インタビュー:倭国という国をつくっていく過程で、起点になった遺跡ではないかと考えられています。

服部遺跡の経験から取り組んだ遺跡の保存

──まずはお二方の伊勢遺跡との関わりからお話しいただけますか。

伴野 私は生まれが愛媛県で、大学進学で京都に来て、学生時代から滋賀県に埋蔵文化財の発掘のアルバイトに来ていたんです。その後、守山市の文化財保護課で遺跡の発掘にたずさわり、守山市立埋蔵文化財センターにいた時期もあります。

中井 私は伴野さんより一回り上の世代で、昭和50年代後半、伴野さんが埋蔵文化財センターにいらっしゃる1年ぐらい前から出土品を整理し、実測図を描く仕事をしていました。40年以上にもなりました。

 絵を描いていたので、二科展などへ出品するための費用を稼ぐために勤め始め、土器などをモチーフにした抽象画なども描いたりできたのが魅力でした。

伴野 中井さんは、伊勢遺跡だけではなく守山市内の遺跡で生活が営まれていた当時の想像図をお描きになっていて、ネットでそれぞれの遺跡のサイトを見にいくとご覧いただけます。今はNPO法人守山弥生遺跡研究会※1の理事もされています。

──当時のようすの復元図などですね。

中井 イラストはあんまり得意ではないのですが、何もないものを想像して描くとなると誰でもできるというわけではないようだったので、担当させていただくようになりました。

──守山市には、北から順に、服部、下之郷、この伊勢遺跡と、主要な三つの遺跡があり、それぞれに展示施設ができてきたのですね。

伴野 そうです。服部遺跡の場合は、昭和49年(1974)、当時の建設省が進めていた野洲川改修※2という大事業の工事中に見つかって、4年半にわたって発掘調査をしました。縄文時代から連綿と、弥生時代、古墳時代、そして奈良時代まで続く大遺跡です。おそらく日本で最大の遺跡だと思います。

守山市内の主な遺跡の時代と特徴

守山市内の主な遺跡の時代と特徴

──それほどですか。

伴野 全長が2㎞以上あるような遺跡は国内に例がありません。とても大きな水田域を維持して、近江の発展を支えたと思っています。

 ですが、その遺跡は保存できませんでした。当時、文化財行政が建設省などと対立する形になったのですが、最終的には野洲川という暴れ川から人命を守るために工事が続行され、残念ながら、日本を代表する弥生時代の遺跡は野洲川放水路の下に埋まり、国の史跡にもできませんでした。大量の出土品を収蔵・展示する市立埋蔵文化財センターは昭和55年(1980)に開館したものです。

 この経験を教訓に、重要な遺跡は保存する方法を考えるようになりました。昭和55年に見つかり、調査が進んでいた下之郷遺跡は、平成14年(2002)に国の史跡指定を受けて、平成22年(2010)に下之郷史跡公園ができました。環濠※3をともなう史跡公園は、先行事例として大阪府の池上曽根遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡がありますが、全国的にも非常に珍しいものです。遺跡の広がりを実感していただくためにも、環濠の復元は適切だったと思います。

下之郷遺跡史跡公園の復元環濠

下之郷遺跡史跡公園の復元環濠(守山市教育委員会提供)

 そして、下之郷遺跡と同時に見つかっていた伊勢遺跡は、その後、平成24年(2012)に国の史跡に指定され、それから10年後にこの史跡公園ができたことになります。

──大型建物群は発見当時︑非常に話題になりましたね。『魏志倭人伝』に記された邪馬台国ではないかという説もあったり。

邪馬台国近江説─纒向遺跡「箸墓=卑弥呼の墓」説への疑問─

『邪馬台国近江説─纒向遺跡「箸墓=卑弥呼の墓」説への疑問─』後藤聡一 著(サンライズ出版)

伴野 この伊勢遺跡が保存と整備につながった一つのきっかけは、平成22年(2010)にお二人の著者によって『邪馬台国近江説』という同じタイトルの本がほぼ同時に出版され、大きな話題になったことでした。

 守山商工会議所が翌年から「もりやま卑弥呼コンテスト(ひみコン)」を毎年開催するなど、青年部の人たちが非常に活発に活動なさるようになりました。こうした市民の活動を受けて、守山市も遺跡の保存と国の史跡とすることを目標に動き始め、非常に短期間で国の史跡化がかないました。

 伊勢遺跡の場合、地権者の方をふくめた地元の皆さんが高い見識をお持ちだったことも助けになりました。

──周囲は住宅や工場など市街地化が進んでいますからね。

伴野 平成4年(1992)に、中心部に大きな建物跡が見つかり、これは日本の歴史を考えるうえで重要な遺跡なんだということがわかって以降、地権者の方々がいろいろな開発の誘いを全部断ってくださったんです。史跡指定された平成24年までの20年間ですから、よく辛抱していただいたと思います。

邪馬台国近江説─古代近江の点と線─

『邪馬台国近江説─古代近江の点と線─』澤井良介 著(幻冬舎ルネッサンス)

 同時に遺跡が位置する伊勢町と阿村町の有志の皆さんが、「伊勢遺跡保存会」を立ち上げ、史跡の保存と活用について市と一緒に取り組んでいただきました。

中井 たまたまですが、私は伊勢町の住民だったので、参加しました。

伴野 現在も運営と展示に保存会の皆さんにも関わっていただいています。土曜日・日曜日・祝日は、保存会の会員が来訪者へのガイダンス(案内と説明)を担当するかたちです。地元の方々が保存活動に関わっている遺跡保存施設は、あまり例がないのではないでしょうか。

中井 伊勢遺跡は、発掘調査の後半でしたが平成7年(1995)ぐらいから整理作業を担当するようになっていました。

 周囲は田んぼばかりだった当時の発掘現場で、調査中の伴野さんが、「ここの田んぼが公園になったらいいと思いませんか?」とおっしゃったのを覚えています。私は、「なんか寝ぼけたことを言ってるな」ぐらいにしか思いませんでした。どんどん開発が進んでいたので、大急ぎで史跡指定されれば、広い公園ができますよという話を聞いても、最初は半信半疑だったんです。

伴野 平成3年(1991)に栗東駅が開業してから、急速に開発が進んで、人口が増えていったんですね。以前、中井さんたちと一緒に三上山に登って、山頂から伊勢町の方を見ると遺跡の周囲はビルや住宅街だらけになっていて、この地域に住む子どもたちは、どこで遊ぶんだろうと思ったことがあるんです。地域の子育て世帯の方たちが安心して子どもを遊ばせることができる場所を提供すれば、そこで遊んだ子どもたちは将来、遺跡自体にも関心を持ってくれるだろうと考えたわけです。

中井 最初から伴野さんは「役所がつくった役所だけのものにはしたくない」とおっしゃっていて、地域住民、行政、周辺企業などが連携できるよう、調整役として動いてくださっていましたね。

伴野 展示や運営も、地域の方々に入っていただいて、一緒にやっていこうという計画を立てて進めました。


※1 NPO法人守山弥生遺跡研究会 平成26年(2014)設立。野洲川下流域の弥生遺跡の全国に向けた情報発信などを行っている。

※2 野洲川改修 野洲川は台風による堤防の決壊で多数の家屋が流出する水害をたびたび起こしていたため、昭和43年(1968)から南北2本に分かれていた下流部を1本化する改修事業が進められ、昭和56年(1981)に新放水路が通水した。

※3 環濠 集落の周囲にめぐらされた濠。


プロポーザルの基準は斬新な建築と映像展示の両立

──そして、一昨年の11月12日にオープンなさったわけですね。来館者の方は、やはり考古学ファンが多いのですか。

伴野 いいえ、地域の方々が多いのと、今は建築関係の方が多いですね。

中井 この斬新なデザインと工法を見るために。

伴野 今日も東北や大阪から来られていました。埋蔵文化財だけを間口にすると、対象が非常に狭くなってしまうので、施設の計画を立てるときの、プロポーザル(企画競争入札)も、斬新な建築と映像展示を両立させたものという基準で、全国から提案をいただくようにしました。

 国の史跡の中心部にこうした施設をつくる例は、これまでありませんでした。そもそも、文化庁が許していなかったからです。説得のために、3年ぐらい文化庁へ行っては帰って、行っては帰ってを繰り返していたところ、4、5年前に文化庁側が「保存」一辺倒だった方針を、「保存と活用」に転換したんです。

 そのため要望どおりに許可がいただけて、プロポーザルの際は、今後の文化財の活用の一つの先例になるということもあり、多くの建築家から案を出してもらうことができました。最終的に決まったのが、京都大学教授でもある建築家の平田晃久さんの建築設計事務所による案でした。次点が隈研吾さんの設計事務所でした。

──建築関係の賞を受賞※4し、建築雑誌などでも紹介されたそうですね。

伊勢遺跡と卑弥呼の共立

『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』伴野幸一・森岡秀人・大橋信弥 著(吉川弘文館)

中井 昨年12月に出版された『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』という本でも、森岡秀人さんが「未来型の保存・普及施設であり、これまでの国史跡にはない大胆な発想や試みが伝わってくる」と絶賛しておられます。ただ、私個人の意見ですが、デザイン重視すぎて、使いにくい部分もあります。

伴野 先日も作業にあたった職人さんが来館なさって、「本当に大変やった」と話されていました。平田さんは海外でも著名な建築家なので、外国からいらっしゃる見学者もおられます。

中井 私も月に1回、案内役が回ってくるので、たくさんの来館者にお会いしました。東京など関東からも若い人がいらっしゃいます。おもしろいのは、案内をしていると、パッと見た雰囲気でわかるんですよ。建築関係の方か、考古ファンの方か。建築関係の方は、上を見上げて熱心に木の組み合わせをご覧になるので、はっきりしますし。

伴野 考古系の文化財に詳しい人や専門家の方からすると、保存会の皆さんの説明は怪しい部分もあるかもしれないのですが、反論せずに聞いてくださっていますね。「それはウソやろう」というような話でも我慢強く。

中井 われわれ素人の案内を黙って聞いてくださいます。しばらくしてから、「ひょっとして考古学の先生じゃないですか」と言ったら、「そうです」と大学名をおっしゃって、「しまった」と思ったり。

伴野 大学の先生も結構来ているんですよ。こないだも、ずっと保存会のお話を聞いておられる来館者を、なんか見た顔の人だなと思って出ていったら、新潟大学名誉教授の先生でした。

 文化庁の職員の方なども、身元を明かさずいらっしゃいますし。

中井 案内役の話し方などもふくめて、施設のようすを見にきておられますね。

伴野 逆にアマチュアの考古ファンの人は、自分の意見を聞いてほしい感じが出るし。

中井 そうです。自分で研究した人は、こちらの話を奪って、全部説明してくださいます。最後にはこちらが、「えっ、そうなんですか⁉」と感心しながら聞いているようなこともあったり(笑)。

伴野 地域の人たちが説明役をしていると、知識も増えて、だんだんなじんでくるので、大事なことだと思っています。


※4 「ウッドデザイン賞2024」の奨励賞(ライフスタイルデザイン部門)と「令和6年度木材利用推進コンクール」優秀賞(優良施設部門)を受賞。


主要建物群の中心に建ち天体観測に用いられた楼観

──いったん屋外に出てきました。屋外展示から順にご説明いただけますか。

伊勢遺跡史跡公園と伊勢遺跡中心部(空中写真は Google マップより)

伊勢遺跡史跡公園と伊勢遺跡中心部(空中写真は Google マップより)

遺構展示施設の側面・平面図

遺構展示施設の側面・平面図

伴野 公園に入って右手の円柱が並んでいる場所は、楼観という建物があったところです【A】。伊勢遺跡の主要な遺構群は、この楼観を中心とした半径110mの円の円周上から見つかっています。今は柱だけですが、将来的には吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などのように建物を復元できればいいなと思っています。

楼観の復元図(中井純子作画)・楼観とされる建物の柱穴の配置

左:楼観の復元図(中井純子作画) 右:楼観とされる建物の柱穴の配置

【A】 「楼観」の柱跡の立柱

【A】 「楼観」の柱跡の立柱

 外側に4本ずつ並んでいる柱と、内側に3本ずつ並んでいる柱は少しずれています。つまり、1階部分の外側と2階建ちの内側を支えている柱が独立している、複層式の建物だったということです。こうした構造の建物が現れるのは奈良時代からとされており、弥生時代のものとしては初例だと思います。

 また、柱の並びはそれぞれの辺が東西南北に沿っています。そのため、楼観の2階部分に上がって、夜に真北を見ると、北極星が見えるわけですね。春分の日と秋分の日は、真東から太陽が上がってきます。暦をつくるためには、こうした天体を観測するような施設が必要でした。

 日本や中国の古代国家の大事な役割の一つは暦づくりで、国民に季節や種まきの時期、毎日の時刻を知らせることも、重要な事業だったわけです。伊勢遺跡の場所には、そうした機能を備えた施設があったということです。

政治や祭りを行うために特化した遺跡

──続いて、改めてドーム状の遺構展示施設についてお願いします。

伴野 周りが住宅街なので、展示施設の高さは4.6m以下に抑えて、周囲への圧迫感がないように配慮されています。反対に地面の側は、建築によって地下の遺跡が傷まないように、全体に土をかさ上げしてあるので、緩やかに盛り上がっているのがわかると思います。

 中に入ってくると、このドーム状の天井がガラス面に映って、トンネルのように見えます。現在から古代の世界に入っていくような効果を演出しています。

 入ってすぐの所で、野洲川流域の主要な遺跡について、それぞれの出土品とともに解説しています【B】

伊勢遺跡の出土品

【B】 伊勢遺跡の出土品。服部遺跡・下之郷遺跡の出土品も並べて展示されている

 弥生時代前期からの服部遺跡で水田ができ、米づくりが早くから発達しました。その後、内陸に向かって開発が進んできて、中期の下之郷遺跡では村を三重に囲む濠ができ、「防御された村」の姿を見ることができます。

 それが後期の伊勢遺跡では防御施設がなくなります。この時代には村同士の争いはなくなり、一つの大きな国に統合されていった動きを示しているといえます。伊勢遺跡からは、戦うための武器にあたるものもまったく見つかっていません。

──伊勢遺跡の最後の頃は、古墳時代にもかかっているんですね。

伴野 古墳時代へ移り、日本全体が一つの「倭国」と呼ばれる国になっていく、その直前に伊勢遺跡は出現しています。ここで東西の王たちの協議のもと、邪馬台国の女王・卑弥呼が初代の女王として擁立された可能性もなくはありませんが、邪馬台国そのものの時代ではないということです。日本全体で見ると、伊勢遺跡の終盤ぐらいの時期に、邪馬台国候補地として有名な奈良県の纒向遺跡が出現しています。

 続く古墳時代初期の遺跡として、西に下長遺跡が見つかっており、王の居館や王の権威を示す道具類が出土しています。こうした経緯から伊勢遺跡は、東西日本を結びつけて、倭国という国をつくっていく過程で、一つの起点になった遺跡ではないかと考えられています。

 伊勢遺跡が発見された当初は、まさに邪馬台国の時代というのが学会の定説だったのですが、現在は邪馬台国が誕生する直前の社会だと考えられています。「邪馬台国近江説」を唱える本が出版された頃とは、時期区分が大きく変わったわけです。

 詳細については、先ほどもお話に出た私も執筆者の一人になっている『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』をお読みいただければと思います。

──次に地面に柱穴が開いています。ガラスに乗る、一歩目は少しためらいますね。

伴野 伊勢遺跡の中心に当たる主殿の跡で、強化ガラスを張って、上から柱穴のレプリカ【C】を見ていただく形になっています。その下には実際の柱穴遺構が保存されています。

大型建物の柱穴の遺構レプリカ

【C】 大型建物の柱穴の遺構レプリカ。太く長い柱を立てるために、いったん斜めに柱を入れる斜路が掘られたため、独特の細長い形になっている

発掘調査時の伊勢遺跡の主殿遺構

発掘調査時の伊勢遺跡の主殿遺構。この上に遺構展示施設が建っている(寿福滋撮影、守山市教育委員会提供)

 ちょうど壁面に映写される解説動画【D】が始まったところですね。7分ぐらいで終わるので、どうぞご覧ください。

天井に映写される解説動画

【D】 天井に映写される解説動画。イスに座って鑑賞できる

──(イスに座って鑑賞)

伴野 いま見ていただいた映像のCGは、神戸大学の黒田龍二先生の設計図をもとに製作されています。それを参考に伊勢遺跡保存会の方々が3年がかりで作られたのが、その奥に置かれているジオラマ【E】で、120分の1サイズです。

伊勢遺跡の大型建物群のジオラマ

【E】 伊勢遺跡の大型建物群のジオラマ

 伊勢遺跡全体は、東西約700m、南北約450mの栗東市にもまたがる範囲ですが、ジオラマでは当公園周辺にあたる遺跡の中心部が再現されています。

 とても精巧に作っていただき、視察にいらした文化庁の方も業者に発注したら、数千万円かかるとおっしゃっていました。

──南に、大きめの川と人が乗った船も再現されていますね。

伴野 細い川の南に川幅の広い野洲川の支流の跡が見つかっているので、おそらくそこまで船が行き来していました。ヒノキの柱が出土していて、切り出したヒノキの柱を筏に組んで流してきたと考えられます。ヒノキの柱の根元が突起状に加工してあり、そこに縄を掛けて引き上げたものと考えられています。

 中心に再現されているのが、ガラス面の下にある建物です。その少し東に建っている2階建てが、屋外に柱が再現されている楼観です。板塀で二重に囲まれた中に、L字形に大型建物が計画的に配置されていました。南側に入口がある方形区画の中に建物が配置されているのは、規模は違いますが、後の藤原宮や平城宮のような政治を執り行う場と共通しています。

 方形区画の中央には、建物の前に南面する庭があります。南面する建物の前に設けられた大きな庭に、朝、臣下を集めて指示を出すための場所が「朝庭」で、のちには天皇を中心として政務を行う場=「朝廷」となります。こうした語義にのっとった施設が弥生時代後期に存在したことが、一つ目の驚きでした。

 二つ目の驚きは、楼観を中心にして半径約110mの円の円周上に配置された大型建物が見つかったことです。まだ調査ができていないところもあるので、現在見つかっている建物だけ再現され、こういう配置になっています。

 円形に配置するため、隣同士で棟を約13度ずつ内側に傾けてあります。円周上の反対側どうしでそうなっているので、角度と距離をちゃんと計測して配置してあるとわかります。

 これらの大型建物は、独立棟持柱建物※5と呼ばれる構造です。現在で言えば、伊勢神宮の正殿がこういう形をしています。

 これだけの施設ですので、祭祀や政を行う場を維持するために出仕している人たちがいて、近くに住んでいたはずなのですが、お墓が周辺から見つかっていません。亡くなれば、おそらく出身の村に遺体が戻されて埋葬されたのではないでしょうか。

 水田などの生産の跡がない、生活の場だった形跡がない、お墓がないという点が、通常の集落とは異なります。これらのことから、伊勢遺跡は政治や祭りを行うために特化した遺跡であったと考えられています。


※5 独立棟持柱建物 棟木の両端を支える柱が建物の壁の外側に立つ構造をしている。


伊勢遺跡の次の時代の遺跡から次々に見つかった威儀具

──一番奥に、もう一度出土品などの展示【F】があります。

伴野 伊勢遺跡の次の時代に現れる下長遺跡の解説です。西方にあった下長遺跡は、まさに纒向遺跡とほぼ同時代、つまり邪馬台国の時代にあたります。伊勢遺跡と同じような大型の独立棟持柱建物の跡とともに、身分の高い人物が用いる威儀具が多数出土したことが特徴です。

 王が儀式に使っていた儀仗と呼ばれる道具の完形品は、今のところ全国唯一の出土例です。古墳の天皇や大王の棺の中に30㎝ぐらいのミニチュアの儀仗が納められていました。ようやくこれで、本物は木製だったとわかりました。

【F】下長遺跡から出土した儀仗。写真の下が上部の飾り

【F】下長遺跡から出土した儀仗。写真の下が上部の飾り

 市内の八ノ坪遺跡からは蓋(きぬがさ)※6の上部に取り付けられた立飾りという部分が出土しました。これも木製の本物の全国初の出土例です。近畿圏では200mを超す古墳に埋葬される大王には、これを土で模した蓋形埴輪が埋納されていることが多いですね。

【F】八ノ坪遺跡から出土した立飾りを元に復元された蓋

【F】八ノ坪遺跡から出土した立飾りを元に復元された蓋

 伊勢遺跡の時代の後、古墳時代に王権が成立するに至る一連の流れが、守山市内の遺跡を用いてわかるようになっています。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。(2025.3.19)


※6 蓋(きぬがさ) 王や豪族に従者が差しかける柄の長い日傘。遠くからでも目立つ飾りがついていた。


編集後記

伴野所長が「入口がちょっとわかりづらくて、来た方が通り過ぎてしまわれることもあります」とおっしゃっていたので、位置の補足を少し。守山市伊勢遺跡史跡公園は、栗東市との境界近くにあり、栗東芸術文化会館さきらから北へ約500m、栗東市立大宝東小学校の運動場の向かいにあります。田んぼがわずかに残る何の変哲もない住宅街にあるので驚きます。取材時は茶色かった芝生公園は、徐々に緑色になっていると思います。(キ)


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