●編集部インタビュー

豊郷小学校改築問題

保存への声高まる―昨年からの経過

 豊郷町は、平成8年(1996)に校舎の耐震調査を実施。その結果、補強のための改修が必要だが、これには多額の費用がかかるとされた。昨年(2001)8月、町議全員、町教育委員会、PTAらの参加する改築検討委員会が図書館を除く校舎の改築を支持し、10月の町議会では改築を求める請願書が採択された。12月には解体工事に着手、14年度着工、来年(2003)春の完成の見込みとなった。

 しかし、昨年10月に卒業生や地元の人々が結成した「豊郷小の歴史と今後を考える会」では、シンポジウムを開催し、改築の是非についての意見を求める活動を展開。滋賀県立大学の西川幸治学長をはじめ建築専門の研究者も見学に訪れた。

 ここに来て改築の必要性だけを強調する町の姿勢への非難が高まった。

 12月12日には予算支出中止を求める住民監査請求を提出した住民が、解体工事着工を急ぐ豊郷町に対し、解体工事差し止めを求める仮処分を大津地裁に申し立てた。そして、12月17日には日本建築学会※1近畿支部が、「近代建築史上・教育史・文化史的に極めて貴重な建物。現地で保存活用を」という内容の要望書を寺田茂教育長に提出。講堂の解体を了解していないという古川家の主張や、建築専門家の提言が報道されたこともあって解体工事着工は延期された状態である。

 豊郷小学校の改築の是非が大きな問題とされる背景には、建設当時、「東洋一」といわれた優れた建築物であり、重要な文化資源であること、地元出身者の私財で建設された経緯、さらには60年余、地域の愛情で育まれてきたことなどの事情がある。

豊郷町と近江商人

 湖東平野の中央に位置する豊郷町には、近代化を進めた近江商人の足跡を見ることができる。豊郷での商人の歴史は中世にまでさかのぼり、美濃紙の特権を持った枝村商人の伝統は、江戸時代後期、明治にまで引き継がれた。代表的な豊郷出身の商人としては、北海道の漁場開発を行った藤野四郎兵衛、イトチュー・丸紅の商社を創業した伊藤忠兵衛・伊藤長兵衛、そしてパリに留学生の宿舎「日本館」を寄贈した薩摩治兵衛らが挙げられ、町内の豊会館や先人を偲ぶ館では、これら商人の業績を紹介している。

 豊郷出身の商人は、近江商人のなかでも、遅い時代に活躍したが、彼らもまた、本家はここ豊郷に置く、近江商人の典型だった。このことが、農村には珍しく進歩的な施設が次々と誕生し、「理想郷豊郷村」とすら称されるに至る背景となる。

 豊郷小学校が建設された当時の地元の新聞では「理想郷豊郷村を訪ふ」というタイトルで当時の豊郷村のようすが紹介されている。

豊郷小学校の歩みと校舎改築

 豊郷小学校の歴史は、明治6年(1873)四十九院村の唯念寺に創設された「成文学校」に始まる。明治20年には新校舎を建て「至熟尋常小学校」が新設開校され学校としての態勢が整った。当初79人だった児童数も年々増加し、明治30年には校地を拡大し、その後も増築が繰り返された。

 しかし、児童数が600名に達した昭和10年頃には、もはや増築する余裕もなく、校舎の移転・改築の必要に迫られる。さらに校区の分離という状況から、学校の位 置についても四十九院から西へ移転する案も出て、改築か移転か、修理かと種々の対策が検討されたが、予算の問題もあって解決の目処は立たなかった。

 こうした豊郷村の状況を聞いた古川鉄治郎から、10月15日付けで、村長宛てに手紙が届いた。寄付の申し込みである。

寄付申請書
1.豊郷尋常小学校敷地及び建物一切

  右大字石畑六町及び山道に於て買収、引続き建築竣功の上寄付仕度候間、
  後採納相成度、此段申請候也。
  昭和十年五月十二日
           古川哲治郎
豊郷村長 村岸峯吉殿

 事態は一変し、早速議会は満場一致で寄付を受け入れ、校舎建築の申請を行った。

 古川は土地を取得後、ただちにヴォーリズ事務所に設計を依頼。施工は竹中工務店が行うこととなった。当時最高の陣容である。さらに「校舎が良くなっても勉強はすすめられない。備品の調達も必要」と学校側に必要な用具や楽器などの調査を行わせ、すべてて必要な備品の調達をも行った。「必要なものはどんなに費用がかかっても構わない」と豪快に言い放ったので、建設資金は当初の予定を大きく上回り、60万円(今の約10数億円)に膨らんだと言われる。

 この金額は、当時丸紅の専務であったとはいえ古川の全財産の3分の2にあたった。こうした古川の行動を見て、伊藤忠兵衛は「大丈夫か?」と心配するが、「私の生まれ育った村のためになるのなら、どんな辛抱でもします。大丈夫です」と言い切ったという。

在校生の感謝の気持ち

 昭和12年5月30日、「雲一つなく晴れわたった空には煙火が轟き、各戸に掲げられた国旗は初夏の薫風にへんぽんと翻っていた」と『滋賀県豊郷村史』は当日のようすを伝える。竣工式は村挙げて盛大に行われ、児童はもとより、村中の人々が天にも昇る気持ちでこの日を迎えたという。

 式典で挨拶をした校長先生は、涙が溢れるばかりで言葉にならなかったと伝わる。中央部が突出し、左右対称のデザインは「白鷺校舎」の異名を持ち、建設当時東洋一の小学校といわれた。鉄筋コンクリートづくりの校舎としては国内で2番目となっている。

 古川の篤志に応えるべく、教職員らは生徒の教育に情熱を傾けた。奮わなかった運動は郡内のトップになり、珠算・習字・図画などの技能科目の競技会では優秀な成績を収め、学力も著しく進展していった。外観に伴うだけの内容の充実をとの意気込みがあった。

 戦後はとくに情操教育に力を入れ、昭和35年(1955)には情操教育全国大会を開催し、教育の成果を発表。翌36年にはソニー株式会社の創立十五周年記念事業の理科教育振興基金に応募し、最優秀賞を受賞した。内容の充実を目指してこそ本当の日本一になることであるという先生方の教育がここに開花した。受賞後は一年に3000人の参加者があり、校長先生は紹介資料を作成して対応する一幕もあった。

 古川への感謝の気持ちは、今も在校生に引き継がれ、毎年5月30日の校舎竣工記念日には、四十九院にある古川の納骨塔に全校児童が集まり、感謝する行事が行われ、校内の古川の胸像に花を供えることが恒例となっている。

 校舎竣工から3年後の昭和15年、62歳で肺炎のため帰らぬ 人となった古川であるが、前庭の右手から、今も児童のようすを静かに見つめている。

肌で感じる教育実践校

 平成11年(1999)豊郷町観光協会は、近江商人発祥の地の探訪ツアーを継続開催してきた滋賀県AKINDO委員会との共催で、豊郷町の探訪ツアーを計画した。一般 の人が団体で豊郷小学校を見学したのは初めてだったが、多くの参加者にとって、どの見学地よりも強く印象づけられた。

 講堂を案内した町内在住で元教諭の藤 實さんは、ソニー基金の授与当時を思い出して涙を流され、それでも誇らしく紹介された。そして、翌年の町内探訪ツアーにも校舎見学がメニューに取り入れられた。

◇ ◇ ◇

 卒業生の一人は「木の廊下はワックスの臭いがして、いつも光っていました。傾斜のある講堂をみると、身が引き締まる思いがする」と語っていた。12月21 日付の新聞県内版によると、平成10年(1998)に町教育委員会が行った住民アンケートでは、「校舎を耐震補強して保存する」という意見が約半数を占め、「記念館等として活用する」を合わせれば、8割を越す人が取り壊しを望んでいないことが明らかになった。

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