し業務に従事していました。
 宿駅制度を定めた幕府は、江戸日本橋を起点に、旅人や通行の距離の目安として、街道の両側に松や榎木などを1里ごと植えた一里塚を築きましたが、上図中央には鳥居本宿にも一里塚があったことを示しています。

 

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