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県内の中学生のために授業でも使える社会科の副読本として中学校の現役教員が執筆した『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』が発売中です。
 編集委員を務めた先生方4人にお集まりいただき、制作の経緯、工夫した点、読みどころなどをお聞きしました。

● 表紙の言葉 ●

 撮影は本物の中学校ではなく、米原市にある伊吹山文化資料館(1993年に廃校となった小学校分校の校舎を改装した建物)内の黒板の前。本を手に持ち先生役を務めていただいたのは、米原市教育委員会の高橋順之さん(別件でおうかがいしていたにもかかわらずご協力ありがとうございました)。

座談会
● 4月16日(土)午後3時~ サンライズ出版にて ●

35年前の副読本の狙いを受け継ぐ

▽本日は『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』を執筆・編集なさった滋賀県中学校教育研究会社会科部会の先生方にお集まりいただきました。

 まず、発行までの経緯についてお話しいただけますか。

▼長い名前ですが、この部会は私たち中学校の社会科の教員が集まって、社会科の指導の方法などについて学び合っている会なんです。この会で昭和45年(1970)、今から35年も前になりますが、私たちの大先輩が『近江の歩み』という社会科の教材(副読本)をつくられました。

▽ここにあります。B5判の大きさで、96ページ、モノクロ印刷、定価は180円とあります。題字は当時の滋賀県知事(野崎欣一郎さん)が書いておられます。

▼同書は2年後に第2版、その翌年に増補改訂版が出ていますが、その後は新たにこうした資料集がつくられることはありませんでした。内容的にも古くなったというか、現在の中学生に教えるにはそぐわないものになっていました。

▽今見るとぎっしり詰まった小さな文字で、中学生向けとは思えませんね。

▼それで、3年前の部会で全面的に改訂して新たに発行してはどうかということになりました。
 ちょうど平成17年度、つまり今年度に社会科研究会の近畿大会が滋賀県高島市で開催されることが決まっており、それに合わせてということでもありました。

▽最近の小中学校における教育の変化が、マスコミにもよく取り上げられます。多くは問題があるという見方ですが、実際、現場での変化はどうなんですか。

▼教科書の内容はずいぶん変わりましたね。地理・歴史・公民の中でも特に地理が変わりました。すべての都道府県について教えるのではなくて、2つから4つの都道府県を選んで(必ず自分の住んでいる県は入れる)生徒たち自身が調べたり、まとめたり、発表したりする方法を学ぶのが主体になりました。

 滋賀県の地理なら昔はエリ漁とはどうこうとか、伊吹山地はどうこうとかいう知識を教えたものですが、そういうのはなくて人口の統計グラフを用いて何が読みとれるかとか。

▽すると、高校入試はどうなるんですか。

▼共通の都道府県に関する知識はないから、地理関係の問題はグラフなど載っていてそこから読みとれることを問う形などしかありません。進学校の私立は別で、暗記しなくてはならないものすごく難しい問題が出たりします。

▽社会科というと暗記ものという感じですがそうではなくなってるんですね。

▼歴史でいえば、例えば「縄文文化」でも見開き(2ページ)の分量しかありません。だから授業1時間で縄文と弥生が終わってしまう。「四大文明」って皆さん習ったと思うんですけど、今の教科書の本文では「中国文明」しか出てこないんですよ。

▼世界史でも日本に関係ない部分がゴソッとぬけた感じやね。「大航海時代」などは日本とも関わりがあるからまだ残っているけど、「アメリカの独立」や「フランス革命」はほとんど習わない。

▼そう、歴史と公民に関しては学習の方法自体はあまり変わったわけではありませんが、量はかなり減っています。ただ「発展的な内容」として教えてもよいことになっているので、実際は教えていることも多いですけどね。

▼前に比べると「調べる」という時間は増えたと思うんですね。地理でも歴史でもね。前の『近江の歩み』も図書室とかにあって、調べる資料にはなっていたわけです。

▼そもそも35年前にできた『近江の歩み』自体が、暗記を目的にしたものではないですよね。

▼調べたり、現地に出向いてみたりするのが目的やろね。

▼やっぱり自分たちが住んでいる地域のことを勉強しなくてはいけないと…。

▼ これができたころはね、昭和43年(1968)の指導要領のころで、一番知識注入量が多いころ、だけど「知識注入=暗記ばかりに偏らないように」というのも指導要領ではうたわれていたんですよ。それで郷土の学習の素材として『近江の歩み』はできたんじゃないかと思うんですけどね。

▼ねらいとしてる所は同じだったんでしょうね。

▽なるほど。

親しみやすさでイラストは文章に勝る

 ▽3年前に提案が持ち上がり、2003年5月、2年前の段階でサンライズ出版側の方から、見本組を提出していますね。 この段階で1テーマ1ページの原則が決まっています。

▼B5判という大きさは、中学校の教科書の大きさと同じに、本文の文字の大きさは教科書と同じ場合と少し小さい場合と2種類見本を提出させてただいて、教科書と同じ文字の大きさに決まりましたね。

▽この時点で仮の写真や図も入れてありましたが、イラストというか一こまマンガみたいなものはまだ入っていません。

 この時の見本組がどうにも堅いので、次の検討会で追加しました。私ども(サンライズ出版)の方から提案したんですね。

▼イラストは入れていただけて本当によかったと思います。本文は読まないような生徒でも目をとめてくれます。

▽以前に滋賀県企画課さんの企画による『滋賀の20世紀 ひと・もの・こと』という本をつくったんですが、ストーリー漫画と四コマ漫画を入れたら、読んだという方が覚えているのは、ほとんど漫画の部分なんですね。
 ヴォーリズの一生のストーリー漫画は、ヴォーリズ建築事務所さんから建築設計の依頼者などへ配布するために単独の冊子として制作したいというお電話もいただきました(残念ながら立ち消えになりましたが)。親しみやすさ、印象に残るという点で、やはり絵は文章に勝る。

 ▼例えば、国友一貫斎の業績について紹介したページのイラスト。一貫斎が空気銃につめた空気に重さがあることを確認するために、ポンプを押す回数を変えて重さを量ったという話をイラストにしてもらいました。
 これのもとにした、一貫斎が描いた空気銃の使い方の図と実験結果の表が残されています。現物を見せることも大事ですが、この場合は筆で書かれた図と表を並べて掲載して説明文をつけるよりも、色もついたイラストにしてその中の人物(一貫斎)に「135、136、137…」と数えさせた方が絶対わかりやすいし、印象に残りますよね。

▼雪野山古墳(東近江市)の紹介でも、この古墳は「未盗掘」というのが特徴なのですが、普通使わないでしょう、この言葉は。わかってもらいにくいと思い、墓荒らしのようすのイラストを入れました。

▼「お宝だー!」って男が叫んでる。

▼また、歴史上の人物については、教科書や資料集に載っている肖像画を載せるのではなく、すべてイラスト(似顔絵)にしてしまったことで統一感も出たと思います。

無味乾燥な説明にならないよう心がけたこと

▽本文の方では、読者に興味をもってもらうためにどうした工夫をなさいましたか。

▼すべてのページでできたわけではないのですが、無味乾燥な説明文にならないよう、「へぇー」と思ってもらえるエピソードを入れるようにしました。

▽例えば、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)のところで、芳洲の著作の中で生徒に「どうすれば学問が成就できるでしょうか?」と質問されて、「お前たちも恋をしたことがあるだろう。笑うことではない。朝から晩まで飯を食っている時も忘れない。その心にように学問のことを思えば世に知られた人となるだろう」と先生が答える問答が書いてあるとか。
 生徒の側はニヤニヤ笑ってしまったんでしょうね。その場が目に浮かびます。

▼芳洲に限らず、偉人とされる人物はどうしても聖人君子のイメージがついて回るでしょ。なるべくそれを取り去りたい、身近な存在に感じてほしいわけです。
 特に芳洲の著作を読む機会になったのはよかったです。一般的に知られている肖像画の厳格なイメージはとれて、ファンになっちゃったもの。

▼「五個荘商人」のところで出てくる、村同士の争いの責任をとらされて壱岐(いき)へ流罪になってしまった猪田清八の話も…。

▽猪田清八というのはまったく無名の人物というか、普通に五個荘商人を紹介する文章では絶対登場しないような人ですよね。

▼なのですが、『五個荘町史』第2巻では13ページにわたって詳しく紹介してあるんですね。

▽自宅に商品を手配してもらって、島流し先でも商売をするんですよね。

▼家族の元へ届いた手紙が残されているんです。江戸時代の流通網というのは今の郵便や宅急便なみにとまでは言いませんが、かなり整っていたということ、それから流罪となった人の処遇は現在の感覚から想像するものとはかなり違った(隠岐(おき)の場合は島の女性と結婚もできた)ということぐらい知ってもらえたらと思って入れたのですが、3分の1ページ以下のスペースしかなくて、全然説明不足ですいません。
 もとの『五個荘町史』では、島での暮らしや清八の心境などもくわしくわかるんですよ。長男に「お前は人にだまされやすいから用心するように」とか書いていたり。

▽『○○市史』や『○○町史』でも、部分部分には素人、それこそ中学生でも楽しめる記述がありますね。

▼生徒は無理でも、先生の方は参考文献までさかのぼって読んでもらえればと思います。

▼今の話とも関係しますが、最初の編集方針を決める段階で心がけたことの一つとして、短い文章の中になるべく固有名詞、つまり地名だとか人名を入れようというのがあったんです。
 そのせいで長くなった文章をさらに刈り込んでとか大変だったんですが、それが活きてる面はありますね。例えば、近江商人のところで、白木屋で勤め上げて退職した「江竜作右衛門」とか、この人も歴史上の人物でも何でもないんだけど、江竜というのは滋賀県にかなりある名字だから。

▽親近感がわきますね。

▼167ページの真ん中あたりに「彦根市西今町」とあるでしょ。私の勤めてる中学校は西今町にあるんですよ。こんなんすごいリアル。日本軍の戦闘機に体当たりされたB29から20発の爆弾が落ちてる。

▽死者8名が出ている。

▼教科書にも、空襲のこと、疎開のことは書いてるけど、こういうのを使うほうがずっとリアルになる。

▼ぼくが思うには、日本全体の通史をやると確かに理解は進むんですが、リアルさ、触れることができる現実味がない感じがつきまとうんですね。
 それよりは滋賀県に関する出来事を紹介して、実際に行ってみたり、触ってみたりしたほうが理解が深まるんじゃないか。

▼雨森芳洲は著作の中で、日本に歴史の記録が少ないことを嘆いて、「いらぬ戦物語ばかり書き散らしているのは紙の無駄だ。中国の史書を引くより、日本人の言葉や行いの記録の方が人の心にはるかに感銘を与える」という意味のことを書いてます。

▼遠い所の出来事より、身近な話題ということですよね。

▼最後に、記録を残すのは「たやすき(簡単な)事にはあらず」と釘をさしてます。

▽しかし、「紙の無駄」って(笑)。

▼朝鮮通信使が通った「朝鮮人街道」の紹介ページでも、幕府が通信使一行に奈良の大仏を見せたことに対して芳洲が「仏のありがたさは大小とは関係ない」って批判したとありましたよね。さすが新井白石と喧嘩しただけのことはある。

いつの時代も日本の通史とつながっている

▽では、本書全体にも目を通されて、ここが面白かったという部分をあげてもらえますか。

▼まず、全体的なことでいいですか。つくりながら私が思ったのは、「滋賀県というのは、日本全体の通史といつの時代でもつながってるなぁ」ということでしたね。
 他県でも調べてみたら同じことを思う可能性もあるけど(笑)。

▽実際の教科書でも、古文書など滋賀県にある史料がけっこう掲載されていたりしますよね。

▼大阪書籍などは、意識的に滋賀県の史料を掲載してますね。今はちょっと違うんですけど、4、5年前までは滋賀県の中学は大阪書籍の教科書を採用する地域が多かったんです。だから、継続して滋賀県では採用してほしいという意図もあるから。

▽以上、裏事情でした。

▼そういう商売上の理由もなくはないだろうけど、中世こそは近江が先走っていた、先頭を走っていた時代だったとも言われますよね。前に大学のある先生がおっしゃっていましたが、「中世を調べるときは、滋賀県こそ古文書がたくさん残っていて一番重要な地域だ」と。

▼古代は考古学上の発見とかいうと新聞の一面を飾ったりすることがありますし、戦国時代から江戸時代についても近江の関係は本がいっぱい出てるし、その間の中世というのはどうしても日の当たらないというか、何だかよくわからない時代だったと思うんですよね。一般の滋賀県人にとって。それが足利将軍家との関係だとか紹介してあるのはいいと思いますね。

▼説明しだすとややこしくなりそうな部分は正直言ってかなり端折ってしまってるんですが、つながりは何となくわかるようになりましたよね。
 特に延暦寺をはじめとする天台宗の寺院の影響力が大きなものであったこと、近江の佐々木氏をはじめとする守護大名が室町幕府の上位の役職にもついていたことなどを知れば、日本史の中で近江を考えることができますから。

▼北九州が舞台になった元寇と秦荘町の金剛輪寺本堂がつながったりね。

▼近代・現代も、もう一つなのかなというイメージがあったんやけど、こうまとまってみると、繊維産業の発展や戦後の高度経済成長期を通じて、日本の近代・現代を語れる感じがするのが面白いですよね。

今の尺度で考えてはいけない

▽先生方も、これは驚いたというような部分はありましたか?

▼琵琶湖をダム化する計画があったというのはびっくりした。

▽あれは戦後のことでそう昔のことではないですが、私や先生方の世代(30~40歳代)だと生まれる前ですか。

▼そもそも私は大阪生まれなので、滋賀県のことってあまり知らないんですよ。

▼滋賀県生まれでもあれは知らなかった。

▼ダム化のことにしても、名神高速道路の最初のルート案は違ってたというのは面白かったですね。

▼あと、これは有名な話だったんでしょうけど、彦根城の天守がリサイクルだったとかね。

▼あれ、他の城とかも調べていくとリサイクルだらけでしたよね(笑)。

▼特に彦根とかの人間はみんな知ってることなんやけど、わかりやすいように「リサイクル城」と表現したのを評価してほしいんですけど(笑)。

▼日野町の辺りにあった西大路藩の陣屋が明治になって京都の相国寺(しょうこくじ)の坊社になって今もあるという話も出てきますよね。
 これ本文中に書けなかったんですけど、その建物はテレビの時代劇(「暴れん坊将軍」など)のロケにもけっこう使われていて、知らない間に見ていた人も多かったようです。

▼明治以降でもお寺を学校に使ったり、他のものにするの多いですよね。

▼木造建築のよさの一つだったんでしょうね。はずして他の場所に運んで、また組み立てられるという。

▽近現代で中学生だけでなく私たちの世代までわかりにくいのは、繊維産業が主要産業だったという点じゃないかと思うんですが…。

▼発明家の豊田佐吉のことが出てきますよね。自動織機を発明したということで。事業面でそれを支えたのが彦根出身の児玉利三郎だというので。
 この頃の力織機の発明・改良というのは、今でいえば、コンピューターの開発だとか、2足歩行のロボットの開発だとか、それぐらいの最先端の技術だったんでしょうね。日本でも全国に豊田のような発明家が、織機の改良を競っていたそうです。この織機というのは、ジャガード織機という紙にあけた穴で柄を織っていく機がコンピューターの祖先だといわれているぐらいで、その後の産業に多大な影響を与えています。

▼教科書にそって教えると「繊維産業」は輸出ということで流してしまいそうやけど、これだとリアルになってくる。

▽輸出の点から見るにしても、本書では伊藤忠商事の発展とからめてありますね。

▼綿のことが出てますが、後には人造絹糸の原料・木材パルプの輸入につながるし。

▼昭和初期に人造絹糸の工場が大津に次々できるまでは、県内最大の工業地帯は長浜だったとかね。浜縮緬など生糸を使った絹織物が最も重要な工業製品だったと。

▼栄枯盛衰というか、そんな感慨も持ちますね。

▼だから、今の尺度で考えてはいけないというのがよくわかる。県南部の方が商業地が多い、つまり栄えてると思っていますが、琵琶湖を船で渡っていた時代までは、対岸である奥琵琶湖の菅浦だとかも非常に栄えていたとかね。

▼大津に関しては、ずっと昔から米市場としてすごかったのもわかったけどね。大津というか琵琶湖の船による輸送がなければ京都もなかったというか。

▼琵琶湖なんかはもう1回、輸送の手段として使えないのかと思いますけどね。

▼せめて湖西と湖東を結ぶ手段としてね。

▼僕はマキノ町の人間なんやけど、初任地が豊郷町に決まったときは、親父は漁師なもんやから、「あー、船やったら20分や」。

▼一同(笑)。

▽結局、どうしたんですか、豊郷まで。

▼ええもちろん、こっち(湖東)に住んでました。

▼なんか昔に比べると、琵琶湖の存在がデメリットになってしまっているのかもしれない。

▼だから、高島郡が市になったけど、マキノ町だと敦賀あたりと合併した方がよかったんやないかという話がある。マキノ町の場合、買い物は敦賀やもん。信号もないし。

▼一同 あー。

▽本書でも出てきますが、一度、明治の初めに福井県西部(敦賀など4郡)が滋賀県といっしょになってますよね。

▼この時はすぐ分離しちゃうんですけど、敦賀側4郡はその後も、福井県になるより滋賀県といっしょでいたいと10年ぐらい運動が続いていたそうですね。

▼日本海からの水運で昔からつながりがあったから。最近も、合併に関する町長との懇談会の場でそういう話したら、「うん、次の合併レベルでの話やな」とおっしゃってましたけど。

▽それこそ次の合併では県という単位はくずれるでしょうねぇ。

▼話もどるけど、大阪の米相場を手旗信号みたいので大津に知らせてたというの驚いた。情報のスピードが価値になったんやね。

▼この手旗信号してる図が描かれた頃にはもう電話は通じてたそうなんですけど。その頃の電話というのは、○番呼んでくださいっていって何分も待たされて通じるもので、まだこのやり方が一番早かったそうですね。

▼食糧としてでなくて、金儲けの手段としての米のマーケットができてたんやね。

▼同時に物流網ができたということですよね。井伊直弼のところで、江戸湾沖を外国船にふさがれたら江戸の住民は餓死するとイラストで言わせてますけど。

▼それで、大坂の米市場のことは、大正の米騒動にまでつながっていくと。

何百年も前と現代の共通点

▽こぼれ話というか、本書の中に入れられなかったけれど、紹介したかった話はありますか。

▼第二次大戦中ですね、満蒙開拓青少年義勇軍というのがあって、小学校の高等科、今の中学生男子が中国大陸に行った、というか行かされたんですね。
 都道府県ごとに何名というノルマがあって、滋賀県の場合、割合食うに困らない環境だったせいか希望者がない。担任の先生が自分の生徒とその家族を口車にのせてというと言い過ぎか、まぁ説得して行かせる形になったものだから、それが嫌で先生をやめた方もおられたそうですね。

▼あれ、何年前だろ。生徒のお祖父さんだかが義勇軍に行って無事に帰って来れたんでしょうね。家庭訪問した生徒の家にその感謝状が飾ってあったことがありました。

▼戦争については、今こそリアルに伝えたいという思いがあるので、この本を読んだことからお祖父さん、お祖母さんに当時のことを聞くきっかけになればというのもあるし。広島や長崎の原爆の話もまだ遠いですよね。

▼話を聞きにうかがうと、大空襲を受けた敦賀の空が真っ赤になってたといったお話をなさいます。

 ▼学徒動員で小学校高等科、今で言えば中学生の女子生徒でも軍需工場に働きに行くわけです。その引率をしてた草津の小学校の女性の先生が戦後の作文で書いておられるんですが、軍需工場って空襲の標的になりやすい一番危ない場所なわけです。それで空襲警報とか発令されると、自分の指示次第で何十人という生徒の生死を左右することになるもんだから、毎日身がやせ細る思いだったそうです。

▼教師としては身につまされる話やね。戦国時代でも女の子が鉄砲の弾を造ってたいう話があったやん。

▽「おあん物語」のおあんですね。関ヶ原の戦いの時、佐和山(さわやま)城にこもって戦いの手伝いをした。生首のイラストがあるページ。

▼最初は生きた心地がしなかったのに、「だんだん慣れてきた」と言ってる。

▽そういうくり返しというか、何百年も前と現代の共通点が出てくるのも面白かったです。

▼江戸時代、イノシシに田畑を荒らされた山沿いの村はどうしたかとか。

▼藩士の単身赴任。

▼戦後まもなく、滋賀県の小中高校は土日が休みになったってのも。

▼こぼれ話というか補足説明をしてもいいですか。

▽どうぞ。

▼さっきから雨森芳洲のことばっかりしゃべってますが、許してください。
 芳洲の紹介部分で、芳洲が朝鮮の人としゃべってるイラストがあるんですけど、最初はハングル文字で韓国語を入れようかと思ってたんですが、そうすると間違いなんですね。通信使の一行など朝鮮の文化人は当時、ハングルは下等な文字だとして使わなかったそうなんです。日本でも、平仮名や片仮名が女性用の文字として一段低く見られていたように。
 だから、ここでの会話を文字に表すなら漢字の朝鮮語じゃなきゃいけないんです。けど、初歩的な学習には適していると考えてか、会話集にハングル文字を採用してたんです。だから説明もなしに漢字にしてしまってもおかしいというので、最終的には「××××…」で表記しました。

▼芳洲特集やね。今日は。

▼私、調べて面白かったのは明治の最初の小学校を設立することになったとき、政府はお金がないから地域で資金をつくらなきゃいけないというので、頼母子講というのをつくるんです。

▼江戸時代に旅行の費用をつくるのに流行ったやり方です。

▽江戸時代の習慣が明治になっても活かされたわけですね。

▼各戸からお金を徴収して、くじをひくんですね。みんなで。当たりを引いた人は出資金の2~3倍のお金がもらえて、残りを学校の資金にしたんだそうです。

▼宝くじを運営資金にしたようなものか。

▼この本の中で「講を組んで」というのは出てくるんですけど、肝心の講がどういうものなのかの説明を入れられなかったので今言っておきます。

▽そのやり方が県の命令として出たっていうのも面白いですよね。

▼ガイドブック的な要素として、鉄道の大津から逢坂山隧道(おうさかやまずいどう)をぬけるところに「橋脚が残っている」というのがカットになってしまったのは残念ですね。

▼それはマニアックすぎますって。

「やっぱー、知らんね。」「知らん。」「知らん。」

▼そんなことで調べたのに載せられなかったこともたくさんあるんですが、この本のために調べていて、「自分て無知なんやな」と思いましたね。ほんとに教員自身の勉強になったところもあると思います。

 ▼やっぱー、知らんね。

▼知らん。

▼知らん。

▼勤務校の周辺とか、好きな時代については非常に詳しい先生もいたと思うけど、全部網羅的にというとね。

▼自分の住んでる近くでもね。この本のために天井川の下に通したトンネルの写真を撮りに行って、上まで登ってみたんですけど、「あー、こないになってるやなぁ」て(笑)。もう、水は流れてないんですよ。

▼僕かて、東近江市の掩体壕(えんたいごう)はこういうことでもないとなかなか行かんで。

▽第二次世界大戦の末期に、空襲から戦闘機を守るために山すそに造られた巨大な施設ですね。

▼車で3周ぐらい回ったがな、山をグルグルグルグル。藪をかきわけて行かなきゃたどり着けないんです。栗東市の博物館の人にも聞いて、この辺だろうと目星をつけて行ったにもかかわらずなかなか見つからない。休みの日に家族連れて。

▽お子さんといっしょに写ってます(笑)。

 ▼それは大きさがわかるようにです。一応、説明しましたよ。「これはな、昔、戦争の時に飛行機を隠すために作られた…」て。あの子らまだ小さいからわからんかもしれんけど。

▼(笑)。

▽この記事を読んでいるのは中学生よりは上の年代だと思うのですが、読んでみようかと思った方に最後に一言。

▼興味はあるけれど日本史の専門書は手に負えないという方、最近滋賀県に引っ越してこられた方、家族で県内を観光するときなどにも役に立つかと思いますので、ぜひ読んでみてください。

▼県の予算とか何ももらっていないので、売れなかったら来年度以降が出せません。買ってください。とりあえず、書店で手にとってください。

▼これが売れたら、次は『12歳から学ぶ滋賀県の地理』を出したいと思っていますので、よろしくお願いします。

▼えーっ。地理?

▼県内の産業の紹介とかも含めたやつ。

▼あかん。それは売れん。

▼売れるて。

▽それではこのへんで終わらせていただきます。本日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございました。

●エピローグ
 座談会中に出てくる名称や人名にはあまり注釈を入れてありません。「○○○って何?」というような方は、まずは本を読んでください。大人が読んでも面白いです。
 面白かった箇所として、今たまたま思いついたものをあげるなら、近代の章の「県下工場で労働争議」のページ。1932年、旭絹織(人造絹糸メーカーの一つ)に現れた煙突男がアジびら500枚を煙突のてっぺんからまいているイラストの説明文に、そのびらは「謄写版(ガリ版)で刷られていました」とあり、ちょうどその次のページが、謄写版を発明した蒲生町出身の堀井新治郎親子の紹介なのです。偶然だそうですが。

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