二条城を極める

二条城を極める

加藤 理文
173㎜×115㎜ 64ページ 並製
ISBN978-4-88325-479-8 C0021
奥付の初版発行年月:2012年07月
書店発売日:2012年07月28日
在庫あり
800円+税

内容紹介

国宝二の丸御殿のきらびやかな障壁画に目を奪われて、周辺建物や石垣などに目を向ける人々は少ないが、実は二条城は徳川家康が西国の拠点として築いた軍事施設である。関ヶ原合戦の翌年、天下普請として計画し、家光の時代に大改築された城である。本丸の四周の雁木や国内で唯一現存する土蔵(米蔵)、元和と寛永期の石垣の違いなど、城のみどころを写真とともに解説。

目次

■はじめに
■二条城を歩く
 東大手門
 二の丸御殿
 二の丸庭園
 二の丸土蔵・北大手門
 橋廊下・二階廊下・溜蔵
 桃山門・鳴子門・内堀
 中仕切門
 天守台
 内堀沿いの土蔵
 二の丸西南隅櫓・土塀
 本丸表門枡形
 本丸御殿
 本丸内部
 本丸西門
 外堀を巡る
■二の丸御殿内部と台所
■二条城略年表

前書きなど

まえがき

 二条城は、城というより邸宅と思っている人が多いのではないでしょうか。観光旅行や修学旅行で訪れた人たちの大部分は、将軍の政治の場、居住施設となった二の丸御殿に入り庭園を見て、本丸には立ち寄らず一周したと思って帰っていきます。国宝の二の丸御殿にばかり目が行きますが、実は二条城は徳川幕府の京洛を抑える拠点城郭だったのです。大坂の陣では、家康が入城し「幕府の本営」となりました。二条城が幕府の軍事拠点であったことを物語る出来事です。
本書は、二条城がいかに軍事的施設であったかを中心にまとめました。本書を片手に、幕府の拠点城郭として築かれた二条城を堪能してください。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦に勝利し、ほぼ天下を掌握することに成功した家康は、翌年都に新たな城の造営を開始した。それが二条城である。家康の二条城は、現在の二の丸御殿を中心とする東側部分だけの単郭の一重の堀で囲まれた方形プランの城であった。同8年、家康は伏見城で将軍宣下を受け、二条城から将軍拝賀の礼に赴いた。その後、朝廷の勅使や公家門跡、諸将を迎えた宴を開催、ここに二条城は、将軍家の都での儀式の舞台となり、名実共に幕府の「政」の城となった。次いで、二代秀忠も将軍宣下の賀儀を二条城で実施。同16年には、秀吉の遺児・秀頼と家康が対面。その後の大坂冬、夏の陣では、徳川方の本営が置かれ、城が幕府の軍事拠点であったことを天下に知らしめる。
元和6年(1620)には、秀忠の娘和子が後(ご)水尾(みずのお)天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)するための宿所となった。和子入内を果たした幕府は、公武和合の政策を進めるためにも、後水尾天皇の二条城行幸を計画、寛永3年(1626)実現を見る。行幸に併せ、城は大きく西側に広げられ、そこに内郭として、内堀で囲まれた方形の本丸が付設された。この大規模な拡張工事により、現在見られる典型的な回字形の平城が完成。行幸施設は、現在の二の丸庭園の南に造営されたが、その後全て撤去され移築された。
 寛永11年(1634)の家光上洛を最後に、将軍の上洛は途絶えてしまう。幕末を向かえ政治状況が混沌とするなか、14代将軍家(いえ)茂(もち)の上洛が決定。これにあわせ、荒れ果てていた城は、再び整備される。慶応3年(1868)、慶喜は二条城大広間で大政奉還を宣言。続いて王政復古の大号令が発せられ、辞官納地が慶喜(よしのぶ)へ伝達。翌年、新政府は二条城を接収、行幸した明治天皇は、倒幕の詔を発した。二条城は、徳川幕府の成立と滅亡という二つの舞台になったのである。

   

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