56号(1997年9・10月号)の[近代文学篇]から、はや丸5年余り。たいへん間があいてしまいましたが、特集 滋賀の本棚2回目は「詩」です。
[近代文学篇]では谷崎潤一郎など県外の作家の小説や随筆中に現れた滋賀を紹介しましたが、今回は滋賀県に住む(住んでいた)詩人たちの作品をとりあげます。(以下、敬称略)
▲表紙写真:昭和11(1936)~15年に井上多喜三郎が編集・発行した詩誌『月曜』および『春聯』
● 表紙の言葉 ●
井上多喜三郎は郷土玩具の収集家でもあり、金魚の形をしたジョウロがお気に入りだったのか、以前の誌面(2頁参照)で使用したものを再び使っています。中央の女性の写真は、海外の雑誌あたりからの無断借用(?)。
(1902―1966)蒲生郡老蘇村(現安土町)に生まれる。中山道沿いの呉服商であった生家の家業を手伝いながら詩作を行い、大正末から昭和初期にかけて詩誌『月曜』『春聯』などを発行。第2次世界大戦で応召され、ソ連のウラジオストックで抑留、1947年に帰国。抑留生活中に綴った詩を、1948年『浦塩詩集』として発表。
1950年、田中克己(当時滋賀大教授)、小林英俊(彦根の円満寺住職)、武田豊(4~5ページ参照)、杉本長夫(当時滋賀大教授)らと「近江詩人会」を結成。後進の育成に努めた。戦後の詩集として『栖』『曜』がある。
井上多喜三郎は、編集兼発行者だった。詩人としての井上については、その生涯をたどった初の評伝、外村彰著『近江の詩人 井上多喜三郎』(サンライズ出版刊)を読んでもらうとして、ここでは編集兼発行者としての井上について紹介する。 現在ほど取次の許認可が厳しくなかった戦前は、多くの人々が少部数の出版活動を行った。誰でも容易に出版社を名乗ることができたのである。当時の同人誌や詩集はほとんどすべてそうした著者が発行人を兼ねる数百部、数十部単位の自費出版だった。 全国で200冊余りの詩誌が発行され、大半が3号までも続くか続かないうちに姿を消していった。そうした中、1932~40年にかけて、計25冊を世に出した「月曜」発行所は異例の存在だったといえる。堀口大学からの寄稿や、立原道造、徳川夢声といった東京在住の著名人からのアンケート回答も掲載、あいまに井上自身や友人の詩集も数多く発行した。日本画家でもあった京都の詩人・天野隆一は「地方出版の詩誌の十指に入る事は疑はない」と後に評している。絵画の素養もあった井上は、誌面のデザインにも工夫を凝らしており、70年の時を経た今見てもそのセンスのよさが伝わる。 1937年11月15日発行の『春聯』第5号の「後記」には次のようにある。 |
花粉 僕の癖のままに くるつた僕の自転車に カネエションのやうに手をあげるひとよ (1941年刊 詩集『花粉』より) |
秋の雲 洗い場の浅い流れに その皿を数えながらゆく秋の雲でした (1957年刊 『抒情詩集』より) |
魚の町 京の錦の魚市場は高倉から堺町柳馬場富小路麩屋町御幸町寺町へと続いている うなぎのねどこのような小路を (1962年刊 『栖』より |
豚 井上洞光は佐々木氏の人夫頭であったのだが 信長が観音寺城を陥入れたので その邸跡は一面の竹薮になっている 竹薮には種豚が飼われている 根っこの穴窪には 泥んこになってねころんでいた 小さな目をしばたいているのは (1967年刊 『曜』より) |
(1909―1988)東浅井郡竹生村(現びわ町)に生まれる。1931年、詩集『たぎる花』発表。24歳で上京し、紙問屋などに勤めがら詩作に励み、『旗旗旗・無数の』『絵のない絵本』を発表。ボン書店発行の「レスプリンヌーボ」の同人に参加。1936年に母の病気のため帰郷。戦中戦後6年間ほど中日新聞社の記者となるが視力・聴力ともに悪くして退職。1950年ごろ、長浜で古本屋(「ラリルレロ書店」)を開業。近江詩人会創始者の一人。1954~70年、同人詩誌『鬼』を発行。 戦後の詩集として『晴着』『ネジの孤独』『指を憎む』がある。
武田豊は目と耳を悪くしていた。本を読むにも、詩を書くにも紙にぐっと顔を近づけた。2年ほど前に出版され評判をよんだ山田稔著『北園町九十三番地―天野忠さんのこと』(編集工房ノア刊)のなかに、京都の詩人・天野忠が敬愛した詩人の一人として武田のことが出てくる。天野は武田と同年生まれ、母が長浜の国友出身だったこともあってか、武田が主宰した同人詩誌『鬼』にも寄稿していた。1979年に天野の詩集の出版記念会が催され、昔の詩人仲間が集まったときのこと。目も耳も不自由な武田は若い女性に伴われて現れた。同書中の天野の文章から孫引きになるが引用すると、「相手が知人だとわかると肩を抱き寄せ、顔がぶつかるほどに顔を寄せ『××君やったかいね』と泣くような声を上げて喜び、相手の顔を下から上から手で撫でまわした」(傍点引用者)。 ダダイズムに傾倒していたという戦前の実験的な初期作品からは一転、戦後は家族への慈しみや長浜の風物をうたった抒情的な詩を多くつくった武田だが、1961年、再び初期の作風に戻ったかのように思える詩集『ネジの孤独』が出る。その中の一篇「馬」を下に掲載した。 |
馬 キツト馬をつれて来ると思つた 耳の舌をぺろつとなめずりして 傷ついてはいても意気激昂の馬を ところうがだ ポンとも音がせない ヒヒンともひとこと啼けないのだ 甥は甥と云うのも恥しいが 座へ戻り「ひさしぶりだ夕餉を食べて行け」と云つてやつた (1961年刊 詩集『ネジの孤独』より) |
(1928―)彦根市に生まれる。岡山市が空襲にあい、再び母の実家のある彦根へ。彦根高等女学校研究科卒業。戦後、祖母のあとを継いで旅館「やりや」の女将となる(1996年廃業)。 最初期の近江詩人会へ入会。『ふーが』同人。彦根文学祭選考委員。詩集に『冬日』『窓』『堀のうち』がある。
宇田良子は女性である。「女流詩人は嫌いだ」と言ったのは大野新だが、我々もいかにも女性的と素人目にもわかる詩は苦手である。でありながら、この女性的なやわらかい語で統一されている詩には嫌みを感じない。「…いて」が延々続き、末尾も「…いていって」のまま、ぐるんぐるんどこまでもつづくような感覚が心地よくすらある。ただし、変化しないことと変化することへの複雑な想いも込められている。 |
月 小さい町があって 蔦が赤くからんだりして 町のまんなかあたりに古い旅館があって 古い仲居がすわっていて 夜 客を見送った女将が 浮んでいて 月には兎がいて 一すじの町 月は遠のいていって (1989年刊 詩集『堀のうち』より)
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(1873―1920)兵庫県淡路島に生まれる。本名美衛。16歳の時、東京へ一家で転住。1899年、肺結核の養生の目的もあって滋賀県大津市に妻を連れ転居。4月、滋賀県警察本部の通訳兼巡査教習所の英語教師となる。1901~02 年、滋賀県立第二中学校(現・膳所高校)の英語教師となる。01年8月、第一詩集『霜じも』を発表。のち詩から小説に移り、明治後期を代表する作家の一人となる。主な小説に「發展」「毒薬を飲み女」「放浪」など
泡鳴は偉大なる馬鹿だ。――と書いたのは大杉栄である。日夏耿之介に至っては、「(その詩は)粗雑で含蓄に乏しく想像力さへ極めて貧弱」「詩そのものは一として取るに足るものはない。彼ほど詩を談って詩の拙なかったものはない」と評した。 |
湖上を 渡り艱みし 蜻蛉に寄す 昔 ながら の 琵琶の海、 青き底 なる うろくづ に 水 より 出でし 物にして、 世 に 生れ来し 人々 の 比叡の 御山 は 西 に あり、 (1901年刊 『霜じも』より) |
(1910―1945)岡山県邑久郡に生まれる。父の死により、9歳の時、母の郷里であった滋賀県彦根市に転居。彦根中学在学中から詩作を始め、三好達治・伊藤整らもいた詩誌「椎の木」の同人となる。1933年、国学院大学入学にともない東京に移るが、県下の井上多喜三郎らとの交友は続ける。1943年、第三詩集『雪』が文芸汎論詩集賞を受賞。1944年に応召、終戦の年の1月、ビルマの野戦病院で戦病死。1947年、友人らの手により『高祖保詩集』刊行。
高祖保はハンサムである。この顔ならしかたないと言いたくなる、ガラス細工のような詩を書いた。23歳で出した最初の詩集のタイトルは『希臘十字』である。35歳で逝ってから、数十年を経て、角川書店や河出書房の全集にその作品がとりあげられ、その度に再発見されてきた。 江州ひこね。ひこね桜馬場。さくらの並木。/すっぽり、雪ごもりの街区。 「琵琶湖」は、濁音で始まるからきらいだったのだろうか? |
みづうみ ほととぎす啼や湖水のささ濁り 丈艸 私は湖をながめてゐた 私はいく夜さも睡れずにゐた 貪婪な天の食指を追ひたてて それから うすく疲れた回教教典の一帙 刻刻に暁がふくらんでくる ひと夜さの空しいにんげんの足掻きがのたうつてそこに死んでゐる! (1941年刊 詩集『花粉』より) |
(1928―)朝鮮全羅北道(現韓国群山府)に生まれる。1945年暮れに家族とともに滋賀県守山市(当時は町)に引き揚げる。京都大学法学部に入学するが、結核のため6年間療養生活。甲賀郡の結核療養所紫香楽園で療養生活中に詩作を始める。1954年、近江詩人会と「鬼」に入会。1957年、京都の双林プリントに入社。1962年、同人詩誌「ノッポとチビ」を創刊。1977年、詩集『家』がH氏賞を受賞。詩集に『藁のひかり』『階段』『乾季のおわり』、評論集『沙漠の椅子』など。
大野新は「やばい」。「老人のはげた頭を棒でわる」で始まり、「妻ははだかになったまま/所用なく陰毛をたらしている」で終わる「聖家族」(『家』収録)ではなく、さらに後の年を重ねてからの作品だったと思うが、やはりやばかった。 その作品に滋賀県の地名がでてくる場合にも、何かしら妙なものとして映じる。河野仁昭による評(『ふるさと文学館 第29巻 滋賀』解説)が的確な気がする。 「井上多喜三郎、武田豊、天野忠など、おおよそ標準語など話すことがないような詩人と交わってきたのに、大野はいまだに江州弁も京都弁もうまく使えない。(略)土着的なイメージをこれほど見事に遮断している詩人は、関西ではほとんどお目にかかることがない。(略)土着的な感性などではまず絶対に風物を受け止めない、それが大野である」。 |
見しらぬ挨拶 台所までオートバイをのりあげて たおれたグラス棚のようには 見しらぬ車に挨拶しながらはしった おちた 腕に迅い擦傷がある 指の股にはさんで ひやむぎで (1977年刊 詩集『家』より) |
理由 機械にはさんだ親指の 子の理由がわかってくるか 男の理由も (未刊詩篇『続・家』より) |
(1941―85)栃木県真岡市に生まれる。東京工業大学化学工学科卒業後、東レに入社し、大津の商品研究所に配属。1974年、守山市に転居。近江詩人会に入会。1978年、東京本社に転勤。詩集に『工人』『惑星』『遠心』など。肺ガンのため死去。遺稿詩集『水夫』が編まれた。
水沼靖夫の「水沼」という姓は本名である。琵琶湖にほど近い研究所へ配属されて短期間ながら滋賀の住人となったのも一種の才能だろう。東京へ転勤になってから出された『惑星』あとがきには「読み返してみると、私は水の在所について想ってきたようである」とすら記している。詩人・清水哲男らに「新しい時代の抒情詩の方向を指さしている」と評されながら、40代半ばでガンに倒れた。「肉体は徐々に異なってゆく。異なることは新しくなるということなのだ。……それは肥大してゆき、神経を擦する。そのときの痛さといったらない。」(「肉体論・」)。 |
河底 河底は視えることが少なく、上を流れる水や浮遊物が、その存在を知らせている。流れるものの背景は、河底に沈むものと空を飛ぶものであり、どちらになるかは視覚による。流れるものは、すでに棄ててきたのだから、背景が何であっても構わない。選択した、あるいは見透かしたと思ってはいるものの、それは視るものの恣意にすぎない。まして、河底に沈むものが水面を鏡にして空に浮かぶことはないので、視線に晒されることはないといってよい。その貌を表出することもない。 河底は真上から視るのが正確で、それは空を(以下略) (1978年刊 詩集『工人』より) |
(1900―1990)本名:田畔(たぐろ)忠彦。大津市に生まれる。大津小学校1年生の1学期に両親とともに満州へ渡る。東京帝国大学仏蘭西法律学科に入学。詩作を始め、1925年発表の詩集『三半規管喪失』、翌年の『検温器と花』で注目される。卒業後、キネマ旬報社編集部に入り、映画批評を執筆するかたわら、春山行夫らと新散文詩運動を展開。一時、プロレタリア作家同盟に参加。多数の詩集の他、翻訳に『神曲・地獄篇』、評論に『現代映画論』などがある。
北川冬彦も、琵琶湖を渡るトンボを詩にしている。「義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、何になろう」(「戦争」)や「将軍の股は延びた、軍刀のように。」(「大軍叱咤」)で知られる詩集『戦争』(昭和4年)から10年余り、昭和16年刊行の詩集『実験室』に収録されている「水の上」。 初期の作品にみられる風景をスナップのようにとらえた作品にもみえるが、「糞をひっかけられた白い岩」と「黒い鳥の群」である。翌年1月には、北川自身が陸軍報道員としてシンガポールなど南方へ徴用派遣され、戦線撮影指揮に従事することになる。 |
水の上 琵琶湖にて 向こう岸が霞んでいる。 トンボが 三百噸の蒸気船に随いてくるのだ。 小魚が群れている、 糞をひっかけられたのだろう、 黒い鳥の群が渡ってきた、 (1941年刊、詩集『実験室』より) |