──3階ではリニューアル記念特別展として、洋画家野口謙蔵の作品展が開催中です。野口謙蔵の家も近江商人だったんですね。
上平 謙蔵の伯父にあたる、野口正章は蒲生郡綺田村(東近江市綺田町)生まれの近江商人です。野口家は江戸時代に山梨県に出店して酒造業を営み、正章は、明治初期に市販の国産ビールをつくったパイオニアとしても知られています。また、彼は、日本画家として活躍していた野口小蘋※6を妻としました。
謙蔵も商家に生まれて、商人になるはずでしたが、彦根中学校卒業後、家族の反対を押し切って東京美術学校に入学します。
そして、美術学校卒業後は郷里に戻り、生涯蒲生野の風景を描き続けました。洋画家をめざす若手はパリへ留学することが多かったのですが、謙蔵は、「どうしてみんなフランスに行きたがるのか。滋賀にもこんなに見飽きぬ美しい風景がいくらでもあるのに」と語ったそうです。
中路先生は日本画、野口謙蔵は洋画で、作品の表現のされ方は全然違いますが、滋賀の風景に心惹かれたという点と絵に向き合う真摯さという点で共通項があるといえますね。
謙蔵は、昭和初期から帝展に入選して中央画壇でも認められるのですが、今回の展示会では、彼が画家を志していった学生時代の一番初期の作品から、絶筆《喜雨来》までを通してご覧いただけます。──水墨画なども何点か並んでいますね。
上平 美術学校卒業後、しばらく洋画をやるべきかどうか悩んだ時期があり、小蘋の娘で従姉の野口小蕙※7や平福百穂※8から日本画を本格的に学んでいます。「湖雲」という雅号もつけて。
──きっちりした水墨画の作品から、だんだん謙蔵タッチになっていくのが……。
上平 そう、おもしろいんです。掛け軸用に墨で描いても、謙蔵らしい、太く柔らかい線の、日本昔話の世界みたいな絵になっていくんですね。
──風景画にも小さく人間が描かれていて、生活の気配もある。
上平 こっちにスズメが数羽いたり(笑)。結局、「日本画か、洋画か、そういうことは関係ない。絵の具が何であるかも関係ない。自分が表現したいものを表現すればいいんだ。絵筆は何でもかまわない」と悟ったそうです。
そうやって、洋画家として彼の独自性、洋画の中に日本的な詩情を感じさせると言われるスタイルを確立していくのですが、残念ながら昭和19年に43歳の若さで亡くなります。昭和13年から死の間際までの日記には、「夜中にぱっと目が覚める。絵が私を呼んでいる」といったことが書いてあるぐらい、命を削るような思いで絵に対して真摯に向き合っていた作家です。
(2016.5.28)
※6 野口小蘋 (1847〜1917)日本画家。大阪生まれ。明治・大正期、奥原晴湖とともに、女流画人の双璧とされた。
※7 野口小蕙 (1878〜1945)日本画家。母の小蘋と同様、その作品はたびたび皇室御用品となり、名声を馳せた。
※8 平福百穂 (1877〜1933)日本画家。秋田県生まれ。京都で四条派の川端玉章に師事。歌人としても知られる。
洋画家 野口謙蔵(1901〜1944)蒲生郡桜川村綺田(東近江市)生まれ。東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、和田英作に師事。 |
編集後記
冒頭の展示室写真で中央に見える《夕照の木立》という作品は、湖北水鳥公園(長浜市)辺りから西方を望み、近景の木立と沈む夕日、輝く琵琶湖が描かれていますが、実際の風景には存在するあるものを大胆にも省いているそうです。気になる方は、現物を前にお考えください。(キ)