浅岡利三郎写真展を見て

 湖東三山の真ん中、金剛輪寺のすぐそばにある秦荘町歴史民俗資料館では夏季展示会として、「浅岡利三郎写真展」が開催されました(7月19日~8月31日)。
 事前に行われた調査に参加なさった町内のお年寄りにお集まりいただき、展示された写真についてさらに語り合っていただきました。

▲表紙写真:イモジの常さんによる皿回し

● 表紙の言葉 ●

 浅岡利三郎撮影。昭和30年(1955)1月18日、愛知郡八木荘村(同年4月に、秦川村と合併して秦荘町となる)下八木で行われた神楽の総まわしの一場面。神楽の太夫の名前は伊藤森蔵といい、菩提寺を宿に各地を回った。「常さん」については本文座談会を参照。


座談会 浅岡利三郎展を見て

8月24日(日) 午後3時~  秦荘町文化資料館(展示会会場)にて

●座談会に出席いただいた皆さん

[ ]内は大字名。年齢は座談会の時点

〈前列〉
西村佐兵衛さん[島川](大正11年生まれ、81歳)
藤井 佐一さん[島川](大正8年生まれ、84歳)
小杉 志げさん[下八木](大正12年生まれ、80歳)

小杉 時子さん[下八木](大正14年生まれ、78歳)
〈後列〉
西村 ちよさん(西村佐兵衛さんの奥さん)
林  定信さん[秦荘町歴史文化資料館館長]
北村ひさ子さん[蚊野](昭和18年生まれ、60歳)
中村 栄子さん[北八木](昭和4年生まれ、74歳)

田中由美子さん[秦荘町歴史文化資料館]

「語り」がつくと写真自体にふくらみが出てくる。

▽(編集部)先日、この展示会を拝見いたしまして、写真にそえられた説明も含めて楽しませていただきました。館長の林さん、この展示はどのような経緯で?

 浅岡さんの写真展を開催しないかという話はだいぶ前からあったんです。ただ、私が昭和30年代の初め、31年生まれなもので、浅岡さんの写真を見ても多少わかるんですよ。直接は覚えがなくても、自分が見ていた景色から延長したらこんな景色になるかなと。だからこれらの写真を展示したとしても、来た人に「うける」のかなという心配があったんです。
 でも、やると決めて、事前の調査で町内の皆さんの所を回らしてもらうと、いろんな話が出てきて「これは面白いな」と。いろんな「語り」が出てくると写真自体にふくらみが出てくる。いくつもの偶然が重ならないとわからないようなこともあるんですが。それで、ともかくこの写真展は成功するなあと思いました。

 ▲おばあさんに背負われた子供。左に肥桶を積んだリヤカーが写り込んでいる

▽私は昭和40年代の生まれなので、あまり馴染みがない景色でもあるんですけど、あの展示室に降りる階段の途中に飾ってあった写真で、おばあさんに背負われた子供を撮ったものに、左奥にピントがぼけてるんですが、肥桶を積んだリヤカーが写ってるんですね。あれは私も子供の頃に見た覚えがあるんです。家の横でも通ってたなと。

西村 昔は、リヤカーではのうて、大八車の竿の両側に肥を3つずつかけたのがあって、それでみな行かはったぁ。

 それは見たことないなあ。

西村 一本竿で、こう正面から見ると三角でねえ。ここに車がついたって。(と絵を描いてくださる)

藤井 これは何も台になる部分はないんですわ。

北村 カネの輪ですよね。カッカッカて私は聞いたことあります(笑)。

田中 降ろす時のバランスが難しそう。

西村 いや、うまいことしはるな。○○の大工さんのおとっつぁんやら2軒が愛知川やらから毎日うちの前を通らはるん。ほてねタケノコをみやげにもろてきゃはるんや。商売にしてはった。

中村 ほや、タケノコぶらさげてやぁた。

北村 子供の頃にね、取り入れのイジコ(わらで編んだもっこのこと)を大八車に乗せて帰らはるのを見たことはあります。

うっかりしてると石が飛んでくるさかい。

 浅岡さんの撮った秦荘町の写真で代表的なものを題材ごとに見ていきますが、まず、西村さん、「馬駆け」について。

西村 (観客の中に)蚊野(かの)の安孫子(あびこ)から嫁入りしてやるあの人が写ったったわな。

西村 テルちゃん。

北村 やっぱりそうなの?

西村 この見上げてやぁる人、もう子供連れてはるさかい、島川から蚊野へ嫁入りしてからやわ。この人の家は、タクシーしてはって、昭和10年ぐらいに自動車2台置いてやはった。

▽その頃で舗装された道路というのはあったんですか?

西村 ないない。ガラガラの道ですわ。うちの前の道は、愛知郡幹線道路いうてね、稲枝(彦根市)から高野(永源寺町)までずーっと走ったった道やったんやけど、ここが舗装されたのは最近でね。後からできた道の方が先にみな舗装された。

小杉(志)「高野街道」いいましたね。

中村 広い道やなて言うてたんやな。

西村 その道を「越渓(えっけい)バス」いうのが走ってたんやね。白い旗と赤い旗があって、白い旗を出しておくと上(かみ)へ行くバスが停まって、赤い旗を出しておくと下(しも)へ行くバスが停まるんやね。稲枝まで行って、(さらに琵琶湖岸の)薩摩(さつま)(彦根市)まで行って。ほれは便利がよかったんやけど、道はガラガラで道ばたの家は仏壇の中にまで砂ぼこりが入ってまう。うちも通り道やったけんどな。

中村 それに道によっては、台風とか大水の後、(水で土が流されて、大きな石が現れ)ガラッガラッになりましたな。河原みたいに。

 それで西村さんは馬駆けを見に行かぁたん?

西村 忘れてたんやけど、うちのヨメさんに言うたら、幣木(へいぎ)の字を書きに行ったらしい。こんなごっつい幣木にね。ヨメさんも「私も見に行った」って(笑)。

藤井 忘れてた?

西村 忘れてたわい。

 当時は新聞などで知らせるわけでもないから、○月○日にどこそこであるというのは口づてに伝わったんですか?

zadan3.jpg▲昭和30年5月、秦川村と八木荘村が合併して秦荘町が誕生したことを記念して大字沖で馬駆けがおこなわれた。写真はスタート直前のようす。

藤井 馬方(うまかた)が言って回るんや。馬を飼ってる者も。

西村 字(あざ)に2軒ぐらいはだいたいあるんや。トラック代わりやかいな。

田中 当日はすごい人出だったんですか?

中村 それはもう。

▽この中で馬駆けを見に行った人は?

全員 はい。そらみな見に行きました。

西村 橋の上から見てた。

小杉(志) そんな近くまで寄れしまへんのや。

 この写真は宇曽川で、川の底を馬が走ったんですよね。

中村 こういう水がない時があるかと思うと、台風ではみな決壊しましたんやな。

藤井 あそこに立派な家を建てはったら流れてもたことがありましたんや。

西村 泥といっしょに流れてきたヤマイモが何本もうちの桟(さん)に引っかかって(笑)。

小杉(時) 伊勢湾台風とかひどかったな。昭和34年や。

▽この馬駆けというのは、一種の競馬みたいもんだったんですか? 賭事をする。

西村 賭事やない。幣木いうてね。それに賞と褒美が書いたるんや。

藤井 馬そのものはね、その辺の飼ってる人が連れてきたもんです。

▽ふだんは田を耕してる農耕馬なんですね。

藤井 荷馬車をひく馬も。うちの親父も14歳の時から馬を飼うて馬車引きしてたんやけど。

西村 軍から払い下げられた馬とかもいて、それはションとしたよい馬でした。

 私の知ってる馬車引きていうと、山から切り出した木を運ぶ馬車ですが、そうではないんですか?

藤井 今のトラックみたいなもんで、何か運ぶのにみな使うたんです。

西村 砂利やセメントを積んで運んでもろたり。

 なるほど。それからこの馬駆けに来てる馬も人も必ずしも秦荘町だけの人ではなかったんですね。これは沖(おき)でも調査したんですが、写っているのが地元の人でないのでわからないんです。

藤井 あっちこっちであったん。一番激しいのが八幡の宮さんに「駆け馬場」てあったんや。騎手はそれに出てた人とかに頼んで乗ってもろたん。競馬の馬と違うんや、馬力馬や、みな。

西村 ただ、競馬馬として飼育して京都あたりへ(競馬に)連れていった人もいましたけどね。

▽写真を見ると、「やり方が乱暴」という印象なんですが、けが人とか出なかったんですか?

藤井 ほら出る。これは勝負札(ふだ)のとこの写真がないんやけど、ほこでケンカが起こるんや。

西村 勝負札いうのは高い所から見てる判定の人がいるんですわ。それで誰が一等、誰が二等と板を騎手に渡すんやけどな。

藤井 ほの取り合いでケンカになるんや。それをみんな見に行くんや。

他の一同 へぇー。(笑)。

藤井 ほんで一着の人が馬の下敷きになって死んでまいよったこともある。ほれはこの写真の時ではないで。うちのやつが「馬駆けの勝負札には絶対に行くな」てやかまし言いよった。ほの頃は馬駆けが至るところであったさかい。何か記念の行事ていうと、馬駆けか餅まきか。

西村 それか、この辺は、秋の稲刈りが終わると芝居。

藤井 こんなもん、うっかりしてると石が飛んでくるさかい。馬がけった石がな。どえらいケガする時があるんや。

 写真で見ると、この日は上天気みたいですね。

西村 宇曽川いうのは、昨日まで水があっても、明くる日には水がないのな。猫が行きよったなと思うと、水がなくなった川底で魚がはねてたり。だから「嘘(うそ)川」なんやなと思たぐらい。

藤井 水が引くのが早かったんやな。

西村 湖東町の小八木あたりでは、コイの養殖やらが盛んやったんやけど、大水になるとそのコイがみな宇曽川に逃げよおるんやわ。子供の時、それを狙て釣ってたんやわ(笑)。

小杉(志) よう水が出ましたものな。宇曽川は。

ほんま撮ってくださいて言わんばかりに、子どもを抱いてな。

 馬駆けに比べると、下八木の獅子舞は写真に写ってる人が地元の人で、誰かがほとんどがわかるんですね。

小杉(時) 見に来る人は、北八木、島川や目加田(めかた)くらいやな。

中村 わりにほうぼうでありましたさかいにな。

小杉(志) 下八木では正月呼びし兼ねて(親戚を)呼んではった。

西村 下八木は1月の18日、島川は12日。

藤井 島川が終わったら、吉田へ行きよるんや。

 来る組が違うそうですね。

▽見てる人は入場料みたいなもの(木戸銭)を払ってるんですか?

西村 個人の家に来る時は、米一升とかを包んで竈祓いしはるん。あとで字として総回しいうて。

小杉(時) あれはだいたい青年団がしてやぁたんや。

小杉(志) 字中のお金を集めて払わぁるん。

田中 すると、会場になる場所は毎年違ったそうですが、青年団が今年はどこそこであるというようにふれて回ったんですか?

小杉(志) そんなことせんでも、こまかい字やかい。わかるん(笑)。雨や雪が降ったら、お寺の御堂とかになったり。

西村 わしが見に行ったのは、お寺の前でやってやぁたな。

▽「イモジの常(つね)さん」という方がおられて、今回の展示会名にも名前が使われているようですが?

 みなさん、常さんはよくご存じやったんですよね。

小杉(時) 「オヤジ」「オヤジ」言うてた。

小杉(志) 「オヤジ」ていう役回りやったんやね。ちょっと面白いこと言うたり。漫才でいうボケみたいな。

 滑稽なことをする役ですね。わざと失敗したり。調べてみると蒲生町鋳物師(いもじ)の人らしいということになったんですが。

田中 それでなぜ覚えているかというと、伊勢の神楽の中に一人だけ滋賀県出身の人がいたからということでした。
 馬駆けと違って、下八木の方に写真を見に来ていただくと、どんどん誰かがわかっていくんですよ。全員わかるんじゃないかというぐらい。時子さんも写っておられますよね。

小杉(時) (笑)家のおじいさんが写ってはる。けど、こんな写真を撮ってやぁたて全然知らんわ。

西村 その頃、写真て撮らへんさかいな。

 ▲昭和30年1月、大字下八木で行われた神楽。写真は観客をおどす獅子舞。中村栄子さんの夫の繁治さんが娘を抱いて写っている。

田中 (中村)栄子さんはなかなか感動のご対面やったんですよね。

中村 そうですねや。私、びっくりしましたんや。きょうだい3人で見たら、妹が「姉ちゃん、これ兄さんやんかな」て言うさかい。見たらどれもこれも、一番よい場所で見て、撮ってもろとかぁるんやわ。

西村 ほんま、あれトシオ君や思たら弟さんの方やったんやな。

中村 ほうですやわ。ほんま、撮ってくださいて言わんばかりに、子供を抱いてな。これがうちの娘のクニコですねや。昭和29年に生まれて30年やでな。喜んで連れてかはったんやわ。

田中 クニコさんはこの時のことを覚えているそうですよ。何か恐いのがせまってくるのを覚えてると。

中村 私、この首巻きも覚えてますのやわ。おばあさんもよう写ってやぁるんやわ。「おやまの道中」の写真。ここにな、着物着てシュッとしてやぁるやろ。これがうちの主人の母親なんですわ。

▽次は溜池での魚つかみですが。

 栗田(くりた)の魚つかみの写真は、菩提寺(ぼだいじ)の「魚幸(うおこう)」さんが落札した年で、栗田の人は一人しか出ておられないんですよ。その人が亡くなっておられます。

藤井 入札があって、高いところが落としよるんやかいな。若い衆が管理してたんや。

中村 こっちはヒシ採ってやぁるのは?

 そっちは栗田の溜池ではなかったんですよ。栗田でもヒシは採ったけれど、写真の場所は湖東町大沢の溜池らしいんです。

▽ヒシって、どうするものなんですか?

北村 ゆがいて食べるんです。水面の葉っぱの下に硬い実がなるんです。兜みたいな。

西村 菱形やからヒシなんやろ。

田中 塩とか味付けもせずに?

北村 砂糖・醤油を入れて炊いたりしたんやと思うんやけどな。それがおやつやったん。真っ白い実で栗に似たような味です。お腹ふくれるほどはないんですけど。

西村 今、ビール飲む時に食べる大豆の青いの。

▽枝豆。

西村 あれみたいにして食べた。

おばあちゃんが「仏さんに花を取ってきてくない」て言わはって

 ▲湖東町平柳にて。右の少女が北村ひさ子さん。手にネコヤナギを持つ。

 北村さんは、いくつか偶然が重なって、この写真に写ってるのがどなたかわかったんです。

北村 (笑)。

▽柴を背負った奥の女の子が北村さんなんですか?

西村 よう写ったるわな。これは。

 この場所は最初、秦荘町かなて言うてたら、知ってる人が湖東町の平柳やでと。この人は秦荘町に嫁いで秦荘町に勤めてはるがな、いうことで。それから確認させていただたら、間違いないということになりまして。

北村 これは小学1、2年生ぐらいやったと思うんやけども。当時の宇曽川の上流にあたって、国道307のあの辺がまだ改修されてなくて、河原にネコヤナギとかの雑木がいっぱいあったんです。この日はおばあちゃんが「宇曽川にはもうネコが出たるやろさかい、仏さんに花を取ってきてくない」て言わはって、従妹と2人で縄と鎌を持って行って、遊び半分で柴をしばってネコヤナギを持って帰ってきた。あれは3月の初め頃なのか、花のない時期なんですね。
 そして、平柳の北から帰ると、いま信号があるところよりもちょっとこっちなんですけど、そこでその浅岡さんという方が「写真を撮らしてくれんか」とおっしゃったんです。ほんで、なんともなしにポカーンとした調子で撮ってもろて、家へ「写真撮ってもろた」て言いもって帰ったら、おばあちゃんが「こんな柴の背負い方をどこで教えてもろたんや」てすごいほめてくれたんです。当時は柴でお茶沸かしたり、薪でご飯炊いたり何でもしてましたもな。「こんだけあったらみんなお茶をよばれられるし、ほらぁ利口もんや」てほめられてね。
 それから、ちょっとすると新聞に載ってたんです。当時、私自身は漢字が読めなかったから父親が記事を読んで聞かせてくれたんです。で、父親が新聞社へ写真をもらいに行きもしたようですが、いただくことはできなかったんです。そして、あれから50年近くも経って、写真を持って訪ねていただいて、秦荘に住まわしてもらってよかったと思ってます。すごい偶然です。

▽柴というと昔話じゃないですが、山へ柴刈りにというイメージがあるんですが、河原へ取りにいかれたんですね。

北村 馬駆けがあった場所よりもっと上流になるんですが、川の中ですね。国道307からすると左側が里(さと)(大字)の山になるんです。小さなマツとか雑木がいっぱい生えてたから、みなが採りに行ったんです。

藤井 いまはゴローンと変わってもたさかい、わからへんわ。

田中 昔の307は舗装はしてないといっても、わりにきれいな道ですね。これは昭和31年か32年ですね。

 いや、もうちょっと前ではないのかな。北村さんが昭和18年生まれで、小学1、2年の時だということですから、25年ぐらいか? ちょっと合わないんですけど。

北村 それが頑固な頑固な父親で、兄弟みんな「これが親かなあ?」って思うぐらい頑固な父親やったんやけど(笑)、その写真をもらいに行ってくれたいうのはやっぱり子供のことを一番に思ててくれたんやなあてわかります。

昼、役者を集めて博打をしょぉるんや。それが目的や。

▽では、最後にこの小屋芝居について思い出をお願いできますか?

 ▲蚊野の青年たちがつくっていた劇団「美嶋クラブ」の面々

西村 西出のリサブロウさん、あの人は家に役者を泊めたりして、興行を商売にしてやぁたん。島川でもありました。

 だいたいは大きい集落でやったそうです。蚊野は竹薮でやったということですが。

西村 普通は田んぼか、神社の御旅所です。

田中 小屋芝居には一座を呼ぶんですが、地元の青年らでつくった「美嶋クラブ」も間に演目を入れてもらってやってたそうです。美嶋クラブ単独の発表会にやっておられたそうです。

▽演目は、時代劇なんですか?

西村 そう。

田中 一日に3つの演目をやると決まってて、1番に時代もので、2番目に現代もので、間に中入れを入れて、最後に股旅(またたび)ものて、決まってたそうなんですよ。

藤井 小屋いうても幕が張ったるだけやかい、雨が降るとジャジャもれで中止になってまうんや。

西村 興行主になる人はちょいとね…。

藤井 今でいうヤーサンみたいなもんや(笑)。ほやかい、昼、役者を集めて博打をしょぉるんや。それが目的や。

一同 あーっ。

▽要するに役者から巻き上げるんですか?

藤井 そやっ。

田中 芝居代だと払っておきながら、またそれを巻き上げるわけですか(笑)。

藤井 今晩あるていうと、役者2、3人が在所中、その晩の演目を言うて歩きよぉるん。そして晩にお客さんが来ると、座敷いうて買うやつがあるん。ムシロ1枚を買うと、1枚なんぼで敷居代を取りよる。そこで芝居を見もって、みな一杯呑まはるんや。

 芝居は夜にあるんですか?

藤井 夜。観客の側にまで裸電球はついたるん。昼は誰もおらんさかい、わしら子供の頃は敷いたる畳の上で遊び回った。うちの隣の田んぼでもやりよったさかいな。

西村 始まる前になると、追い出されて。

田中 浅岡さんは、湖東町の長(おさ)や北菩提寺の押立(おしたて)神社での芝居のようすも撮っておられて場所の特定が難しかったのですが、この写真は絶対に蚊野だと言えたのは、後ろにかかってる紙に蚊野の人の名前がいっぱい書いてあったんです。これをハナと…。

藤井 ああ、ハナや。役者がもらえるんや。好きな人が祝儀であげるわけや。

 あったのは、昭和20年代までですかね。30年代にはないでしょう?

田中 でも、この写真の頃でも美嶋クラブの方によると、3輪トラックに役者を載せて運んだとおっしゃるので、3輪トラックがある頃まではやったはずなんです。

西村 わしの記憶では、戦前までやで。兵隊から帰ってからはもうなかったも。

藤井 ないない。

西村 そういうもんがなくなって、わしら兵隊から戻ってからは、素人芝居やった。祇園(ぎおん)(湖東町)に先生がやはったん。

藤井 いや祇園やない。どこやった?

西村 西堀さん。湯屋(ゆや)(湖東町)の西堀さんいう人に毎日来てもろて。私らも会議所で並ばされて、順番に顔を見てね、「お前は○○やれ」「お前は○○をやれ」て言われて。ほと、あかんのや、わしらはオジイの役とかな(笑)。やっぱり男前のコウちゃんらはええ役やった。わしら、オジイでしわを描いてもろて。

田中 それは、女の人もやらはったんでしょ?

中村 やりました。「紫小唄」を踊った。「流す涙~は…」。「祇園小唄」とかも踊ったりな。

藤井 セリフを覚えるのがたいへんやねん。

西村 それと言うと悪いけど、色恋の始まりやって。

藤井 そうそう。

西村 男優と女優がええ仲になってもてな、どっちが芝居やらわからんようになってもて(笑)。なんせ戦争が終わってからの慰安みたいなもんやったからね。

▽お話はつきないようですが(笑)、この辺で…。本日はありがとうございました。

秦荘町歴史文化資料館について

秦荘町歴史文化資料館

●〒529-1202 愛知郡秦荘町松尾寺878
●JR稲枝駅より蚊野行きバスで金剛輪寺下車すぐ
 名神高速道路「彦根IC」から車で15分。「八日市IC」から車で20分

●Tel.0749-37-4500
●開館時間:10時~17時
●入館料:大人300円、小中学生150円
● 休館日:月曜日
  http://www.town.hatasho.shiga.jp/rekibun/

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