対談 長浜曳山祭の過去と現在 中島誠一×市川秀之

中島誠一さん
なかしま・せいいち/1950年、長崎県生まれ。長浜城歴史博物館館長、長浜市曳山博物館館長を歴任。2017年2月退職。
市川秀之さん
いちかわ・ひでゆき/1961年、大阪府生まれ。専門は民俗学・博物館学。滋賀県文化財保護審議会委員

調査開始からユネスコ無形文化遺産登録まで

──まずは、お二方それぞれの長浜曳山祭とのなれそめからお話しいただけますか。

中島 関わった最初は、長浜城歴史博物館の学芸員になった昭和59年(1984)、入れ替わりの前任者が担当するはずだった特別展「襖絵の美」※1が決まっていたので、入ってすぐの4月に「あなたがやりなさい」と言われて。特に襖絵は、観客から見えない部分だということもあって、最初とまどいましたね。

 それまでにも曳山は数回見ていましたが、学芸員の仕事として関わると、おいそれとはいかないという印象を持ちました。ある祭りを見に行って、帰って原稿を書こうと思ったら何も書けないなんてことも、よくある(笑)。

──どこから書けばいいやら、という感じでしょうか。

中島 長浜曳山祭は、非常に規模が大きくて複雑ですからね。13組あるので、1カ所から見ているだけでは、全体像をなかなか把握できない。

市川 まさにそれは思います。

中島 困っちゃいますね。それは他所からの見物客も大勢来るような都市の祭りの特徴です。ただ、耳に入る音、目に映るものは印象深くて、曳山が自分の前を通っていく時のギリギリギリという音だったり、曳山の上部がきしんで微妙に震える光景はよく覚えています。

 それと、見送幕※2にヨーロッパ渡来のものが使われているので、すごくエキゾチックな感じを受けました。私は出身が長崎県佐世保で「長崎くんち」のように南蛮文化の影響を受けた祭りになじみがあるのですが、長浜の曳山も、日本・中国・ヨーロッパのいろんなものが混ざっている。それが一種、独特の雰囲気をつくりあげていたんだなというイメージが強くあります。

 その後、平成22年(2010)に曳山博物館に移りましたので、ずっと関わってきました。

──市川先生が、最初に長浜の曳山に関わられたのはいつになりますか。

市川 曳山博物館に調査の打ち合わせに初めて行ったのは平成22年でしょうか。

中島 市川先生たちは、東日本大震災が起こった平成23年3月11日、ちょうど曳山博物館にいらっしゃって会議をなさっていましたね。

市川 そうです。あれは忘れません。

中島 会議の途中で私が、「いま大変な地震が起こっていますよ」とお伝えしたのを覚えています。すぐ、その年の祭り自体が行なわれるかどうかわからないという話になりました。こういうときに祭りをしていいものかと考えもあって。特に裸参り※3はいけないのではないかとか。

市川 神輿の渡御は中止になり、裸参りは、自粛を決定した中老と、やりたい若衆の間で衝突がありました。これは印象深かったですね。

 その年から毎年4つの山が出るので、3年で12基を一通り拝見させてもらって、途中からは研究者というより、ただのボランティアになって、山曳きもしたので(笑)。

中島 そりゃすごいな。

市川 そうなったのも東日本大震災の影響なんです。その年までは自衛隊の人たちがかなり助けになっていたのですが、被災地への救援活動で一気に人手不足になったんです。翌年から、山組以外の人も呼ぶことになって、県立大学へも依頼がありましたので、私と今回の本の共編者の武田俊輔先生がいわば人行事(にんぎょうじ)※4みたいなかたちで、学生を連れていくようになったんです。

──昨年は、大きな出来事として、ユネスコの無形文化遺産に登録されたわけですが、そこまでの経緯を教えていただけますか。

中島 当初は国指定の重要無形民俗文化財の曳山は、順番にユネスコの無形文化遺産になっていくと考えられていたんです。祇園祭(京都府)、日立風流物(茨城県)、高山祭(岐阜県)、秩父祭(埼玉県)と指定の順に。長浜の曳山も昭和54年(1979)指定と古いですから、順繰りに登録されるだろうと言われていました。ところが、外国人から見たら、みんな曳山は同じに見えるからダメという話になって、仕切り直したんです。

 市川先生と武田先生による調査では、記録撮影もおこなわれたのですが、これはユネスコ無形文化遺産のための撮影でした。

──最初からそうだったんですか。

中島 最初からユネスコ登録ありきでした。市川先生らによる調査がユネスコ登録申請への基礎でした。調査の2年ほど前に県から指示があってのものです。

館内で上映されている紹介映像

館内で上映されている紹介映像は、市川教授らの調査の映像記録がもとになっている

市川 ユネスコでのプレゼンテーション用に映像記録が必要なんです。14分に編集されたものが作成されました。もとの全体の撮影時間は200時間におよんでいます。

中島 山組ごとにハードディスクが配られましたね。

市川 すべての映像記録がデータベース化されて、「○○山の登り山」というように検索すれば、映像を見ることができるんです。それとは別に、広報用にストーリー性、テーマ性のある短編が3つ制作されました。

中島 シャギリ編とかあって、曳山博物館でも上映しています。

市川 40分ぐらいのものをよく流していましたね。

中島 残念ながら、あの40分の長いDVDを回すと、最後まで見てくれる人は少ない。もちろん、お好きな方は最初から最後まで、じっくり見て帰られるのですが。

市川 あれはよくできていて名作だと思います。見た方がいい。

──そうした映像のおかげもあって、日本時間で昨年の12月1日(現地時間11月30日)に登録されました。決定したのは深夜2時だったそうですが。

中島 それは忘れられない。前日の夜からずっと待機していましたからね。他の候補地に問い合わせても、どこもわからなくて。

市川 ユネスコの委員会が開かれたアディスアベバ(エチオピア)が政情不安定で、情報が入ってこなかったそうですね。

中島 そうなんです。夜中の2時ぐらいになりそうだとなって、みんな寝静まった深夜に「万歳」もなかろうということで、私は自宅が湖南市なものですから、いちいち帰るのはいやだったんですが、翌日朝8時に集まることに決まったので渋々高速でいったん帰りました(笑)。そして、7時頃には館にまた来て8時に「万歳」。

──登録で何が変わったのですか。

市川 ユネスコの制度というのは、一銭もお金は出ません。逆に言ったら、日本の国の制度のなかできっちり保護されている、継承されているものを登録しましょうという発想ですね。

──メリットは、国内外への知名度が向上して観光客が増えるぐらいですか。

中島 それは長浜市も意識していますね。ただ、それで増える観光客は一過性のものでしかないとも、個人的には思うんですよ。曳山に関する市民講座を開いたり、曳山検定を実施したりして、着実にファンを増やすための取り組みが大事だと思います。


※1 襖絵 曳山舞台後方の、外からは見えない襖や天井にも、江戸から明治にかけての絵師による装飾画が描かれている。

※2 見送幕 曳山の背後を飾る幕。16世紀にベルギーで制作されたゴブラン織りを使用していた曳山が2基ある。

※3 裸参り 若衆が祭りの無事や役者の健康などを祈願して、八幡宮から豊国神社まで練り歩く行事。

※4 人行事 山曳き(山を曳く)のリーダー。かつて遠隔地から人を集めていた時代には、人を集める責任者が務めていた。


曳山にかかせない職人技の伝承に貢献

──年間を通じて曳山にふれることができる拠点として、平成12年(2000)に曳山博物館は開館していますが、これはどういった経緯で。

市川 昭和54年(1979)に国指定重要無形民俗文化財に選定された時、収蔵展示館を建設する案はあったそうですね。その時、すでに修理ドックを設ける案もあって。

中島 以前、まだそれぞれの山蔵で修理していた頃に、私も立ち会ったことがあるのですが、山蔵の中はむちゃくちゃ暑いんですよ。夏のことだから、家に帰ってみたら体中に発疹ができていたぐらい。

 曳山博物館にある修理ドックの存在は、技術を継承するためには大きかったですね。通常保管されている山蔵の中だと狭いから部分的にしか修理できなかったんです。それが修理ドックだと全体をできるので。

市川 曳山博物館のドックは温度や湿度の管理ができるので、漆職人さんの家のムロ(室)の構造の大きなやつというか。漆は乾燥してはいけないので、非常に湿度の高い状態をつくる必要があるんです。

中島 長浜の場合、見送幕以外は地元で修理できるというのが自慢です。

市川 選定技術者になっているのは、みんな長浜の仏壇屋さんですね。塗師(漆職人)が2人、錺金具師が1人。

中島 彦根仏壇も有名ですが、長浜の浜仏壇とは塗り方が違うんです。曳山は、長浜の頑丈な塗り方でないと駄目なんですよ。

市川 曳山博物館は、他の地域のヤマの修理にも使われていますね。

中島 最近だと三重県桑名の石取祭で使われる祭車の修理を依頼された職人さんが曳山博物館に連絡してきて、部屋を借りてやっています。

市川 福井県小浜の放生祭の山車を修理するのにも使われたり、ちょっとした修理の拠点になっていますね。

中島 構造として長浜の曳山より古い形だとされる長浜市宮司町の「颯々館」も修理しました。

──他の地域で、こうした拠点としての博物館はあるのでしょうか。

中島 今回ユネスコ登録された33行事でも、意外と拠点施設や団体を持っていません。公益社団法人になっているのは長浜と祇園祭だけで、あとは任意団体です。

市川 会館や展示館があるところは少ない。

中島 岐阜県高山市の高山屋台会館でも、広い展示室内にそのまま置かれているだけですから、長浜のように空調管理をきちんとやって展示しているところは、あまりないはずです。電気代でも年間600万円かかわりますが、相応の負担になるのは最初からわかっていたことです。

エアタイトケース

1階展示室の巨大なエアタイトケース(内部は温度・湿度が一定に保たれている)に収められた実物の曳山(長浜市曳山博物館提供)

市川 じゃあ、もし博物館がなかったら、どうなっていたんだろうという話ですね。

中島 本当に曳けない山が出てきたでしょう。そういった点で、修理ができる、情報発信ができる博物館の存在は長浜にとって大きいと思います。

 ただ、あまり先が明るいわけじゃない。錺金具の辻さんには跡継ぎがいない。漆職人さんの片方も「子どもに継がせない」とおっしゃってるし。もう一人の職人の娘さんの彼氏が興味を持ってくれたらありがたいんだが……とか、そのぐらい次の代はわからない状態です。

市川 それは大変だ。私は山曳きをしてみて思いましたが、最近の整備された道路は曳山にはよくないですね。

中島 コンクリートの石畳では、車輪も傷むはずです。でも、その車輪に使えるだけの木が日本にはなかなかない。

市川 日本の漆もなくなってくるし。

中島 修理には国産の漆を使う必要があるのですが、国産はとても高い。

市川 使えとご指導がある(笑)。膠もなくなってくるし。

中島 それは難しいところで、文化財の仏像などと同じで、曳山の工芸の修理は昔の手法で完璧にというのが指導の方針です。

市川 全部漆を取って塗り直すようなやり方はダメなんです。残せる部分は残しながら、最低限必要なところだけやる。

中島 だから山組の人には、「お金をかけているのにきれいになっていないじゃないか」と言われる(笑)。

 それから、曳山の場合、仏像と違って、つねに使われている一種の道具なんでね。舞台障子でも、きれいに直した翌年の舞台で子どもが破ったなんてことがある。そりゃあ、演技で刀を振り回すんだから。

修理ドックでの曳山の解体修理作業のようす

修理ドックでの曳山の解体修理作業のようす。下右は錺金具師の辻清さんによる作業。下左は三重県桑名市の石取祭の祭車の修理(4点とも長浜市曳山博物館提供)

周辺農村に支えられた都市祭礼

──つづいて話題を、市川先生らの『長浜曳山祭の過去と現在』に移したいと思います。

市川 平成23年(2011)の調査で、たくさんの人と組織がからまり合って長浜の曳山祭を支えている姿を目にし、非常に感心しました。私は民俗学が専門ですが、社会学や人類学の研究者もいっしょだったこともあり、人と組織という視点から祭りの姿を記述すると見えてくるものがありそうだと思ったんです。古いところでは、米山俊直先生の『祇園祭―都市人類学ことはじめ』(中公新書)、それから同じく社会学者の松平誠先生の著作などが都市祭礼の変容を記録してきました。今回の本では、それに連なる視点で、戦後から現在にかけて、長浜曳山祭を支えてきた人と組織、地域について論じています。

──伝統的な祭りや芸能というと、綿々と変わらぬ姿で受け継がれてきたと言いたいところですが、そんなことはありませんね。

市川 びっくりするほど変わっているんですよ。恥ずかしながら、私は長浜曳山祭が戦前までは秋祭りだったことも知らなかったのですが。戦争により昭和12年(1937)から10年以上にわたる中断があり、毎年12基が出ていたのが、4基ずつの出番山になりと、変化しつづけています。

 もう一つ驚いたのは、昔の方が都市的だったことですね。長浜の周辺村落からシャギリが来たり、山曳きは岐阜県などからも人がやってきたり、関わる地域が広範囲におよんでいました。これこそ長浜が豊かな街だった証拠だと思いますが、戦後はそうした周辺農村との関わりが減っていき、「長浜の市街地」に限定された祭りになりました。ここ半世紀というのは、長浜の山組住民が、自分たちでシャギリを伝承したり歌舞伎をしたりする努力をされてきた歴史です。このプロセスも非常におもしろいと感じました。

──昔の方が都市的祭礼だったという部分をもう少し説明していただけますか。

市川 京都の祇園祭もそうですが、滋賀県内でいえば大津祭も、曳山の解体は、所有する町がやっていたのではなく、担当の村があったんですよ。「見建て」、「山建て」と言うのですが。つまり、準備も芸能も周辺農村に任せて、曳山の町の住民はそれを見て楽しむだけ。それがもともとの都市祭礼です。戦後はそれができなくなってくるんですね。経済力が相対的に衰えたことや、農村地域の住民の多くが勤め人になるといった変化など、いくつもの要因がからんで、他地域の人にやってもらっていたことも、ほとんどを曳山を所有する町の住民でやる祭りに変化していくんです。現在の姿というのはもともとの姿ではなくて、戦後になって展開した姿なわけです。

 これは長浜や大津にかぎった話ではなく、今回、ユネスコで登録された33のお祭りの大半は都市祭礼ですから、そのほとんどが同じような経過をたどっています。

 戦後は特に観光化と文化財保護の動きが加わって、どこもが保存活動に取り組みますが、長浜はその効果が一番典型的に表れているように思います。

──長浜は、祭礼を継承するうえでの成功例と言えるわけですか。

市川 そうですね。一つの成功例ですね。

中島 いまお話があったように、戦争で曳山祭が中断し、戦後初めて子ども歌舞伎が上演されたのは、昭和23年(1948)に長浜市制5周年記念として4つの曳山でおこなわれたものなのですが、演じたのは東浅井郡小谷村丁野(現長浜市小谷丁野町)の振付師・二代目富士松山楽とそこの子どもたちだったんです。

──昨年、曳山博物館の企画展でも子ども歌舞伎復活の立役者として、紹介なさっていましたね。

中島 山楽さんという人は体が弱くて農業ができず、村でお菓子屋を営んでいて、歌舞伎芝居が趣味だったんですね。これは、中断後の対応策で外部から呼ばれたというのでもなく、もともと長浜の子ども歌舞伎は、山組の子どもらだけが演じていたわけではないんです。農村部には浄瑠璃を語る、義太夫を語る、歌舞伎を演じる文化が娯楽としてあって、曳山祭は、彼らの発表の場であったのです。曳山上で演じるのは、ある種のステータスでもありますからね。山組住民はお金だけ出して、こしらえた桟敷席で豪華な弁当などを食べながら、それを見物した。いわば旦那衆の祭りです。

 それが、先生がおっしゃるように、山組住民だけで維持する時代になると、昔からそうだったと解釈しちゃう。だから、私がこんなこと言うとね、いつも怒られる(笑)。

東浅井郡小谷村伊部で盛んだった村芝居のようす

東浅井郡小谷村(現長浜市湖北町)伊部で盛んだった村芝居のようす。演目に「太功記尼崎段」とある(昭和24年頃、小谷伊部自治会提供)

市川 今回の本もその歴史を前提に書かれていますから。子ども歌舞伎の三役※5を担った人々、素人愛好家からプロまでさまざまですが、彼らについては、今回の本の第5章と第6章の論文がまとめています。

 それからシャギリ※6(囃子)については、第3章と第4章の論文にくわしく書かれていますが、昔は周辺農村からの雇いシャギリだったものが、そうした芸能の文化が衰退したために、山組内でそれを継承する取り組みがなされたんです。

中島 そうです。例えば、長浜の布施という地域は神楽をやっていて、笛などの演奏が得意でした。そういう人たちがお手伝いとして曳山祭に来ていた。長浜の周辺の農村では、オコナイ行事などでも笛を吹く地域があります。

市川 どのお囃子も似ていますね。宮入りのときの笛とかと。太鼓踊りの演奏にしても、あれは長浜から普及したのでしょうか。

中島 そう考えたい人が多いですが、逆かもしれない。

市川 ベクトルがどっちなのか。

中島 長浜市余呉町上丹生の茶わん祭で聞ける、稚児の奉納の掛け声や演奏はむしろ長浜よりは古いかもしれない。「イャーウエィオーハッ」というのは、どこかで聞いた掛け声だなと思ったら、岐阜県垂井町にある南宮神社の神事芸能(国の重要無形民俗文化財)とほとんど同じなんですよ。だから、茶わん祭のからくり山についた見送幕も、長浜より古いものがある。

市川 祭りの形態は、茶わん祭が古いと思います。歌舞伎というのは時代的には新しいものですから。もちろん長浜は米原の曳山に影響を与えてもいるわけで、県外でいえば、福井県美浜町早瀬の春祭りで出る曳山は、長浜に大工さんをやって作り方を学ばせたというのがわかっていますね。影響関係のあった地域は、岐阜・三重、北陸は若狭・石川・富山あたりまで広がると思います。

──ユネスコに登録された33行事でもおっしゃった地域が密集地帯になっています。

市川 大工も三役もうろうろしますからね。

中島 それが民俗学の難しいところで、地元に伝わる由緒を信じられない場合が結構あるんですよ。例えば、垂井にある曳山は長浜のものを見に来て自分のところでやりたいと思って始まったとされていますが、本当かなと思ってしまう。

市川 予想外のルートでの交流があったりしますから。峠を越えてとか。

中島 そうなんです。私なりの印象ですが、江戸時代の宿場間の情報伝達のスピードというのは思いのほか速い。京都の桂川で中年男性と若い女性が入水自殺したとニュースになれば、その話が一気に広がって『お半長右衛門』のような芝居ができたり。われわれが考えている以上ですね。

──少し話を戻しますが、近年の変化としてシャギリに女子小中学生が参加できるようになりましたね。

市川 昭和40年代には録音テープをラジカセで流していたのですが、昭和46年(1971)に長浜曳山祭囃子保存会が発足して、小中学生に楽譜でシャギリを教えるようになりました。本書にもあるとおり、女子の参加には当初反発もあったんです。今も曳山は女性が触ったらダメなんです。

女子小中学生によるシャギリ

現在、10の山組ではシャギリ方に女子小中学生が参加している(滋賀県立大学曳山まつり調査チーム提供)

中島 触ったら大変なことですよ。

市川 祭りは女人禁制ですから、子ども歌舞伎の稽古でも、稽古場には女の人は絶対入れません。役者に選ばれた6歳ぐらいの子を、お母さんが稽古場まで連れてくるけど、2階には上がれないんです。

──だから、修理する職人さんも男性でなければいけないわけですね。


※5 三役 振付・太夫・三味線を担当する人のこと。長浜曳山文化協会は、三役を地元で養成するため、平成2年(1990)から三役修業塾を開講している。

※6 シャギリ 祭りのお囃子のことで、笛・摺り鉦・太鼓を用いて演奏され、場面ごとに曲が異なる。


担い手と維持費に残る今後の課題

──本書の第7章は、長浜の中心市街地で1980〜1990年代に起こった担い手不足の問題を扱っていますが。

市川 郊外大型店の出店などにより、いわゆる人口のドーナツ化現象が進む中、2000年代になって山組の町外出身者の若衆が増えていきました。その経過を丹念にたどって、若衆への聞き取りなども交えて課題と展望も見いだそうとしています。

──第8章で武田先生は、祭りの現場に入り込んで若衆と中老の間の衝突(コンフリクト)をテーマになさっています。

中島 武田先生の論文は、おもしろいですね。

市川 武田先生は自分が若衆になりましたから。若衆は周りを盛り上げるために新しいものを取り入れたり、独自性を出そうとしますが、中老は、それまでのやり方を守らせようとします。すると、衝突が起こるわけです。こうした衝突は、中老の側が若衆だったときもあったはずで、それを解決して、本日を迎えてなかよくやるところに達成感が生まれる。

──お二人も祭りの現場でそうした衝突に出合われますか。

市川 それはもう、しょっちゅうあります。準備段階から。

中島 親子でずっとけんかしている人とかいますからね(笑)。

市川 毎年起こる裸参りに関わる衝突は、一つの見どころでもあります。もちろん衝突することが目的ではないのですが、結果的にそうなる。でも次の日にはちゃんとやるというのが祭りを成り立たせる構造です。

中島 それによってモチベーションが、ずっと祭りに向けて上がっていくんですよ。交替式あたりから、だんだん上がっていく。
 昨年6月から毎月(4月を除く)曳山博物館で「山組マンスリー」と題して、山組の人たち自身が、自分たちの曳山を紹介する展示をやっています。これでも、それぞれの山組が張り合うんですね。あの組がこんなものを出していたから、自分のところはもっといいのを出そうとか。

市川 若衆のメンバーで伝承委員会という組織もあり、若い人でもよく勉強されていて感心します。それに皆さん、雄弁というか、堂々と自己主張をされますね。これは祭りの持っている教育的機能みたいなもので、案外大事かもしれないと気づきました。

 ただ、先の工芸技術の伝承の問題もあわせて、後継者を個人に任せるのではなく、ある程度、行政の支援が必要ですね。

──現状でもいくらか支援はありますね。そこはどうなっているのですか。

中島 政教分離ですから、行政は直接関われません。曳山文化協会がフィルターになっているわけです。

市川 神事にはお金は出せないんです。祇園祭は管理費や維持費の7〜8割を国が補助していますが、対象は山鉾行事で、神輿の行事にはゼロです。長浜の場合も、芸能としての子ども歌舞伎が対象で、それを支える曳山についても補助が出ています。逆に、日本の祭りの原型の一つである大津市坂本の山王祭などは芸能の要素がないので補助対象になっていません。その辺は不平等が生じている部分ですが、何でもかんでも役所が関わるというのも問題ですし。

中島 難しいですね。特に最近は役所が関わると、費用対効果とか、そんなことばかり言うようになって。今年の7月に東京の国立劇場で子ども歌舞伎が公演することになりましたが、こまごまと入場者数とかの損得勘定を始める。ユネスコ登録のお祝いなのだから、担い手の人たちを大切に扱って、喜んでもらえばいいじゃないですか。

市川 最近は文化財よりも、観光方面に補助金が行ってしまっているので、余計にそういう見方が強まっています。

中島 文化はもうからなくて、とんとんだったらいい、もしくはちょっとぐらいマイナスでもいいぐらいの気持ちでないと、やっていけません。

市川 そもそも長浜中心部でお店をやっている人は店を閉めて、山に出ているから(笑)。親子丼で有名な「鳥喜多」さんでも、曳山祭の期間に営業すれば、絶対もうかるのに、そういうことはしないんですね。

中島 当事者は、祭りを巨大なボランティアだと思っている。逆に行政の方がそれで金勘定をしはじめているんですね。ただ、長浜市にもよい動きはあって、最近、職員に祭りを体験させようとしています。休みの日に、山曳きのボランティアをさせたり。

市川 それはいいことですね。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。(2017.3.13)


編集後記

対談中では、中老と若衆の衝突の話が出てきましたが、今年はすべての曳山がそろうということで、心配なのが曳山どうしの衝突。中島誠一さんは、「昔の農村の曳き手と違って、最近はタメが効かないのか、ゴンと当たっちゃう」とおっしゃっていました。事故なきことを祈ります。(キ)


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