特集:大岩山銅鐸の形成 近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の成立と終焉

2人の少年が土を掘ると、銅鐸3個が出土

──まず、140周年となる明治の銅鐸発見についてご説明いただけますか。

鈴木 明治14年(1881)8月20日、辻町村の2人の少年、小野田金太郎さんと森岩松さんが大岩山で遊んでいるとき、小さな穴の中に緑色の木の葉のようなものを見つけます。つついてみると、どうやら金物らしい。竹の棒を使って土を掘ると、銅鐸3個が出てきました。

 翌日、この話を聞いた小篠原村の大人4人がさらに銅鐸11個を掘り出します。その場にいた村人は銅鐸とわからなかったのですが、すごいものであろうということで少年たちもふくめた発見者6人と山の地主、両村の戸長らが連名で、草津警察署に届書を提出します。その文書では、銅鐸のことを「唐金古器物」と呼んでいます。

 これが警察署から滋賀県令、農務省博物局に伝わり、最終的には東京帝室博物館(現、東京国立博物館)が、一番大きい銅鐸と2番目に大きく、かつ水鳥が描かれている銅鐸を買い上げました。
 残りのものはすべて現地の人に返され、そのまま持っていてくれたらよかったのですが、国内やアメリカ、ドイツに散らばってしまいました。

──さらに、昭和30年代にも発見されています。

進藤 昭和37年(1962)、東海道新幹線の建設にともなって盛り土を取るために、大岩山で土砂を採掘していたとき、銅鐸6個が出てきました。

 現場の発見者は近江八幡市長光寺町の古物店に売ってしまったのですが、店主は古い時代の金物を6個買ったので一応調べてほしいと近江八幡警察署へ届け出ました。そこで調べてみると、さらに3個の銅鐸が見つかりました。

 そして、京都大学の梅原末治※1先生が現地へ来て、発見者の証言に基づき埋納状況の調査が行われました。さらに、1か月ほど前に別の工事関係者が大岩山の山頂近くで見つけた銅鐸があったことがわかり、合計10個になりました。

鈴木 工事の人は、その日の酒代がもうかったというくらいの感覚だったそうです。

進藤 さすがに県の方は明治の銅鐸が散逸してしまったという経験がありましたので、土地の所有者にお金を払って県の所有としました。発見者にも権利はあるのですが、権利を放棄されました。

 当館の開館は昭和63年(1988)の秋ですから、昭和の銅鐸発見からもかなり時間が経っています。前年に刊行された『野洲町史』を編纂するなかで、「銅鐸のまち」という認識が高まり、銅鐸の出土地に近接する場所に博物館を建てようというかたちで計画が進みました。

──開館以来、銅鐸専門の学芸員さんがいらっしゃるのですか。

進藤 いえ、銅鐸専門の学芸員というのは、全国でもごくわずかです。銅鐸というのは、厄介なものなんですね。考古学をやっている我々が発掘調査をするのは昔の村やお墓の跡、いま遺跡と呼んでいる埋蔵文化財包蔵地であるわけですが、その遺跡から銅鐸はほぼ出ないんです。

 大岩山もそうですが、村からはずれた場所、小高い山の斜面のようなところから、ポロッと出てきます。つまり、ほとんどが不時発見であるため、考古学をやっていても、銅鐸を掘ったことがない人ばかりです。そして、出てくると、すぐに国宝や重要文化財になってしまうこともあり、限られた人しか扱うことができない出土品なんです。

──新幹線の路線の盛り土になって大岩山自体はほぼ消滅してしまったわけですが、出土地はどのような場所だったのですか。

鈴木 「大岩」という名前のとおり、大きな花崗岩が露呈している、ゴツゴツした山だったそうです。現在では、明治時代とはまったく地形が変わっています。

進藤 もともとの大岩山は、丘陵部の中で最も琵琶湖側にせり出した場所でした。昭和28年(1953)に国道8号が通って、宮山1号墳という古墳が壊されます。工事の際に古墳の口がバカッと出てきたので、県が京都大学に調査を依頼しています。

 開発と遺跡の発見は表裏一体の面があって、名神高速道路の建設では栗東市の新開古墳などが壊されました。近年でも、大阪府の東大阪市から八尾市にかけて遺跡が点々とつながっているのは、近畿自動車道を建設する過程で見つかった遺跡が並んでいるわけです。

 大岩山には3回に分けて埋められています。明治発見の銅鐸と昭和発見の銅鐸それぞれの製作時期を比べると、明治発見のほうが新しい銅鐸が含まれており、埋納時期は昭和発見の銅鐸のほうが先だと考えられます。

 そして、昭和発見の10個のうち、離れた場所から見つかった1つだけが流水文という少し古い銅鐸で、いち早く単独で埋められたようです。

──まだ埋まっている可能性は?

進藤 昭和の発見当時、滋賀県唯一の埋蔵文化財調査担当職員として入られたばかりだった水野正好※2さんが、大津の自衛隊に依頼して金属探知機による探索も行い、破片が10点ほど回収されています。私たちも金属探知機を持って山を歩いたことがありますが、釘などしか見つかりませんでした。


※1 梅原末治 (1893〜1983)考古学者。京都大学名誉教授。日本考古学の基礎を築いたとされる。

※2 水野正好 (1934〜2015)考古学者。滋賀県教育委員会を経て、奈良大学教授、同学長などを歴任。


近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の両方が出土した大岩山

──事前に資料をいただきましたが、銅鐸は名称や型式の名前が難しいですね。

銅鐸の各部の名称

銅鐸の各部の名称

進藤 「銅鐸」というのは、考古学の用語の中でも一番古い言葉なんです。平安時代初期の『続日本紀』に奈良時代の大和国で銅鐸が発見されたという記述があり、その後も「銅鐸」もしくは「宝鐸」という名で出土の記録が現れます。10世紀にはインドで仏教を広めたアショカ王の持ち物であるという説が唱えられました。石山寺の創建にあたっても銅鐸が出てきたので非常に縁起のよいことだとされ、昔から注目されてきた考古資料でした。

 例えば、袈裟襷文という名称はお坊さんが着る袈裟に似ているからですが、この名称をいま呼び替えることはできないのです。

鈴木 用語の難しさは、今回の展示でも一番頭を悩ませているところです。

──それでは本題の企画展の内容を。

鈴木 この大岩山の特徴として、日本最大の銅鐸が出土したということももちろんあるのですが、一番興味深い特徴は、飾耳という、サザエさんの髪型みたいな半円形の飾りがついた近畿式銅鐸と、逆にそれがまったくついていない三遠式銅鐸、その両方が出土していることなんです。「三遠」は三河と遠江、つまり愛知県東部から静岡県西部にかけてのことです。

──飾耳は、何を意味するのですか。

進藤 それは、よくわかりません。

鈴木 人だな、鳥だなとわかる絵が描いてある場合はよいのですが、飾耳の渦巻き模様は何かというのに定説はありません。

 こちらはすでに通説といってよいと思いますが、銅鐸はだんだん巨大化していくなかで、「鳴らす銅鐸」から「見る銅鐸」へと変わっていきます。鳴らす銅鐸は小さく、中に吊り下げた舌があたって音が出たのですが、大きくなったものでは、基本的には鳴らしません。しかし、三遠式は鳴らした跡がついており、近畿式とは違います。

 つまり、様式や祭祀における使い方が違う銅鐸がいっしょに出土していることが、大岩山の二つ目の特徴なんです。

 また、銅鐸の外観、飾耳の有無なども、三遠式の特徴と近畿式の特徴が混在したような、明確に分類できない銅鐸もあります。さらに、6区と呼ばれる部分の下にもう1段ついている変わった銅鐸もふくまれており、個別に比較してみても大変おもしろい銅鐸群です。

銅鐸の移り変わり

銅鐸の移り変わり

近畿式銅鐸と三温式

野洲川流域に生まれた弥生時代の連合社会

──図を見ると、近畿式の分布は、三遠式の分布域全体にも広がっていたんですね。

進藤 稲作を中心とした共同社会を営んでいた弥生時代の終わりごろになってくると、近畿地方を中心とした大きな国のようなまとまりと、東海地方のまとまりができてきます。銅鐸も、近畿地方と東海地方で異なる2種類の祭りのシンボルとなります。

 ちょうど近畿の北のはずれ、東海地方の西の端にあたる近江の野洲から、両方の特徴を備えた銅鐸が出土したことは、近江の国が近畿地方の結びつきの中に入っていたけれども、やはり東海地方のことも無視できないという状況にあったのでしょう。当時の社会情勢が、集団のシンボルである銅鐸からもうかがえるわけです。

 そのように、時代が共同社会から権力社会へ変わっていくなかで、登場した権力者が何回かに分けて、村々の銅鐸を集めさせて、大岩山に埋めさせました。3世紀の前半くらいまでに、銅鐸の祭りというのは終わりを迎えます。

 それにかわって、3世紀の後半になると、銅鐸を埋めた大岩山に権力者の墓である古墳が代々築かれていくようになります。まさしく共同社会から権力社会へ移り変わっていくさまが如実にわかる場所であるということですね。

──銅鐸の出土地は、その後で古墳ができた場所であることが多いのですか。

進藤 なかなか直接結びつく例は少ないのですが、野洲の場合は、銅鐸出土地の周辺に小高い丘が2㎞くらいにわたって広がっていて、古墳時代の権力者の墓が点々と、10世代以上もつくられ続けています。

──その頃、近江の国という意識はあったのですか。

進藤 すでにまとまりはあります。例えば土器でしたら、受口状口縁土器と呼ばれる特徴のある土器は、滋賀県の土器です。

 滋賀県以外もだいたい県単位か少し小さい旧国ぐらいの単位で地域社会ができています。弥生時代の後期(1〜2世紀ごろ)になると、畿内の大阪や京都の土器はほとんど飾りがなくなりますが、滋賀県は、まだ櫛状のもので飾りを付けた受口状の土器を使うといった地域性が見られるんです。そういう破片が、例えば京都や大阪で出れば、すぐに滋賀県産だとわかります。

 銅鐸の場合、そうした土器の地域性よりもさらに広域を包括する、大きな祭器ということになります。

──銅鐸の作り手は、それぞれの地域にいたのでしょうか。

進藤 そこが、ちょっとわからないんです。いわゆる「渡り工人」、技術者集団が求めに応じて移動した先で作ったとも考えられますが、紀元前3〜2世紀の、大きな銅鐸の前の段階からすでに地域性のある銅鐸が現れており、工人集団が1つではなかったことは確かです。

 原料については、分析の結果、大陸から運ばれてきた鉛や銅を中枢の集団が一元的に入手し、そこを通じていくつかの場所で銅鐸が作られていたと考えらえるのですが。

 いずれにしても銅鐸は、1つや2つの村で、「じゃあ、作ろうか」といって作れるものではありません。多くの村が集まった1つの大きな連合社会が生まれてきているということを示しています。滋賀県の中でも、特に野洲川流域は稲作に適し、人口密度の高いところでした。弥生時代の終わりごろから、下之郷、二ノ畦・横枕といった大きな村が、現在の守山市にあたる野洲川左岸にたくさんできています。

 大岩山銅鐸の時代になると、伊勢(守山市)や下鈎(栗東市)で棟持柱をそなえた大型の高床建物などで構成される集落が出現します。さらに、強力な権力者が台頭する邪馬台国の時代になると、下長(守山市)のように大きな政治的な力も持つ村が出てきます。このように銅鐸に見合った背景が、かなりわかってきています。

鈴木 今回の企画展では、下鈎遺跡・服部遺跡・下長遺跡など、弥生時代の大規模集落の出土品も展示します。

それぞれ個性的な5つの銅鐸群

──各地から5つの銅鐸群の例が集まることも、本展の見どころだとか。

鈴木 さらに話がややこしくなるのですが、大岩山の銅鐸群に至る前の段階の流れも説明しておきます。

 銅鐸上部の吊り手(逆U字形の部分)を「鈕」といい、この断面の形が「扁平鈕式(Ⅲ式)」からさらに新しい「突線鈕式(Ⅳ式)」になった段階で、10以上に分かれていた銅鐸群が、次の5つに統合されます。

 ①大福型
 ②迷路派流水文
 ③東海派
 ④横帯分割型
 ⑤石上型(正統派流水文)

 この5つのうち、①大福型と②迷路派が合体して近畿式になります。ざっくり言うとですが、③東海派と④横帯派が合体して三遠式になります。そして、⑤の石上型は途絶えてしまいます。

 さらに最後の段階では三遠式も途絶えてしまい、近畿式1本で銅鐸はつくられるのですが、これもやがて消えていきます。

──5→2→1という流れは、複数あった集団が統合されていく過程でもあると。

鈴木 大福型銅鐸は、大福遺跡(奈良県桜井市)出土の銅鐸が名前の由来です。奈良県の遺跡の名前がついていますが、大岩山から3個見つかっている銅鐸の形で、近江で作られた可能性が非常に高いとされています。

 他の様式の名称にも厄介な問題があって、東海派という様式ももとをたどると西日本で作られ始めたのですが、だんだん東の方に製造地が移っていって、そちらの方が多くなってしまったので東海派という名前になっています。

進藤 東海派を受け継いだ三遠式銅鐸というのは、鳴らした痕跡がある点から見ても古いかたちなんです。それは、もともとその前の段階に、西日本で行っていた古い祭りのかたちを東海地方に移し、そこで用いられたためと考えられます。その頃に近畿地方では、鳴らさない、大型で装飾化した近畿式銅鐸を、より広域な集団の祭器として生み出します。

──地方に京の古い言葉が残っている方言と同じですね。

鈴木 東海派の例として展示する銅鐸の1つは、東海地方を代表する弥生時代の大規模集落である朝日遺跡(愛知県清須市)の集落の南端に埋納されていたものです。昨年11月に開館した「あいち朝日遺跡ミュージアム」所蔵の、重要文化財に指定された2028点もの出土品から選りすぐりのものを展示します。

──銅鐸型土製品なんてものもありますね。

鈴木 土で銅鐸を作っており、銅鐸に対して関心を持っている集落だったことがわかります。じつは、銅鐸型土製品というのは、実際の銅鐸よりも、さらに広範囲な地域から出ているんです。本物の銅鐸が手に入らない地域の人もほしかったのか。後の時代でも、金属製品を土でまねる例はかなりあります。

──迷路派流水文は、特殊な気がしますが。

進藤 流水文は、土器にも描かれている文様で、弥生人には親しみのある文様だったのだろうと思います。土器流水文は回転台の上で櫛を粘土に押し当てて、回転させながら文様をつけます。しかし、銅鐸の場合は鋳型に一本一本、線を刻んで文様を仕上げ、これに溶かした青銅を流し込まないと出来上がりがわからない厄介な代物です。

 流水文には2種類あって、線の描き始めと終わりが結びつくかたちのものを正統派流水文、始まりと終わりがつながらないものを迷路派流水文と呼んでいます。
 昭和発見の1つだけ離れた場所から出土した10号鐸が流水文で、鋳金家の小泉武寛さんがいくつか流水文銅鐸の鋳造に挑まれています。「だいぶ慣れてきた」とおっしゃっていましたが、相当熟練した技術が必要です。

──近畿式の例の1つは、黄金色で他と色が違いますね。

鈴木 西浦小学校出土銅鐸(大阪府羽曳野市)ですね。比較的、当時の色をとどめている銅鐸です。

進藤 銅鐸は、銅と錫に、鉛を少し加えた合金でできています。十円玉より五円玉に近い。銅鐸を埋めた穴が粘土層で、密閉された状態にあったものをきれいに掘り出すと、そのままの色で出てきます。跡部遺跡(大阪府八尾市)という低湿地の集落跡から見つかった流水文の銅鐸は非常に珍しい例で、発見直後は金ぴかだったのですが、酸化して灰色になりました。このため、保存容器内に窒素ガスを充填させて酸化しない工夫などがなされます。放っておくと、緑青※3が浮いて、青い色に変色してしまいます。


※3 緑青 銅または銅合金の表面に生じる緑色のさび。空気中の水分と二酸化炭素の作用によるもので、古くから緑色顔料として利用。


次の時代にも保持された飾耳

──巨大で装飾も華麗な近畿式銅鐸ですが、まもなく銅鐸の時代は終わるわけですね。

進藤 最終段階になると、ちょっと早く東海地方では銅鐸がなくなります。一方、近畿地方の銅鐸は破壊された状態で出土するものがあります。壊して、鋳つぶして、次の時代のシンボルである銅鏡や、銅の鏃が作られるようになります。

 それでも近畿式の銅鐸が東海地方にまで入り、銅鐸の祭りは残るのですけれども、最終的に3世紀の前半には、やはり弥生的な共同社会は終わり、東海地方を含めた地域も権力社会に移り変わっていきます。

──大岩山の銅鐸は壊されず、幸いでしたね。

進藤 新たな権力者が村々にあった共同社会の祭りの道具である銅鐸を取り上げて、集めさせたけれども、壊すことはできなかったのでしょう。ただ、大岩山銅鐸の中にも飾耳だけ切り取っているものもあるんです。おもしろいことに、銅鐸自体は姿を消すのですが、飾耳だけはまれに後の時代まで保持されるものがあります。銅鐸というのはかなり頑丈で、熱を与えれば割れますが、ちょっと耳だけを折ろうかといっても、そう簡単には折れないのですが。

 邪馬台国の時代にあたる下長遺跡(守山市)から飾耳が出土していますし、青木遺跡(島根県出雲市)では弥生時代後期末の墓の人骨頭部付近から飾耳が出土しています。藤井原遺跡(静岡県沼津市)の飾耳は穴を開けて垂飾品として利用したと考えられます。

 銅鐸は壊されましたが、次の時代の権力者も銅鐸が持つ呪術的な力を護符として引き継いだのでしょう。

──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。

鈴木 近畿から東海にかけての銅鐸がこれだけ一堂に会し、かつ同時代の土器なども並ぶ展示は、全国的にも希少な機会です。皆さんのご来場をお待ちしております。
(2021.8.27)


編集後記

大岩山の明治出土銅鐸のうちの1個は、サンフランシスコ・アジア美術館が所蔵しています。柔道家でもあった天理教2代真柱・中山正善が、1964年の東京オリンピックの際のIOC会長で、東洋美術のコレクターでもあったアベリー・ブランデージに、銅鐸1つを寄贈したもので、柔道のオリンピック種目入りには、大岩山の銅鐸も一役買っているのだそう。進藤館長にうかがったエピソードです。(キ)


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