近江旅支度
2010年 5月 30日

摺針峠の由来

百々の道標
百々の道標
「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」「文政十丁亥秋建立」と刻まれる道標。狭い道路角に立つことからたびたび、災難を受けてきたが平成14年には一部修復され、自動車などが当たらない工夫が施された。文政10年(1827)に建立され、朝鮮人街道との分岐点を示している

木曾街道六十九次
木曾街道六十九次(岩根豊秀孔版画)

望湖堂の全景
焼失前の望湖堂の全景。左に弘法杉が見える

 摺針峠は、中山道随一の名勝として知られ、ここからの眺望は「眼前好風景なり。山を巡て湖水あり。島あり。船あり。遠村あり。竹生島は乾の方に見ゆる。画にもかかまほしき景色なり」(『近江輿地志略』)と記されているように多くの絵画の題材になっています。摺針峠の名前の起こりは、「京都で学んでいた学生が学業半ばで帰路に就いている途中、この地を通り、一人の老婆が一生懸命に斧を研いでいる光景にであい、『斧を研いで針にする』という言葉を聞いて、自分の志が足りないことを恥じて再び京都に戻り学業に励んだ。この学生が後の弘法大師である」という話に由来すると伝わります。大津市出身の日本画家小倉遊亀氏はこのテーマを題材に大作を仕上げたことで有名ですが、峠には、このときに弘法大師が植えたという「弘法杉」が大きく枝を伸ばしていました。

 峠にはかつて多くの茶店がならび、「するはり餅」という名物に人気が集まったといわれます。望湖堂は、茶店とはいえ本陣を思わすような構えの建物で、明治天皇や皇女和の宮さまがご休憩され、大いに繁栄しましたが、鳥居本宿や番場宿からは寛政7年(1795)に本陣紛いの営業を慎むようにとの抗議がでています。朝鮮通信使の一行が、江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていましたが、惜しくも平成3年の火災で建物とともに消失しました。現在の建物はその後建設されたものです。

 

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