デュエット創刊以前の自費出版状況

▼今回は、サンライズ出版での自費出版の歴史を振り返りたいと思います。100sokan.gif10 年余り前、私が関わるようになった時点ですでに、滋賀県に関する書籍を出している地方出版社が取材記事を発信する情報誌という紹介の仕方をしていたのです が、「デュエット」=二重唱という誌名自体が、本の著者と出版社の二人三脚という意味でつけられたように、本来は自費出版を計画している人、すでに作った 人向けに創刊されたんですね。

社長 そうです。ツーウェイ(双方向性)のものをしようということで、「あなたと私」というような意味でつけたものです。

▼実際、創刊当初の特集は自費出版関係のものが多いですね。

社長 本ができて著者の方から礼状をいただいて、その後のフォローがなかなかできなかったのです。2冊目を計画 なさっても、執筆期間は2、3年と間があくことも多く、パソコン通信が始まったばかり、ファックスも今ほど家庭には普及していない時代ですから、その間に 手紙の代わりにお送りするのにもよいだろうと。最初は業務として印刷の仕事の方が多かったので、紙の種類や刷色を毎号変えて、この紙ならこうなるという印 刷見本としての性格ももたせていたんです。途中でやめてしまいましたが。

専務 昔はほとんどカラー印刷をする人はいなかったから、代わりに色紙へ印刷するような場合、出来上がりはこうなりますよ、という見本です。平成元年(1989)当時は今よりも抱えている自費出版の数が多く、月3冊はありました。それと、県内よりも県外の著者が多かった。

創刊号に載ったのは、板倉有士郎さんの写真集『祇をん舞妓の四季』です。これはどういった経緯で。100maikonoshiki.gif

社長 これは印刷組合の新年会で隣の席に座った人が朝日生命の大津支局長で、「私は写真が好きなんですよ」という趣味の話から始まって、最近撮ってる舞妓さんの写真の写真集を作ってもらえませんかということになって。

▼それが板倉さん。これは在庫がなくなってからも、問い合わせがありました。紹介記事でも推薦者に大女優・木暮実千代さん、岡田茉莉子さんの名前があがっていて。

社長 どういう経緯か知りませんが、おそらく京都の撮影所で女優さんたちとつきあいがあったんでしょうね。写真自体、舞妓さんの普段の生活を撮った場面が多く、私生活というか、お茶屋の舞台裏がのぞけるものでした。

▼書店に置くのではなく、ご注文をいただいた方にお送りして販売する形が主体で、「送料310円」としてあります。

社長 定価はつけましたが、図書コードは取得していませんでした。けれど、並べてもらえる書店さんも結構ありましたね。

専務 新聞で数紙に取り上げられたから。

▼そして、2号で紹介しているのが、落合真雄さんの『有るがままに生きる』100arugamama.gif出家後、病気のため療養、犯罪青少年教育や勤労青少年のカウンセラーなどに長年たずさわれた後、再出家して一人山寺に住むようになられた禅宗のお坊さんが「中部経済新聞」に連載なさった文章をまとめた本です。定価もつけてあります。

専務 その後、数冊お作りになり、長いおつきあいになりましたが、今は音信不通、お亡くなりになったようです。

▼この2冊は例外的な本で、この頃の自費出版本はほとんど家族や友人・知人向けにお作りになった「非売品」で、問い合わせ先として、著者ご自身か弊社の住所を掲載している形です。次の3号で紹介しているのは、『夕茜』という歌集。

社長 著者の丹羽善次さんは、奈良県で印刷会社を経営しておられた謄写印刷業界の重鎮で、先代社長(現社長の父)と交流がありました。

▼丹波さんの「出版に寄せて」という文章が載っているのですが、そこでもう「すでに自費出版を数百点も制作されているという」と書かれています。歌集は、これ以外にも初期にはかなりの割合を占めています。

社長 現会長(社長の母)が滋賀作家クラブや短歌結社「好日(こうじつ)」に入っていたため、そのお友達や先生の紹介による歌集はずいぶんありました。

専務 短詩型の書籍をタイプライターで組むのは、かなり大変でした。

社長 今のDTPソフトだと簡単ですが、昔のタイプではベテランでないとできない仕事でしたね。

▼歌集・句集だけでなく、自分史なども、いわゆる「町の印刷屋さん」にしては数多く製作していたわけですね。「デュエット」創刊以前の状況を説明してください。

社長 さかのぼって昭和40年代だと、綴じた本の形として町の印刷屋がやっていたのは、学校の文集ぐらいしかな かったんです。それが毎年1月ごろにどっと入稿されてくる。それ以外の季節に分散される仕事はないかということで、自費出版に力を入れていったわけです。 経営上の理由もあって。

▼サンライズ出版の会社案内によると、昭和51年(1976)に「地方部を開設して自費出版の印刷を開始」となっています。

社長 県外の人を相手にする時は、あつかましくも、地方にいながら、「地方部」という名前をつけてね。

▼東京に本社があるように見せかけて?

社長 違う、違う。滋賀が本社だから中心で、県外は地方という意味。

▼(笑)。

社長 マスコミが「地方の時代」とか言い出す前のことです。

▼昭和55年(1980)に「地方部を出版部と改称」となっています。自費出版とは関係ありませんが、同年に「滋賀県庁にタイピストの派遣を開始」ともあります。

社長 報告書の類はタイプ印刷※1の時代です。社としては、「サンライズ印刷出版部」の時代が平成15年(2003)6月まで20年余りあったわけです。まず、旧知の小学校の校長先生に、「自分史をお作りしますから」と頼んで書いてもらい、見本となる本を作りました。

▼それが「昭和55年」、1980年ですか。

専務 まだ先代社長が生きていた頃に少しずつ自費出版を始め、その後、おいおい案内書の類を作っています。

社長 大津在住で昭和53年に芥川賞を受賞なさった高城修三さん※2に、案内パンフ用の原稿をお願いしたりもしています。地元での受注よりも全国からの注文を求めようと、『老壮の友』という老人会の機関誌や「日本退職公務員連盟新聞」にも広告を掲載しました。今にして思うと、向こう見ずな広報活動ですが。

専務 広告は年4回載り、どんどんお問い合わせが来たわけです。

社長 その頃だと、社内には大して書籍に関する知識がないので、「フランス製本※3でやってください」と言われて、「何やそれ?」という程度。県内の歴史や文化についても、「地元の○○のことを書く」と言われて、「それ誰?」というようなお粗末な体制でした。

▼当時から、自費出版で本をというニーズはあったわけですね。数年おきにマスコミが自費出版ブームだと騒ぎますが…。

専務 その頃からずっと、いつもブームといわれています。


※1 タイプ印刷 タイプライターで原紙に印字し、謄写印刷機にかけて印刷する方法。また、その印刷物。※2 高城修三 作家。香川県生まれ。昭和52年(1977)、「の木祭り」で新潮新人賞を受賞、同作で同年下半期の芥川賞を受賞。

※3 フランス製本 丸表紙の四方を折り返して、表紙貼りの代わりにしたもの。ヨーロッパの貴族は購入した本ごとに装丁師に豪華な表紙を作らせたので、仮表紙のまま納品されていた状態のものを起源とする。


さらに創刊以前の自費出版状況

100fumiko_3.gif▼次の4号、ちょうど20年前の8月に発行した号は、戦争の記録の自費出版を特集しています。この年の8月15日に大西礼子さんの『文子たちの戦争─女子学徒勤労報国隊の日々』、藤澤善右衛門さんの『大黄河』が出ました。お求めは直接著者へとなっています。

専務 『文子たちの戦争』は今でも問い合わせがありますね。

社長 評判のよかった本です。

▼当時は今に比べるとやはり戦争の記録というのが多かったんですか?
社長・
専務 多かったです。

専務 書名を見ても、「グァム」「サイパン」「慰霊の旅」といった言葉が多いでしょ。29号(92年)に紹介している『雲南慰霊の旅』の大里巍さんは福岡県の方で、これは大里さんの3冊目の本でした。

社長 その後は、戦友会で記録集や文集を作ることが増えていきますが、まだ当時は一般的でなく、製作できる会社も少なかったので、新潟県上越市の戦友会の記録集を作るというようなこともあったんです。完成祝賀会に先代社長が招かれて、非常に感謝されて帰ってきました。

▼新潟ならできる印刷会社があったのでは…。

社長 当時は、「自費出版をします」と宣伝している印刷会社は少なかったですから。今のようにパソコンで検索して探すというようなこともできないし。中小印刷会社が積極的に自費出版に取り組む時代ではなかったのです。もっと他に利益の多い仕事があったせいもありますし。

▼創刊から35号(93年)まで編集人の最初に名前があがっている木村泰崇さん※4が、デュエットに関しては中心にやっておられたんですか。

専務 そう、木村君はもともとうちで自費出版をした、つまりお客さんだった人なんです。雑誌などへの投稿マニアで、小説家志望で上京したけれど、実家のある多賀町に戻り、「近江文化叢書」なども出していた京都のサンブライト出版を経て、サンライズに入社しています。

▼22号(91年)の自費出版物コーナーに、木村さんの『近江ショートストーリーズ』という短編小説集が紹介されていますね。この時は、社員で、自ら自費出版をしていた。すごいといえばすごい。100ohmishorts.gif

専務 入社前に、『ブルーライトメッセージ』という本を作り、その5年後のことです。退社後は、学校の先生をしながら実家のお寺を守っておられます。

社長 6号(89年)に載っている渡辺つぎさんの『私は旅人 第5部 大いなる国 中国』と いう本は、当時としては少なかった女性の著者だということもあってよく覚えています。渡辺さんは元幼稚園の先生で、外国へ行くたびに紀行文をまとめられて います。最終的に8冊ほど作られたと思います。20〜30年前は歌集以外の書き手はほとんど男性でしたから、珍しかったです。

専務 まだご健在です。

社長 その後は女性で本を作る人も増えて、今は男女比が半々ぐらいになりましたね。

▼旅行記も、けっこう多いですね。

社長 特別な体験ですからね。それで思い出しましたが、最初の頃の自費出版の宣伝文句は、「海外旅行する費用であなたの本ができます」というものでした(笑)。

100wanouchino.gif10号で民俗学者、橋本鉄男さんの『輪ノ内の昔』上巻が紹介されています。橋本先生とのおつき合いはこの本からですか。

社長 お名前はよく存じていたので、先生から突然電話があった時にはびっくりしました。自費出版としては非常に質が高く、平成4年に日本地名研究所の第11回風土研究賞を受賞されています。そして、橋本先生に背中を押されて、弊社の「淡海文庫」が誕生したのです。

▼『輪ノ内の昔』の発行は北船木史稿刊行会となっていて、お住まいになっていた安曇川町北船木のいわゆる字史にあたるものですね。この系統の自費出版もわりにやっていたのですか。

専務 一番最初は、寺田所平さんが一人でまとめられた『稲枝の歴史』ですね。100inaenorekishi.gif

▼初版が昭和55年(1980)なので、約30年前。4年後に増補版をお出しになって、さらに最近、復刻しましたね。

社長 著者の寺田さんが亡くなられた時にご遺族の希望で復刻されました。

専務 それまでに4刷ほどしましたね。彦根市文化功労賞も受賞なさいました。退職後、ずっと個人で寺や神社を調べたものをまとめられたのですが、現在刊行中の『彦根市史』編纂で、とても役に立ったそうです。

▼愛知郡稲枝町は昭和43年(1968)に合併して彦根市になったので、昭和35年に刊行された最初の『彦根市史』には記述がなく、地元の小学校教員で、戦前の昭和17年に『葉枝見村※5史』をまとめた経験のあった寺田さんが取り組まれた。「あとがき」によれば、この編纂の際に、残されていた古文書類が県立図書館などの協力を得て写真撮影されています。

専務 寺田さんは、いつも朝10時ごろバイクで彦根市中心部の旧店舗(プリントショップサンライズ)に来られて、じっくり校正してお帰りになりました。

社長 入れ違いぐらいに、年賀状のデザインをご依頼していた中島正治先生が、魚を買いに市場へ来たついでにお寄りになり、ひと息しゃべってお帰りになる。

専務 「茶ぁ、入れてぇ」とおっしゃって。お二人が鉢合わせになると、先生同士しゃべっておられる間に仕事がはかどったものです(笑)。

社長 まぁ、そんな時代でしたね。


※4 木村泰崇 小説集『近江ショートストーリーズ』、エッセイ集『自意識の過剰』など、出版物は多数。滋賀文学祭「小説部門」と「随筆部門」で、芸術文化祭賞受賞。第4回詩のボクシング滋賀大会のチャンピオン(全国大会出場)。※5 葉枝見村 愛知川河口北岸の8カ村が合併して明治22年(1889)に成立。明治31年、神崎郡から愛知郡に編入。昭和30年(1955)、近隣2カ村と合併して稲枝町となる。


書店への流通のことなど

▼現在では、編集・組版の次の印刷・製本工程はほとんど外注する形になっていますが、当時はどうだったんですか。

社長 印刷はけっこう最近まで社内でやっていました。当時はカラー印刷は少なく、ほとんど社内で対応できました。

▼デュエットの方ですが、最初は月刊だったので、号を重ねるのが早いですね。19号(91年)に江南良三さんの『続・近江商人列伝』が紹介されています。

100ohmishoninretu.gif専務 江南さんは、それまでに近江八幡郷土史会の発行で、『近江八幡人物伝』を始め、何冊も本を作っておられた方です。この本の正編である『近江商人列伝』を平成元年(1989)に発行してからのおつき合いでした。その年にAKINDO委員会※6の場で、社長の岩根と近江商人を研究しておられた江南さんが知り合い、『近江商人列伝』を出した時に、江南さんから書店と直取引で本の販売を委託する方法を教えていただいたんです。
ちょうどその少し前に長野県の製本会社、渋谷文泉閣さんから「上製本を200〜300部でもします」という飛び込みの営業があり、しばらくして「1000部お願いします」ということになって、現在もお取引が続いています。

▼販売面の方でも、直取引の形で書店に並んだ本は『祇をん舞妓の四季』の次が『近江商人列伝』だったのですか?

社長 淡海文庫の創刊時に、県内書店との間に入る取次として滋賀教科図書販売(滋賀教販)さんにお願いしていますが、江南さんの場合はほとんどご自身が販売先を指定なさいました。

▼平成5年(1993)、淡海文庫創刊と同時に「(日本)図書コード※7を取得して本格的に出版事業を開始」します。

専務 その次の段階として、地方・小出版流通センター※8と取引させてもらう時には、これまでにどんな本を出した実績があるかを示す必要があって、『近江商人列伝』を含めて10冊ぐらいの書名をファックスしました。

社長 送った中では一番売れそうな本でしたから、これを見て決めてくれたと思っています。

100chimeinimiru.gif専務 同じ19号に載っている伴米蔵さんの『地名にみる近江八幡』も、書店に置かせてもらいよく売れました。

社長 これは橋本先生の紹介でした。よい研究だといって出版記念会もご手配なさったり。他にも橋本先生からは、著者の紹介をずいぶんしていただきました。

専務 これらは県内の著者の本ばかりですが、実際には、県内よりも県外の著者が多かったことが初期の特徴です。千葉、静岡…。

100okonohiyaku_4.gif▼千葉がなぜか多いですね。

社長 横浜、福岡、大分…。

専務 25号(91年)に『王侯の秘薬』が載っている大分県の吉井常人さんは「シイタケ博士」と呼ばれる方で、2冊お作りになりましたね。

社長 ダイヤモンド社に出版を頼んだら書き直しを命じられたそうで、ご自身はまったく書き直しをしたくないとの強い意志があり、うちに発注をいただきました。大分行きの飛行機のチケットが送ってきたので、喜んで行きました(笑)。

専務 次の26号の半沢ウメノさん(『想い出』)は、2〜3年前に増刷したいと連絡がありました。あと100冊だけを複製で。

▼もう版下も残っていないので、本を1冊ばらしてそれを版下にする形ですね。

専務 この頃の方は、一人で2〜3冊作る人が多かったですね。同じ号の『房州方言』の鈴木英之さん(千葉県)も。

33号(93年)に沖縄の砂川寛良さんの『私の歩んだ道』。この方は、10年後ぐらいに、旅行のついでに来社なさっているので私も覚えています。この時点で、那覇市老人クラブ連合会理事だったんですね。

社長 数年前に観光バスを横付けで、来社なさいましたね(笑)。

専務 34号にある満田秀雄さんの『法の友』は、日野町のお寺で門徒さん向けに発行なさっていた毎月の寺報をまとめられたもの。

▼その形も多いですね。

100honotomo.gif専務 満田さんのご子息の良順さんは、近江日野商人館の館長さんで、平成14年(1996)に『近江日野の歴史年表』をまとめられました。

社長 親子で、夫婦でという例は、けっこうありますね。

専務 35号(93年)に載ってる長谷川米造さん(東京都)の『米実る秋』の場合、ワープロの打ち出しをそのまま版下にしています。同じ号の高木俊雄さん(神奈川県)の『箱根』もそうだったと思います。表紙のデザイン以外は、著者が作成なさいました。100hakone.gif

▼ワープロの普及によって、低コストで本を作る道も開けたといえます。そうした中、28号(92年)は、特集が「自分史を書く」で、当時『湖国と文化』編集長だった瀬川欣一さんに「紙上自分史講座」を書いていただいています。同じ号に、瀬川さんが講師をしておられた「自分史を書く講座」の会員の方々の原稿をまとめた合同自分史集『湖のほとりにて』が発行(サンライズ印刷は印刷のみ。発行は「自分史を書く」講座の会)されたと紹介されていて、同じページに弊社が自分史集の編集発行を予定しており、その原稿(15〜30枚程度)を募集中だということが書かれています。
そして翌年の32号にその『私の履歴書』第1集が紹介されていて、同時に第2集の原稿募集が載っています。「参加費用 400字詰め原稿用紙1枚につき5000円」「配本数 1名につき50冊」となっています。その後、38号(94年)には、『合同自分史 私の履歴書』第3集の原稿募集を載せていますね。

社長 その第3集は出ていません。これは、一人で1冊分のボリュームを書くのは大変だからというので企画したのですが、第2集までの分しか原稿が集まりませんでした。

▼やっぱり単独で本にしたいという人が多かったんでしょうね。

社長 1冊目の投稿者の方々はその後交流を深めておられ、その中のお一人が日本自分史学会を立ち上げられました。

▼「自分史」という言葉は、いつぐらいから使われ始めたんですか。

社長 初めの頃からすでに、一般の人が書いた自伝は「自分史」という言い方でしたね。広まったのは、歴史家の色川大吉さん※9が『ある昭和史─自分史の試み』(中央公論社、1975年)という本で提唱されてからと言われています。

専務 昔の切り抜きのファイルを出してきましたが、昭和57年(1982)にはもう雑誌『クロワッサン※10』で自分史の特集をしています。

社長 その頃ですか、「マイブック」といって、解説兼束見本※11というA5判120ページの本と表紙の紙見本を貼ったファイルと原稿用紙をセットにした自費出版イージーオーダー版を作りました。原稿用紙に手書きで書いたものを縮小印刷する方法と、活字で組む方法の2通りから選んでもらう方式でした。

専務 昭和62年(1987)ごろのことです。『百歳万歳※12』という全国誌に広告を載せたりもしていました。

社長 『百歳万歳』はいい雑誌でしたね。マイブックはいい企画だと自賛していました。でも、手間をかけたわりには、それほど注文はありませんでしたね。

▼規格どおりの本というのは、いやなんでしょうね。

専務 やっぱりオーダーメードの方がいいということなんでしょう。

社長 また昭和50年代にさかのぼりますが、武村正義さん※13が滋賀県知事に なられ、2期目の昭和52年(1977)は無投票当選でした。そこで、残った選挙資金を使い県内の施設にかなりの書籍を配布なさったと聞いています。武村 知事は「草の根文庫」という自費出版への県費補助の制度をつくるなど、かなり積極的に文化の底上げに尽力されました。

▼昭和52年は、財団法人滋賀県文化振興事業団が『湖国と文化』を創刊した年でもあります。その誌面では、「県内に民俗資料館を」、「もっと図書館を」といった提言が盛んになされていて、その後本当に実現していきました。

社長 サンブライト社の「近江文化叢書」が発刊されたのもその流れの一つですが、当時は印刷が主の当社は蚊帳の外で悔しい思いをしました。それはともかく、県内での自費出版物を多く手がけるようになった背景には、武村知事による「草の根文庫」の存在も大きかったと思います。

100kamitopen_3.gif▼私が入社して関わったのが、ちょうど50号(96年)からです。その2年前に淡海文庫が創刊されて販売する本も増え、デュエットの性格も県内の地域情報誌という感じにすでになっていました。
ですが、55号で特集「視覚障害者の暮らし」として大津市在住の濱本捷子さんと盲導犬パーシャを取材したのは、濱本さんの『盲目は不自由なれど不幸にあらず』(発行:関西盲導犬協会、盲導犬ユーザーの会)を、61号(98年)で特集「竹芸」として中主町(現、野洲市)の竹工芸家・杉田静山さんを取材したのは、著書の『紙とペンで歩んだ道』を読んで、この方たちのお話をお聞きしたいと思ったからでした。杉田さんのご本の方は弊社の仕事で、47号に載っています。

社長 その頃では、54号(97年)で紹介している岡本信男さんの『芋くらべの里 中山史』の印象が強いですね。どんどんどんどん原稿が増えていって、総製作費が個人で600万円ぐらいになりました。失礼ながら、途中で「大丈夫かな」と心配しました。

▼総ページ数が835ページ。上製本の、字史ながら、ちょっとした町史並みの仕様になっています。

社長 無事完成して、今では岡本さんは「芋くらべ祭り」に関する第一人者として知られています。その後、『中山史』の資料編もお作りになり、87号(04年)に載っている『蒲生東傷痍軍人会五十年史』もお一人でまとめられて、執筆意欲旺盛です。

専務 45号(95年)に彦根市肥田町自治会の『肥田町史』があって、この頃から字史、区史が増えています。

社長 58号(98年)に秦荘町(現、愛荘町)元持の字史『元持今昔誌』

100kurimidezaike.gif▼近江八幡市江頭町の『江頭町史 生々流転』(98年)と五個荘町小幡の『ふるさと小幡史』(99年)などは滋賀県の「創意と工夫の郷づくり事業」の補助金を、五個荘町川並の『川並のあゆみ』(99年)などは町のふるさとづくりの補助を受けた事業として、自治会が字史づくりに取り組まれたものです。

社長 珍しい例では、最近(06年)になりますが、東近江市栗見出在家町自治会が開村200年の記念として『栗見出在家のあゆみ』をお作りになったのがありますね。

▼彦根藩の新田開発によって文化3年(1806)に愛知川最下流のヨシ原だった所にできた新しい集落でした。本文写真もすべてカラーの立派なものです。


※6 AKINDO委員会 「近江商人」の叡智に学ぶことを目的に、平成4年(1992)に滋賀県に設立された委員会。「人材育成」「交流ネットワーク」「近江商人顕彰」を三本の柱とする事業を展開した。平成15年、発展的に解消。※7 日本図書コード 本のカバーに定価表示と並べて印刷されているアルファベットと数字の組み合わせによる略号。国際的な図書識別番号(ISBN)と本の分類番号、価格から構成され、読者からの注文や書店・取次店の在庫管理に利用される。

※8 地方・小出版流通センター 大手取次がほとんど取り扱わなかった地方の出版社や小規模出版社の書籍や雑誌の取次業務を行う会社。昭和51年(1976)設立、東京都新宿区に所在。

※9 色川大吉 歴史家。千葉県生まれ。『ある昭和史』で毎日出版文化賞を受賞。日本自費出版文化賞の選考委員長。

※10 『クロワッサン』 昭和52年(1977)に平凡出版(現マガジンハウス)が創刊した女性誌。

※11 束見本 本文や口絵・見返し・扉などを実際の仕上がりと同じ用紙、ページ数で製本した白紙の見本。仕上がりのイメージがつかめる。

※12 『百歳万歳』 日本で唯一のシニア向け月刊誌。百歳万歳社(東京都)が発行。昭和53年(1978)創刊。老人クラブなどを通じてシニア層に読み続けられている情報誌。

※13 武村正義 政治家。八日市市市長、滋賀県知事、衆議院議員、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。龍谷大学客員教授。


日本自費出版文化賞の創設

▼調べてみると、現状で自費出版最大手といえる文芸社の設立が平成8年(1996)です。その頃から新聞に「あなたの原稿を本にします!」の広告が載るようになったのかと思います。

社長 最初の辺りの話でもわかるように、従来から自費出版を積極的に販売するということはなく、当時は1年に販売する形になる自費出版は数点程度でしたが、次第に著者から「販売したい」との要望が増えてきました。出版社としての図書コード取得後、初めてコード番号がついた書籍が35号(93年)に載っている野田村一司さんの『わが生命の譜』です。これも販売が目的ではないが、できればコードがほしいという著者の意向でした。100wagaseimei.gif
同時に、こちらが「ぜひ販売したい」と思う内容の原稿が持ち込まれる機会も次第に増えてきました。じつのところ売る形になったからといっても大した宣伝活動はできませんので、これまで部数を伸ばしたなと思う本のほとんどは著者ご自身が販促の努力をなさったものです。

▼一方、平成10年(1998)には、「日本自費出版文化賞※14」の第1回審査発表が行われています(前年に募集)。この時、『芋くらべの里 中山史』と木村善光さんの『近江の連歌・俳諧』が2次選考を通過して入賞50点の中に入りました。100ohminorenga.gif
主催の日本グラフィックサービス工業会※15の会員(全国1100社余りの印刷業者)で、それまでから自費出版の製作を積極的に行っていた会員有志が立ち上げた日本自費出版ネットワーク※16にも、サンライズは当初から参加しているわけですが。

社長 日本自費出版ネットワークの設立は平成9年で、設立と同時に日本自費出版文化賞の募集が始まりました。 ネットワークの最大の行事として定着してきましたが、設立の背景には、やはり大手自費出版専門会社である文芸社などの台頭があります。それまで自費出版の 分野には大手出版社は積極的に参入していなかったのですが、投網をかけるような手法で自費出版市場を席巻し、しかも全国の書店にあなたの本が並ぶと宣伝し て著者の夢を膨らませたので、これまで自費出版を専業的に扱ってきた編集会社、出版社、印刷会社が驚きと危機感を持ったのは事実です。
10年経った今、自費出版大手はかなり淘汰され、また社会問題も引き起こしていますが、そうした手法に引きつけられる書き手の方がいるというのも確かで しょう。近年、最初から販売を希望して原稿を持ち込まれることも増えてきましたし、弊社の方から販売をご検討されるようご提案することもあります。内容や 読者層、類書などから判断していますが、著者のご希望にかなうことはそう多くないのが現状です。

100kitaohmi_2.gif▼長浜市の国友伊知郎(吉田一郎)さんが『北近江 農の歳時記』と『湖北賛歌』(後者は富士印刷)で大賞に選ばれたのが第5回です。デュエットでは、77号(01年)でインタビューをさせていただいています。

社長 第4回で地域文化部門に入賞した武藤善一郎さんの『大阪の街道と道標』は、反響が大きかったですね。

専務 今もたまに問い合わせや注文があります。増刷したいと思いながら手がつけられていませんが。変化としては、2000年代になると、圧倒的に滋賀県の人の本を作ることが多くなりました。

社長 全国的な宣伝を打たなくなり、また各地で自費出版に積極的に取り組む会社が出てきたこともありますが、それ以上に「滋賀県関係の本を出す出版社」というイメージが広がったことが大きな要因でしょう。県外から滋賀県に関する本の原稿を持ち込まれることも出てきました。


※14 日本自費出版文化賞 日本グラフィックサービス工業会主催。自費出版データの蓄積・公開活動と連動しながら、自費出版物に光を当て、著者の功績を讃え、かつ自費出版の再評価、活性化を促進することを目的とする。※15 日本グラフィックサービス工業会 昭和41年(1966)設立の公益法人。全国の印刷業者(正会員)および印刷関連機資材業者(賛助会員)で構成されている。略称ジャグラ。

※16 日本自費出版ネットワーク 「自費出版」の新しい流通と今後の電子出版化などの研究を目的に、平成8年(1996)、ジャグ ラ会員有志によって結成。その後、特定非営利活動法人(NPO)の承認を受け、自費出版文化の振興と自費出版物作成に関わる活動を支援している。


印象に残る本あれこれ

▼その後で、印象に残っている自費出版はありますか。

社長 一番部数が多かったのは、68号(99年)に載ってる夏原平次郎さん(平和堂※17会長)の『おかげさまで八十年』。できれば書店販売したいとも思いましたが、夏原さんの商人としての姿勢そのままのタイトルで、すべて関係者に配布なさいました。100okagesama.gif

専務 平和堂の社員さんなどに配布された非売品ですが、県内図書館での貸し出しも多いと聞いています。
そして、二番目は37号(94年)に載っている上田栄一さんの『みんなで楽しく集落営農』。県農業改良普及所で営農指導を担当してこられた著者が、その体験をもとに集落内で共同で米作経営を行う仕組みづくりを具体的に書かれたものです。ご自身での販売と書店販売の両方だったこともあり、10刷までしました。

▼東北のJAなどから、10冊単位の注文を電話で受けた覚えがあります。

専務 講演先でもずいぶん販売なさいましたし。売れる本は、「著者自身が売る」という見本でした。

100kanreki_4.gif▼私が社内校正をして印象に残った本というと…。66号(99年)の『還暦までの99山』など、おもしろかった記憶があります。

専務 その後、続編にあたる『還暦からの99山』95号掲載)という本を作られましたが、きっちり原稿をまとめられる先生です。

▼農村医療の先駆として有名な長野県の佐久総合病院に勤務なさって、その後も僻地の医療にたずさわり、生まれ故郷の多賀町に戻って開業しておられる方です。私の印象では、大辻さん以外でも山登りを趣味にしている人の文章はだいたい読ませます。

専務 <富永豊さんの一連の登山記録(『湖北の雪山50』など)もそうですが、データをよく残しておられるせいもあるのかな。87号(04年)に載った富永さんの『奥美濃とその周辺の山 130山』は、300部作られたのがすぐなくなって、しばらく後に増補版をお作りになりました。東京の本屋さんでも店長さんが登山が趣味で、置いていただいている所があります。

社長 変わり種では、朽木村(現、高島市)に移住したオノミユキさんの生活記録、『HAPAHAPA朽木村』もよく売れましたね。

▼その後書店でも主に女性向けの一ジャンルとして確立されたイラストエッセイに分類していい本かと。日常生活を絵入りで綴った形だから。

専務 また、4冊目を作りたいとおっしゃています。

社長 先日、「最近、女性の自費出版が増えた要因は何か」という質問を受けましたが、この種の本やインターネット上のブログなどで、日常を素材にしても書けることはたくさんあると気づかれた女性が増えてきたことがあるのかもしれません。

専務 あとおもしろかったのは72号(00年)に載っている菱田房男さんの『波乱と猪突猛進の人生』。北海道の北端に近い町で町長を2期務められた方の自分史です。100harantochototu.gif

▼自分史はどなたのものもおもしろいですよね。戦後まもなくに、中学を卒業して、京都で「○○どん」といった呼び名をつけられて丁稚奉公を経験したという世代の方の本も何冊かありましたし。

社長 リストを見てみても、この10年ぐらいは、やっぱり女性が増えていますね。

専務 78号(02年)の棚瀬ちゑさんの『木もれ日の下で』も面白かったですね。野の花のことをまとめられたのですが、一緒にカルタも作られました。

社長 82号(02年)に瀬川欣一さんの時代小説集『花散りてなお』が載っていて、これの翌年ぐらいに亡くなられたんでしたが。100hanachirite.gif

専務 この本は、「預けとくから、送料だけでももらって読みたい人に送って」とおっしゃられたんでしたね。

社長 全国から集まる日本自費出版文化賞の応募作では小説(文芸A部門)が全体の3分の1ぐらいを毎年占めて最多ですが、うちではそれほど多くないですね。

▼小説を書く人は、やはり東京を目指すのでしょうか。

100kuro_3.gif社長 逆に、東京在住の人から、近江を舞台とした内容のものを本にしたいとの話が来ることはありますが。

専務 私は86号(04年)に載った磯部正男さんの素描集『私のクロッキー』。なかなかおしゃれな、いい本になったと思っています。カラーが普通の今どきの画集の対極にあるようなシンプルな本で楽しく仕事した覚えがあります。
それから、91号(05年)の『鰧のつぶやき』は、結核医として近江サナトリウムに勤務された経験もある岡田彰さんがガンに倒れられた後で書かれたものですが、完成直前にお亡くなりになられ非常に残念でした。

社長 2005年前後にもまた、地域史が増えた気がしますね。

▼平成の大合併前後におまとめになった字史がけっこうありました。

専務 字史ではありませんが、米原市西番場区が作られた、92号(06年)に載っている『番場ふるさとの昔話』は、佐々木洋一さんの絵、文章の方も中村憲雄先生(滋賀文学会)がおまとめになり、いい本になりましたね。

社長 うん、いい本ですね。

専務 これもふるさとづくりの補助金をうまくお使いになったのでした。

100kohoku_3.gif96号にある湖北町食事文化研究会の『忘れぬうちに伝えたい湖北町の伝統食・地産食』は、新聞にもよく紹介され、代表のご夫婦で1000冊以上を完売なさいました。

専務 97号の藤野滋さんの『彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉』は、高橋敬吉(狗佛)が書き残した明治の頃の生活描写が優れていて、彦根市民としては再現ドラマにしてほしいと思いました。

社長 (笑)同じことを読んだ方から言われたことがあります。

専務 ほんとに最近の前号(99号)になりますが、岩本敏朗さんの『おおなみの時代』もおもしろい本です。鳥取県の八橋で俳句の同人誌を出していた自分の祖父のことをお書かきになっていますが、自分史ではなくて、2〜3代前の時代を振り返ると自費出版は多くなってきてるかな。

▼今年の自費出版文化賞でいうと、文芸A(小説)部門の部門賞だった深田俊祐さん(福岡県)の『スエ女覚書き』はお母さんをモデルに書いたものだし、研究・評論部門の部門賞、今村英明さん(東京都)の『オランダ商館日誌と今村英生・今村明生』は3代前の祖先の話でしたね。
大手の出版社から出ている本でもその傾向があって、父や祖父の歴史を書くといった本を最近よく目にします。
思い出すのは、デュエットでは紹介できていないんですが、平成14年の『評伝・丸山次郎一─南の海を歩いた男─』。大正時代に和歌山県からオーストラリアに渡り、真珠貝(貝殻をボタンに加工した)を採るダイバーとして成功した人物で、娘さんとそのご主人(大津市在住)が戦争も経てわからなくなっていた情報を集めて作られたものです。

100maruyama.gif社長 立派な人だったと顕彰するばかりでなく、日本自費出版文化賞の審査員の一人である中山千夏さん※18の本[『幸子さんと私』(創出版、2009年8月刊)]のように、母親への恨み辛みを隠さず綴ったものもありますけどね(笑)。「あなたのため、あなたのため」と言いながら、自分の欲望だけを満たしていたと…。

▼まぁ、親だと生々しすぎるので、祖父母の世代を語る方がいいのかもしれません。
(2009年8月10日、サンライズ出版にて)


※17 平和堂 滋賀県を拠点に近畿地方・北陸地方と東海地方を商圏とするスーパーマーケットチェーン。昭和32年(1957)創業。本社は彦根市に所在。※18 中山千夏 作家。「名子役」として出発、女優、歌手、声優、元参議院議員など多彩に活動。


●エピローグ
100号です。今号は社内の人員だけによる、半分は「我が社の歴史」のような内容になりました。社員の私は知らなかったことも多く有益だったのですが、いかがだったでしょう。
座談会中に登場する自費出版物は、図書目録に記載して販売している一部を除き、弊社には保存用しかございません。興味を持たれた本をお読みになりたい場 合は、まずは最寄りの図書館でお探しいただくか、滋賀県立図書館ホームページの横断検索機能(県内全図書館対象)をお使いください。(キ)

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