日本訪問までの歩み

 このように彼の生涯には不明な部分が多いのですけれども、彼と交流のあった友人画家たちの伝記や同時代の美術雑誌の月報欄などをもとに、日本を訪問するまでの歩みを中心にちょっとたどってみます。

 1847年、サマセット州のベッキントンに生まれています。父親は医者でしたが、内科医ではなく外科医でした。当時、外科医と内科医では、天と地ぐらい違います。内科医は裕福で馬車に乗って往診する。一方、ヨーロッパでは長く外科医は床屋と一緒でした。

 しかも、14人きょうだいの上から二人目で、家はそれほど裕福ではなかったのでしょう。18歳のときにロンドンに出て郵便局員になります。配達ではなく、保険業務のようなデスクワークに携わったようです。

 彼の父親は非常に植物の好きな人だったらしいですね。彼は生涯、花を描き続けるわけですが、おそらくその植物愛好は父親譲りだったのだろうと思います。

 家庭の事情で郵便局員として働いてはいましたが、やはり美術が子どものころから好きで、夜学のサウス・ケンジントン・スクールに学んでいます。当時この学校は、非常に旧弊な石膏デッサン中心の教育がなされており、決して魅力のある学校だったとはいえません。評判は悪く、彼はほとんど美術のおいしいところを学んでいません。絵が上手になったのは独学によるところが大で、子どものころから屋外へ出て写生に励んだ成果があったと言っていいでしょう。

 それから、1868年、21歳のときに、ソサエティー・オブ・ブリティッシュ・アーティスツという展覧会へ初めて作品を出品しました。そして、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)の展覧会には24歳のとき初出品を果たします。その後3年間は名前がなく落選したのかもしれませんが、74年以降、亡くなるまで毎年出品しています。

 これは非常にたいへんなことで、ロイヤル・アカデミーはその権威に少し陰りが見えてきたとはいえ、19世紀いっぱいは絶大な力を持っています。ほとんど唯一絶対の画家の登竜門で、ここで名を上げていくことが、いっぱしの画家になることの足掛かりです。ここに、ずいぶん長いあいだ出品し続けます。運よく準会員に選ばれ、さらに正会員の仲間入りを果たせば、生活は完全に保証されたようなものでした。これでやっと本物の画家。彼がここにたどり着いたのはかなり後のことです。

 それからパーソンズはイギリス人でありながら、アメリカ人との交流が非常にあった人で、1879年、アビーとミレットいう二人のアメリカ人画家と知り合っています。アビーはいまも有名な画家で、ミレットはあまり知られない画家になっていますが、後にイギリスにあるブロードウェイで芸術家のコロニーを築いた際の中心人物です。

 それから1880年にまた戻りますと、グローヴナー・ギャラリーに招待作家として出品されています。このギャラリーは、この時期、ロイヤル・アカデミーに対抗する勢力として生まれてきていた展覧会組織の一つです。主宰のクウツ・リンゼイ卿が個人的に招待作家を自分で決めていました。質の高い仕事をしていながら、正統な英国美術の枠からちょっと外れた画家たちの作品を紹介することで、ロイヤル・アカデミーに対抗しようとしたわけです。

 それから、イギリスには水彩画の協会が二つあります。ニュー・ウォターカラー・ソサエティーと一般に言われているものと、オールド・ウォターカラー・ソサエティー。名のとおり前者が新しく、後者の方が歴史があります。1882年、彼は前者の正会員になっています。

 当時、彼は文芸雑誌の挿絵の仕事も盛んにやっていました。

ブロードウェイの芸術家村と「ジャパニズム」

  そして、先ほど言いましたように1884年にブロードウェイ・コロニー(芸術家村)で精力的に制作に励むことになります。この村で暮らしたのは、友人であったアビー、ミレット、それから、19世紀の後半のアメリカを代表する画家の一人、イギリス画壇でも活躍したサージェントという非常に有名な画家がいます。私が見るところ、19世紀後半では一番達者な画家です。これほど、絵のうまい画家はいません。 そして、有名な小説家のヘンリー・ジェイムズ。それから、当時有名な文芸評論家であったエドモンド・ゴスもいました。

 1885年、のちに彼が、日本から帰ったあと滞日作品の展覧会を開くことになる画廊ファイン・アート・ソサイエティで初の個展を開いています。いまも、ロンドンとグラスゴーに、この画廊はちゃんと残っています。

 また、ちょうどこの年はイギリスで日本ブームが再燃した時期に当たります。いわゆる「ジャポニスム」です。イギリスで起こった動きの独自性を強調するために、私はフランス語ではなく英語で「ジャパニズム」と言っていますけれども。

 1860年代半ば、一部の芸術家のあいだで日本趣味が隆盛を見せ始めるのですが、1880年代半ばにはもっと広く中産階級の一般家庭にまで浸透し始めるのです。一家に1枚、日本の団扇があるのは当たり前という時代です。

 有名なギルバート&サリバンのオペレッタ『ミカド』の公演が始まります。これは大変な好評を博し、いまだに人気のあるレパートリーです。日本ではプッチーニの『蝶々夫人』が有名ですが、英米圏では断然『ミカド』のほうが人気があります。日本ブームに乗じて、遠い異国を舞台に当時のイギリスの世相や支配階級を風刺した作品です。

 それからパーソンズは、1886年、ニュー・イングリッシュ・アート・クラブ、略してネアック(NEAC)という組織の創立メンバーになります。これは、ロンドンにおける印象派の拠点になる組織です。

 彼は、いわゆる印象主義、印象派とは一線を画していたわけですけれども、もともと根っからの外光派でした。外の光、つまり屋外で絵を描く人です。そういう点が、ここへ所属するきっかけになったのでしょう。

  ちなみに、サージェントは、この時期、モネなどと親しく交流していて、盛んに印象派的なタッチを取り入れていきます。結局パーソンズは、そういうものを取り入れることはありませんでした。

 1887年、その年にロイヤル・アカデミー展に出品した「花笑い、鳥歌うとき」が、典型的なパーソンズの絵です。田舎の田園地帯、遠くに羊たちが群れをなしていて、小川のところに一人、牧童らしき少年が腰を下ろしている、のどかな風景。この作品は国家買上げ作品となり、一躍彼は認められたということになります。

 この年、ホイッスラー※1の弟子でモーティマー・メンペスという画家がやはり日本を訪れています。彼は日本へ来て、河鍋曉斎の弟子になったりします。最後の最も偉大な浮世絵師の一人です。

 その翌年1888年には、ファイン・アート・ソサエティーでアビーとともに、再びパーソンズは個展を開いています。またニュー・ギャラリーという、先ほど申しましたグローヴナー・ギャラリーが分裂してできた展覧会組織ですが、そこでは、画壇のそうそうたる画家たちと名を連ねて、パーソンズは顧問に委嘱されており、彼の力が認められてきたといえます。

 それから画廊、ファイン・アート・ソサエティーで大規模な日本美術展が開かれています。このディレクターだったマーカス・ヒューイッシュは非常に日本美術びいきで、彼自身、『日本とその美術』という日本美術の紹介の本を書いているような人です。  これらに刺激されたわけではないですが、大英博物館や、バーリントン・ファイン・アート・クラブでも、この年日本美術展が続けて開催されました。先ほどのメンペスも日本滞在中の作品を展示した個展をダウズウェル画廊でおこなっています。

 1889年には、風景画家のアルフレッド・イーストが日本を訪れ、当時、洋画家たちの牙城であった明治美術会で自作を展示したりもしました。翌年には、ジョン・ヴァーレイ・ジュニアという画家が、やはり日本に来て、慈恵病院で作品を展示しています。

 同年には、ファイン・アート・ソサエティーで葛飾北斎の展覧会がおこなわれています。歌麿や広重の名前も、少しずつ知られるようになっていますが、長いあいだ西洋で名前が知られていたのは北斎だけでした。

 1891年、日本へ来る前年、パーソンズはファイン・アート・ソサエティーで個展を開きます。それから、『ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン』というアメリカの雑誌に挿絵を描いていますが、この雑誌に、やがて彼は日本滞在記を書き、本にまとめられることになります。

※1 ホイッスラー:アメリカ出身だが、イギリスとフランスをまたにかけて活躍した画家。印象派とは一線を画しながら、19世紀後半のヨーロッパで最も先鋭的な作品を残した。

日本を訪問し、彦根に2週間滞在

  1892年(明治25)、パーソンズは日本を訪れました。3月から12月まで、約10カ月間の来日でした。5月19日に奈良から宇治を経由して京都へ出て、汽車で彦根に着き、その日のうちに彦根城の楽々亭(らくらくてい)※2に腰を落ち着けています。

 5月下旬~6月上旬の2週間あまり、彼は天寧寺(てんねいじ)※3に寄寓して書院と呼ばれている部屋に、ガイド役のマツバとともに暮らします。

 ここで彼は日本へ来て初めて、住職の高木宗欽、その妻のおしげさん、そして息子で彦根の警察署に勤める喜三郎とともに、旅館では味わうことのできない、普段着の日本の生活を堪能しました。

 彼は、旅行記『NOTES IN JAPAN』のなかで、天寧寺での日々を、実に生き生きと伝えてくれています。

 例えば住職の宗欽からは、井伊家伝来の茶道具で茶道の手ほどきを受けました。また、お互いに大の愛煙家だったため、夕食の酒を酌み交わしながら一服するのが日課となっていたようです。ときには、パイプと煙管を交換して試したりもしています。

 また、宗欽は、制作のじゃまをしまいと気をつかいながらも、パーソンズが自分の寺の境内でいったいどんな絵を描いているのか、気になってしようがなかったようです。パイプの火が消えかかっているのを口実に、見計らったようにマッチを片手に絵をのぞきにやってきたと、パーソンズは書いています。

 一方、おしげさんは、ことのほか料理上手で、パーソンズは一品、また一品と、見慣れぬ料理が運ばれてくる毎晩の夕食が、非常に楽しみだったようです。とりわけ、ウナギの蒲焼きと焼き魚と豆腐の田楽が彼のお気に入りでした。ただし、たくあんや草餅、そして蕗の煮物にはほとほと閉口させられたと書いています。

 最も親しく打ち解けた仲になったのは、やはり息子の喜三郎でした。ガイド役のマツバを交えて、よく彦根のまちへ買い物に繰り出したり、芝居見物に出かけたようです。喜三郎は、別れに際して、パーソンズのスケッチブックに「ユクリナウ近江ノ湖水ノ深キ心ワ千代モ契ラン」と揮毫しました。

 いったん彼はパスポートの更新のために神戸へもどり、関東・中部地方をぐるりと回ったのち、10月6日に再び滋賀県、米原を訪れます。どういうかたちで連絡が取れたのかわからないのですが、パーソンズの再訪を知った天寧寺の高木喜三郎、それに母親のおしげさん、楽々亭で親しくなった女中のおかずさんが米原に訪ねてきて再会します。そして、「長浜曳山祭(明治から戦前までは10月15日が本日)で、また会おう」と約束して、実際に高木喜三郎、おしげさん、おかずさんと祭りの夜に会食しました。

 こういう例は、ほかに、日本では一度もありません。3度にわたって会っているのは、彦根の人とだけです。

 12月、パーソンズは横浜港から日本を発ち、アメリカへ向かいます。アメリカ人の友人も多かった彼は、ちょうどこの翌年に始まったシカゴ博覧会を見物してからからイギリスへ帰りました。

※2 楽々亭:彦根城内に井伊直興が設けた枯山水庭園「楽々園」内の書院。井伊氏の下屋敷だったが、明治以降、観光用宿泊施設として用いられた。

※3 天寧寺:彦根市にある曹洞宗の寺。井伊直中が、腰元の不義をとがめ罰したところ、相手が自分の息子とわかり、腰元と初孫を弔うために創建したと伝わる。京都の名工に刻ませた五百羅漢像があることで有名。

ロイヤル・アカデミー展への出品、旅行記の出版

  翌年、パーソンズがロイヤル・アカデミー展に出品したのは、彦根で制作した作品1点のみでした。「天寧寺の石仏たち」という作品を日本の思い出を代表するかのように、ロイヤル・アカデミー展に出品します。

 ファイン・アート・ソサエティーでは、滞日作品展である「日本の風景と花の水彩画」展を開きます。102点もの絵が出品されました。このうちの十数点は、彦根や米原など滋賀県を描いたものです。

 そして1895年ごろからパーソンズは、友人らと共同で、庭園デザインの仕事に精力的に取り組み始めています。今も5~6月にロンドンで催される「チェルシー・フラワーショー」という花のショーがあるのですが、彼は長いあいだその審査員も務めました。

 1896年、日本にいたときの旅行記として、パーソンズの著書『NOTES IN JAPAN』が出版されました。先ほど出てきたアメリカの雑誌に連載されたもので、アメリカ版が元版ですが、同じ年にイギリスからも出ています。

 そしてこの年、彼は50歳にしてようやくARA(ロイヤル・アカデミーの準会員)になります。非常に遅い出世です。先ほど申しましたように、水彩画専門だったためだろうと思われます。

1899年になると、オールド・ウォターカラー・ソサエティーの準会員、1905年には正会員に選ばれ、1914年には同会の会長に就任、当時の水彩画界において頂点に上りつめたといってよいでしょう。

 また会長就任の前、1910年には、ウィルモット※4の『バラ属』のためにバラの植物画を大量に描いています。

 そして、翌年の1911年には64歳でようやくロイヤル・アカデミー正会員に選ばれました。その翌年に彦根の高木喜三郎と書簡を交わしていることがわかっています。

※4 ウィルモット:当時の著名なバラの栽培家。パーソンズに依頼し、自らの植物園に咲くバラの植物図譜「バラ属」を制作。パーソンズによる図版は、植物学者をも満足させるものとして高く評価されている。

“庭と庭園の画家”とその社会背景

 こうして1920年1月16日、パーソンズはブロードウェイで72歳で亡くなりました。このとき、『タイムズ』紙がその死を、「庭と庭園の画家パーソンズの死」と報じたことからもわかるように、彼は生涯一貫して花や庭園、あるいは田園の風景を描き続けました。

 来日直前の1891年、ファイン・アート・ソサエティーで個展が開かれたとき、そのカタログに序文を寄せた、友人の小説家ヘンリー・ジェイムズは、「パーソンズの作品の本質は、ハッピー・イングランド(幸福なイングランド)にある」と喝破しています。

 この「ハッピー・イングランド」とは、具体的にどういうイメージなのかというと、先ほど見ていただいた作品「花笑い、鳥歌うとき」などもそうですけれども、わらぶき屋根の田舎屋(コテージ)があり、そして、その庭には一面に花々や草が咲き乱れ、目をちょっと奥にやるといつとも知れぬ昔から生い茂る楡の木立があって、その間から村の教会の尖塔が見え隠れしている。畑を見ると、農夫たちがのどかに鋤を振るって、子どもたちが仔羊と無邪気に遊んでいるといった、いかにも牧歌的な英国風景。

 そして、それこそが、英国民の誰もが、いつまでも変わらずにいてほしいと願う本来の英国のイメージ。人々のノスタルジーの根幹に訴えるイメージを提供し続けたのが、このパーソンズという画家でした。

 19世紀後半、パーソンズに限らず多くの画家たちが、こうした牧歌的な田園風景を描きました。そうしたテーマが好んで取り上げられ、見る側にも歓迎されたのには訳があります。つまり、現実には、こうした風景が英国中どこを探しても見つからなかったということです。英国の農村の荒廃は、すでに19世紀初めから始まっています。英仏戦争、いわゆるナポレオン戦争中、小麦の高騰によって、次々と牧草地を囲い込んで小麦畑へと転換を図っていった農民たちは、やがて起こった突然の小麦暴落によって、多くが莫大な借財を抱えたまま農地を手放し、産業労働者へと転身を余儀なくされていきます。

 手放された農地は産業資本家の手に渡り、次々と工場が建設されます。のどかな田園風景は、煙突が林立する風景へと変わっていったのです。1815年の時点で国民の大多数が農民だった英国で、20年もたたないうちに国民の半数がロンドンや地方の産業都市の周辺に暮らす産業労働者になりました。驚天動地の大変動が英国社会を襲ったといってよいでしょう。

 1850~60年代、農業の機械化によって、いったん英国の農業は盛り返すのですが、その後、急速に衰退に向かいます。1870年代半ば以降、小作農たちは、しばしば賃金の減少に抗議してストライキに訴えていました。

 しかし、そうした現実はいっさい、画家たちによって描かれることはありませんでした。パーソンズらの画家は、そうした厳しい現実に背を向けて、ひたすら時間が止まったかのような牧歌的な田園の夢を世に送り続けたのです。

 特に19世紀後半、地方産業都市には次々に美術館が創設されます。そうした産業都市の住民が求めたのは、一歩外へ出ればすぐさま目に飛び込んでくる現実の姿ではなく、心身ともに疲弊させる労働の日々に潤いと慰めを与えてくれるものでした。

 そうした欲求に応えたのが、パーソンズの絵に見るような、ハッピー・イングランドのイメージだったのです。

 そして、パーソンズが、そのようなハッピー・イングランドの夢に奉仕する画家だったということが、実は、今日の二つ目のテーマである、なぜ日本を訪れ、また日本に何を見ようとしたのかという問題にまでかかわってきます。

パーソンズは日本に何を見たのか?

 英国は1880年代後半、空前の日本ブームに沸き返ります。『ミカド』の上演以外に、日本人村(ジャパニーズ・ビレッジ)も大人気になりました。日本家屋を模した仮設の小屋で日本からやって来た職人や大工が入場料を取っていろいろな技を見せたもので、茶店もあって日本娘が給仕をしました。一種の見世物興行のようなものです。

 当初はほんの一握りのアーティストによる熱狂の対象でしかなかった日本趣味が、1880年代には、一般の中流家庭にまで広く浸透する大きな潮流となっていました。

 美的な生活というものは、一歩でも上流階級に近づこうという野心を抱く中流階級の最大の関心事です。彼・彼女らにも、日本の屏風や浮世絵、陶磁器、果ては団扇までが美的な生活に欠かせないアイテムと見なされます。

 こうしたブームが日本の美術品が持つ純粋に美的な価値だけで起こったと考えるのは、単純すぎます。当時英国で出版された日本関係の書物や、絵入りの旅行記のたぐいをひも解くと、西洋化に向けて邁進する新興国日本の現実を知りながら、いや、むしろ知ればこそ却って、現実の日本の姿ではなく、昔ながらの神秘的な不思議の国としての日本のイメージに執着する傾向が強くうかがわれます。

 つまり、失われてしまった自分の国の牧歌的な田園風景に強い執着を抱き続けるイギリス人は、日本に長い鎖国によって損なわれることなく残されてきたゆったりとした人々の暮らしや麗しい田園風景を求めたということです。

 パーソンズを日本へといざなったのは、こうした英国の現実の逆像としての日本のイメージだったでしょう。たしかに、多くのイギリス人画家たちの日本訪問も彼に日本行きを決心させる引き金となったことは否定できませんが、彼を日本へと駆り立てたものは、それまで彼が描き続けてきたようなハッピー・イングランドの夢が、いまだ損なわれないままに現実に残されている国を、ひと目この目で確かめ、絵に描いてみたいという、一途な思いであったように思われます。

 彼は日本旅行記『NOTES IN JAPAN』の中で次のように語っています。

 「進歩に向かって邁進している日本においてすら、着物や農具の鋤が、ズボンや蒸気耕運機に取って代わるには、まだまだ長い歳月がかかるだろう」。

 ちょっと読むと、明治半ばの日本の後進性を指摘しているようにも解釈できますけれども、パーソンズにとって鋤は失われた安定と、かつての持続性の象徴です。それに対して、蒸気耕運機は不安な現実と、変化の象徴でした。つまり、「長い歳月がかかるだろう」とは、長い歳月がかかってほしい。むしろ、日本だけは蒸気耕運機がのさばるようになってほしくないという祈りに似た、思いの表明と解釈すべきです。

パーソンズと彦根

では、そうしたパーソンズの日本滞在において、彦根というまちは、どういう位置を占めるのでしょう。

 まず、その前に、そもそも、なぜパーソンズは1カ月あまりの奈良での滞在のあと、京都を素通りして、彦根に来たのか。

 3月から12月までの10カ月間、彼は四季の移り変わりとともに、折々の花を求めて、滞在先を変えました。実際、彼の彦根でのお目当ては、ツツジの花だったようですが、彦根がツツジの名所であったという記述は当時の名所案内などにも見あたりません。

 彦根に滞在した5~6月がたまたまツツジの時期に重なっただけで、彦根を訪れた動機は別にあったと見るべきでしょう。

 当時、外国人の国内旅行にはさまざまな制約があり、京都を素通りしているのは、そのあたりに事情があるようです。京都はまだ、外国人が妄りに立ち入れない場所でした。それから、3カ月ごとにパスポートを更新しなくてはならなかったので手続きのできる神戸から、さほど遠くなく、また汽車の便のいい場所が好都合でした。

お城が見たければ、彦根城ではなくて、姫路城でもよかった。たしかにパーソンズは、彦根城の姿も絵に残していますが、さほど強い関心を示したようには思えません。これまた怒られそうですけれども、パーソンズ自身は、自分が日本で見た最も美しいお城は、名古屋城だと言っております。彦根城のシックなよさがわからず、鯱に目を奪われたのかもしれません。

 そこで一つ想起されるのは、彼が日本を訪れた明治25年が井伊直弼の三十三周忌に当たるという事実です。彼がまだ神戸にいた3月28日に、井伊家の菩提寺である清凉寺で盛大な法要が営まれて、当時、彦根は4万から5万もの人出でにぎわいました。

 没後33年の節目ににわかに高まってきた井伊大老の顕彰の動きが、彦根滞在のきっかけになったかもしれないと推測しても、あながち的はずれではないのではないでしょうか。そう考えると、彼が彦根滞在中に身を寄せていた楽々亭も天寧寺も、いずれも井伊家縁の場所であったこととも符合します。

 そこで話を、パーソンズにとって彦根というまちが、いかなる場であったのかという本題に移しますと、この彦根滞在の体験が、日本のほかの地域での体験と大きく違っていた点が二つあります。

 一つは、パーソンズが日本滞在中、唯一彦根でのみ、旅館ではなく、日本の家庭生活を体験したということです。短期間とはいえ、楽々亭のおかずさんや天寧寺の人々との家族めいた交流は、日本滞在中のハイライトというべき出来事で、だからこそ、その後10月になって再会を果たし、名残を惜しむことになるわけです。この意味で、パーソンズが最も深く日本の心に触れ得た地、それがやはり彦根であったと言って差し支えないでしょう。

 もう一点、彦根の滞在が、パーソンズにとって特別だった点があります。それは、梅雨入前の田植え時期が、ちょうど彦根の滞在期と重なったせいもありますけれども、彼が田畑で働く農民たちの姿を描いたのは、日本滞在中、彦根だけだったということです。彼を日本へと駆り立てた本来の動機がかなえられたという点でも、彦根は彼にとってまさに特別な場所でした。

 パーソンズは、晩年、しばしば思い出したように日本の風景を描いたといいます。確かめた訳ではありませんが、その晩年に描いた日本の風景に描かれていたのは、やはり懐かしい彦根の風景ではなかったかと、私には思われてなりません。

(2006年12月9日)

「それぞれの彦根物語」開催中

●主催:NPO法人 彦根景観フォーラム/●共催:滋賀大学/●会場:ひこね街の駅 「寺子屋力石」
 土曜日の午前、さまざまな人のお話を聞いています。
話題提供、参加ともに募集中ですので、お問い合せ・お申込みは下記まで。

[お問い合せ先]滋賀大学産業共同研究センター(共催)  〒522-8522 彦根市馬場1-1-1
E-mail jrc@biwako.shiga-u.ac.jp  TEL 0749(27)1141  FAX 0749(27)1431

●エピローグ
 パーソンズが来日した明治25年(1892)の前年5月には大津事件が起こり、11月には琵琶湖疏水の水を用いた京都市蹴上の水力発電所が発電開始、2年後には日清戦争が始まります。とはいえ、人々の暮らしは、おおかた江戸時代のままでした。 2000年3月発行でもう絶版だそうですが、デアゴスティーニ・ジャパン発行の『週刊アートギャラリー』No.58「サージェント」の号の裏表紙にはサージェントやパーソンズが暮らしたブロードウェイ・コロニーのことが紹介されており、パーソンズの作品として《日本庭園「ラクラクテイ」の池》がカラーで掲載されています。興味のある方は、古書店でお探しください。(キ)

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