インタビュー:将来の構想は何もなかったんです。何とかして後世に残そうというだけで。 マーチャントミュージアム 館長・キュレーター 廣部光信さん

近江商人の旧宅だった空き家を15年かけて修復

──廣部さんは、ご出身が安土町石寺でよろしいのですか。

廣部 教林坊がある近江八幡市安土町石寺の光善寺という天台宗寺院で生まれました。

──こちらの別院の前に、まず教林坊を復興なさったのですね。

廣部 教林坊は聖徳太子の創建と伝わる天台宗の古刹で、小堀遠州作と伝わる庭園でも知られていました。ところが、60年余り前にご住職が亡くなり、しばらく奥さんが坊守として管理されていましたが、その方も亡くなり、その後、無住となっていました。

 平成7年(1995)、私は大学卒業後、天台宗の僧侶養成学校で2年学び、天台宗務庁※1に就職しました。その年の春に、家から歩いて10分ほどの教林坊に改めて訪れたところ、不思議なことですが、廃墟のような荒れ寺が観音浄土のように思われ、復興を決意しました。

 そこから大変苦労しましたが、思いきって平成15年(2003)3月に天台宗務庁を退職し、地元の方々の協力もあって、翌年4月に教林坊を一般公開に漕ぎ着けました。

──そして、再び無人となって荒れていた松居久右衛門※2旧宅の復興に取り組まれたわけですね。

廣部 教林坊の一般公開を始めて、まずはお寺のファンをつくる必要があると考え、コンサートや紅葉のライトアップ、地元の茶道の先生を招いてお茶会などをするようになりました。その一環として桃山時代からの香道具が残されていたことから「教林坊流」という香道の新流派を立ち上げました。

 ある日、香道大師範の熊谷光遼さんから電話がかかってきました。「実は五個荘にひどく荒れた近江商人のお宅があるんですけど、教林坊をあれだけ見事に復興されたのでしたら、そちらもおできになるんじゃありませんか」とおっしゃるんです。

 もとは、家の増改築を依頼なさった設計士さんからお聞きになった話だそうです。巡り巡って私のところに持ち込まれたわけです。

──松居家のご子孫の方はどちらにいらっしゃるのですか。

廣部 ご子孫は京都にいらっしゃいます。もう取り壊してアパートや公園にするといった話もあったそうですが、先祖伝来のものなので、そのままの形で残してくださる方に引き継いでいただきたいということでした。

 そこで、私にやらせてくださいと、平成20年(2008)にお譲りいただいたわけです。

──仏教とはまったく関係ないわけですね。

廣部 そうです。最初の出発点としては貴重な文化遺産を残そうというところです。結局15年かかって修復して、ようやく今年の4月に開館することができました。

 40年近く空き家だったので、最初は本当にひどい状態でした。ゴミが散乱していて、蔵に入ることはできなかったようですが、泥棒も何度か入っていたようです。

 雨漏れがして、シロアリはいるし。茶室にあたる建物の天井などは全体が落ちてしまっていました。しかし、お金がありません。じゃあ、どうするかなんですが、仕方がないので、できる所は全部自分で修復を始めました。

──教林坊を改修した際も、ご自身でも大工仕事をなさったそうですが、どこで学ばれたのですか。

廣部 どこでも、学んでいないんですよ。見よう見まねです。専門業者に依頼すれば、とんでもない費用がかかるものですから。かといって、新建材で簡単に済ませるわけにもいかないので、残せるものは残して、できるだけ文化財的な修復を心がけてきました。

──当初から博物館にするお考えで……。

廣部 修復作業を10年余り続けてきて、ようやく令和3年(2021)10月に主屋をはじめとする13の建造物が国の登録有形文化財※3に、庭園が国の登録記念物になりました。

松居久右衛門旧宅の登録有形文化財と登録記念物

松居久右衛門旧宅の登録有形文化財と登録記念物

 もともとこの制度自体が保存と同時に登録された文化財をまちづくりなどへ活用するためのものです。そこで具体的な活用方法として、飲食関係の施設や民泊など、いろいろ検討し、行き着いたのがミュージアムと別院だったんです。


※1 天台宗務庁 天台宗の寺院を包括する宗教法人「天台宗」の事務所。大津市坂本に所在。

※2 松居久右衛門 初代が江戸時代初期に摂津・播磨方面への行商で基礎を築いた近江商人。松居久左衛門は分家にあたる。

※3 登録有形文化財 文化財登録制度に基づいて登録された築50年以上の歴史的建造物。登録記念物は、同制度により登録された造成後50年以上の庭園、公園などの名勝地。


皇族訪問に合わせた増改築

──松居旧宅は「松樹館」と呼ばれていたのですね。

廣部 江戸時代、松居家があった村は神崎郡位田村といいましたが、明治12年(1879)に隣の市田村と合併して竜田村になりました。両村とも、もともとは彦根藩領だったのですが、桜田門外の変で彦根藩が10万石の減封となったため、慶応元年(1865)から2年間だけ、賀陽宮(のちの久邇宮)の領地になりました。

 その時に、久邇宮朝彦親王※4から「松樹」と書いた扁額を贈られたので、「松樹館」と呼ぶようになったようです。

 そのご縁で、大正13年(1924)には、朝彦親王の息子にあたる久邇宮邦彦王と俔子妃、同じく息子の多嘉王、孫の信子女王の4名が、龍田神社参拝の際にお泊まりになりました。その皇族訪問にあわせた増築や改修も本館の特徴の一つになっています。

──建物の数が多くて、蔵が五つもあるんですね。

廣部 中央の主屋が文化11年(1814)築ですから、200年以上経っています。本来はヨシ葺き屋根でしたが、それを復元するのは将来の維持管理が大変なので、銅板葺きになっています。

 江戸時代に敷地内に5棟の土蔵が建てられて、明治・大正・昭和初期と、主屋につながる建物が増築されていきました。

──それでは、それぞれの建物をご案内いただけますか。

廣部 どうぞ。入口から入ってすぐを「見世(店)の間」といいます。

 そこから左手奥に進むと、「新建」(別名「浴月楼」)につながっており、途中に床を一段高くした「上段の間」‌【D】(←クリックすると平面図と写真一覧のページが表示されます。以下同)と呼ばれる部屋があります。普通の商家にはないもので、久邇宮家来訪に合わせて整えられたものです。

 来館者は自由に写真をお撮りいただける写真スポットになっています。

──この部屋の電灯は、もとからついていたものですか。

廣部 そうです。他の電灯類の中には、時代に合わせて古いものを探してきて取りつけたものもあります。

──廊下からは庭が見渡せます。

廣部 登録記念物になった庭園は、長浜出身の著名な作庭家、勝元宗益(鈍穴)※5の作と伝わっています。

 当初はこの庭も落ち葉で埋まって、飛び石がわからないような状態でした。もう発掘作業のような感じで、徐々に姿を現して15年かけてすばらしい庭になったものです。ウメの木などもずいぶん古木なのですが、元気です。ドウダンツツジもなかなかこんなに大きなものは希少で、ご存じの方はびっくりなさいます。秋の紅葉の時には真っ赤になります。

 灯籠では、一番奥の大きな春日灯籠が明治期に滋賀県の名石工として活躍した西村嘉兵衛※6の作です。初代の初期の作で、とても貴重なものです。

──廊下に近い、この石は何ですか。とてもモダンに感じますが。

廣部 これは、橋杭石‌【E】という、三条大橋や四条大橋の橋脚に見立てた手水鉢です。本物の橋脚が手に入れば一番ですが、これは、模して蹲にしたものです。偉い方が来られると、お供の者が水をくみ上げて、ここで手を清めました。そういう蹲として定形された役割の石が配置されています。

 廊下を奥へ進むと久邇宮家がお泊まりになるために増築された風呂‌【H】とトイレがあります。この便器はじつは国産最古の水洗便器なんです。最初は海外から洋式の水洗トイレが輸入されていましたが、明治の終わりごろに、日本の建物用に和式の水洗便器が試作されます。大正時代には、TOTOの前身にあたる日本陶器が水洗便器を発売しました。

 平成29年(2017)に建物の建築年代の特定に役立つだろうと思い、TOTOに問い合わせたところ、北九州市にあるTOTOミュージアムの方が調査にお見えになったんです。小便器についていた商標マークから東洋陶器になる前の日本陶器という会社だった時期にあたる大正3〜6年(1914〜1917)の製品だとわかりました。大便器についても同時期のものだろうとのことです。TOTOにもこんな古いものは残っていないそうです。

増築されたトイレに残されていた国産最古の水洗便器

増築されたトイレに残されていた国産最古の水洗便器

 そのそばの庭に置かれた一文字の手水鉢‌【I】は、久邇宮家から拝領したものだそうです。朝彦親王が門主をお務めになったこともある京都の青蓮院門跡にも、同じような一文字の手水鉢があります。

──階段で新建の2階に上がれるのですね。

廣部 2階も久邇宮ご一家がご休憩になったところで、「御座所」‌【F】と呼んでいます。椅子は蔵に残されていた当時のものを並べました。


※4 久邇宮朝彦親王 (1824〜1891)日本の皇族。香淳皇后(昭和天皇后)の祖父。

※5 勝元宗益(鈍穴) (1810〜1889)近江国坂田郡勝村(現長浜市)出身の作庭家。晩年は神崎郡金堂村(現東近江市五個荘金堂町)に移り住んだ。

※6 西村嘉兵衛(初代) (1850〜1915)近江国滋賀郡南小松村(現大津市)出身の石工。二代目は大正期に、三代目は昭和期にそれぞれ活躍した。

※7 小杉五郎右衛門 (1785〜1854)神崎郡位田村出身の初代が江戸中期に行商を始めた近江商人。11代は中興の祖とされる。


煎茶のお茶室となる廊下座敷と新寮

──続いて、新建の南に奥庭にせり出すようにしてあるのが「廊下座敷」‌【L】ですね。

廣部 ここは、南蔵と文庫蔵への通路を兼ねたお茶室です。別名「槐庵」と呼ばれていました。お茶室といっても、抹茶ではなくて、煎茶のお茶室なんです。

 現在では煎茶にも茶道の流派が存在することすらご存じない方が多いかもしれませんが、江戸の終わりから大正時代ぐらいにかけては非常に流行したのです。ここに面する奥庭も煎茶風のお庭で、特徴として、侵食されてできた石灰岩や溶岩石などの奇石が用いられています。

 奥庭の灯籠‌【J】は鎌倉から室町時代の作で、もとは野洲市にある浄土真宗木辺派本山の錦織寺にあったものと伝わります。近江商人の小杉五郎右衛門※7(11代)が錦織寺にお堂を寄進し、返礼として小杉家に伝来したものを松居家がいただいたのだそうです。

 残念ながら一部が壊れたのか、別の灯籠の部材を寄せてあるのですが、全部そろっていれば文化財になっていることでしょう。

──「廊下座敷」を抜けると、蔵の入口が二つ並んでいます。

廣部 主屋から見て東南の位置にある「文庫蔵」は一番豪華に、格式を持たせて作られた蔵です。掛け軸や屛風など、価値のあるものが収められていた蔵です。

 その隣が「南蔵」です。この蔵の特徴は、床下に「万両庫」‌【M】と呼ばれる石造の隠し金庫が設けられていることです。小判の千両箱ではなくて、丁銀という銀貨を入れる千両箱が10箱収まる構造になっています。

 見た目が立派な隣の文庫蔵ではなく、わざと簡素な南蔵に作られたのがおもしろいですね。泥棒を欺くための知恵です。

──再び主屋にもどってきました。

廣部 次に、築200年の主屋の屋根裏‌【G】をご覧いただきたいと思います。

──屋根裏というのは一種、特別な空間という感じがありますね。

 銅板葺きの内側に燻されたヨシや柱がそのまま残っています。おそらく、ここ100年ぐらいは葺き替えていないでしょう。ここに摩訶迦葉※8という、お釈迦様の十大弟子の一人の像を置かせていただいています。

 衣食住にとらわれず、清貧の修行をおこなった尊者と、飾り気のない屋根裏がなんとなくリンクします。

廣部 次が「新寮」と呼ばれる建物で、昭和8年(1933)築と一番新しい建物です。それでも雨漏れやシロアリのために、床板を張り替えています。天井は中央部を一段高くした折上格天井という日本古来の様式を模したものなのですが、デザインがなんとなく洋風に感じられてオシャレです。

──この建物は、どういう位置づけのものだったのですか。

廣部 新寮は、「新茶寮」という意味で、お茶に関わる場であったのだろうと思います。奥庭をはさんで向こうが煎茶のお茶室である「槐庵」なので、待合にあたる部屋だったようです。飛石伝いに蹲へ至って手を清め、お茶室へ入るという手順だったのでしょう。

 奥の南面にはハート形の窓があります。このハート形は猪目文様といって、日本建築では古くから使われている文様です。火事除けや魔除けの意味があるものです。

 いまは当館で一番の写真スポットとなっています。鏡を利用したリフレクション写真も人気で、SNS映えすると大変評判です。

──続いて、入口から見て右手(西)の方向へ進みます。

廣部 教林坊の別院にあたりますので、北蔵の一角に仏堂にあたる部屋を設けました。

 教林坊から聖徳太子像や仁王像を遷座し、縁結びや商売繁盛を願う大きな一木造りの大黒様を新たにお迎えしました。

──仏様の前を抜けて、新蔵【K】が展示室‌になっています。

廣部 人力車は五個荘の方が寄付してくださったもので、明治の終わりから大正ごろ、実際に使用されていたものです。こちらの櫓時計は、彦根城の槻御殿にあったものと伝わっています(新撰淡海木間攫其の90を参照)。他にも貴重な調度品を展示しています。


※8 摩訶迦葉 (紀元前5世紀ごろ)釈迦の入滅後、教団を指導した。大迦葉、迦葉とも。


誰もが神聖なものに触れたと感じる空間づくり

──廣部さんは、もともと文化財にお詳しかったのですか。 

廣部 昔から好きではあるという感じでした。ですから、建物にしても、庭にしても、あとからいろいろ調べて知識を得たという感じですね。私の師匠が美術品に造詣が深い方で、本物を見る目を養えということで、いろいろ手ほどきを受けました。

──今年4〜6月のオープン時期は、いかがでしたか。 

廣部 インスタグラムなどで写真を発信したところ、かなり反応があり、たくさんの方にご来館いただけました。

──ハート形の窓の写真ですね。 

廣部 はい、カメラ好き、写真好きの方が多かったですね。もちろん開館して一番初めは地元の方がずいぶん来てくださいました。時々、大工仕事や工事の音が聞こえてきていても、中がどうなっているのかわからなかったそうで、奥行きの深さに驚かれたり、「よくぞ復興してくださいました。地元の誇りです」と喜んでくださる方が多く、修復した甲斐がありました。

──今後の開館予定は? 

廣部 今年も教林坊では紅葉のライトアップなどをおこないます。当館も教林坊の公開期間とほぼ同じ、春と秋の開館ですので、教林坊から当館へ、あるいは当館から教林坊へと巡っていただければと思っています。

──恐縮ですが、私は教林坊へうかがったことがありません。 

廣部 ここから車で約10分ですが、山すそにあり、紅葉の庭園が広がるお寺です。庭には大きな岩があり、別名「石の寺」と称されています。白洲正子さんの『かくれ里』では、古墳の石室に用いられた石を転用したものだろうとされているのですが、専門家の方の見解では、磐座といって、古代から続く巨石信仰の名残と考えられています。

 聖徳太子自作と伝わる石仏が安置されている岩屋は「本尊霊窟」と称され、斜めに落ちた巨石がふたをして洞窟のようになっています。

 教林坊では、この境内全体を「空間説法」と呼んでいます。仏様の教えというものが、文字や言葉によるものだけではなく、その場所を訪れただけで知らず知らずのうちに体の中に入ってきます。

──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。 
(2023.9.14)


編集後記

ミュージアムとして残されることになった松居久右衛門旧宅は、児童書の老舗出版社・福音館書店の経営者であり、編集者として多くの絵本作家を世に出し、昨年11月に亡くなられた松居直さんの母・松居すみさんの生家にあたります。五個荘図書館には直さんが寄贈なさった絵本による「松居すみ文庫」があるのだとか。その手がけた絵本は、誰もが一度は目にしたことがあるはず。私は佐藤忠良画の『おおきなかぶ』が印象深いです。(キ)


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