『湖の辺 女ものがたり』のこと
3月5日(火) 午後2時~ 新旭町役場2階会議室にて
「まだ、やってるんかぁ」て言われるんですよ(笑)。
▽活動が始まったのは、6年前の平成8年とのことですが?
▼公民館では、生涯学習の場として「さつき大学」が開かれているんですが、その頃、女性セミナー教室があり、講座の中の一つに「女性史づくり」があったんです。なんと奥深いものか…ということが後からわかってきたんですが、その時は気楽にスタートしたのです。
▼この町の繊維をはじめとする産業や農業を支えてきたのは女性たちであり、戦争という厳しい時代の波を越えてこられた女性たちの生きざまを教えていただきたいという思いがあったんです。
▼講師の鈴木ゆみ先生にお教えいただき、具体的には公民館の4階の部屋に定期的に集まっては話し合い、即、高齢者の方をお訪ねしてお話を聞く人も出てきました。それから、各大字で5~6人が集まって聞き取りをしたり、社会福祉協議会が催している80歳以上の方を集めた高齢者の集いという場で、メンバーが余興を披露した後で話を聞かせてもらったり。春にスタートして、秋の終わりぐらいに、「これはとてもやないけど今日、明日でまとまるようなもんでないなぁ」と思っていると、家庭での女性の姿を演劇で表現する企画が持ち上がって、そちらに活動を2カ月ほど移したり、それから、新しいメンバーが加わられたり…。
▽6年間の間にはいろいろ紆余曲折もあったと。
▼同じ人の所にまた行くと「まだ、やってるんかぁ」て言われるんですよ(笑)。
▼時間がかかりすぎたもので、町の広報を見ていたら、以前に聞き取りさせてもらった方が亡くなられておられたりして本当に申し訳なかった。
▽私が最初、経緯を知らずに読んだときは、娘がじつの母親に聞いているのかと思ったぐらいプライベートなことまで聞き取られてますね。
▼ほとんど他人です(笑)。
▼聞き取ったものをこちらで編集させていただいたものと、ご自分でお書きになったものの二通りがあるんです。
▼最初はその人の一生を聞き、次は女学校時代とか、一部にポイントを絞って聞くわけです。織物をやってた人なら、織物についてとか。何回もうかがってると、だんだんと親しみも湧いて「そこまで、よお聞いてくれやぁたな」と言われたり。話したかったんでしょうけど、なかなかお嫁さんとかにも言えないんでしょうね。行くと「待ってました」という感じで。
▼今まで生きてきた中で、一番言いたかったというのがだんだん出てくるんやね。
▼ 私は昨年からの参加ですが、皆さん、どういう風にまとめたらいいのかということで困っておられたんですね。ポイントをしぼった取材の必要性、全体の構成としても、職業だとか、時代だとかでくくれるのではないか、この辺りが抜けてるとかいうことを指摘させてもらって、補って。
▽皆さん一人あたり何人ぐらい担当されたんですか?
▼だいたい4~5人、多い人は10人以上ですね。
「いまだに言えない」という方も多いんです。
▼皆さん、今幸せやから、過去のつらいことでも話してくれやはるんやね。
▼昔のことを喜んで話される人もあれば、思い出して涙を流される人もおられます。それに私がびっくりしてしまって、このまま取材を続けてしまっていいのかなあと思った時もありました。
▼人によっては、何十年たってもいまだに言えないことがありますからね。戦場へ行かれた男性は多いと思うけど、女性でも同じように。載せてあるのは、どうにか「いまだから言える」という方で、「いまだに言えない」という方も多いんです。
▽「匿名」で掲載の方もかなりおられますし、特に印象的だったのは、半ページぐらいと非常に短い方。ご主人を戦争で亡くされ、その後のご苦労の部分はすっぱり抜けています。
▼私は2月に県の遺族会の戦跡慰霊巡拝の旅に参加しまして、戦死したおじに呼びかけをして改めて戦争の悲惨さに、また残された者の悲しみに言葉をなくしました。書こうとしても書けない方の心が痛いほどわかったように思ったんです。
▽ほとんどの方の場合は、掲載されている量は一部なんですね。
▼それがとにかく難しかったんですよ。長い人のはどこを削っていいかわからない。
▼お一人で自分史が出せるほども文章を書かれた方もいらっしゃいました。奉公に行った頃のことから何から。
▼本当に昔の人というのは皆さん、日記をつける習慣があったのかと思うぐらい、何年何月に主人が…というように克明に覚えておられます。
▼私は自分も仕事を持っているので、職業を持っている女性の人生に興味がすごくあったんです。お聞きした美容師の方は、徒弟制度の厳しい、仕事は教わるではなく、家のこともしながら、先生から技を盗むという時代だったわけですが、もう昨日のことのように「こうしてな」「ああしてな」と非常に細かく覚えておられて。
もう一人、『わだち』という歌集を出された方は近所の雑貨屋さんで、そこはなくてはならない地域の交流の場になってた店なんですが、早くにご主人が亡くなって子どもさん5人を育てられて、今でも童女みたいなかわいらしい顔して、短歌を詠んで暮らしてらっしゃる。
▼ 私も小さい頃から「お菓子屋さんのおばさん」として接してた方で、短歌をつくられるのも知らなかったのですが、文才のある方なので、お願いに行って「これだけの枚数にまとめてください」と言ったら「………」って言葉をなくされて。ちょっと考えてから「わかった。やってみよか」て言うてくださって。
▽おおむね聞き取りなさったのは皆さんの親の世代というところですね。結婚などでも、「結婚式の日に初めて相手の顔を見た」とか。皆さんの頃には、いくらなんでもこんなことはなかった。
▼なかった(笑)。
▽他に多かったのは京都への奉公ですが、これも皆さんの頃には?
▼戦争で途絶えて、戦後はなくなった。
▼私らはまだありました。
▼私は行きました。花嫁修業なんですね。行儀見習い。
▼料理から何から全部できるようになって、つらいことも我慢できるようになる。
▼奉公の話では、夜に夜空の星を見てるとふるさとのお母さんや兄弟のことを思い出してね。それで歌をつくったり、なんとも健気というのか…。奥様からいただいた見たこともないような大きなナシを一人で食べていると弟にも食べさせたいなぁと思われたそうです。
▽「一人食い」っていう言葉が出てきましたね。
▼私が寄せてもらった方は2人とも、時代が時代で、みんなが行ったから、つらいとも思わずということでしたけど。
子どもをフゴにしばって田んぼに出てしまうんですから。
▽そして結婚すると、新旭町は総戸数の多くが農家でしたから、農作業をすることになる。
▼土地改良や圃場整備が行われるまでは、琵琶湖岸の方はジュクジュクの湿田で、中央あたりの新庄(しんじょ)というところは水がない。
▼うちらの新庄の辺りは「新庄の日焼け」て言われて。
▼湿田(シル田(た))では大きな板をはくんです。
▽いわゆる田下駄ですね。「なんばん」というとも出てきます。それから田舟で稲刈りをしたこととか。
▼稲を運ぶのでも、足場板の上を歩いて運ぶんですけど、足場板をふみはずして、もう上から下まで泥だらけで作業してきたと聞きました。
▼稲刈りでも5~6人の家族全員がかかって1週間ぐらいかかった。
▼田植えでも腰が痛かったな。みんな並んで植えていきますやん。そうすると腰伸ばしてる暇もないんやね。一生懸命ついてかならんから(笑)。
▼途中で一回腰を伸ばしてまうと、植えた列が曲がってくるんやね。どうしても足の角度が変わってしまうから。
▼お嫁さんというのは、ほんとその頃は「労働力」としか見られてないんですよ。子育てもお姑さんに全部まかせて、自分は田んぼに出て働く。お姑さんが赤ちゃんを連れてお乳を飲ませにくるんですが、まだ赤ちゃんが飲んでるうちから時間を見計らって引き離して帰ってしまうとか。
▼お姑さんが子どもを背負ったまま、吸わせたとかね(笑)。
▼乳母車に子どもを乗せて田んぼに行くと、雨が降ってきて、乳母車の中がビショビショになった時というのは、何とも言えない情けない感じだったとか。同じようなお話を何人もに聞きました。
▼家の柱にくくっておいたとかね。
▼お母さんは昼に家に帰っても、上に上がらずに土間でお乳を飲ませたり。
▼子どもをフゴにしばって一家全部田んぼに出てしまうんですから。
▼かなり大きくなった子でもフゴに入れるものだから、自分でフゴから出て、遊び回ってたとか。そんで、親が帰ってくる頃になると、自分でフゴの中に入ってチョンとしてたて(笑)。
▼(全員笑)
▼今はこうやって笑ってるけど、本当にそうだったんですよ。
▽子どもの頃の思い出としても、下の弟や妹の子守りをしながら学校へ行ったという話なども多いですね。
▼私がその一人ですわ。10歳上の姉に連れられて机と机の間にチョコンと座ってたの覚えてます。「おとなしゅうしてたよ」て言われた。
▼笑い話としてね、兄が弟を連れて学校行ってたら、弟の方が先に覚えて「はい」て答えたいうて(笑)。
▼(全員笑)
▽中に載っていた話では、弟か妹を連れてきてて、退屈してゴソゴソしだして「静かにしててや」と言われて帰ったという。
▼農繁期などはお昼までの授業でしたから。家の手伝いのために。
▼その頃の親というのは子どもも労働力と考えていましたから、学校でも簡単に休ませましたね。
▼私なんかも「子守り」のために学校休まさせられた。前の晩から言うと私がすねるさかいに、その日の朝に言うんです。「学校休んでくれ」て。するともう私は「学校行きたい」てすねて、お弁当持たんと家飛び出したこともあります。
▼子どももそういうもんやと思てたし。家の中でも仕事の割り当て、分担があったな。次男はお風呂の水くみやとか、お姉さんがご飯炊きやとか。
▼お嫁さんの仕事では、どなたに聞いても出てくる話が、薪(まき)や柴をとりに井ノ口山へ行って、お昼になると急いで帰って。そして。お乳をやってまた田んぼへ行ったという話です。
▼ 薪取りというのは、雪が降るまでの仕事とされてはいましたが、実際には雪が降ってからも山へ行かなければいけなかったって。お嫁さんのこうした待遇というのは、明治・大正の人は当然というかそういうものだと諦めた。けど、昭和10年代の生まれで、今60歳少し過ぎたぐらいの人からは、批判的な目が生まれてきたと思うんです。私がそうだけど(笑)。
エプロンがけはカモフラージュやったん。
▽もう一つ女性が支えたものとして、地場産業の機織り、特にクレープは全国生産量の5~7割を占めるという地域だったわけですが。皆さん、農業しながら、機織りもやっておられた。みんな家に機織りの機械を置いていたわけですか?
▼夏なんか窓開けられへんくらい。ガチャガチャガチャて大きな音がして。
▼会社という形もありましたけど、いわゆる家内工業。住み込みの女工さんを何人か家に来てもらうという形が多かったです。
▼1960年代のいわゆる「ガチャ万時代」、ガチャと音がすれば万のお金がもうかるという時代。
▼その景気がよかった頃を私は知らないんですけど(笑)。何人もの住み込みの女工さんの食事の用意とかも全部お嫁さんの仕事でした。自分も機を織りながら、それを当然のようにこなしてこられたそうです。
▼クレープの撚(よ)りをつくるために「水撚り」といってカセで糸が入ってきた状態でノリをつけて、それを撚るんですけど、水とノリが飛んできてすごいんです。ベチャベチャになって。
▼撚糸(ねんし)は「寝んし」いうてね(笑)、眠る暇もなくて、ほんとしんどかった。
▼聞かせてもらった中でも「撚糸は女の仕事」とされてて、朝早くから夜遅く12時ぐらいまで工場に入って、子どもも手伝わせて、主人は晩ご飯食べたらのんびりしてるのに…て思いながらやってたそうです。
▽印象に残ったのは、自分が機織りをしてだんだん技術が向上していく、きれいに織れるようになっていくのを喜んでいるさまを書いた文章でしたが。
▼躍り上がって喜んだという。
▼でも、やはりつらさの方が勝ってた。
▼いつでも前掛けして(笑)。というのは、女の人がどこかへ出かけるというのは機(はた)が止まるということになるので、なかなか外に出してもらえなかったんですね。だから、どこかに出かける時は前掛け(エプロン)をしたまま行き先の近くまで行って、そこでエプロンをとってということをしたと。
▼エプロンがけは、カモフラージュやったん。これはそんな明治とか大正とか昔の話ではなくて、つい最近までね。
▽そうやって働くから、お嫁さんの方にもいくらかお小遣いがあるようなことはないんですか?
▼それはない。なかった。
▼姑さんが帯とか腰巻きとかもお盆とかに買ってくれやぁるんですけど。財布の紐はご主人が持っていました。
▼私は昭和34年にお商売(美容院)を始めたんですけど、その頃でもパーマの代金は夫やお姑さんからもらってということでした。昼間は工場の仕事をせんならんから出してもらえないので、夕方から子どもを連れて。お盆とお正月と祭りの前、この年3回が書き入れ時でした。
▼今は衰退していますが、昔「日本かみそり」とか「扇骨(せんこつ)」とかも地場産業として有名だったんですよ。
▼工程も多く「昼夜を問わず」っていうくらい忙しかったそうで、職人さんの家も大変だったやろと。
▼技術が他所に知れるのを恐れて、在所内で婚姻を結んだってことが驚きでした。
▼琵琶湖のほとりでは、農業ももちろんやりながら、ご主人と二人で漁に出てた方もいます。
▽魚というと、食べた物として鯖(さば)がよく出てきます。こちらの方にとっては当然のことで意識されないと思いますが、琵琶湖ではなく日本海の魚を食べている。
▼若狭湾が近いからね。鯖街道てあったんやから。小浜(福井県)から籠に塩漬けの鯖やら何やらよおけ入れて、背中に背負って売りに来られるんですね。
▼来るのは4月のお祭り前が多かったです。塩鯖で何でも料理をしはったんです。ふだんはモロコとかフナとかを食べてて、鯖はやはりご馳走です。
▼あと、ヘシコて知ってる? ▽あの塩辛いやつですね。
▼アジとかサバとかいろいろあって。今は減塩、減塩いうてあんまり食べやぁらへんけど。
▼糠(ぬか)ばっかで、なかなか身が出てこんの(笑)。塩辛いさかい、ちょっとでご飯が2杯ぐらい食べられる。
▼まだ新旭町はそれほどでもないけど、朽木村の方とかだとヘシコは保存食として大事やったやろね。
▽そういうふうに日本海側と交流があると向こうから嫁いでる人も多いんですか?
▼機屋さんに織り子さんとして来てた人が、ここの人と結婚してというのはよぉけやぁる。
▼小浜とかから住み込みで。あとからは九州からも集団で就職に来られて。
▽変わったものとして、交通機関ですか、昔は船、太湖(たいこ)汽船(昭和26年、琵琶湖汽船(株)に社名変更)の定期船をよく利用したと出てきますが。
▼そうです。そうです。
▼「そうです」てあんた知らんやろが。若いのに。
▼いや、せんど聞いたさかい(笑)。
▼舟木から近江八幡までとか。雄琴までとか。汽車を使うよりも、安かったんやね。
▼うちの大正14年生まれの母から聞いたことなんですけど、その母の母が大正の初めに安曇川町の川島という所から今津まで汽船でお嫁に来たそうで、里帰りは母も一緒に船に乗って帰ったそうです。
そら豆を植えてる最中にツルンと出てしもて…
▽この本全体の印象として、人口1万人ほどの小さな町にもかかわらず、いろいろな経歴の方が入っているので、内容的な厚さが感じられました。例えば、中国からの引揚者の方。
▼ トラックと汽車と乗り継いで、その道中にお母さんが高熱を出されて、他の人と別れて1カ月ぐらい留まり、治って出発すると荷物を盗まれたりして、6カ月もの時間をかけてここまで来られた。その人は近所の人やから引き揚げてこられたということは知っていたんですが、そんなに詳しくは知らなかったです。
▼わりあい身近にいらっしゃるのだと思います。うちの主人の両親も外地から小さな子どもを連れて、必死の思いで帰ってきたそうです。姑は当時のことはあまり話さないまま亡くなりました亡くなりました。すべてを失ってですから思い出したくなかったんでしょう。残留孤児になっていたかもしれない主人をとにかく「よう連れて帰ってきてくれた」と。
▽あと、在日韓国人の方も入っています。
▼ 親しい方にご紹介いただいて、ご無理をお願いしてメンバー3人で寄せていただいたんです。他に2~3人の方も呼んでくださってお話をうかがったのですが、最終的にはご自分のお母さんのことを書いてくださる形でお頼みしました。日韓交流の活動などのお世話をされたり、いろいろなさっている方です。
▽それから女性の職業として産婆さん、お寺、神社の方とか。
▼3000人もとりあげたという産婆さんは私の主人の母です。栄養指導もやってたそうなんですけど、なかなか1日1個の卵とジャコが妊婦に食べさせてもらえない。ジャコでも女の人が尾頭付きを食べるのはあかんみたいな(笑)、そんな時代で。
▽子どもを亡くされた話も多いですね。
▼そら豆畑の話の方は明治生まれで、もう96歳なんですよ。8人産んだ中で、布団の上でまともに産んだのは長女だけで、後の7人は、昔から安産には体を動かすことと言われてたせいで、仕事などをしながら、その最中にみんな生まれてるんですね。で、そら豆を植えている最中にツルンと出てしもて股にはさんで家まで帰ったというんですが、けっこうあそこ畑から家まで遠いんですよ。
▼私が聞いた産婆さんの話では、妊娠中毒症の妊婦さんに「お医者さんにかからんとあかんで」言うても聞いてもらえず、無事に生まれたはよいけれど、翌日ご主人が「夕べ、家内は死にました」と言われてつらかったそうです。ほんまにそれは悲しくて。
▽戦時中に学童疎開を受け入れたお寺さんも出てきます。
▼大阪から80名の人をね。戦後でも何人かの人は懐かしがって毎年のようにお盆になると訪ねて来てくれたんですて。それで、ご住職の十七回忌の時には、その子らも還暦を迎えまして、境内に学童碑ていう塔を建てて、「ここは第二の故郷や」て言ったそうで、喜んでいらっしゃいました。半世紀も経ちますのにね。それで、戦後も里親制度を受け入れられて。
それはもう画期的なことだったんですよ。
▽新旭町は、町議会で県内初の女性議員さんが出た所でもあって、その松田美代さんについての文章も掲載されています。
▼当選が昭和44年(1969)です。
▼婦人会を発足させたのもこの人ですし。すばらしい方でした。
▼本当に自分のことよりも人のためにという方だったんです。ボランティア精神というか。自分ではユースホステルを経営しながらね。
▼当時の婦人会の役員さんらをはじめみんな一丸となって、それはもう画期的なことだったんですよ。同じ大字から男性も立候補されてたので、家庭でも主人はそっちの応援、妻は松田さんとたいへんだったんですが。この人の存在というのは大きかったですね。その感化を受けてるのが、この辺、みんな。
▽そのことが今回の活動のベースにもなってるわけですね。
▼そうです。確かにベースになってます。
▼本当に突出した、誰も真似できんような方やったんですけど、あの方もお嫁に来られたのは神職のお家で、難しい明治気質(かたぎ)のおばあちゃんにつかえて、そういう部分も受け入れながら、新しいものに目を向けるいうね。
▼あの方が偉かったのは、何かするにも自分だけが行くのではなく、必ず地域から何人かを集会や県庁などへ引っぱり出した。「あんたも来い」「あんたも来い」て。「女がそんなウロウロ出るもんやない、家の中にいればいいんや」て言われてた時代です。
▼近畿で女性初の副議長にもなられたんでした。それが「ちょっと検査入院するね」ておっしゃって病院へ行かれてそのままになったんです。ほんと惜しい人をなくした。火が消えたようになったという印象です。
▼私らなんかもよう叱られましたけどね。
▼ 昭和45年ごろに町の行政と一体になって粉石鹸使用運動も進めたんです。その当時で80%の家庭が粉石鹸を使用するぐらいになって。合成洗剤の回収なども含めて当時、新旭町はいち早く取り組まぁたんですよ。環境生協が、まだ「びわこを汚さない消費者の会」ていう名称のころです。だから、環境生協へ行っても「新旭町」というと石鹸運動の先がけとして一目置かれる。
▼今、また私たちの世代から次に世代交代して、石鹸運動も下火になってしまって合成洗剤が広がっています。一つの家庭をみても、私が粉石鹸を使ってたのが息子のお嫁さんの代になって合成洗剤を使うようになったり。結局、下の子供がアトピーになったらまた粉石鹸に切り替えてますけどね。いいことは今の若い世代に伝えたいと思っても、その難しさも感じています。
「みんなが代表、主役だ」という意識なんです。
▽それがこの本では第三部になっているわけですね。そろそろ終わりとさせていただきたいと思いますが、最後に何かございましたら。
▼やはり感じたのは、共同製作の難しさというものですね。
▼ みんな、仕事も生活条件も違うなかで、そろって集まるというのも難しい状況で、できる範囲で臨機応変にやってきたんです。そして、私が名目だけは代表という形になっていますが、「みんなが代表、主役だ」という意識なんです。月1回夜に行う定例会でも当番制で、当番になった人がその日の会議を運営するという形になってるんです。最初に一覧表をつくって。それが結果的に今考えてみてもうまく行ったんじゃないかと思いますね。
▼なかなか、男の人が会合に出るときのようにはいかない。
▼昔に比べれば、ずっと出やすくなったとはいえですね。
▼もちろん多人数のよさというのもあって、パソコンの得意な方が記録を引き受けてくださったり、表紙の絵や挿し絵などもその道に秀でた方がメンバーの中におられたので、各々の力を出し合ってできあがった本という感じです。
▽本日は皆さん快くお集まりいただき、楽しいお話をありがとうございました。
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