インタビュー:書はさまざまな筆法を見ることが大切です。「とにかく全部並べなさい」というのが、観峰の方針でした。 観峰館学芸員 古橋慶三さん

戦後間もなく書道の通信教育を開始した観峰

──創立者の原田観峰さんについてと、開館に至る経緯をお教えいただければと思います。

 原田観峰は福岡県瀬高町(現みやま市)の出身で、生家は酒樽をつくる仕事をしていました。父親が自分の子供だけでなく、雇っている職人にも手習いをさせるぐらい教育熱心な人だったそうで、勉強もでき、習字が得意だった観峰は、小さいころから通信教育みたいなもので、小野鵞堂※1という有名な書道家のお手本をもとに書を練習し、当時から大人顔負けの字を書いたそうです。

 福岡の私立中学を受験する予定でしたが、受験の年に、親戚の一人が先物取引で大損害を出して、家業が傾いてしまいます。受験はあきらめて、博多にいたおばさんの家へ居候して夜間の学校に通いながら、昼間は九州大学で給仕などをしていました。

 17歳のときに東京へ出て、日本大学教育学部二部(夜間部)へ入って、昭和の初めには小学校の代用教員に採用されます。他のアルバイトもしながら、書も学ぼうと、神田の古本屋さんで立ち読みして、見て覚えて、家に帰ってから、記憶でそれを書くという、無茶な勉強をしていたそうです。毎日行くものだから、古本屋の店主が「3日間だけだ。汚すなよ」と貸してくれたこともあったとか。

 やがて、戦争が始まり徴兵されると、字が上手だというので、九州にある連隊で賞状などに字を書く事務方となり、戦地へは行かずにすみました。その頃、上官から、あちこちで字を書く機会は多い。軍隊でよく使われる用語の見本を本にまとめたらどうだと言われて、実際作成して連隊内で配ったりしていたらしいです。

 終戦となり、郷里の福岡に帰ると、教育面に非常に興味があったので、幼稚園をつくりました。最初は一つだけでしたが、経営の手腕もあったのでしょう。まもなく五つの幼稚園を運営するようになりました。

 幼稚園の園長さんとして、園児に字を教えたりするうち、もっと広く大人にも字を教えたいというので、昭和28年に通信教育を始めます。

書を書く原田観峰

書を書く原田観峰

──ある種のカリスマ性をもった方だったのでしょうね。

 あるでしょうね。それと、アイデアマンでもありました。自分が小さいころにやった通信教育をもとにしていますが、戦後の何もないところから書道の通信教育という事業を興したのですから。自分で書く手本も、指導書にあたるものも、自ら鉄筆で書くガリ版刷りの時代ですから。

 近くの小学校で先生や校長先生相手に説明して、実際に目の前で文字を書いてみせる。こっちでもあちらでもとなって、またたく間に九州各地に広まったそうです。

 最初は、家族でガリ版を刷って、封筒に入れてとやっていたのが、場所も手ぜまになったので、福岡県の柳川から博多まで出て、名称を西日本習字連盟とし、入会者が何万人という単位に増えていきました。

 そして、九州・中国地方に広まった頃には、教材を当時のトラック、ダットサンのボンネット部分が長いトラックに積んで、1週間ぐらいかけて、全国行脚したそうです。目的の土地に着いたら、まず夕方、公民館へ行って、「あしたは公民館を使わせてくれ」と頼む。許可が出たら、町へ出て、ビラを配る。

 人が来たら、中国から復員してきて張伯峰という中国名も持っていた人が一緒に行っていたので、前口上を中国語でやる。すると、「おお、なんだなんだ」とみんな寄ってくる。そこに、観峰が登場して字を書いたそうです。つまり、僕らの小さいころにはまだありましたけど、紙芝居とか、行商の駄菓子屋さんとかに人が群がる感じだったのでしょう。珍しがって子どもが集まってくる、子どもが来たら親も集まってくるみたいな。

 そうやって各地に支部を設け、昭和46年(1971)には京都へ本部をつくります。

 普通、書を学ぶためには有名な書道家の弟子になる必要があり、書道界全体が先生を頂点としたピラミッドになっています。観峰もその中の一画である新聞社主催の公募展に出品し、何度か審査を通っているのですが、誰それの弟子といった系譜には入っていません。書道界の上下関係などより、自分の教則本を使って習字教室で1人でも多くの人に上手な字を書いてもらいたいという思いの方が大きかったからだと思います。

訪中使節団への参加をきっかけに美術品を購入

 その少し前、書道界の中でも観峰の名前がそこそこ知られるようになっていた頃に、おもしろいエピソードがあります。

 昭和41年ごろ、毎日新聞社の毎日書道会の訪中使節団が組織され、10人前後の書道家が中国を訪問しました。まだ、中国との国交がない時代です。使節団としてあちこち回る中で、郭沫若※2という大変有名な政治家で学者でもある人と会って話をする機会がありました。

──その後の田中角栄内閣による日中国交正常化でも重要な役割を果たした人ですね。

 中国では、伝統的に字が書ける人同士で集まると、お互いにその場で字を書いてプレゼントするんです。ところが、当時の日本の書家の多くは、あまり人前で字を書きたがらない。その中で一人、観峰は人前で書くことが好きで慣れているので、郭沫若の前でも臆せずさらさらと書いた。すると、「君はよく勉強しているね。なかなかいいんじゃないか」みたいな感じで、親しくしてくださったそうです。

 昭和40年代になり通信教育がある程度成功すると、自腹で資料を購入する余裕も生まれました。タイミングよくといってよいのか、当時、中国の方は日本との戦争の後、国共内戦(第2次)があり、毛沢東思想を徹底させるための思想統制、いわゆる文化大革命が始まりました。そこでは孔子などの儒教も否定されたので、家々にあった古い儒教の言葉が書かれた掛け軸などもすべて供出させて燃やしました。これを、学生たち、いわゆる紅衛兵にやらせたんですね。これが5、6年続き、多くの価値ある書も失われたわけです。

 一方で中国政府はお金に困っていた。そのため、文革で集まった書を貿易港のあった広州に運んで、美術品として外国人に絹織物などとともに売り出していました。

 そうした中の中国をたまたま観峰は訪問し、郭沫若さんと親しくなり、美術品輸出のことを知ります。それで、訪中するたびにどんどん買うようになりました。

 日本には財閥系のものなどいろいろなコレクションがありますが、ほとんど明治から大正にかけて収集されたものです。それらは鑑定家が代々の所有者なども調べて「本物に間違いない」というお墨付きをもらってから購入されたものです。残念ながら、広州で売りに出たものは供出品なので、どんなものが山の中に入っているかわからず、偽物も多い。観峰は助言は受けずに、「とにかく買えるものは全部買おう。後で整理したらいいじゃないか」という感じで買っていきました。それらが当館の収蔵品の元となっています。

──書に関わるものだけでなく、アフリカのお面などの民俗資料や、欧米のクラシックカー、オルゴールなどもありますね。

 来館者の方も驚かれます。奥さんが書が好きで来られて、ご主人と子供は、「どうやって時間をつぶそうか」と思っていたら、いろいろあって楽しめたとよく言われます。

 昭和50年代になると、観峰は、東洋だけでなく、もっと広く書の文化を伝えたいと、アメリカやヨーロッパを訪問するようになりました。当館の西洋アンティークは、ほとんどニューヨークで購入したものです。

 アフリカやオセアニアの民族資料は、これからの時代、子供たちはもっと世界のことを知らないといけないという教育的な目的のために集めたものです。海外旅行ができる人はまだ少数で、今のようにテレビの情報番組で毎日海外のようすを見ることができるような時代ではなかったですから。

──コレクションの整理ができたところで観峰館の開館となったのですか。

 観峰館を建てるまでにも、京都・長崎・福岡などに何カ所か資料館をつくっています。それらの展示室で公開するうちに、本物と偽物の鑑定をし、整理が進みました。

 私は当時の整理には加わっていないのですが、1作だけ見て真贋を見極めろといわれても素人には無理だけれど、たくさんあるので書き手が同じ名前の書をダーッと並べると、これは明らかに違う、下手だとだいたい見当がついたそうです(笑)。

研修施設の建設をきっかけに滋賀の地へ

──最終的に滋賀県の五個荘の地に落ち着いたのは、どういった経緯で。

 観峰にとっては、昭和50年代が一番充実していたといえます。全国に支部ができて会員が多くなってくると、実際の書き方を見ながら学ぶために研修会を時々行っていました。そのうち、どこかの施設を借りてではなく、独自の研修施設をつくりたいと考え、自ら候補地を探しまわりました。その中の一つが、滋賀県神崎郡永源寺町蛭谷(現、東近江市蛭谷町)という集落で、観峰はそこをとても気に入り、土地を借りて昭和52年に研修施設「すめら学園」を開設しました(平成12年に閉園)。

──愛知川をさかのぼって永源寺ダムの向こうの、本当に山の中ですね。

 正直、不便なところなのですが、そこに鉄筋3階建ての建物が3棟、食堂も備えた管理棟、100人ぐらい泊まれる宿泊棟、字を書く教室である研修棟ができました。

 短ければ2泊3日ぐらいですが、山から下りずに3週間というような長期研修もあったそうです。
 ただ、本当に山の上なので、最初は水道もありません。なんとかならないかとあちこち頼みに行ったら、北川弥助※3さんという県会議員が、「わしがなんとかしたろう」と言って、水道を引いてくださったんです。

 偶然ですが、2人は2カ月違いの同い年だったこともあり、すぐなかよくなって。当時、北川議員は、大正時代に地元の塚本さと※4さんがつくられた、私立女学校(当時の名称は「淡海女子実務学校」※5)を理事長として引き継いでおられたのですが、昭和50年代になると時代も変わり、入学者が少なくなっていました。「どないしよう」と観峰に相談したら、「じゃあ、わしがそこを書道の学校にする。由緒ある『淡海』という名前は残しましょう」ということで、昭和60年に淡海書道文化専門学校ができ、平成6年まで観峰が校長を務め、時々字を教えたりしていました。

淡海書道文化専門学校

淡海書道文化専門学校:観峰館に隣接してある。書道を基礎からトータルに学ぶことができる専門学校で、卒業生の多くが書道教室を開いてる。全国から生徒が集まり、年齢は20歳代を中心に60歳代までと幅広い。古橋学芸員は同校の講師も務めている。

 老いの自覚もあったのでしょう、そろそろ自分のコレクションを集めた最終的な博物館をつくりたい。それなら書道学校の隣にということになり、田んぼの地権者さんを訪ね歩いて現在の敷地を確保しました。

 来館者の方が「なんでここにあるのですか?」とお尋ねになっても、なかなかかいつまんでは話しにくい経緯なのですが。

──いえ、お聞きして、「なるほど」と納得しました。私は開館して2〜3年目に一度来たことがあるのですが、その時は中の展示が雑然としたというと失礼ですが、とにかくたくさんのモノがある印象でした。

 それが観峰の方針というか、書の学習にはさまざまな筆法を見ることが大切です。「わしが買ってきた、わしのものだから、ケースに入れなくてもいい。触って壊れたら、また買えばいいんだから、とにかく全部並べなさい」と言っていたんです。

 ですから、最近だと、伝統的な中国絵画に西洋絵画の技法を持ち込んだ清朝後期の画家の作品が、中国の美術市場でとても人気があります。ガラスケースもなしで展示しているこれらの作品を、専門家の方がご覧になって、驚かれるようなこともあったり(笑)。

 そうした展示ばかりでは限界もあるので、今回新館が建設されたわけです。

 最初の観峰のコンセプトを受け継いでいるという意味では、書に親しむ、触れていただくための拓本体験なども、申し込みがあれば随時開催しています。最近は、滋賀県下の高校の書道部や、大学の書道部やサークルなど、学生の方々が申し込まれることも多いですね。
(2015.9.4)


※1 小野鵞堂 (1862〜1922)書家。静岡県生まれ。書の実用性と芸術性の融合を主張して、鵞堂流と称する独自の平明優美な書風を完成。「斯華会」を創設し、書の普及に努めた。

※2 郭沫若 (1892〜1978)中国の文学者・歴史学者・政治家。日本に留学中、文筆活動を開始。日中戦争勃発と同時に抗日救国に活躍。中華人民共和国成立後、政務院副総理・中日友好協会名誉会長などを歴任。

※3 北川弥助 (1911〜2004)東近江市伊野部町に生まれる。昭和25年、県議会議員選挙で初当選後、連続14期の当選を果たす(当時の全国の県議の在職期間の最長記録)。

※4 塚本さと (1843〜1928)東近江市五個荘川並町の近江商人・塚本定右衛門の五女として生まれる。大正8年(1919)、77歳の時、私財を投じて淡海女子実務学校を創設、初代校長となる。

※5 淡海女子専門学校 淡海女子実務学校を前身とし、戦後の学制改革にともない誕生した和裁洋裁を中心に学ぶ淡海高等家政学校から昭和51年(1976)に改称。


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