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 明治25年(1892)3月、来日した一人のイギリス人画家が彦根へ訪れ、井伊家ゆかりの寺に寄宿して水彩画を描きます。季節の花々を中心にすえた彼の風景画には、変貌するイギリス社会の姿が影を落としていました。
 彦根城の築城400年祭を目前に、昨年からひこね街の駅「寺子屋力石(ちからいし)」を会場に催されてきた談話室「それぞれの彦根物語」での講演をご紹介します。

[表紙写真]

アルフレッド・パーソンズ著『NOTES IN JAPAN』より
[左上]「天寧寺のわたしの部屋」(60ページ)
[左下]「天寧寺裏の丘から望む彦根と琵琶湖」(64ページ)、左手が彦根城天守、埋立て前の松原内湖が中央に広がる
[右上]「彦根の城」(51ページ)

[右中]「田の準備」(59ページ)
[右下]「田植え」(77ページ)

講演:滋賀大学教育学部教授 谷田博幸さん

【プロフィール】1954年、富山県生まれ。専門は英国近代美術史。著書に『ロセッティ―ラファエル前派を超えて』(平凡社)など。
パーソンズについては、『ヴィクトリア朝英国と東アジア』(川本皓嗣・松村昌家編、思文閣出版)収録の論文に詳しい。

画家パーソンズが日本に見ようとしたもの

 私は、パーソンズの専門家というわけではないのですけれども、たまたま縁があって彼について書きました。今日は主に次の3点に絞って、お話ししようと思っています。

 まず一つ目は、彦根を訪れたパーソンズとは、いったいどういう画家だったのか。

 それから二つ目は、パーソンズは、なぜ日本へ来て、日本にいったい何を見ようとしていたのか。

 そして、三つ目は、パーソンズにとって、この彦根というまちや彦根の人々との交流はどんな意味を持っていたのか。

埋もれた画家

  では、そもそもパーソンズはいかなる画家だったのかということになりますけれども、これは端的に申しあげると、「よくわからない」というのが正直なところです。こう言うと、「パーソンズは、そんな訳のわからん無名の画家だったのか」と誤解される向きもあるかもしれませんが、そうではなくて、晩年、英国画壇の頂点にまで上りつめた水彩画の大家でありながら、彼の伝記的な詳細については、ほとんど伝わっていないということです。

 彼が歴史の片隅に埋もれた画家になってしまったのにはいくつか要因があります。まず一つは水彩画家だったこと。もう一つは、彼が画壇に重い地位を築いた時期が悪かったことです。

 イギリスは水彩画の非常に盛んな国ですが、画壇のヒエラルキーのなかでは、やはり圧倒的に油絵の画家が優位を占め、水彩専門の画家は評価が低い。つまり、西洋の近代絵画の歴史というのは、圧倒的に油絵の歴史だということなのです。

 また、彼が画壇で名声を築いたのは、エドワード7世が王位にあったエドワード朝といわれる時代からジョージ5世の治世の初期、英国美術史にとっては端境期です。新旧交代の非常に過渡的な時期にあたるわけです。

 この時期、19世紀末の美術界を牛耳っていた画壇の重鎮たちが、次々に亡くなっていく一方で、20世紀をリードしていく新たな美術の動き、いわゆるモダンアートを引っ張っていくような勢力が一気に台頭してきます。

 時代的には第1次大戦前、19世紀的なものと20世紀的なものが、慌ただしい交代劇を繰り広げます。こうした時期に、パーソンズはきちんと正当な評価を受けることもなく、旧時代の一人として葬り去られていってしまったわけです。

 もう一つ、彼が忘却のかなたに追いやられてしまった要因には、個人的な事情もありました。彼は終生、独身を貫いたまま72歳で亡くなっています。身近で彼の生活ぶりを見守り続けた家族がいなかったのです。さらに、彼と親しい交流をもち最もよく知る友人のアーティストたちは、いずれも彼よりも若くして亡くなっています。

 つまり、当然、出版されてしかるべき伝記(イギリス人は伝記を書くのが大好きです)を著す適任者を彼は持たないまま亡くなってしまったといえます。

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